マリオは敵キャラの存在でキャラ立ちする

敵キャラの存在はこのゲームにのめり込むための道具

敵キャラがいなければマリオはスーパーマリオというゲームにのめり込めません。マリオは本当はゲーム上のキャラでありこのマリオに成り切るためにはどうしても敵キャラが必要になるのです。敵キャラが継続的に現れてくれるおかげでさもマリオが実在しているように感じるのです。まるでマリオが実際に生きているかのような錯覚を持つことができるのです。この地球ゲーム、人間ゲームも全く同じです、あらゆる敵が現れてくれるおかげでさも人間という個人が実在しているかのような錯覚を持てるのです。

あらゆるアイテムもゲームにリアリティーを持たせる道具

スターもキノコ、これらアイテムもスーパーマリオにリアリティーを持たせる道具です。これらのアイテムを手に入れることでゲームに多様性を持たせよりリアルにこのゲームを体感できるように設定されています。本当はマリオは実在しません、スーパーマリオゲームという夢の中にだけ存在します。だからこそあらゆるアイテムを用意することで夢に没入できるのです。さもマリオが実在するかのような錯覚を起こすことができます。

地球ゲーム、スーパー人間はリアリティーの塊

人間が主人公ですからゲーム名はスーパー人間です。このゲームの中で人間は多種多様な敵、多種多様な仲間、多種多様なアイテムと出会うことで圧倒的にリアルな経験を積んでいきます。スーパーマリオの10000倍リアリティーのあるゲームです。GOOGLEグラスというアイテムが出ましたがこの100000倍リアルにゲーム展開します。今後任天堂グラス、PLAYSTATIONグラス、アップルグラス、と様々なゲーム用グラスが売られるでしょうが神グラス、ワンネスグラス、大いなる一つグラスに勝てるものが出ることはありません。

これが夢なのは分かった、だからどうすればいい?

夢だろうと事実だろうと生きていかなくてはならない、、

これが夢なのはわかりました、ですがだからといって今後どうすればいいのか?夢の中かもしれないが、、生きていかなくてはならないという事実は何も変わらない。ということになります。不足感、欠乏感が続くのも同じではないか、ということです。人間の悩みの9割は人間関係だと言われています、そこにはしっかりとした独立した人間が居るという大前提で人間関係が行われるわけですが実はその人間は夢の登場人物に過ぎません。ということは主人公である私がいかに相手との関係に努力をしたとしてもその努力がどのぐらい報われるかは全部夢を見ている張本人(大いなる一つ)が決めています。そこの人間としての努力が及ぶわけがありません。つまり人間関係が上手く行くかいかないかは全部神が決めているということです。この事実だけでも人間関係を上手くいかせようとする気持ちは半減するはずです。

生きて行くのは事実だが悩みは確実に減る

なぜ自分のことを分かってもらえないのか?なぜ自分の努力を見てくれないのか?なぜ自分の配慮を感じてもらえないのだろうか?これらの悩みは「これが夢だ」という確信で全部ぶっ飛びます。夢の中での相手の行動は夢を見ている存在が全て決めているからです。その存在は本当の方の自分です。本当の方の自分が決めた決断を、とりあえずの自分(人間)が攻めても仕方がないのです。悩みっていうのはどこまでいっても自分(人間)の思い通りにならない、、ということですから、、、実は本当の自分が全部思い通りの決めているのならばこの悩みはぶっ飛ぶのです。

それでも残った目標、悩み解決には無心になって取り組む

これが実は夢だったという事実を目の前にすると、多くの悩みはぶっ飛びます。ですがそれでも不足感、欠乏感、孤独感は湧き続けるでしょう。この感情に対しどうするか、、、その目標達成、悩み解決になって無心になって取り組むのです。花道のように、茶道のように、武道のように全部をルーティンの所作、練習によってそこから無心、無思考、無我に入って行くのです。その目標達成のために歓喜、平和、安堵に入って行くのです。

自分が居るという錯覚ゲームの盲点

「自分が居ない」という理論で検証

カレーを食べている時、先ずはその食事を見ます、これは視覚です。カレーを口に入れます、その時に舌で先ずはその感触を確かめます。触覚が働きます。次にカレーの味がします、これが味覚です。次にカレーの香りがします。これが嗅覚です。噛んでいるときに音がします、これが聴覚です。この五つの感覚で人間は実際にカレーがそこにあることを確証します。実在していることに疑問を持ちません。逆に言えばこのカレーを食べているという事実があるのだから自分はいるのだと結論づけます。こうして人間の実在を確認しています。ですがこれは全て脳の電気信号で片付きます。 脳を細工すればこれは全て再現できます。ということは自分が居るという根拠が崩壊します。カレーを食べたのは事実だから自分は居るのだと結論づけましたがこれは電気信号で片付いてしまいます。これが全て幻想であるという理論も実証できてしまうのです。五感でカレーを感じた、これは紛れもない事実です。ですがこれ以外は全て推測、予想です。自分が居るというのは予想でしかありません。

「人と会話している」を検証

目の前の友人と話をしています。友人が見えます、これは視覚の確認です。友人が自分に話しかけています、これは聴覚と視覚の確認です。友人が自分に触りました、これは触覚での確認です。友人の香水を感じました、これは嗅覚の確認です。今回はこの4つの感覚を得ることがいました、それで自分がいると感じています。ですがこれも全て脳の電気信号だけの話です。これで自分が居るという証明にはなりません。もしも脳の電気信号を直接操作すればこの経験を体験できます。これが全て幻想だとしても説明がついてしまいます。ということは自分が居るという理論は証明できません。視覚、聴覚、嗅覚、触覚で感じたことは事実です。ですがだからと言って自分が居るというのは推測ですし、その友人の存在も推測の域を出ません。脳の電気信号で全て創作できてしまいます。

経験があるのだから経験者はいるに決まっている?

経験は確実にあります、スポーツをする、お酒を飲む、食事をする、音楽をきく、、、、これらを五感で確実に確認できます。それは紛れもない事実です。ですがその五感があるから自分が居るは嘘です、推測です、妄想です、夢です。これは神が見る夢です。この夢の中ではあらゆる体験をすることができます、踊って、歌って、飲んで、遊んで、、、全部体験できますが、、、だからと言って自分が居るは嘘です。経験があるのだから経験者が居るは、、暴論です。経験はどこまでも事実ですが経験者が居るはどこまでいっても事実無根です。

「お風呂に入っている」を検証

お風呂に入ります、先ず視覚でお湯を確認します。次にお湯の熱を感じます、これは触覚で感じます。次にバスソルトの香りを感じます、これは嗅覚の確認です。次にお湯の音を感じます、これは聴覚の確認です。次にバスソルトの味を感じます、これは味覚の確認です。この5つの感覚、確認で人はお風呂に入っていることに疑問を持たないし、それを感じている「自分」という存在にも疑問を持ちません。お風呂の存在も、自分の存在も疑いなく事実と感じます。ですがこれも脳の電気信号で全て同じ体験を作り出せます。ということでお風呂の存在も、自分という存在も全く事実とは言えなくなりました。

この小さい体に自分がいるという錯覚

世界中でこの小さい体の中に自分を発見した人はいない

ついにこの体の中に自分を発見しました!そのようなニュースを耳にした人はいません。そのような発見をした人がいたらノーベル賞でしょう。国民栄誉賞です。ですが実際はそのような発見が今後されることはないでしょう。というのはこの小さな体の中に自分はいないからです。今私はこのブログを自身の手を使って思考を使って目を使って書いていますがこの体の中に自分はいません。勿論体にナイフを刺してみれば血も出れば肉片も出るでしょう。ですが=自分がいる、とはならないのです。

経験はある、だが経験者はいない

このブログを書くという経験はあります、この文章を書いているという経験もあります、ですがこのブログを書いている経験者がいるというのは錯覚です。これは神の見る夢です、夢の中で人間と呼ばれる者が登場し、自分という者も登場します。ですがそれは全て夢です。夢の中の登場人物に実在の証明をしようとしても無駄です。般若心経では空即是色と言ってこの見える世界を色と表現しました。具体的には色であり、匂であり、触であり、味であり、音です。空がこれらの表現をしています。これを感じるから自分と感じる(錯覚する)人間がいます。バーチャル体験があるから体験者がいるという錯覚を持てます。これだけの多様な感覚があるのだからそれを経験する経験者(人間)がいるという錯覚をできる、これが神(一なるエネルギー)が創造した夢です。

諸行無常を経験できる、、だから経験者がいるという錯覚

スーパーマリオというゲームは非常に楽しい、クリぼうには手こずるし、クッパの動きは読めない、ヨッシーは頼りになる、、ピーチ姫は可愛い、、と感じる、、だからマリオは絶対にいる、、、こういう錯覚です。我々はこの空想、幻想の世界で明らかな体験を経験しています。疑いようのない感覚、経験です。だからこそ自分(人間)は実在しているという錯覚ゲーム、神の夢を見ることができるのです。地球に裏側まで飛行機で行けばそこにはブラジル大陸があって、間違いなくブラジル人がそこにいることを発見できる、だから自分は居るんだ、これが夢です。

人間とは神の欲望体験機

神では経験できないことを代わりに体験する道具

体験という言葉が非常に的を得ているのは、人間が行う経験は全部体験に決まっているわけでこの言葉に体が入る必要は本来ありません。ですがなぜ体験という言葉が存在するのか?それはこの現実が神の見る夢であり神が人間体験をしている場所であるということです。現実という言葉もやはり的を得ていて実が現れると書きます。現れるとは夢の中であらゆる登場人物、状況が現れることです。夢だからこそこの現れるという表現はベストです。神が人間としてこの現実を体験する、それが神の夢です。

神はそのままで完璧故に欲がない

神は完璧です、ゆえに何かになりたいとか何かを叶えたいという欲が湧きようがありません。だからこそ神が夢を創造しその中に人間という主人公を起きました。この主人公は神に比べてひ弱で、脆弱、知能も低く、想像力も低い、、ということで神は初めて欲を手に入れることができたのです、より強いもの、より優秀なもの、より大きなもの、より創造的なもに対してです。人間という体を自身と勘違いできている間はこの欲望をベースにした人生を歩むことができるのです。

この事実を分かったところで一体どうすればいいのか?

人間の欲望に限りがなくだからこそこの人間物語は延々と続いて行くわけですが、では今後どうしたらいいのでしょうか?私が推奨するのはこの欲望を叶えることで逆に神になってしまうということです。欲望を叶えることに無心、無思考になることで人間であるための条件、思考を抜け落としその場で神に戻ってしまうということです。神の人間体験を利用して神に戻るのです。意識を今に集中することで時間の世界(夢)から抜け出し神になります。神と人間を往復します。ほとんどの時間を神で入れる人間を覚醒者などと人は呼びますがメカニズムを知れば誰でもできます。TVゲームに集中している子供はその場で神になっています、思考が抜け落ちていますから。大人はこれを意図的に行います、大人はこれを積極的に行うことができます。

欲望を安易に無視をしてはいけない

欲望とは神の渇望

これは夢です、神がみる夢です。この夢の中で神は人間(主人公)に成り切りこの夢物語を歩んでいきます。全治全能の神が人間という無知無能に成り切るわけですから強烈な不足感が湧いてきます。この不足感を経験しているのは人間扮する神です。この不足感を変換したのが人間の欲と呼ばれるものです。ですから欲望を無視するという作戦は失敗に終わります。仏教では足を知るという言葉で無欲を勧めますが上手くいかないのは当然です。欲の出どころを掴んでいないからです。

欲を安易に無視すれば欲に破壊される

人間扮する神が感じる不足感が変換されたものが欲ですからこの欲は延々に湧いてきます。欲が収まるわけがないのです。若者達の間で悟り世代といって無欲な若者が増えているという話も聞きますがPC、スマホ、タブレッドなどが普及して安易に欲を満たすことができているからだと思います。人間の欲望の根源は神から湧いていますからその欲が少なくなることはありません。ですから自分や欲が少ないと思って欲を無視し続けると無自覚に欲求不満が膨れ上がりいずれ潰されます。

この人生は欲望をいかに昇華し充実に持っていけるか

欲望は人間扮する神から湧いていますからこれを人間が止めるなどできません。どのような欲が湧くかもコントロールできるわけがないのです。そうならば逆に欲を肯定的に受け止め欲を満たすことに集中することで無心に入る、無思考に入る、無我に入ることが重要です。集中して欲望を叶えていけばそこから無心、無我、神に戻ることができますからその場で歓喜、安堵、平和になれます。欲望を積極的に叶えることでそこから神に戻るということです。

嗜好品は人間に扮した神を一時的に神に戻す

嗜好品は神の救済アイテム

コーヒー、チョコ、タバコ、お酒、ケーキ、アイス、、、これら嗜好品と呼ばれるアイテムは実は神による神の救済アイテムです。これは夢です、神が見る夢ですがこの夢の中で神は人間に扮して人間活動を行います。夢の中で活動する時、神は人間のふりをするのです。ですがこの活動は大変ストレスが溜まるもの、なぜならば全知全能の神がこんな小さくて狭く力のない人間に成り切るのです。窮屈極まりない役に没頭しているのです。毎日演じているだけで死ぬほど辛いということです。そんな中神は自身に救済アイテムを多数用意しました、それが嗜好品と呼ばれるアイテムです。思考品には人間の思考を緩める作用が施されていて口にすることで一瞬神に戻れるのです。一時ではありますが人間扮する神が人間の殻を破って神に戻ります。

この世から嗜好品が無くなることはない

国によってはお酒が禁止、タバコが禁止、大麻が禁止、と嗜好品を禁止する法律は存在しますが嗜好品を全部禁止する国は存在しないはずです。それは国民が全員病気になってしまうからです。神が人間という極小の存在に扮しているということがいかにストレスフルかこれは想像を絶するストレスなのです。ということで嗜好品を無下に我慢するのは辞めたほうがいいでしょう。それよりもなぜ人間が嗜好品を欲するのかに着目する方が得策です。

快楽主義は間違っていない

快楽主義というと刹那的で浅知恵なイメージがありますが、人間を神が演じているというこのストレス状態を理解すると決してこれは間違った生き方ではありません。いかにストレスを上手く解放するかは充実した人生を歩む上で避けては通れない課題です。むしろ積極的にストレスを解放することが人間という役柄と上手く付き合って行く方法です。神が人間として無理して生きているという事実を直視してみると快楽主義の意味が違って見えてきます。

サーフィンで至福を体験する

サーフィンは小さな悟り体験

サーフィンというスポーツがヒッピー文化の象徴の一つになったのは納得できます。波乗りをしている瞬間人は全部の記憶が飛びます、過去のことを思い出しながらサーフィンするのは不可能です。サーフィンは波に乗るスポーツですが波のパワーは凄まじく波に乗った瞬間記憶が飛びます。記憶が飛ぶということは自分が人間であることを完全に忘れるのです、その瞬間神に戻ります。これは神の見る夢です、夢の中では神は人間になり切っているのですがサーフィンしている最中はその事実を忘れます、うっかり神に戻ってしまうのです。人間活動に没頭していた神がその瞬間だけ神に戻ります。半沢直樹になり切っていた堺雅人がサーフィンをしているその瞬間堺雅人に戻ります。サーファーは毎週人間から神に戻るために海に向かうのです。

サーファーがより大きな波を求めるのはより大きな神に戻りたいから

私もサーフィンをしていたので分かりますが、サーファーは実力がついてくると徐々に大きな波を求めるようになります。恐怖すら覚えるような波をあえて求めて車を走らせます。それはなぜか?大きな波であればあるほどに乗れば思考がぶっ飛び、記憶もぶっ飛び、自我が外れ、時間が外れ神に戻るのです。その瞬間この夢から覚めて神に戻ります。神は人間活動をするための条件、思考が外れます。全感覚、意識が体、波に向きその瞬間神は自分が人間であることを忘れて神そのものに戻るのです。

何かに集中すると至福が襲ってくることを学ぶ

私自身サーフィンにハマっていた時はなぜこれほどまでの至福感に包まれるのか全く分かりませんでした。その至福感は海から出て数時間も続きます。この感覚はなんだ?多くのサーファーはなぜかは分からないこの至福感が忘れることができず海を目指します。サーフィンは波という自分ではコントロールできないパワーと向き合うスポーツゆえ集中力が研ぎ澄まされます。考え事をしながらできないのです。要は集中せざるを得ないスポーツということです。この原理はなんでも応用できます、集中できれば至福が襲ってくる、集中すれば神は神に戻る、、何をするにしても自分が人間であることを忘れるほどに集中することは大切です。

運動を毎日のリズムに取り入れる

無心になって取り組めるエクササイズは神に戻る行為

毎日のエクササイズ、これは実は重要です。これは夢です、神が見る夢ですがこの夢の中では人間は不足感発生器、神が人間になり切っているわけですがその状態は苦しいのです。何をしていても不足感全開です。ですがこの人間になり切った神が神に戻れる瞬間があります。それはスポーツをしている時です、なぜか?体とはこの夢の中で夢から覚めるための重要な道具なのです。体は今にしか存在できません、体を過去や未来に連れて行くことはできません。思考は過去や未来に馳せることができますが体はそういうことには至らないのです。ということで強制的に今にあることを可能にするのが体に意識を向けることなのです。今とは何か?今とは夢の外に出ることです。夢の中のストーリーは過去から未来へと流れる時間軸の中です。過去の影響を一切受けない主人公はこの夢の中にはいません、主人公は常に過去の影響を受けています、つまり過去に縛られているのです。時間軸に縛られていると言ってもいいでしょう。ですが体に意識を向ける時、過去から解放されます。過去のことを考えながらスポーツはできません。過去から抜け出す、時間から抜け出す、つまり夢から覚めて人間から神に戻っているのです。

体に意識を向けると思考の柵から抜ける

思考の柵に取り憑かれている間、人間扮する神は人間から脱出ができない状態です。ところがこの人間の体に意識を向けると思考の柵が取れ、この心身こそが自分という思考(自我)の柵が一時的に抜けるのです。一時的に人間から神に戻ります。一時的に歓喜、平和、安堵にシフトします。このメカニズムを知ると1日に何度もエクササイズするのが楽しくなります。1日に何度も至福、歓喜、安堵に戻れるのです。結果を出すことに焦らなくなります、結果を出すことよりもその途中に安堵、歓喜、平和を発見してしまいます。悟りを開かなくても、覚醒体験を得なくても、一瞥体験を得なくても、、毎日エクササイズ中は神に戻れます。

仕事中も、エクササイズ中も、掃除中も、、神に戻れる

幸せの青い鳥の話ではありませんが、、、幸せは直ぐ近くにあります。登山家が頂上を目指して登山を始めたその瞬間、無心になって歓喜に入れます。毎日のエクササイズも無思考になれって体に意識を向けるとその瞬間に歓喜に入れます。仕事に関しても何度の反復でこなしていけばそこから無思考に入り無我、歓喜に入っていけます。人間活動をしているのは紛れもなく神ですから実はいつでも神に戻れるのです。書道、花道、武道の真髄はここにあります。

最後までやらない、、、

長時間かけてまとめてヤらない

あえてまとめてヤらない、これ重要です。多くの方は効率を重視するのでまとめてそして最後までやり切ろうとしとしますしそれが会社では評価されます。ですがそれをやりません。最後までやらない、これ重要です。むしろ一度で出来ることを細切れにしてやっていきます。毎日の中で何度も反復してそこに当たります。最後までまとめてやろうとすると思考が邪魔してきます、思考の知恵が入ります。これが邪魔です。思考が入ると無思考、無心、無我からの歓喜、平和に入れません。あえて思考を入れない、、そのためには最後までやらない。。

効率重視、コスパ重視、、、苦悩

現代人は直ぐに効率重視、コスパ重視に走ります。これが大失敗です。効率を重視すると必ず思考が入ります、コスパを重視すると必ず思考が耳元で囁きます。この思考の知恵が行為を台無しにします。思考のこの知恵こそが行為から無心、無我に入ることを邪魔します。思考の知恵が行為を茶道、花道のように道に入らせることを邪魔します。そこには歓喜が存在しません。茶道でもしも自動抹茶製造機を取り入れたらもう茶道ではありません、ただのお茶入れ教室に格下げします。茶道とはお茶を入れることから悟りに入る方法を体現するものです。お茶を入れることで人間から神に戻ることです。

思考で神になることは出来ない

これは神が見る夢です。この夢の中では思考は大活躍します、人間をより逞しく生存させていきます。ですがいかに人間としてサバイブしてもこの夢の中にいる限りは至福を手に入れることができません。夢の中で地位名声安定を手に入れてもそこは無限地獄のままです。この夢の中で唯一至福に至る方法、それは思考を手放すことです、この心身こそが自身であるという思考(自我)を抜け落とすことです、人間意識を殺すことです。そのためには思考に頼らない、全て反復、反復、で達成していきます。思考が思考を支配することはありません。無思考(神)が思考を支配します。思考を無思考(神)の支配下に収めます。