思考

先ずは全体があった

そこから自分が起こった

先ずは全体しかありませんでした、これ、あれです。視界に広がるこれ、あれだけがありました。動物、自然、花、太陽、空、雲、これ名前は元々ついているわけがなくただ目の前に映る諸行無常、変化する何かがありました。そこにこの動く体というものを発見します、お腹が空き、排泄が起こる、そして寒いと感じるこの体を発見します。ただこの時点では自分と自分以外という感覚はありません。やがて視界に広がる中にこちらに話しかける物体(人間)が登場します、その物体は食事の面倒を見てくれたり排泄の処理をしてくれる、そしてどうやら何かをこちらに向かって話しかけています。音だけがします。その物体はなんと7年間近くをかけてこの動くモノには名前があり、それがどうやら自分という存在であること、そして自分以外の存在があること、、そして目に見える動く、もしくは動かない何かに一つ一つ名前があることを教えてくれました。

一番近くに常にある動くモノを「自分」と呼ぶ

これによって自分と自分以外が誕生しました。自分はこの見える世界で最も大切であるらしく、この自分を大切にしなさいと。そしてこの自分の中には思考というものが起き上がりそれも自分のものだと、さらに怒りや悲しみなどの感情もたまに湧いてくるがこれも自分のものだよと教わりました。不思議なことに自分という存在を理解すればするほどにこの感情が沢山湧いてきます。その感情は多くの場合心地が良いモノではなくだから自分はそれを消したくて他の人間と一緒にいたくなります。全体は最初からあったし今もありますが今の全体は自分と自分以外に分かれています。

自分ができてから空間ができた

自分という存在が誕生してから空間ができました、自分がキノコを取りに行く際にそのキノコは向こうの山にありました。自分が向こうに行かなくてはならなくなりました。すると向こうの山に行くには距離があり、その距離を行って帰ってくるまでに時間というモノが誕生しました。本当は空間も時間も存在しないのですが独立した「自分」というモノが誕生し自分が「自分以外」と接触することで空間と時間が誕生したのです。

これは幻想である、それを見抜ける人間はいない

夢の中でそれを夢だと気づく主人公はいない

自身が見る夢の中でこれが夢だと気づく主人公はいません。夢の途中でこれって夢ではないか?このような気づきに至ことはまあありませんよね。そしてここは重要になりますがこれが夢であると気づくのは夢を見ている自身であって夢の主人公ではありません。このリアリティー、現実社会でも同じですがこれを夢だと気づける主人公(私)はいません。この夢を見ている神以外にです。主人公にこれを夢と気づく力はないのです。あるのはこの夢を見ている存在だけです、つまり神です。

このリアル世界を生きる主人公とは

もしもこのリアルの世界を生き抜く私(主人公)が本当に存在していると思っている限りはこれが夢だと気づくことはできないでしょう。この体の中に自分がいるという思考、思い込みはあくまでも錯覚であり事実ではありません。この体の中に自分がいるという思い込みを信じ切ることでこの人間ゲームはスタートしますがこれは錯覚です。毎晩見る夢の中で主人公が自身の存在を疑わないようにこのリアルストーリーでもこの体の中に自分がいるということに疑問を持つ者はいません。

この体の中に自分がいるという前提で全員が同意する

世の中に自分一人しか居なればこの体の中に自分が居るという概念、アイデア、考え方は浸透しません。たまたま両親がいて、友人がいてこの体の中に自分が居るという考え方を無武備で信じ込む環境があったからこうなりました。大自然の中で生み落とされ動物に育てられたらこの体の中に自分が居るという感覚は皆無です。自分というアイデアも存在しません。悟りを開くとは大袈裟な話ではなくこの人間として当たり前の常識を壊すことです。この体の中に自分が居るという大前提が実は思い込みですよという大きなお世話な提案です。地球の周りを宇宙が回っていると信じられていた時代に「地球が太陽の周りを回っている」と話すのは大きなお世話だったはず。これと同じことを言っています。

一つのエネルギーが振動数を変えているだけ

TVゲームは光の種類を変えているだけ

TVゲームはTVの画面上でキャラクターが動き、敵が現れて変幻自在に画面の中でドラマが展開されますが実際は様々な種類の光が画面上で点滅しているだけです。そして様々な種類の光というのも波長の長さが違うだけで同じ光であることに違いがありません。全く同じ因子で構成されています。これは実はこの夢、神が見る夢でも全く同じで同じ粒子が速度、回転数を変えて変幻自在に動いているだけで実は全部同じエネルギーです。違ったものに見えるのも、違った硬さに感じるのも、違った匂いに感じるのも振動数が違うだけ。TV画面の光と同じ原理です。

自分がいるという思考も振動数

思考もエネルギーです。物を構成するのもエネルギーです。思考においてこの分離世界を作り出しているのが自我です。この体こそ自分自身だいう思考です。これもエネルギーです。全てを構成しているエネルギーと全く同じエネルギーが振動数を変えて自他を作り出しています。そういう意味では人間の五感とは振動数探知機みたいなものでしょう。見て振動数の違いを発見する機能、匂いで震度数の違いを発見する機能、触って振動数の違いを発見する機能、味で振動数の違いを発見する機能、、、そしてこの体こそを自分とする思考(振動)、湧き上がる感情(振動)を自分のものとする思考(振動)が組み合わさってこのバーチャルリアリティーが形成されます。

一つのエネルギーがこの夢物語を作る

記憶する脳もエネルギーです。脳という記憶装置にエネルギーとして記憶されます。その記憶をもとに過去が誕生しました。人間という個別の存在があるという前提のドラマをしっかりと脳にエネルギーとして記憶することでさもこの人生ドラマが本当であるかのような錯覚をすることができます。映画も同じで全部記憶されています。そしてそれを構成するエネルギーはたった一つです。神を構成するエネルギー、ワンネスのエネルギー、空のエネルギー、全部同じエネルギーですがこのエネルギーが震度数を変えて変幻自在のバーチャルリアリティーを作り出します。

偽りの自分は人を引きずり下ろして不足感を解消する

不足感解消に仁義なし

これは夢です、神が見る夢です。この夢の中では神は人間に成り切ったゲームを展開します。人間という五感+思考+感情動物を利用してこのゲームを楽しみます。実際には全て幻想ですが五感があることでリアリティーを与えます。さも自分がいるかのような錯覚を感じることができる遊びを展開します。神が人間という不自由極まりない生き物に成り切るわけですから不足感が湧いてきます。しかもこれはこのゲームが続く限り延々と湧いてきます。この不足感が人間の価値観と絡み合うことであらゆる感情のベースになるのです。怒り、妬み嫉み、孤独、退屈、などなどです。人間ゲームに慣れていない神はこの不足感を犯罪、裏切り、理不尽な行為をしてでも埋めようとするのです。これが仏教でいう地獄界です。このようなレベルの人たちが集まる集団に属しているとそこは地獄になります。

不足感解消にルールを守る

不足感解消のために最低限のルールを守れるようになると社会人としてやっていけます。会社、法律というルールを守りながらこの不足感を解消していきます。もちろんこの不足感はルールを守っていても関係なくひたすらに湧いてきますからこれが辛いことに何も変わりはありません。ただしここに居る人たちはルールを破ってでも不足感解消をしない分お互いが楽です。各々が独自に不足感解消に向けて努力していきます。

不足感解消から無我に入る

不足感解消をする努力から無心、無我、無思考に入れる人もいます。茶道、書道、花道のようにそこに携わることでそのまま無我に入り歓喜を得ます。そこに集中し無心に入ることでその場で神を体現します。これが究極の娯楽です。本来であれば苦しみでしかない仕事や労働から悟りに入るこれは人間の究極の形です。そして最終的にこの感覚を理解することから人間の苦悩解明に入っていきます。神が演じるこの人間から意識的に離れる、人間観察者へとシフトしていきます。

偽りの自分はメリットを聞きたがる

偽りの自分は不足感でできている

これは夢です、神が見る夢です。この夢の中で神が人間になり切って、人間がいるかのような状況を作り出しこの夢物語を歩みます。人間が実際に実在するわけではありません、人間が実在しているかのように見える世界を神が作ったのです。マリオがいてクッパがいてクリボーがいてスーパーマリオは完成します。同じように主人公(私)と脇役を多数配置してこの錯覚ゲームはリアリティーが出て来ます。これは神が作った夢、ゲームですからリアリティーさにかけては右に出るものはありません。全知全能の神が無知無能の人間を作り出しそれに成り切っているわけですからこのゲーム、夢は不足感全開、欠乏感全開、、これがポイントになります。無知無能の人間が欠乏感全開になった時にどういう行動をとるか?メリットを追求します。コスパを追求します。損得を追求します。これが答えです。

五感+思考+感情、、これに脳の記憶装置を加えて完成

神が見る夢では人間(本当はいない)に五感を与え、見えて聞こえて、触れて、味わえて、嗅げる機能をつけると同時にその世界を現象化、バーチャル化、リアル化しました。人間の五感機能分だけ世界がリアライズされるのです。さらにこれに思考を加え、感情を加えることで不足感をいかに解消していくか、、思考を繰り返しながら観念を作り上げていきます。それに記憶力を加えることで過去を作り出しストーリーが完成します。湧き上がる不足感をあらゆる観念が感情化しそれを思考で解決していこうという試みになります。

不足感全開の無知無能人間は最初はメリットを重視するが、、

神にとって人間は無知無能です。その人間は不足感全開になりそれをなんとかして解決しようと行動します。人間ができることと言えばなるべく損をしないで生きたい、将来後悔しないような人生を歩みたいということになります。周囲から教えてもらう損が少ない人生を目指すようになるのです。進学しかり就職しかり結婚しかりです。ですがどこまで行っても消えないこの不足感は常に自分を追ってきます。この損しない生き方ゲームは死ぬまで続くのだろうか?ということです。神は人間を無知無能に作りはしましたがそれは不幸に浸かれと言っているわけではありません。その状況から神に戻ることを最終ゴールにしています。このブログでは神が教えてくれるあらゆるヒントを掲載します。

絶体絶命のピンチは偽りの自分が削ぎ落とされる

絶体絶命のピンチが絶体絶命じゃない、、

これは夢です、神が見る夢です。神はこの夢の中で人間という極小の存在に成り切ることでこの夢を展開します。人間は極小、無知無能ですから普通に生きていくだけでも大変、ましてやピンチの状態などは是が非でも避けたいところです。ところが本当のピンチ、本当の地獄、本当の絶体絶命状態、、これが全くキツくないということにどこかで気づく時が来ます。絶対絶命レベルまでの状態は実はそれほどキツくないのです。中途半端なピンチ、中途半端な地獄は大変ですが本当の地獄、絶体絶命は実はキツくないのです。

人間がなぜバンジージャンプにハマるか??

バンジージャンプという遊びがあります。地上30メートルの高さから真下に落ちるアレです。なぜ若者がこの遊びに興じるのか?それは絶体絶命の歓喜を知っているからです。絶体絶命の状況、これは最高の歓喜、安堵、平和が襲って来ます。ここに大きなヒントが隠れています。自分を完全に忘れてしまう状況、これは人生最大の歓喜なのです。絶体絶命の状況を味わうと人は強くなると聞きますがこれが種明かしです。人間に成り切った神が人間であることを忘れた状況=歓喜、安堵です。

生産性があることにいかに無心になるか

バンジージャンプに何回チャレンジしてもそれがお金になることはできません。できるならばこの歓喜のメカニズムを生産性があることに利用したい、これがこのブログの真意です。無心になれれば、無思考になれれば、無我に入れれば、、バンジージャンプ並の感動が自然と起こります。書道や、花道、茶道は、、所作の中から無心、無我に入る教えです。仕事も所作の中から無心に入っていきます。家事も所作から無心無我に入っていきます。そこにバンジージャンプ並みのエキサイティン、感動、神が隠れています。

偽りの自分に気付いてしまったら

何かに没頭している時の安堵感に気付いてしまったら

これは夢です。神が見る夢です。この夢の中では神は人間に成り切ることでこの夢を歩みます。食事をし、学校に行き、家に帰って友人と遊び、TVを観て寝ます。3D映像でこの夢はあらゆる現象が現れては消えていきます。触ることができ、香ることができ、味わうこともでき、、と五感全開でこの夢は広がりますからこれを夢と気づくことはできません。神は一度人間になり切ってしまうともう神であったことは忘れます。そして神であっったことを忘れてこの夢に没入すればするほど人生は苦しくなっていくのです。

そんな苦しい状態で安堵感が突然訪れる

基本この人生は苦しいものです、神が人間に成り切るわけですから不足感全開、欠落感全開です。そんな苦しい状況の中で突然安堵感が襲ってくる瞬間があります。それは何かに没頭できたときや、何かを成し遂げたとき、何かを手に入れた瞬間、、これらの一瞬の安堵感が実はこの不足感体験ゲーム攻略のヒントになります。この一瞬の安堵感は何だ?何か忘れてしまっていた懐かしいこの感覚、、、そうですこの感覚こそが神の感覚です。人間になり切って不足感丸出しだった状態から一瞬神に戻った感覚なのです。人間は何かを得た瞬間自分を忘れます、何かを達成した瞬間自分を忘れます、思考が消えます。何かに没頭した瞬間自分がいなくなります。火事場で人を助けるとき自分が完全にいなくなります。この瞬間神に戻っているのです。これが不足感体験ゲームから抜け出るヒントです。

自分がいない=神

多くの場合この気づきはネガティブな環境が気づかせます。例えば大借金をして無我夢中で働いているとき、厳しい鬼教官の部活動、死を意識するような大病を患ったとき、投獄されたとき、、、、自分がいなくなります。我を忘れて活動します。。。そのとき安堵感が突然襲ってくる、平和が突然現れる、、これが気づきの最大のチャンスです。自分がいない時が至福、自分を忘れている時が歓喜、自分がいない=神です。人生はこのような気づきのチャンスに満ちています。神が作った夢ですから解決できないような夢であるはずがありません。

偽りの自分は引きこもる

引きこもりは不思議ではない

これは夢です、神が見る夢です。神はこの夢の中で全知全能から無知無能の人間に生まれ変わりました。生まれ変わるというか変わったという錯覚に入りこみました。神が人間になれるわけはなく神は人間だと思い込むことはできます。神が迫真の演技で人間をしています。これは演技です。とはいえ神ゆえに迫真の演技が乗じて人間になり切ってしまい、自身を無知無能であると自信を失っているのも事実。そんな人間こと神は家に引きこもることでこれ以上自信を失わないようにします。これが登校拒否や引きこもり状態です。

自信がないという状態は実は人間になり切れている証拠

神が人間になることで自信がないとは滑稽なことだ、そんなことはありません。神は自信がない状態を経験したくてわざわざ人間になり切っているのですから神の完璧なシナリオ通りです。自信満々な人間こそ神からしたら失敗作品、空気を読んでいません。引きこもり完璧、登校拒否完璧です、この初期設定は神が人間をやる意味を叶えます。全知全能の神ではなし得ない状況だからです。

そこからいかに自信をつけるか

とはいえ引きこもり状態が続くことは辛いことに変わりはなくここはどこかで解決したいものです。いかに自信をつけていくかになります。結論から言えば小さな成功を積み重ねていき自身が実は神だったという状態まで持っていくしかありません。小さな目標を立てて達成する、中ぐらいも目標を立てて達成する、大きな目標を立てて達成する、、、この積み重ねを行っていくことで自身の本当の存在を思い出させていきます。最終的には目標を達成する過程において無心、無我、無思考に入ることで自由自在に神に戻れる状態を目指します。

偽りの自分は結果を急ぐ

結果を急ぐのは無知無能の証拠

これは夢です、神が見る夢です。この夢の中では神は人間に扮して活動しています。人間に扮した神が見る世界が広がり、香る世界が広がり、触れる世界が広がります。人間の五感で感じれる世界だけが実は広がっています。この夢において神は全知全能から無知無能に生まれ変わりました。結果そのものから結果を出さなくてはいけない人間に変わりました。ということで人間は結果を気にします。結果が出ることを焦ります。結果至上主義に陥ります。

結果を出してもどうせ不足感は消えない

無知無能、不足感全開の人間は結果を出してもすぐにまた次の不足感が湧くようになっています。つまり結果を出しても意味がないのです。結果を出せばまた次の結果を渇望します。結果が出してくれるのは一瞬の解消でありこれは永遠ではありません。重要なことは結果を出すことではなく結果を出すために無心に入ってしまうことです、結果を出すために無我夢中、完全燃焼、無思考に入り込むことでその場で「結果」そのものになってしまうのです。

結果を出すことから「無心」に入る

書道はテクニックを学ぶ場所ではありません、茶道はテクニックを学ぶとこでもありません。それらは無心に入るコツを学ぶ場所です。無心とは実はすぐそこにあります。無心、無我は遠い場所にあるのではなく「今ここ」にあります。結果をだしても直ぐに不足感全開になる人間のために大切な機会を失う必要はありません。我々は神です、神が一時的に人間に変化しているだけ、人間に不足感に振り回される必要はありません。

偽りの自分はTVが好き

偽りの自分は時間を忘れる瞬間を求める

偽りの自分は時間を忘れさせてくれる物、何もかもを忘れさせてくれる時間を好みます。T Vを見ている時間、ネットフリックスを見ている時間そこに没入できます。何もかもを忘れて夢中になれます。その瞬間無我に入れます、無思考に入れます、無心に入れます。だからこそ人間はT Vに夢中になるのです。ですがTVの問題点は安易に無思考に入れるがために日常生活の多くを思考に牛耳られることを許してしまうことです。思考のフルスロットルを止める方法をTVに依存してしまうのです。自分の力で無心、無思考、無我に入ることを諦めTV にそれを依存します。

TV ではなく生産的な行動の中で無心に入る

もしも仕事に対し無心に入れればそこから歓喜に入れます。もしも家事で無心に入れればそこから歓喜に入れます。TV で無心になる、無思考になる、無我になる感覚を掴んだならばそれを生産性のある行為に応用していきます。仕事、家事、スポーツ、と生産性のある行為に対し無我になれるならばもうTV は必要ありません。あらゆる行為に中に無我を発見できます、全ての行為から悟りに入れます。

TVが好きという事実は最高のヒント

偽りの自分が好きなことには大きなヒントが隠されています。小学生や中学生がゲームに夢中になるのも一つ、ゲームは時間と空間、そして自分を忘れさせてくれるからです。これは悟った状態です。この悟った状態を日々の生活の中で応用できるかがこの偽りの自分ゲーム最大の鍵です。無心に入れるかどうか、全ての動作を無心の状態で行う、書道、花道のように決まった所作に持ち込むことで自我を排していきます。ルーティン、反復作業にいかに持ち込めるか、そしていかに熱中できる分野に意識を向けれるかを拘ります。無心に入れないことは最初からやらないこういう覚悟が重要です。