意識

形への同一化

幻想に同一化する

この体は幻想です、、100%幻想です、、この100%幻想であるこの体の中に自分というのが居て、、その自分として生きることでこの苦労がスタートします。100%幻想であるこの体の中に自分が居ると100%信じて生きているのが我々の真実です。これはどこまでいっても勘違いですからこの勘違いからくる苦しみからは解放されることはありません。

体が幻想????

そんなはずはない、、、体はしっかりと感覚を持っている、、、、そうではないんです、、五感で感知できるということのみです、、これだけが真実です、、、それ以外は全く証明できません、、、これが体が幻想である証拠です、、、ですからこの幻想の中に自分が居てという初期設定を辞めます、、、、幻想を幻想と見抜き、、自分の存在を無視します。

思考を観察する

思考を観察してみてください、、、多くの思考は、、自分という存在ありきの思考ではないでしょうか??それらの思考は完全に無駄です、、意味がありません、、、実在しない私に関するあれこれは無駄になります。そしてそこに付随する感情、、これらも意味を持ちません、、、全観念は私が居るという前提で構築され、、それに付随して感情が湧いているはずです。

その時起きること

そんなファンタジーのような発想は危険???違うんです、、今まさに我々はそのファンタジーに取り込まれ、、ファンタジーに閉じ込められているんです、、だから苦しい。全くもって実在しないこの世界で、、そこを見破れずに生きています、、、我々は経験、感じる、、という100%真実に立ち帰る必要があります、、この感じる、、、という実感(実在ではない)にしっかりと意識を向けます、、この実感の世界に意識を向けます。。。嘘の実在には目を向けません、、嘘の実在についてあれこれ考えても無駄です。

実在から実感へ

今目の前に幻想がある、、これは100%事実です、、、そしてその幻想に触れる、、100%事実、、そしてそれを口に入れる、、感じる、、、それも事実、、、この事実はこの世界の真実です。逆言えばこれ以外は真実ではありません、、、TVニュースで、、地震で五名死亡、、、これは言葉です、、言葉が作ったファンタジーです、、、幻想です、、、事実ではありません。。

この世界は無限の不在でできている

この世界はどう考えても無限の不在で構成されています、、、無限の不在なのですから見えるもの、触れる物、、、全部が全部不在です、、実在ではない、、、、ここをしっかりと認識する、、、すると今まで流れていた実在を前提にした思考が止まります、感情が止まります、、、静寂が増えてきます、平和が増えてきます、、、これらの静寂、平和は、、、これまで感じたことがない、、、いや幼少期に感じていた、、本当の静寂、、真実に触れる静寂です、、、そして、、触れている私も不在なのですから、、、不在の世界に漂う静寂に気づきます。

悟りへの再吸収が始まる

何かに引き寄せられる

悟りに興味があるということは、、、もう既に悟りへの再吸収が始まっています、、掃除機のように悟りに再吸収されていきます、、、自我が解体され、、粉々に砕かれ、、、掃除機に再吸収されていきます、、、これが悟りへの衝動です、、、自我を存続させたいという衝動よりも自我の解体への衝動が大きくなっていく。自我を壊したい自我を解体したいという驚異的な感覚が起き始めます。

話しかけられれば、、、

話しかけられれば、、、自我が起き上がります、、、自分は居るぞ!!!と、、、ですがもうどこかで、、それがハッタリ、嘘、パチモンであることを知っているもう一つの自分が居ます、、、自我を俯瞰する、、存在が居ます、、、、自我を作り出す思考、エネルギーに気づくもう一つの自分がハッキリと居るのです、、、自我の立ち上がりこそが、、むしろ俯瞰するもう一つの存在を意識できます。

仕事をしていると、、、

仕事をすればはっきりと自分が起動します、、この起動に気づきます、、、、自分が立ち上がり、、、相手に話しかけ、、話しかけられ、、それに反応する思考、、、この自分が居ての前提の思考がただ湧き起こる、、、、これに気づきます、、自我システムの自動反応を観察するのです、、見事な反応を俯瞰します、、、感情まで湧いてくる、、、この反応を、、、

俯瞰して俯瞰して、、

俯瞰して俯瞰して、、俯瞰し続けていきますと、、、まさかの、、、何者かに引き寄せられていく、、吸収されていく、、感覚が生まれます、、なんだこの感覚は???全てが現実事に見えてこない、、、フワフワした感覚、、、深刻さが消去されていく、、この感覚は誰からも奪われない、、誰からも邪魔されない、、、そんな不思議な感覚、、、宝をもう探す必要がないのです。

全員が病気

人間は病気

気を病むことを病気と言うならば、、人間は全員が病気でしょう、、、なぜならば真実ではないことを真実だと勘違いている状態が人間ですから。本来はHUMAN BEING 人間という形をとった存在、、ですから病気ではありません。ですが現実は、、、HUMANのみ、、、誰しも病気です。

意識がこの私物語に夢中になる

我々の本来の存在「意識」が私物語に夢中になっている状態、、これが現実と呼ばれる世界です。夢中とはまさに言い得て妙、、そのままです。意識が私物語に夢中になって夢の中に居ます。。。。このまま、、、夢中になって何がまずい、、、、まずくはない、、、ですが、、、、ちびまる子ちゃんになりきった子供はTV画面を見ながら、、至福に浸ることはないでしょう、、、なぜならば、、、ちびまる子ちゃんは実在しないために、、まるちゃんがどんなにアニメの中で人気者になっても至福感が継続しないのです、、毎回毎回、、まるちゃんに良いことが起き続けても、、退屈に苦しむでしょう。。。まるちゃんに良いことが起き続けたら子供は飽きてTVを切るでしょう、、なぜか???まるちゃんではないから、、まるちゃんに良いことが起き続ける=至福にはならないからです。つまりこの人間の体を自分だと勘違いしている間は、、10億円の宝くじに当たっても幸福になれないのです、、つまり人間はないからです、、、本当は。

TVを見るとは、、、

TVを観るとは実は、、、人間が見ているのではありません、、、人間は実在しないのでTVを観ることはできません、、本当は「意識』が中の丸ちゃんを自分だと勘違いするが起き、まるちゃんに意識がフォーカスしたのです。。人間にフォーカスが当たっていた意識が、、、まるちゃんに意識がシフトしたのです。。ただそれだけです。。そしてTVを見ていてもやはり至福にはなれないのです。。。TV番組を見終わって、、その楽しさが継続することはあり得ないのです。

意識が意識に意識する

悟りとはこれです「意識が意識に意識する」この状態です。。。意識が人間に意識するのではなく、、意識が意識そのものを意識するのです、、、、これが悟りの状態、、、人間というカゴに意識が向かず、、意識が意識そのものにフォーカスが行く状態、、、これで完璧です、、、意識が人間に意識しなくなりますと、、、至福に浸れます、、、いつでも静寂に包まれます、、、いつも平和です、、なぜならばこの現象はただ意識の中で起こり、気づきが起こり、、、それに気づく存在がいて、、、をただ繰り返す完璧なアートだからです。

自我の延命活動で消耗する

唯一残された聖域の確保

自我とはこの世界の中で唯一自由になる聖域です、、、これをそう捉えると、、この自我を絶対に絶やしてはいけないという自我延命活動が起こります、、、これが非常に疲れる、、、これがエネルギーを完全に消耗する、、、となります。なぜかと言えば本来は実在しないのですから、、これをあるという架空の物語を続けるのは非常に疲れるのです。実際にないものをあるとして物語を継続させるというのは骨の折れることです。

無いと分かれば、、、

自我は実在しない、、、この完全な理解が起きますと、、、もう必死になってセルフイメージを良くしよう、なんとしてもこの体を保持しなくては、、という強迫観念から逸脱できます、、、この体が朽ち果てても、、、何も失うものがないとはっきり分かるのです。。私は輪廻転生という概念を知った時にやはりかなり楽になったのですが、、、意識そのものであるという気づきを得ることで、、さらに楽になりました。

輪廻転生で今世を諦め、自我の解放で過去と未来から自由になる

輪廻転生という概念は今世への執着を緩めます、、、たった一回の人生、、、絶対に失敗だけはしたくない、、、この恐怖心が完璧になくなります、、、ですがそれでも残る生への執着、、、、これが自我の解放でなくなるのです、、、この体どころか全生命活動を行っている本質そのものだったという気づき、、これが起きます。

友人の話

内容は何も変わらないが、、、

友人との会話、、、、普段と何も変わらないやりとり、、、でも何かが完全に違う、、、それはその話が神様の会話に聞こえる、、神が自分というこの見かけ上の「私」に話しかけてくる、、、ただ話をしているだけなのに感動が起きてくる、、、神が私の会話に反応を起こしてくれている、、勿論、、、こちらの反応も勝手に起こる、、、、もう当事者はそこには居ない。。。。でもそれが気持ちが良い。

ただの会話

会話に中身を求める、、、ただの世間話では絶対に嫌、、、とれは当事者意識の強化が生み出している可能性がある。。。完全なる分離意識が、、、何かメリットのある会話をしたくなる、、、得をしたい、、が湧いてくる、、、、ですが真実に触れてしまうと、、、、会話は神のキャッチボール、、得をする神も損をする神も存在するわけがない。

会話が起きているというただそれだけ

会話が起きている、、ただそれだけが気持ちが良い、、、起こる現象に神を感じる、、、静寂(神)から相手の声が起こるのをはっきりと感じる、、、内容ではなく、、その声の起こることが気持ちが良い、、、現象そのものを気づくだけでそれでいい。。。こんな平和な、、日常が実はすぐそこにあった、、、ただこれを隠していただけ、、、完全なる曇りガラスで、、、終わらせていた、、、曇りガラスで覆っていただけの真実が、、白い光のように輝きだす、、、

言葉とは、、、

言葉がどう作用するか

悟りとは言葉のカラクリを解明することです、、、言葉という人類最大の発明は、、、実はこの意識を完璧にこの体の中に閉じ込めるというとんでもないことを起こしました、、、意識の中に全部が在るこの現象界において、、この意識が人類が作り出した言葉によって夢の中に閉じ込められるというミラクルが起きたのです、、、このミラクルを起こしたのは勿論意識そのものではありますから、、誰かが悪いという安易なことではありません。

言葉は変幻自在にこの現象界を作り替える

言葉とは、、音の組み合わせ、、、音の組み合わせですから、、本来何も意味を持ちません、、、ですが人類はこの音を組み合わせ、、それに意味を込めるという発明をしたのです、、、「う・み」「か・ぜ」「わ・た・し」「い・ぬ」という感じに、、、これによって言葉を自由に生み出し、、その言葉を覚えることでこの現象界に意味を持たせたのです。。。

「わ・た・し」という存在

その過程で「わ・た・し」という言葉も作りました、、、これによって初めてこの世に「わ・た・し」が誕生したのです、、、、この言葉の発明以前には「わ・た・し」は存在しません、、、言葉が生まれ、、「わたし」が生まれたのです。。。この世界が夢だと言われる理由はここにあります、、「わたし」とは言葉が生み出した存在なのです。

作ってはみたものの

「わ・た・し」という言葉が発明された結果、、私が誕生したのは良かったのですが、、この私の存在をいつの日か、、実在するという勘違いを起こすようになったのです、人類は。。「私」の人生、、、私の幸福、、、私の敗北、、、などなど、、、、「私」とは言葉ですから実在しません、、ですがなぜか私は、、、幸福にもなれ不幸にもなれる存在になってしまったのです、、、これは事実ではありません。嘘です。

「わ・た・し」を再びラベルに戻す

私とは実在しないのですから、、この私が幸福になるというのは不可能です、、、実在しないのですから。つまり人類の不幸とは実在しない私を幸福にしなくてはならないという脅迫観念が生み出しているのです。私は不幸を感じる、、、不可能です、、実在しないのですから、、、でも不幸という感情は確実にある、、、、そうです、、勘違いはが生み出したこの私物語をやっているから不幸が生じるのです、、しんどいに決まってるのです。

言葉で真実を現すという矛盾

我々は今言葉が作り出した幻想に居る

我々は今現在言葉が作り出した幻想、イメージの中に居ます、、、閉じ込められています、、この幻想の世界の中に居て、、、言葉で悟りを理解しようとしますと、、、新しい幻想を生み出すことになります。言葉とは幻想を生み出す道具です、、、「世界にはワンネスがあって、、」脳はすかさずにワンネスを想像します、、、はいこれでお腹いっぱい、、、「大いなる一つがあるんです、、、」大いなる一つを想像します、、、お腹いっぱい、、、違うんです、、新しい概念を覚えるのではなく、、、この世界が言葉で出来た幻想であることを体感した瞬間に、、ワンネスが現れるのです、体感として。

言葉の威力を知る

言葉とは魔力です、創造神です、、言葉をあまりにも多くの方は勘違いしています、、、引き寄せの法則????いやいや、、、今既に我々は観念の世界にどっぷり浸かっています、、、私が存在し、時間があって、空間があって、、、、、全部観念、幻想、イメージ、夢です、、、そんなことはない、、完璧に感覚があるではないか????夢の世界での感覚がこの夢を完璧に現実的に見せるのです。

やばい!!!TVを見過ぎた、、、

これが我々の悟りです、、、我々の悟りとはTVに夢中になって、、、いつの間にか時間が経ち、、、それに気づいたその瞬間、、これが小さな悟りです。。。意識がTV画面にがっつりフォーカスしました、、、、そしてそうだ 、、、、、私はこの体だった、、、、違うんです、、、この体でもない、、、この体にフォーカスが集まっているだけです、、、、そうだ、、、私はこの体ではなくて、、、、意識そのものじゃないか!!!!これが悟りです、、本当の悟りです。。。。TV画面に集中し、そこから悟り、、、この体に集中し、、そこから悟る、、、、何かに集中する意識こそが我々の本質です。

答えが必要ない

質問が湧くが、、

思考は次々に湧いてきます、、、いつ何時でも湧きます、、ですがこの思考は自然現象であり、、その思考には意味は全くないのです、、、ですから、、思考が湧いても、、その思考に意識を向ける必要がありません、、重要なことは、、思考とは自然現象であるというこの事実の認識です。「なぜ宇宙は広いのか???」このような疑問が湧いてもそれも自然現象です、、これを考えなくては!!!と思うのも自然現象ですが、、そこには意味は全くありません。

人間活動には意味はないのか???

全ては自然現象であるという認識を欠いた人間の人間活動には意味は全くありません、、人間の欲望を叶え続けることがあっても、、、それで思考が止まることはなく、、感情が収まることもなく、、無間地獄を歩むのみです、、、ですから思考、感情、全現象が自然現象であるという理解以外は意味は全くないのです。

攻めの急所

自我の消滅

ワンネス、大いなる一つ、ブラフマン、アートマン、真我、神、、、なんでもいいのですが、、これらの言葉についてどれほど詳しくなろうと、、どれほど理論的に理解しようと、、、悟りに至らないのは、、、個人が居るというこの感覚をどうしても手放せないからです。。。。理屈としては分かるんです、、、ですが、、ハッキリとこの個人という意識を所有している、、、、、そこを抜け出せない

それは無理だろ

この体というのはあまりにも巧妙にできていて、、、この体の中に「自分が居る」と思い込めてしまう仕掛けが盛り沢山、、これが盛り沢山すぎて全人類が騙されるのです、、、、経験を積めばあらゆる思考、感想が勝手に湧いてきます、、、この店は嫌な店だな、、店長は愛想が悪いな、上司は今日は機嫌が良いな、、、、とこの間違いのない思考が、、、、この「私」を絶対的なものにしていきます。思考が湧くのは疑いようもない、、だからこの「私」も疑いようがないのです。

勝手に湧く

ということで悟りの攻めの急所、、、、「思考は勝手に湧く」ここです、、、これだけです、、、ここが腹落ちするとドミノが倒れ始めます。。。思考が勝手に自動的に湧いていることを認める、気づくと、、、もう自分が信用できなくなります、、、おい、何もしていないぞ!!!です、、自分とは何もしていない、、、既得権益、、、何もしていないのにお金を全部持っていく既得権益、、それはこの自分、自我、私の正体です。

既得権益を滅ぼす

実は何もしていない、、この私が、、、最高権力者にのさばっているのがこの自分という存在、、こんな存在を許容して、、幸福になるわけがない、、、ありえない、、、全く存在していない存在を勝手に作り上げ、、これありきの思考がガンガン湧き、それに右往左往する生活、、、ありえない、、、冗談じゃない。。。ということで、、、ここが悟りを開くための絶対的急所です。

マニュアル

本質を完全に忘れる

本質を完全に忘れてしまった状態、、この状態での自我反射システムは、、マニュアルを求めます、、パワー(本質)というものがこの体内に在るという認識は全くありませんからマニュアルに支配されて安心したいわけです、、マニュアルを完璧にこなすことに意識が向きます、、、ですからどの組織でもマニュアルが重宝され、、個人はマニュアルに安住するのです。

本質に気づき始めると

本質に気づき始めますと、、、本質とはパワーそのものですから自我反射システムに緩みが生まれます、、本質を信頼する自我反射システムが働きます、、、外の何かを求めなくても内側に大きなパワーがあることを意識した自我反射システムが働きます。。。自我はこの強力なパワーを発見した自分という役回りをします、、、そしてこのパワーをこの夢の世界の中で自我拡大に利用するのです。これは苦しい状態です。

本質のパワーの悪用

本質のパワーに気づきが起きたことで、、自我反射システムは、、、このパワーを利用した自我拡大を行なっていきます、、このパワーをこの体の維持に有効利用しようとします、、、疲れない私、仕事ができる私、判断力がある私、、などなど、、、自我が拡大します、、、自我反射システムが強化されていきます。ですがこの状態を続けても苦しみは解消しません。

このパワーって本当は何だ??

気づきの意識を強く意識していきますと、、、徐々に自我そのものを疑うという動きが起き始めます。この苦しみを生み出しているのはこの自我記憶システムではないか???本当はこのパワーはパワーそのものであって、、自我はそれを自分のモノという勘違いを起こしているのではないか???という気づきが起き始めます。そして突然、、実はこの自我はパワー、本質が生み出した、、体を守るための防御システムに過ぎないことに気づきます。

自我が存在しないと時間も存在しない

本当の理解が起きますと、、ここには時間が存在しないことが明白になります、、、自分も他人も確実に存在しないという理解は同時に時間も解消させます、、そして自分、他人が存在をしないが理解できますと、、空間すらも実はないという理解が起きます、、時間、空間、自分という実在しているはずだった存在が一瞬で消えます。ですがそれでも何も問題がなく生活が続きます。