意識

I AM がどこに意識を集中するか

私は在る

私は在る、、この感覚に疑いを持つ人はいないはずです。どんなに疲れていても目覚めでも、二日酔いでも、疲労困憊でも、酔っ払っていても私は在るというこの感覚は不変です。体が目の前にあるのだから当然、これは違います。目を閉じて体が一切見えず感じずの状態であってもこの感覚は不変なのです。私は在る、これが全体の意識、神、大いなる存在の意識なのです。この状態は実は無敵でこの状態を奪える者は誰もいません。その証拠に生まれてこの方この「私は在る」が欠落した瞬間はないでしょう。どんなハプニング時も、交通事故に巻き込まれても、八方塞がりの状態でもです。私が在るが無くなった時は皆無なはずです。

私は在るは無敵だが、私は〇〇で在るは最弱

私は在るは無敵です、いかなる状況であろうとこれが失われることはない、、むしろ万物はこの私は在るの中で起きています、諸行無常に。たまたまこの中心にこの体があるだけでそれも込みでひたすらに私は在るが永続するのです。ですがこの私が在るが湧き上がる思考と同一化するとどうなるか?私は〇〇太郎で在るに変わります。私は在るの対象への同一化です。この思考への同一化に成功しますと極端にエキサイティングな体験が起こり続けていきます。思考は過去未来に私は在るを連れていきます、違和感、孤独感、寂しさ、喪失感を感じるようになります。このような体験は「私は在る」の状態では絶対に体験できないことです。思考との同一化、「私は〇〇で在る」からこれはスタートしたのです。

「私は〇〇で在る」を完全に忘れた時「私は在る」に戻っている

私は在るは神の意識です。我々は元々神の意識そのものです。この私は在るの中で万物は現象化し揺れ動いています。ただ揺れ動く万物が在る状態が本来の姿です。ここから思考への同一化が始まり「私は00で在る」という錯覚、誤解、チャレンジが始まったのです。広大無辺な「私は在る」から極小、最弱な私は00で在るへの変化は間違いなく大きなチャレンジでそれゆえこのチャレンジ、遊びはエキサイティングかつ疲れるモノです。気分の浮き沈みも体調の浮き沈むみも半端なく不安定な波の上でサーフィンを続けるような体験です。「私は在る」の「私は00で在る」という体験は神のサーフィン体験のようなモノです。上手く乗りこなした時の感動は神が神のままでは絶対に味わえない経験です。

負の感情は無意識を常に狙っている?

負の感情、自我の存続

負の感情の根源は絶対的な存在からの分離が引き起こしています。ですからこの感情が湧いた時には実は全体に戻る、全体を思い出す絶好のチャンスなのです。ですが自我はそうはさせません、この負の感情の解消こそ自身が行うことで自我の存続を永続させていくのです。負の感情が湧いた瞬間に多くの方は不快感に打ちひしがれて即座に思考に委ねます、それまで意識的に生きていた人も負の感情には通常かてないモノです。相手から攻撃された、相手から誹謗中傷を受けた、相手から馬鹿にされた、、、途端に怒りが込み上げて、、思考が乗っ取り反撃を企てます。感情と思考の隠密プレイが始まります。

この作戦が理解できたら感情時に思考が出てこなくなる、、、

自我の生存戦略、負の感情時だけは意識的になれない、、、この作戦は人生の多くを占拠できます。ですが今まさにこの作戦が終わりを迎えています。負の感情が湧いてきたその時こそ思考を手放し感情を観察する、これによって自我から無我にシフトします。自我から真我にシフトします。自我から神にシフトします。負の感情の湧き出し時こそが自我の永続プログラム解体のチャンスなのです。負の感情自体は実は自我の味方でも何でもありません、負の感情は真我の味方でもない、、、負の感情は自我が生み出した真我とのギャップです。

真我−自我=負の感情

真我の偉大さと自我の小ささのギャップこそが負の感情です。もしも負の感情が湧き出してきたならばこのギャップが生み出されている証拠になります。毎日負の感情が湧き出すのならば自身が自我になり切っている証拠です。そうすれば真我ではなく自我になり切ることでこの感情が湧き出してくるのです。この解消方法を思考に頼ればさらに自我は強化されますから益々感情が湧き出してくるというメカニズムです。負の感情が湧いてきたならば自我になるのではなく真我になるに決まっているのです。感情を真我として観察しこのギャップをゼロにしてしまいます。

負の感情に思考を使わず観察すると意識のエネルギーに変換される

負の感情はパワー

負の感情が湧き上がった際にここで思考が通常はフル回転します。この負の感情を解消すべくです、ですがこれをしない、、ここから感情の観察に入るとどうなるか、、、負の感情は暴れずに消え去ります、そして意識は大いなる意識、真我へと変化します。意識が負の感情エネルギーを利用して活動を行うようになるのです。負の感情は思考と密接に繋がっていて自我のメカニズムを通常は強化します。ですがこれをしないで観察に徹すると観察者が生み出されます、それが大いなる存在です。負の感情はエネルギー化し意識の僕になります。

不良が大成するメカニズム

少年時代の不良が改心してそのまま大成する、、、大人になる、これは決して珍しい話ではありません。それどころか少年時代にグレてしまうような人間は大きなパワーを秘めています。それが負の感情とし思考のメカニズムに埋没すると非行という形になります。自身の行動を改め、負の感情に対し意識的に付き合う、観察をしていくとこの感情エネルギーは陽転し大いなる一つの僕として活動します。大いなる一つの活動エネルギーに昇華されます。多くの場合負の感情が湧き出すと思考が直ぐにこの感情を解消しようとするためお酒、ドラッグ、タバコ、ギャンブル、異性と気晴らし行動に転じます、これぞ思考の真骨頂です。そしてこれによって益々自我が強化されることにより不良行動に拍車がかかるのです。

負の感情と反社会勢力

負の感情を思考が解消しようとすれば必ず即座的な行動、短絡的な行動になるのです。例えば違法賭博や、違法ギャンブル、違法〇〇といかに短絡的にこれを解消するかを思考は考えだすのです。これを支えるのが反社会勢力になります。思考が考えだす負の感情の解消方法は常に短絡的、その場しのぎなのです。本人が少年時代にこのような生活を送った場合、そのままその先に進んでいくとこのような社会に生きる道を求めていきます。負の感情が湧いた時に即座に思考によって解消しようとしない、、負の感情を観察し、、しっかりと観察し集中しそこから無我無心に入っていきます。負の感情が湧く度に観察者になることに徹すれば負の感情はやがて観察者(大いなる一つ)の僕になります。

気づきの意識にとってクッパもマリオも同列

マリオは勿論主人公だが、、、

スーパーマリオをプレイするプレイヤーにとってマリオも、クッパも、ピーチ姫も、クリボウも同列で重要です。マリオだけが重要でクッパは必要ない、クッパは必要だがクリボーはいらない、、、とはなりません。ゲーム上のキャラはどれも重要であり重要でもない、、、少なくとも優劣が存在しません。マリオが大好きだと言っても敵キャラが出現しなければ何も面白くないのでマリオも同時に要らなくなります。スーパーマリオをプレイする人にとって全キャラが大切ということ、それだけ。この人間自分ゲームも全く同じで出てくる登場人物無くしてこのゲームは成り立たないものです、色々な人間との出会いがあるから面白い、、生涯一人しか友人が居なければつまらない、、、この自分とされる人間も大切だが同列で出会う人々も大切です。

何かを経験すれば全部この体の中に居る自分が経験したと取り込む

旅行に行きます、、旅行に行けば全部この体の中に居る自分がそれを経験したと取り込むのがこの体の中に居る自分です。飛行機に乗った、旅先のホテルに泊まった、海にいってビーチを楽しんだ、美味しい料理を食べた、、、全部この体の中に居る自分が経験したと取り込んでいます。本当は全部それを気づきの意識が認識しただけです。全体がそれを経験しました。この体を使って旅行という経験を全体、気づきの意識がしました。全体、気づきの意識にとってはこの体も旅行先のホテルマン、現地人、全員が同列です。同価値です。

ピンチの時こそそれをこの体の中の自分が取り込もうとする

道で赤の他人から暴力を振るわれた、、、、体には傷が付き、服は引き裂かれ、バッグからはお金を取られる、、、こんな時体は自分の中の自分を発動させ、、、なぜ自分がこんな目に遭うのか?なぜこんな悲劇を私が背負ったのか?なぜ自分が狙われたのか???と体の中の自分がこの事件を取り込もうとします。ですが真実を話せば気づきの意識がそれらをただ経験しただけです、この体が傷つけられ、この体が纏う服が引き裂かれ、この体が所有するお金が盗まれた、、、これを気づきの意識が経験した、、、、となります。本当にこの事実を認識すると「なぜ自分ばかりが狙われるのか?なぜこんな不幸な目に?何かわることを普段しているからか?」という思考のループが湧かなくなります。

気づきの意識で観察する

マリオの体感を全て観察していく

スーパーマリオの中でマリオが体感していくことを気づきの意識として体感していきます。マリオがクリボーに出会います。クリポーを発見します、クリボーにぶつかります、痛いという感覚を持ちます、血が出ます、クリボーにジャンプして踏みつけます、足にクリボーの感触があります、クリボーが潰れます、手が痛みます、体温が上昇します、嬉しいという感情が生まれます、よし次に行こうという思考が湧きます、、、気づきの意識として全てを観察する時、マリオという独立した存在は居なくなります。マリオを経験する気づきの意識だけがあります。このように我々の人間活動も同じように気づきの意識として観察していくと体の中の自分が居なくなります。

体の中の自分は経験を自分のものとする思考のこと

気づきの意識で観察するのと一般の人間活動の大きな違いは、、、経験を自分のもの(体)とするかしないか、、、これだけです。実は我々は全経験、全思考、全感情を自分(体)のものとして捉えているだけです、この捉えがなくればマリオを操るプレイヤーに直ぐになれます。主人公が180度変わります。主人公の次元はいつでも変えることができます。

プレイヤー、気づきの意識、全体の視点に戻る

今コーヒーを飲んでいます、コーヒーが口に入ります、苦味を経験します、喉を通ります、冷たさを感じます、安堵感が湧いてきます、、、これを今までは体の中の自分が経験していると認識してきました。これをしません。この経験だけがある、経験を積んでいるのは気づきの意識、ゲームプレイヤーです。またコーヒーを飲みます、コーヒーの香りがします、今度はミルクの味がしました、甘みを感じます、喉を通ります。これを体の中の自分が経験したという認識をしません。ただ経験だけを観察します。主体客体の世界が崩れました、経験だけが湧き続ける世界です。

他人を強烈に意識する自我は褒められて安心する

他人の評価しか信用しない

自我は他人からの評価を強烈に意識します。自我は他人から評価されたくて仕方ないのです、そして自身に低評価する人間を腹の底から憎みます。高評価する人間を愛し、低評価する人間を憎んで生きていくのです。これが自我です。これは夢です、神が見る夢です、この夢の中で神は人間になり切って生きています。成り切るためのメカニズムが自我です。つまり自我とは後付け、、存在しないのです。ということで自我は他人からの評価で自身が実在していると保証したいのです、そして自身を低評価する人間を恨むのはその先にある自分の嘘を見破られることへの恐れです。自分は本当に居るんだ、という強烈な打ち出しは実は居ないからこそ起こります。

自分の中に神を発見した人はもう他人の評価はどうでもよくなる

神が人間に扮している、人間になり切っているのがこの夢ですから、、本当は神です。自我はそこを隠すメカニズムです。自我はそういう意味ではこのプログラム存続に必死です。逆に言えばそれしか興味がありません、もしも神が実は神だったことを思い出した瞬間自我プログラムは消滅しますからそこだけは避けたいのです。だからこそ自身を評価する人間、自身の存在を全肯定してくれる存在を重宝します。会社の社長がYESMANを集めたがるのはこれです。もしも自分の存在を思い出してしまった人はもう他人の評価が気にならなくなります。むしろ他人は自身を人間としてしか見れませんからその時点で低評価をしているのです。どんなに人間として高評価しようとそれは低評価です。

無心、無我、無思考に積極的に入り込むことで神になる

自身が人間ではなく実は神であることを思い出すためには、無心、無我、無思考に積極的に入り込むことです。何かに夢中になる、無心になるという作業に意図的に入ります。ルーティンを行動に取り入れて思考の入る隙間を排していきます。自分から人間ではなく神に戻る方法を覚えてしまうと他人の評価は無駄になります。自分が一番の高評価査定をします。自分が神だと気づいている人間が他人からの評価を気にするのは滑稽なことです。

熟睡時は意識だけがある、熟睡とは意識だけの状態

熟睡時の記憶がないのは、、

熟睡時は記憶がありません。それはなぜか?脳が完全に休んでいるからです。記憶の機能をストップしています。ですが熟睡から覚めると人は安堵、平和の状態を少し覚えています。その時気づきの意識から夢に戻ったのです。熟睡時は気づきの意識のみ、そして起きると気づきの意識が人間活動を意識し始めます。そして人間自体が湧き上がる感情、思考を自分のものとして勘違いするという状態を気づきの意識が認識します。

気づきの意識は全部を気づいている

気づきの意識は熟睡時は人間活動を停止して気づきの意識そのままの状態になります。この時の記憶がないのは人間の記憶脳が停止しているからです。人間が夢を見ている時、人間の脳の記憶を使って気づきの意識は夢を見ます。この時に夢を見ているのも気づきの意識です。人間の脳をフィルターにして夢を創造しそれを観察します。人間が起きれば今度は人間の五感を使って夢物語を創造しそれも気づきの意識が全て認識します。認識するという言葉が実は的を得ていないのは認識するという主体客体の世界ではなく認識そのものです。ただこれ以上は言葉で説明することができません。認識するという言葉は人間が作った言葉であり人間は主体、客体の世界でしか存在できないのでこの言葉は誤解を生むのです。

空即是色

空即是色は素晴らしい言葉でこれはやはり分かっている人が書いたモノです。空はこれ即ち色である。本当にこれだけなのです。ここに動詞が入るということはありません。なぜならば動くという現象には動くための場所が必要になりこれは二元の世界の話なのです。ということで本当は空即ちこれ色だけです。色とはあらゆる現象でありそこに人間という独立した(勘違い)存在を湧き起こしこの色の世界を完成させました。

自分を意識しながら何かを経験することは不可能

所作に入り込むのが有効な理由

何かに没入しながら自分を意識するという同時進行は実質不可能です。茶道の所作に集中しながら自分を意識することは不可能です。人間は対象に没入する時は自分を忘れます。この感覚は自身を波ではなく海で在るということを思い出せるチャンスなのです。その証拠に所作に没入する時の無心感、安堵感、安定感は他に得ることができない感覚で在ることを知っています。

没入することをで得られる安堵感を知らない人間はお金を払ってそれをしてもらう

優秀な役者さんの舞台を見に行く、優秀な歌手のコンサートに行く、優秀な芸術家の古典を見に行く。これらの行為がなぜ起こるかといえばそこに行けば努力なしにその作品、芸術に集中できるからです。集中すれば無心になり安堵感、平和、歓喜が自然に訪れます。お金を払うことで自然と集中できるきっかけを貰っているのです。美味しい料理を高額を払って食べに行くのも味に集中している時に無心になれ結果無我に入り安堵、平和、歓喜そのものに一瞬なれているのです。人間の形をしながらもその瞬間だけは波ではなく海、安堵そのものになっているのです。

お金を払わなくても安堵そのものになれるならば、、

達人よ呼ばれる人々はお金を払うのではなく、自身の行為、所作に集中仕切ることで無心になり、無我になり、思考を排除して自我を取り去り、そのまま海になる、つまり安堵、平和、歓喜そのものに瞬時になれてしまう人々です。どのような条件にも関わらず所作に無心になることでその場で安堵そのものになってしまいます。それは仕事だけでなく掃除、会話、食事あらゆる人間活動の中からそこに入ります。そして最終的には自我のメカニズムを俯瞰し常に純粋意識、無我、海の状態でいられるようになります。