大いなる存在

見た目を異常に気にする人の心理

見た目=自分自身

「この体この思考が自分」という思考を真実だと勘違いしている人は、、、見た目を異常に気にする、、という可能性が高くなります。この体=自分自身ですから、、この体の評価=自分自身の評価です。つまり見た目を異常に気にすることが起きるのです。そして見た目を否定されるということは同時に自分自身の存在そのものを否定されることになり生きていけない、、となります。年齢を重ね自身の見た目に自信が無くなってくると途端に老け込む、、という場合もあるでしょう。

見た目の誹謗中傷、賛否が異常に多い理由

SNSでは可愛い!!キュート!!神!!!と見た目への評価が異常に多いのはなぜか????皆この体を自分自身と定義しているので、、そこを評価したくなるし評価されたくなるのです。SNSで自身の写真が評価を受けると自分自身の自己評価が上がり、、酷評されれば死にたくなるほどに自己嫌悪に陥るのです。「この体が自分」という間違った固定観念がそうさせるのです。

大いなる存在=自分自身

大いなる存在=自分自身とアイデンティティのシフトに成功した場合、、、もう見た目の評価で一喜一憂することがなくなります。見た目の否定=自分自身の否定にはならないからです。見た目は大いなる存在の表現の一部になります、その時評価は遊びの一つになるのです。小さい子供が見た目を気にしないのは「この体が自分自身」という概念が強化されていないからです。大いなる存在の表現としてまだそこに居るのです。

思考の否定は「偽りの自分」の否定

絶対に負けられない戦い

人と議論をする際に、、、負け戦になりそうになると瞬時に逃げ出してしまうか怒り出してしまうか、、とにかく冷静な話し合いになれない人っています。こちらはただ議論を重ねて整理したいだけにも関わらずこのまま行くと自分の意見が否定されることになるという雰囲気を感じた途端に怒りだすか逃げ出すのです。結局重要な部分を話し合えないがために問題が解決しない方向に行くのです。なぜ、、、話の内容、意見を否定されることを極端に恐れる人が存在するのでしょうか????

思考=自分自身

「この体この思考が自分」という固定観念を持っていますと、、意見を否定される=自分自身を否定されるになります。自分自身の存在そのものを否定されることになることから、、負け戦には参加しないとなるのです。自分自身の存在(意見)を否定されるぐらいならば、、この場からは撤退させて頂きます、、です。意見を否定されると生きていく自信すらなくなる、、当然です、その人の全て(思考)を否定されてしまったら何を頼りに生きていけばいいのか???です。

偽りのアイデンティティ(思考)の過剰防衛

「この体この思考が自分」これが真実ならば、、、議論で負けたぐらいでは自分の存在はビクリともしない、崩壊しないはずなんですね!!ところがなぜ過剰防衛をしなくてはならないかと言えば、、それがフェイクだからです。フェイクだからこそ思考を否定されてしまうと存続できないのです。偽りの自分(体と思考)を維持していくためには「私=思考」を否定されてしまっては困るのです。急所をナイフで刺される前に怒り出して撤退するかそのまま撤退すかになるのです。

本当のアイデンティティに居る場合

「この体この思考が自分」という概念から脱出できて、、大いなる存在こそが自分という境地にいる場合、、この体この思考が否定されても全くダメージがないということになります。なぜならばそれは大いなる存在(真の自分)から湧き出た現象でしかなく全体の一部でしかないからです。そこ(体と思考)にアイデンティティがないからこそどれほど攻撃を受けても傷つくことができないのです。

魂を知り恐れが減り大いなる存在を知り恐れが消える

スピは悟りのウォーミングアップ

見かけ上のこの私は、、俗に言うスピリチュアルという分野によって大きく救われました。江原さん、美輪さん、バシャール 、神との対話、、、、魂という存在を知ることで、、、それまで信じ込んでいた「この体この思考だけが自分」という強烈な柵が壊れたのです。そうかこの体の中に居る魂というのは不滅で失うことはないんだ、、、そう信じた瞬間に、、急激に恐れの感情がぶっ飛びました。今世は思い切りやりたいことをしっかりやろう!!!!です。魂という永遠不滅の存在があるならば、、もう怖がるものは何もないぞ!!!!です。

楽しんで楽しんで楽しみ尽くすぞ!!!

30歳ぐらいかそのようなノリで生きてこれてはいたんですが、、止まっていると苦しい、何か新しいことにチャレンジしていないと苦しい、、、楽しいジャンキーになっていたのです。おかしい、ジャンキーって結局は病気ですよね。苦しいが根底にあって動いているんですから。つまり恐れからはかなり解放されはしたが「苦しい」はそのままだったのです。このままこの人生楽しいジャンキーになって生きていくのも辛い。。。。その瞬間悟りに強烈な興味が湧いたのです。

苦しいも消したい!!!

「この体この思考だけが自分」を信じ切っていた時代は、、とにかく失敗をしてはいけない、、失敗などしたらこの一回きりの人生が台無しになってしまう、、、そう信じて怯えて生きていました。魂を信じていた時代は怖さはないが楽しいジャンキーでした。そして今悟りに目覚めてからはどうか????苦しいがないんです、、苦しいが湧いてこないから、、楽しいを求めない。どこかに行きたい、何か新しいことを、今日という日がもったいない、、が湧いてこないんです。

静寂、平和、至福を楽しむ

個人が何かをするという感覚が薄れ、静寂、平和、至福の密度が濃くなっていく。私がこれをやりたい、あれをやりたいではなく、、ただ静寂、平和、至福の密度が上がっていく。平和だからこれをやろう、静寂だからこれをやろう、至福だからこれをやろう、、という本来求めてきたものが最初からある状態にあります。