明晰夢

夢から覚めた状態で深刻に生きることは難しい

これって夢だよな!?の後に深刻になれない

これって夢かな???就寝中夢を見ている最中にそのような経験ありますよね???その状態で、、、主人公にどっぷり浸かるって難しいものです、その状況で死にそうな友人に対し号泣するって難しい、、夢って分かっていますから。明晰夢です。これがこの現実世界で起きます、これがこの現象界で起きるのです。それが悟り、目覚め、解放です。その時にこの夢の主人公「私」は何か関係できるのか??全くできません「私」ではなく私の奥にある何かが目覚めるのです。

自分史上最高の経験??ではない

就寝中夢から覚める時に、、夢の中の主人公自分って何も関係ないですよね、、どんなストーリーでも関係なく夢から覚めるはず。そうです、、、この世界の主人公「私」がどんな状況であってもどんな人格であってもどんな霊的修行を積もうとも、、、何も関係なく目覚めは起きます、主人公「自分」とは関係なく。むしろこの夢の中にどっぷり浸かっていればいればいるほどに覚めにくい。つまり主人公が何かしらの活動に没頭すればするほどに覚めにくいのです、夢は。例えば悟るぞ、悟るぞ、悟るぞ、、、は危ない、、、没頭している、夢に、、だから覚めない。

夢だと思ってお気楽に生きると

就寝中にこれって夢だよね???が起きると超お気楽になってしまう、、もう深刻にはなれない、、なんか冷めている、、、、この状態が続くと夢から覚めやすい、、、これは多くの方が実践済み経験済みだと思います。これはこの現実世界、この現象世界、この幻想世界も同じなのです。勿論この話を聞いて明日からお気楽に生きるぞ!!は通用しない、、お気楽に生きることに真剣だからです。

明晰夢

夢だと分かって夢が続く

たまにありますよね、、夢の際中にこれって夢かも????と気づきが起きる時。これって自然で何がきっかけかは分からない、、、何故かわからないけど、、、、突然この気づきがおきるのです。この気づきの特徴、、この気づきは夢の中の「私」には起きない、、、私は一切関係ない、、、突然何者かが、、、これって夢かも、、って気づくんです。私の奥にある誰かが。

この現実世界も、、

この現実世界も全く同じ、、、、この私がこれがファンタジーって気づくわけではないんです。。突然私の奥にある何かが、、これって幻想だよね!!!となります。主人公である「私」ではないんです、、、、私が気づくと思い込んでいたら、、、恐らくこの気づきは起きない。夢から覚めるのは私ではなく、、奥にある何かです。

明晰夢では、、

明晰夢では、、、これって夢かもという思いが湧いた後も夢が続きます、、、主人公は相変わらずにトラブルに巻き込まれていきます、、、ですがですが、、、かつてよりも感情移入できない、、、どこかで冷めてる、、、どうせ夢だし???、、、、そしてそのドラマがある程度続いたあと、、、目が覚めます。解放も同じ、、私の奥の何かが、、、これって夢じゃね???と突然気づくのです。

問題を起こすのは常に自分だがそれを起こしているのは神

起きる出来事を自分ごととして問題化していく自分

朝起きた瞬間に人間の体の記憶装置が起動することで、この体は私で、〇〇という名前で、、職業は〇〇である、、、と自分人間が誕生します。これは全体、神が変化した状態、全体、神の中から浮かぶあがった状態です。この自分人間は記憶力を持つのでこの体に起きる経験を全て自分の経験として記憶していきます。そしてその経験に基づき思考が固まっていきそれも自分の価値観として所有していくのです。こうして自分劇場が全体、神の中で形成されていくのです。悟り系の書籍ではこの自我形成を悪の根源と称するものも多いですがこの自我形成の成分、エネルギーは神、全体という一つのエネルギーです。つまりこの自我形成は神、全体が起こしているのです。

自我形成はどこまで行っても神の遊び

この視界に広がる世界は色の世界です。神が色として表現している世界です、この色の世界において人間は独自の進化を重ね脳を所有するようになりました。これにより思考が生まれ、その思考が記憶されていくことで人間は自分というアイデアを創造するまでに至ったのです、神が作った色の世界に自分が誕生したのです。これは神の表現の進化でもあります。この自分を作り出しているのは間違いなく神です、神は神自身が作り出した世界に自分というアイデアを所有する生命体を作りだしたのです。その生命体は活動のほとんどを記憶して「我が人生」を誕生させました。そしてそこに起こる様々な体験を自分に起こったとしてさらに記憶するという流れです。

この現象界に神でないものは一つもない

この現象界で起こる出来事で神が起こしていないものは一つもありません、ヒトラーもスターリンも、プーチンも、世界中で非難の的になっている人物の活動、思考の全ては神のエネルギーです。本人は自分が考え出したものだと言い張るでしょうが、、、神でないエネルギーは皆無です。神でないエネルギー、思考、活動があるならば一体それは何か?ということです。神とは全体のことであり全体の中で繰り広げらえる出来事、人間の活動、思考、感情において全体のエネルギーでないものなどあろうはずがないのです。全出来事は神が創造したものです。

道を行き交う人々の全ての行動は神の顕現

ということは私が街を歩く時に行き交う人々、人々の会話、行動、全てが神の顕現ということになります。飲み屋で喧嘩をしてるお客さん同士は神の顕現の一つです。全部が神の遊び、表現です。その出来事を見て自分はあらゆる判断を下すでしょう、、ですがその判断すらも神の表現ということになります。神の表現ということはこの判断は自分の判断ではないのか?ということになりますが判断を下しているのが神としての自分ということです。街を歩いていて不平不満、愚痴が自身の中から湧き上がったとしてもそれは神の顕現なのです。神が不平不満や愚痴などこぼすわけがないとあなたは思うでしょう。ですが神は愚痴や不平不満を吐きたくて人間を進化させたのです。

深い眠りから目覚めた時は体の疲労回復以外の何かが起こっていることを知っている

深い眠りとは人間から神に戻っている

深い眠りを侮ってはいけません。深い眠りとは人間に扮している神が神に戻っている時なのです。だからこそ熟睡時から目覚めた時はとんでもない充実感、安堵を感じるはずです。あの安堵感をお金で払って手に入れることはできません。人間としての活動であの境地の安堵を経験できないのです。あの安堵は人間を同一視する状態から外れた神の状態です。熟睡の安堵とは神そのものの安堵です。

人間は毎日神を思い出している

人間の熟睡とは神への帰還です。人間扮する神が神に帰還している状態、それが熟睡です。主体客体の世界、人間が何かを得たり、達成したり、日々のストレス解消では絶対に得ることができない境地です。それが熟睡、神、ワンネスです。そしてその神が朝目覚めて起床すると人間に戻ります、人間の記憶装置が稼働して我は人間あり、我は〇〇何べいである、、我は会社員である、我は長男である、、、と記憶が蘇り自分劇場がまたスタートするのです。そして神は今日も人間に成り切って生活をスタートします。マリオをスタートする人間と全く同じメカニズムです。

熟睡とは記憶装置をオフにすること

熟睡時の特徴とは記憶にないことです。何時間熟睡したという感覚は寝起きにないはずです。つまり記憶が働いていないのです。人間は記憶がなければ自身の存在を維持できないもの、その記憶をオフにすることで神に戻ります。人間は起きている間でもこの状態に近づくことができます。何かに没頭する時に実は記憶機能がオフになっています。自分の存在を忘れます、無我、無心の状態とは記憶がオフになっている状態でもあります。この時人は神に戻ります、自分の存在を忘れています。人間扮する神が扮していない状態です。

夢の中での要領の良さは至福とは何も関係がない

毎晩見る夢の中で要領の良さを披露しても至福には至れない

毎晩見ている夢の中で要領を駆使して何かを達成したとしても一時的な快楽にしかなりません。次の瞬間からでは次はどうするか?という疑問が湧いてきます。そして次の展開、次の展開と夢は続いていくはずです。夢の中で永遠の至福を手に入れることができないのは次の展開に移ればまた振り出しなのです。これが夢です。ストーリーです、時間が管理する物語です。残酷なまでに感情は一瞬一瞬であり夢の中でさえ自身の感情をコントロールできません。そしてなぜ夢の中で主人公が次々に行動を起こさなくてはならないかといえば不足感が湧き出ているからです。夢の中ではこの不足感はデフォルトです。なぜならばデフォル分離した自分というものを設定した瞬間から全体から離れ孤独感、分離感、不足感が湧いてくるからです。

このリアリティーにおいてもこれは同じ

このリアリティーの世界、現実社会でもこれは同じでして要領の良さで何かを達成しても至福は一瞬です。次の瞬間から不足感、欠乏感、分離感が襲ってきます。この現実社会の中で自分の体を境界線にすることで自他を作り出した瞬間から分離感がひたすらに襲ってきます。この分離感、不足感を何とかして解消しようとして要領の良さを発揮し一瞬の至福感を得ます、ですが次の瞬間にはまた不足感、欠乏感が湧いてきてその解消に努め続けることになるのです。もうお気づきだと思いますがこのリアリティーと毎晩見る夢はあまりに様子が似ています。そうです、このリアリティーは神が見る夢です。

夢もこのリアリティーも覚めるしか解決方法はない

毎晩見る夢にしてもこのリアリティーにしても分離意識、主人公の中に自分があるという感覚を手放さない限り不足感、欠乏感が解消することはありません。我々は物心が付いた時から不足感と戦ってきました、それは夢の中でもこのリアリティーの中でもです。今日は至福の極みだから何もしないでおこう、、こんな日は1日たりとも無かったはずです。安心してください、この夢の中でそんな人間は一人もいません。毎晩の夢の中でもこのリアリティーの中でも至福過ぎて何もする気は起きない、、こんな登場人物は皆無なのです。分離とはそのようなものです。

これが夢であるという事実から逃げない

人間がこれまで戦争や争いを終えることができず、世の中から紛争を無くすことができないのはこれが夢だからです。たった一つのエネルギーが分離して見えるこの世界は不足感体験ゲームなのです。しかもこの不足感は分離が終わるまで延々に続くというオチです。こうなりますともうこれを夢と認識する以外ありません。勇気を持ってこのリアリティーに向き合うほかないのです。人間はあまりにこのリアリティーに長く触れ続けた結果、不足感、欠乏感にどれほど苦しまされてもうこのリアリティーを手放しません。リアリティーに執着しています。だからこそこのようなメッセージ、ノンデュアリティー、悟りと言われるような内容に嫌悪感すら抱きます。

夢の中での地獄も一瞬

至福にはなれないが地獄も一緒

毎晩見る夢の中で最初から最後まで地獄しかなかった、、こんなことも少ないはずです。というか無いはずです。夢というストーリーの中で最初から最後まで地獄続き、、、交通事故で跳ねられ全身麻痺に、病院に行ったら医療ミスが起き、さらに看護師からのイジメ、友人がお見舞いに来たら毒を盛られ死亡、、、と地獄が延々と続く夢も少ないものです。それはなぜか?簡単です、夢を見ているあなたがそんな夢は見たくないからです。

この現実社会も同じ

これは神が見る夢です。神が見る夢の中でこのリアリティーが起こっています。その中で自身は主人公になりこのストーリを右往左往しています。このリアリティーでは永遠の至福はありません、時間という縛りがあるが故に幸福は常に一瞬です、歓喜も常に一瞬です、だからこそ永遠の至福を主人公である私は求め続けるわけです。ですがこのストーリーの中では絶対に至福はありません、時間の中にいるからです。これは地獄に関しても同じで永遠の地獄は不可能なのです、時間がありますから。ただし問題はあります、永遠の不足感はついて回ります。全知全能の神が人間になりきっている夢ですから不足感しかありません。地獄は一瞬ですが不足感は永遠です。

不足感が永遠ならば夢から覚めるしかない

自分自身が見る夢も、神が見るこの夢も不足感が永遠ならば、、、この夢から覚める他ありません。分離体験には不足感は常にセットであり分離ゲームで永遠の至福は絶対に得れないのです。だからこそマトリックスという映画ではNEOは目覚めを目指したのです。この夢の中に永遠の至福への攻略があるならば釈迦は解脱を勧めないはず。もっとテクニックを話したはず。キリストは人間を原罪(的外れ)と表現し、釈迦は人間を「苦」と表現しました。テクニックに逃げるのではなくこの事実ととことん向き合う時期が起きます。それも神が決めます。

夢の中で「あなたは既に知っている!」

夢の中での至福体験は至福ではない

もしもあなたが夢の中で最上級の幸福を手に入れたとしても幸せすぎて起きてしまったということは少ないはずです。人間がみる夢とはリアリティー全開でミシュランレストランの味覚も、高級ホテルの寝心地も、人間国宝のお皿の渋みも全て再現ししかも感動できます、夢の中で。ですがにも関わらずその夢の中で永遠の至福を手に入れたことはありません。夢の中ですら人間は至福に至れないのです。これかなり重要なポイントです。夢の中で人間は最高の感情を味わうことができます、夢の中で金メダルをとっても涙を流して感動できます。夢の中ってその点においてかなり自由です、にも関わらずその夢の中で永遠の至福を手に入れたことがないはず。結論をお伝えします、夢の中だから至福に至れないのです。夢の中というのは分離体験であり分離体験の主人公が至福に至ことは絶対にないのです。分離しているから。

この現実社会も同じ

この現実社会、あなたが見ているこのリアリティーにおいてもあなたは永遠の至福を手に入れたことはないはずです。勿論一時の幸福、歓喜、喜び、感動を得たことはあるはずです。ですが永遠に続く至福を手に入れたことはないはずです。なぜでしょう?そうこれが分離体験だからです。人間という主人公を使った分離体験だからこそどんなに頑張っても至福に至れないのです。毎晩見る夢の中と同じで一時の幸福しか持てないのがこの現実社会です。つまり毎晩見る夢と、この現実は同じなのです。同じく分離体験なのです。これは神が見る夢です、夢の中で主人公(人間)は絶対に永遠の至福に至れません。夢ですから。

夢の中でも永遠の至福になれないのに、この現実でなれるわけがない

毎晩見る夢と、このリアリティーには共通点があります。それは其々に主人公が登場し、その主人公が右往左往するストーリーということです。ストーリーとは時間が必要になります。空間が必要になります。そうです、時間と空間が存在するこの分離体験ゲームでは永遠の至福は不可能なのです。永遠とは時間ではありません。時間を超越した状態です。この時間軸の中に居ながら永遠の至福は存在しないのです。だからこそ主人公は一瞬、一瞬の幸福をかき集めるという無限地獄を続けます。そしてそのことに薄々気づいているのでこのゲームは苦しみなのです。釈迦が伝えたたった一つのこと、、夢から覚めて解脱せよです、この意味はここから来ています。

結果に飢える動物がいない理由

動物には結果が存在しない

これは夢です。神が見る夢です。この夢の中で人間は結果を出せる人間は優秀であるという価値観を持っています。結果を出す優秀、結果を出せない劣等であると。このような価値観を持つ理由は人間が神に比べて無知無能であるという大前提があります。だからこそ結果を出す=有能であるという思いが強くなるのです。ところが本来は全知全能の神がこの人間の正体ですから結果を出せなくても全知全能です。神そのものが結果です。自らを無知無能であると勘違いしたことから結果に飢える動物になりました。一方動物は自我がありませんから自らを無知無能であるという劣等感がありません。全知全能のままです、だからこそ結果に飢えるなどの意味が理解できません。

結果を出しても無知無能は無知無能のまま

自らを無知無能であると判断を下している人間が結果を出したところで自らを優秀であると勘違いできる期間は一瞬です。だからこそ一度優秀であるという結果をもぎ取った人間は結果を出し続けるという呪縛に縛られます。一生結果を出し続けていかないとならない呪縛に縛られます。これは果たして幸福でしょうか?いな地獄です。結果を出せなくても地獄、結果を出しても地獄、これが人間という神の夢の中での主人公に突きつけられた宿命です。

この呪縛から解放されるには結果ではなく、人間を辞めるしかない

神はこの夢の中で自身を人間であるという錯覚ゲームを始めました、この錯覚ゲームは無限地獄、不足感全開ゲームです。本当は結果全開、全ての結果である神が価値ゼロの人間になりきってしまった結果として結果に飢えています。解決方法はこの勘違い、錯覚のメカニズムから目覚めること解放されること。これだけです。これが錯覚であるという心からの気づきが生まれると価値観は逆転します。この見える世界すべてが自分自身でありもう結果に飢える感覚が分からなくなります。空腹だと思っていたら満腹だった。

一つのエネルギーが振動数を変えているだけ

TVゲームは光の種類を変えているだけ

TVゲームはTVの画面上でキャラクターが動き、敵が現れて変幻自在に画面の中でドラマが展開されますが実際は様々な種類の光が画面上で点滅しているだけです。そして様々な種類の光というのも波長の長さが違うだけで同じ光であることに違いがありません。全く同じ因子で構成されています。これは実はこの夢、神が見る夢でも全く同じで同じ粒子が速度、回転数を変えて変幻自在に動いているだけで実は全部同じエネルギーです。違ったものに見えるのも、違った硬さに感じるのも、違った匂いに感じるのも振動数が違うだけ。TV画面の光と同じ原理です。

自分がいるという思考も振動数

思考もエネルギーです。物を構成するのもエネルギーです。思考においてこの分離世界を作り出しているのが自我です。この体こそ自分自身だいう思考です。これもエネルギーです。全てを構成しているエネルギーと全く同じエネルギーが振動数を変えて自他を作り出しています。そういう意味では人間の五感とは振動数探知機みたいなものでしょう。見て振動数の違いを発見する機能、匂いで震度数の違いを発見する機能、触って振動数の違いを発見する機能、味で振動数の違いを発見する機能、、、そしてこの体こそを自分とする思考(振動)、湧き上がる感情(振動)を自分のものとする思考(振動)が組み合わさってこのバーチャルリアリティーが形成されます。

一つのエネルギーがこの夢物語を作る

記憶する脳もエネルギーです。脳という記憶装置にエネルギーとして記憶されます。その記憶をもとに過去が誕生しました。人間という個別の存在があるという前提のドラマをしっかりと脳にエネルギーとして記憶することでさもこの人生ドラマが本当であるかのような錯覚をすることができます。映画も同じで全部記憶されています。そしてそれを構成するエネルギーはたった一つです。神を構成するエネルギー、ワンネスのエネルギー、空のエネルギー、全部同じエネルギーですがこのエネルギーが震度数を変えて変幻自在のバーチャルリアリティーを作り出します。

偽りの自己は偽りゆえに自己保身が強い

自己保身とは偽るモノの妨害

これは夢です。神が見る夢です。神が人間に成り切ることでこの夢物語を作り出します。神は自分自身を人間であると錯覚する、偽ることでこの仮想ゲームを作り出しました。これが夢です。仮想ゲームですから全てのものには実態がありません。人間の五感が感じることを現実と呼んでいるに過ぎません。人間の五感が感じないものは現実ではない、こういう論理です。人間というこの自己は偽り、錯覚ですから当たり前ですが実態はなくそれゆえ自己は自己保身が強くなります。吹けば飛んでしまうようなこの偽りの自己を自己が保身するのは当然のことです。

悪口を言われれば過度に反応する

偽りの自己は偽りゆえに自己保身が強くなります。全く実体がないにも関わらずあるという大前提でことを進めていますから自己の存続に関わることには敏感に反応します。悪口を影で言われていれば機嫌が悪くなりますし。影で褒められればご満悦です。影で妬まれれば落ち込み、影で称賛されればご満悦です。この自己は偽りゆえに外部の反応を異常に意識するわけです。それゆえ非常に疲れます。人間関係の輪に入れば偽りの自己同士がこの無限地獄を引き起こします。

本当は神だから保身も糞もない

人間とは神の化身であって本当は神です。神は保身に走る必要など全くありません。神は陰口を言われて落ち込む必要はないのです。神が妬まれて落ち込む必要もありません。神は称賛されて意気揚々とするのも変な話です。神が持ち上げられて鼻を伸ばすのも不思議です。ということで偽りの自己は神に戻ることだけを考えるのが手っ取り早いでしょう。全ての動作から無心に入る、全ての仕事から無我に入る、全部を書道、花道のように無我に入る道具にします。何にからでも無心に入れることができれば周囲の反応を気にする必要はなくなります。