お金

信念ではない

信念とはそう信じること

信念とは真実とは違います、、、信念とは個人が考える価値観です、、、真実は、、個人を完全に超えた事実です、、、悟りとは事実、真実のことです、、、、、真実を知る、、、、という時に大きな問題が起きます、、、知る個人が居ないというのが真実だからです。ですから悟りは人生を生きる人には伝わりません。お金を払うんで悟りを私に教えてください!!!!申し訳ありませんが「あなた」は居ないんで「あなた」には教えれないんですよ!となります。。。。だとしたらこの行為は誰がやっているんですか?????誰でもないんです。誰でもないとしたら、、、何が起きているんですか?????ただその行為があるだけです。

真実以外は全て信念

この世界には真実と信念、、、この二つしかありません、、、、、真実とはありのままです、、、信念は、、、世界とはこういうものではないか????という疑問符です、、、世界とはこういうものである、、、、と断言する人が居ても、、、、、本人の奥の奥では、、、それが間違っているか、真実か分かっています、、、ですから人は常に不安で不安で、、これが真実かどうか確認したくて確認したくてしょうがないのです。確認したくて確認したくてしょうがない時は、、、それは信念です。

疑問が消えてなくなる

真実の究極の理解が起きた時に、、、疑問がなくなります、、、究極の理解が起きた時に、、疑問はない、、ただそれを見かけ上の他人はどう表現しているのだろうか????という疑問は起きます、、、分かっていることの伝え方を確認して楽しみます。。。

感情は観念の確認

怖い

怖いという感情が湧いた時、、なぜ???怖いが湧いたのか????多くの方は現実で何かが起きたから、、怖いが起こった、、、と考えます、、、ですが事実は異なります、、、、その方が持っている観念が、、、その現実を作り出し、、結果、、、怖いが起きました、、、、例えば、、、犬は噛みつくという観念を持っていれば、、犬を見ると怖いが湧きます、、、

世の中はお金が全て

世の中はお金が全て、、、、という観念を持っていれば、、、、近寄ってくる異性は、、お金目的では???という感情が湧いてきます。。。全て観念がベースにあります、、、、観念が現実を作り出し、その現実が感情を生み出し、、その感情が観念を強固にしていくのです。震災などが起き、、全財産を一瞬で失った時に、、多くの方は観念が崩れます、、、一瞬で無くなるならば、、、無理をして我慢して何かにしがみつくのって意味ないじゃん、、と。

全ての観念はいずれ崩壊する

全ての観念はいずれは崩壊します、、、、なぜならば観念自体が嘘だからです、、、先ず「私」というのは実在しません、、、「私」という存在をベースにした全経験は嘘です、、嘘をベースにした価値観は全部嘘ですからいずれは崩壊します、、、嘘で固められた価値観の中は常に苦しいので、、、出たくなります、、そして苦しみを生み出していたのは全部この価値観、観念であることが分かると、、、笑ってしまいます、、、

攻めの急所

自我の消滅

ワンネス、大いなる一つ、ブラフマン、アートマン、真我、神、、、なんでもいいのですが、、これらの言葉についてどれほど詳しくなろうと、、どれほど理論的に理解しようと、、、悟りに至らないのは、、、個人が居るというこの感覚をどうしても手放せないからです。。。。理屈としては分かるんです、、、ですが、、ハッキリとこの個人という意識を所有している、、、、、そこを抜け出せない

それは無理だろ

この体というのはあまりにも巧妙にできていて、、、この体の中に「自分が居る」と思い込めてしまう仕掛けが盛り沢山、、これが盛り沢山すぎて全人類が騙されるのです、、、、経験を積めばあらゆる思考、感想が勝手に湧いてきます、、、この店は嫌な店だな、、店長は愛想が悪いな、上司は今日は機嫌が良いな、、、、とこの間違いのない思考が、、、、この「私」を絶対的なものにしていきます。思考が湧くのは疑いようもない、、だからこの「私」も疑いようがないのです。

勝手に湧く

ということで悟りの攻めの急所、、、、「思考は勝手に湧く」ここです、、、これだけです、、、ここが腹落ちするとドミノが倒れ始めます。。。思考が勝手に自動的に湧いていることを認める、気づくと、、、もう自分が信用できなくなります、、、おい、何もしていないぞ!!!です、、自分とは何もしていない、、、既得権益、、、何もしていないのにお金を全部持っていく既得権益、、それはこの自分、自我、私の正体です。

既得権益を滅ぼす

実は何もしていない、、この私が、、、最高権力者にのさばっているのがこの自分という存在、、こんな存在を許容して、、幸福になるわけがない、、、ありえない、、、全く存在していない存在を勝手に作り上げ、、これありきの思考がガンガン湧き、それに右往左往する生活、、、ありえない、、、冗談じゃない。。。ということで、、、ここが悟りを開くための絶対的急所です。

自分という概念の爆発

自分という錯覚は思い込み

自分という感覚は思い込みがこれを作ります、、、、有名人のそっくりさんに会った人はその場で大きな感情が湧きます、、つまり人間は自身のイメージの力でとんでもない感情、感覚を作り出せる存在なのです。。このイメージの爆発を起こします、、イメージで在ることを完全に見抜き爆発させます。

360度この自分を包囲する

自分という思い込みは徹底的に逃げ回ります、、なんとかしてこの存在だけを生き延びさせようとするでしょう、、脳が作り出した安全維持装置ですから、、脳は360度逃げまわる策を考えます、、ですから悟りとはこの逃げまわる自分を360度包囲して完全に捕まえてしまうことです。逃げることは最初からわかっている自分を逃さないのです。

自分っているじゃん

この世界は「自分っているじゃん」を思いこむ最高の環境です、、お金を払えば相手はこの「自分」になんでもサービスしてくれます。。。お金を払えば払うほどに丁重に丁重に「自分」を扱ってくれるわけです、、、だから居るにきまっている、、、に落ち着くわけです。

でも居ない

それでも居ません、、、イメージとしてのでっちあげの自分しかいません、、、ですから安心してこのでっち上げをぶっ壊してください、、爆発させてください、、、居ないのはわかっているのです、、あまりに長期間、、この私の存在を確信して生きてきてしまったがゆえに、、私が居ない状態を全く想像できなくなってしまっているのです。ですが大丈夫です、、最初から居ないのですから。

ありのままなどまるで見てなかった

子供と大人はまるで違う世界を見ている

自我が形成されていない子供はありのままの世界を見ています、、ですが自我が形成された大人は自身の観念の世界を見ています、、、いやしっかりと現実を見ていますよ、、、違うんです、、大人は目に入る全ての物事、人物に意味を重ね合わせてみているのです、、見た瞬間そこに意味が入ってしまっているのです。例えば商売が大好きな人は、、人がお金に見えると表現します、、これは本当なんです。人に意味が込められています、、勝手に。

ありのままではなく、、そこに重ねられた意味を見ている

100年の歴史のあるブランド品、、、見た瞬間にカッコいいが勝手に湧いてしまいます。。。有名人に会った、、、、勝手に驚きの感情が湧きます、、、これは自動反応です。。。ですから我々は本当にありのままなど見ていないのです。。。その現象物に込められた意味を見ています。それの何が問題なのか???苦しいのです、、意味のある世界に住んでいるのがフラットに苦しいのです。

超大人の視点

子供と大人は視点が異なります、、、大人はこの私がこの世界を見て生きていると信じています。。。そこをさらに視点を変えます、、、本当はこの体には「私」は住んでおらず(実際そう)全現象は空(ゼロ)からそのまま起こっている、、と。PCのモニターのように、、そのままそこっで起こっているのだという認識に変えます、、この世界を見ている私は100%存在せず、、、そのまま起きたのだと、、、、誰がこれを見ている????誰もいない、、、あえて言葉(概念)で表現するならば、、神が見た世界なのだと。。。

こっちが事実

残念ながらこの視点が事実です、、、先ずはこの世界があって、、その中に、、、「私」がイメージとして想像され、、、この体(イメージ)の中の私が見ているというイメージが起きたのです、、、、この「私」視点の世界での経験を強制終了させます、、、すると認識が変わり観念が変わり、世界が変わり始めます。ありのままの世界、、子供が見る世界が戻ってきます。

ベクトルが外に行く

ベクトルが外に行けば

この私、イメージとしての私、概念の私に意識が集中していますと、、孤独感、分離感、欠乏感が同時に湧いてきます、、、その場合これを埋めるのは外に向きます、、この私を埋めてくれる何かを探す旅にでるのです、、これが私ストーリー、私物語です、、私を埋めてくれる何かを探し続ける旅です。。。そして見つける何か、、例えばお金、友人、パートナー、名誉、地位も全て、、、イメージ、概念でから、、、空想が空想を手にれているだけ、イメージがイメージを手に入れているだけ、概念が概念を手に入れているだけ、、、何も満たされない旅です。

途中でそのことに気づき

おかしい、、何を手に入れても満たされない、、一瞬の幸福が起きるが直ぐに元の状態に。。。それは当たり前、私というイメージ、概念、妄想が、、、手にれる何かもイメージ、概念、妄想ですから、、、実は何も起きていない、、、そこに苦しみ始めた時に、、、私というイメージが問題なのでは???私という自己意識が問題なのでは???と気づき始める人もでてきます。

ベクトルじゃない

私という個人が居るという概念、イメージ、妄想こそが苦しみを生み出している、、、この気づきが起きますと、、、もうこの私を満たすというやり方、、外に何かを求めることに興味がなくなっていきます、徐々に。ベクトルが外ではなく、、、かといってこの私の内側でもない、、、ただ俯瞰したい、、、ただ真実を知りたい、、という衝動だけが起こるのです。。。このイメージの私に関心が湧かない、、、この私に構うにはもうたくさんだ、、

真実だけを探す

もう私が真実を探す、、、、の私が居ない、、、ただ真実を知りたい、、、、という衝動が起きます、、、すると段々と分かってくる、、、、この私はイメージに過ぎない、、さらに、、周囲のある名前がついた物は全てイメージ、、そして評価、批判も全てこのイメージに向けて起こるものだと。。。イメージが最大限の評価を受けて至福に至る、、、わけがない、、、至福とはイメージに焦点が向かず、、、どこにも焦点が向かない状態、、意識が意識として在る状態です。

分離感こそが私

分離感そのものが私

このたった一つのエネルギーがある世界で分離感というエネルギーが生まれました、、このエネルギーこそが私自身です、、、分離感を作り出したのも私(真我)それに気づく存在も私(真我)です。分離感はこのたった一つのエネルギー(真我)の中でただ起きました、、そこに理由はありません、、、あらゆる変化が起き続けるこの真我の中で、、、それがただ起きたのです、、、そこに理由はありません、、、

その分離感が起きて

その分離感が起きることで、、、この私と私以外という世界が誕生しました、、これも真我(空)から起き真我がこれを感じます、、、私を取り巻くストーリーが起こったのです、、、、何度も言いますがここに理由はありません、、、ただそれが起きたのです、、、このストーリーは苦しみが伴います、、閉塞感、孤独感、分離感、、、これを解消したいという衝動も起きる、、真我(空)から。。。。

そこでこれを解消しようとする動きが起こる

そこでこれを解消しようという動きが起こります、、、真我(空)から、、、その動きに気づきます、真我(色)が。。。この動きは多くの場合、、、ストーリーの中で解消しようという動きになります、、それがお金、異性、地位、名誉、安定、、、、となっていくのです、、、ですがこの夢、ストーリーの中では全くもって解消されないことに気づきます、、、この気づきが起きます、、、

絶望が起き、、この解消を悟りに求める

悟りという言葉は知っている、、、恐らくこの現実の中で何をやっても解決しない時にそこに意識が向くのだろうというぐらいの知識、、、ですが本当にそこに意識が向く時が来ます、、、全員が。なぜならばこの苦しみはこのストーリーの世界では解決しないから。これは究極の諦めです、、、心からの諦めですから、、、この現実でまだ可能性を感じている期間は難しいでしょう、、完全なる諦めが必要なのです。

宝の場所はどこだ?

見ている世界全て

我々は一生懸命、、お金、地位、安定、信頼、友情、、、、あらゆるものをこの世界のこの体の外に求めます、、、凄い人と思われたい、、人格者と思われたい、、、信頼できる人と思われたい、、外に外に何かを求めます、、、ですが本当はその外そのものが我々です。。。この体だけでなく全部が全部我々なのです、、、最初から自分だったのです、、、、、最初から自分だったものをワザワザ分離独立して見えるように作りこみ、、、この体だけが自分だという勘違いを起こし、、、周囲からの評価に飢えるのです。

宝しかない

この世界は宝でできています、、、宝が姿を変え独立分離したように見えているだけ、、、その宝こそが自分自身であって、、この体はその極一部、、、、そうなりますと、、、、この体に対して失礼ブッコク輩が現れてもそれも自分です、、姿を変えた宝です、、、何が起きようとも、、それは宝が姿を変えたものです。。。失礼極まりない人間が目の前に現れてもその人間の行動の全ては宝の表現の一部です。ここを見抜きます、、すると何の感情も湧いてこない、、

失礼な宝とは会わないだけ

もしも失礼な人間(宝)が現れたら、、次はもう会わなければいいのです、、、そしてそれでも会いに来るようならば警察(宝の表現)に通報すれば終わり、、、宝のたから活動に感情を沸かす必要がないのです、、、するとどうなるか、、、この世が天国になります、、、静寂になります、、プレッシャーが抜けます、、、、この体から湧いてくる行動、言葉、思考も全て宝の表現です、、変な感情(宝の表現)が湧いてきても無視すればいい、、、そのぐらいで宝は何も失わない、、、

私が他人と会う時

見かけ上の他人

見かけ上の「私」が見かけ上の「他人」と会う時に何をするか、、、その「相手」をあらゆるイメージを当てはめレイヤーを乗せていきます、、、この人は「性格が悪いタイプ」「相手を見た目で選ぶタイプ」「上昇志向タイプ」「お金に細かいタイプ」。。。私が覚えた言葉(イメージ)のどれがこの人に当てはまるかを確認していきます。。。そして5分も話せば、、その相手はその相手そのものではなく、、私の「イメージ」に変わってしまうのです。。これが人間関係です。

それぞれが「イメージ」を作り上げる

あの人は「男」で「収入が普通」で「性格は怒りっぽく」「幼稚」で、、、と全部が全部イメージとなります、、、そしてその「相手」すらもイメージですから、、イメージが何十層ににもなっただけなのです。。結婚とはこのイメージとの約束です、、、結婚し、、「私」というイメージが考える「相手」のイメージとのズレが生じた時に離婚になります。

イメージとイメージの出会い

本当は存在はイメージではないので、、イメージに焦点を当てて居ると苦しみが湧いてきます、、、つまりイメージとイメージの人間関係は疲れるのです、、、「私」というのもイメージでありこの「私」のコミュニケーションは基本疲れるのです、、、、、ですが「私」は同時に孤独な存在でもあり、、疲れるけども人に会わざるをえない存在でもあります。。。ですからどこまでいっても苦しいのです。「私」というのがイメージであることを見抜き、、苦しみの根本を壊す必要があります。

個人を消滅させるメッセージ

個人という概念を消滅させる面白さ

個人という概念、感覚を消滅させることに興味がでる、、、これって実は凄いことです、、、例えばTV番組で悟りに関する番組が全くないのは、、これに興味が起こることが非常に稀であるからです、、、悟りの本を片っ端から読みふける、、、この衝動が起きているのが凄いんです、、、自我の収縮エネルギーと悟りのメッセージは真逆のベクトル、、、収縮とは自我であり、、解放とは悟りです。。

個人が悟りを避ける理由

個人は自分が居なくなってしまう状況を想像するだけで怖くなります、、なぜならばそれは死ぬことと同じだからです、、、死ぬのが怖いようにこの個人の終焉も非常に怖いのです、、、、ですがそれこそが大勘違いで、、、体の死も、、個人に終焉も、、どちらも「在る」という感覚とは全く関係がない、、この「在る」という絶対的感覚が如実になることであり、、、むしろ「在る」が強烈になることで究極の癒しが起きるのです。

そうか「在る」を求めてたんだ、、、

生まれてこの方、、ずっと一緒にいた存在、、「在る」という意識、、、、何をしていても何を感じても、、TVを観ても、、、小説を読んでいても、、、、「在る」というこの感覚だけは絶対に失ったことがなかった、、、「意識」と表現してもいいでしょう、、、この「在る」「意識」この中であらゆることがただ起きていただけだったんです、、、この中でこの体が現れ、、思考も現れ、、感情も現れ、、、お金が現れ、、友人が現れ、、、言葉の意味が現れ、、、、この私が体の中に居るという思考が現れ、、、ていただけ、、、自分が求めていたのって、、、、この「在る」「意識」だった、、、、というか最初から全く隠れずに、、ここにあった、、、私というイメージが、、究極の幸福を求める旅にいる、、、というやはり概念、イメージが湧いていただけだった、、そして最後にたどり着いたの究極の幸福は、、、この「在る」「意識」だった、、、私だと勘違いしていた存在はこの存在だったんだ、、、