意識

物質も精神も幻想

物質も精神も同じ

物質は常に移ろい変化していきます、精神もこれと同じ常に揺れ動き変化していきます。この二つは全く異なるようでいて移ろうという意味では全く同じなのです。そしてこの移ろうものは固定化されて確かなものではないのですから完全に幻想です。そしてこの物質、精神という幻想に気づくことができるのは幻想ではありえないわけですから我々の本質は自我という幻想ではなく、、絶対、根源であることが見えてきます。つまり移り変わらない完全な存在なのです。

移り変わるようでは絶対ではない

絶対には変化がありません、絶対はそのままで絶対であり、、そのままで無限でありそこには変化は起きようがない。なぜならば絶対に変化が起きてしまったら、、この幻想界、現象界の出来事に気づくことができないからです。つまり先ずは絶対的な存在があり、、その鏡の中に映る絶対の現れ、無限の顕現化があり、、それにただ気づくが起きているわけです。この気づくも絶対の中では起きておらず、、気づくは絶対の外で起きます。この気づく存在を神、真我、気づきの意識と呼びます。

色と空は最初から一つ

空があって色は次に現れたのではありません、、、最初からこの二つは同時に現れました、、空には時間など存在しませんから、、色即是空、空即是色がある。、、これで終わりです。そして空が延々であり、色が永遠であり、、気づくが延々に起き続けるのです。空の中には変化は一切起きず、、色は無限の現れとして変化が起き続ける、、そこに気づくという現象が起き続けるのです。空の中に最初から色があったのです。

お互いが目覚めるために存在する

幻想の意味

真実はたった一つです、この真実にたどり着くために全幻想が存在します、、苦手な相手、結婚相手、友人、子供、親、、、全ての幻想がこの真実に導くために存在しているのです。ですから人間関係は常に苦しみが伴うのです、悟りが開かれる、目覚めが起きるまでこれはエンドレスに続くのです。マトリックスの映画に出てくるエージェントスミスはまさにこの役、主人公のネオが覚醒するまで誕生し続けていきます。つまりエージェントスミスは覚醒の最大の味方でもあるのです。

悟りが開かれるまで、、

この苦しみは、、悟りが開かれるまでエンドレスに続きます、成功を治めても、大金を得ても、名声を得ても、安定を得ても、、、確実に苦しみが終わることがないのです。それは大いなる勘違いをしているがためにです。大いなる勘違いはこの幻想の世界で食べていくには有利ですが同時に苦しみを生み出すのです。ということでこの苦しみを解消するには悟る以外にないのです。

悟りに興味が出たら

悟りに興味が出始めたならばそれは大きなチャンスです、、仕事、友人関係、などの物質的、精神的満足を追いかけても一切幸福になれないことに気づけたならば、、、本気で悟りに意識が向かうことになります。ですがこれは誰しもに起こることでは絶対になくだからこそこれはチャンスなのです。そしてそうなったらこっちのもの、仕事、友人関係、地位や名声などのために頑張るなど辞めてしまってただひたすらに悟りを追い求めます。そして追い求める存在自体が実は存在していないという気づきが起こるまでこれを続けます。

分離しているという感覚に気づく

本当は分離はない

本当は分離していないにも関わらずなぜ我々は確実に分離意識を持っているのでしょうか??それはこの分離意識に気づくことができるからです。分離しているなーという感覚を気づくことができているからです。全現象、全思考、全感情はその場で気づかれているからこそ存在します。そしてその気づきは、完全なる無、無限の無が存在するからこそ気づかれるのです。

絶対の中に鏡が現れる

我々の本質は絶対です、無限です、、この無限が存在を認識したいがために鏡を作り出し、、自身の存在に気づくということをやっています。主人公は無限大であるゆえに、、、無限大の現象が起き続けるのがこの世です、、そしてその現象はそのまま気づかれていきます。無限大の鏡がこの現象界ですから現象は無限に起こり続けます。例えば今降った雨はこれまでの雨とは間違いなく異なります、全く同じ雨は今後も一切現象化しません。

同じ音楽を聴いても

全く同じ音楽を聴いたとしても、、昨日聞いた音楽と今日では絶対的に何かが異なります。耳という存在は毎日のように老化しますから聞こえ方が確実に変わっていきます。全現象を知覚する体が昨日とは絶対的に異なるということです。現象も変わり続け知覚するこの体も変化し続けますから同じ経験はありえないということです。これぞこの現象界が無限の鏡である証拠です。無限の経験に気づくことで、自身の本質が無限、空であるという気づきを得ます。

退屈に責任を取る

退屈がスタート

あれ????なんか暇だ、、、なんか退屈だ、、、なんかつまらない、、、、いつの間にか人間はこの退屈地獄に入り込みます、、、なんだかしらないが退屈、、、、これが普通でしょう、、、、ではなぜ?????退屈なのか????簡単です、、、この世界、、この無限の世界を感じる力が落ちたのです、、、ただ感受性が落ちたのです、、、それだけです、、、、

退屈ゆえに思考にふける

退屈だから、、思考にふけり、、、嗜好品にふけり、、、TVにふけり、、、スマホにふけるのです、、、全ては退屈がスタートです、、、退屈しのぎに、、、思考を利用するのです、、、、ですがこれは全て現実逃避、感受性逃避、、五感逃避です、、、これでは、、、益々現実は退屈になります、、、、

五感を開く

退屈故に、、退屈逃避をしていただけだった、、、、ただこの場所、、いまここが退屈だから、、、、何か夢中になれること、、何か意識を集中できることを探しているだけ、、、、これではいつまで経っても同じこと、、、いい加減、、、退屈と真っ向勝負をしなくてはならない、、、、、、そうです、、いまこの場所が大満足にならなくてはならない、、、今この場所に、、、ただ居るだけで、、、、大満足、、大充実、、、にする、、、五感を開いて、、、、五感を開く習慣を持つ、、、ただそれだけ。

退屈は五感が作る

五感が鈍れば、、、

五感が鈍れば、、全てが退屈に感じます、、何を観ても、、、感動が起きない、、、何を体験しても感動しない、、全部が全部予想通り、、、全部が全部想定内、、、、つまらない、、退屈、、、どうせこんなん、、、がエンドレスに続きます、、、、実際には実は五感が鈍り、、、思考が廻り、、、負のループを回っているだけです、、、、

体を開いていく

体を物理的に緩めていきます、、、体を物理的に浄化していきます、、、、、、見える世界が変わります、、新鮮さが出現します、、、感動が起きます、、、、なぜ???五感が鋭敏になっているからです、、、感動を感じるほどに五感が開いたからです、、、、チャクラが解放し、、経絡が開いているからです、、、、体に溜め込んだ感情というエネルギーが成仏しているからです、、、思考の無駄な回転が止まります。

真実に迫る

真実はこうです、、、全てが全自動、全反射、全無意識に、、起こります、、思考も感情も行動も全部が全部自動です、、これを感じれるまで体を開いていきます、、、この真実を体感でもって感じた時が悟りです、、、あ、、本当だ、、、全部自動で動いている、、、本当に何一つ、、、自分なんて存在は関与していない、、、ただ起こりが起こっているだけだ、、、、が理解できます、、体験できます。

体は全部分かっている

大きなことはしない

体を休める、ストレッチをする、、マッサージをする、、塩風呂に入る、、、、どんなことでもいいのです、、、体を解放していきます、、大きなノルマを作って急激に変えようとしるのではなく、、、徐々に徐々に解放していきます、、、、、個人が好きな方法で合った方法で、、、行っていけばいいのです。

五感が鈍れば思考が飛び出す

五感が鈍り始めますと、、、、思考が湧きます、、、思考が退屈を解消しようとします、、、、ですがこれに乗ってはいけない、、、やばい!!!五感が鈍っているな、、、、と体に意識を向けるのです、、、変な思考が湧く時は、、、体の五感が鈍り始めています、、、、思考に逃げない、、、体に向かいます、、、五感が解放されればされるほどに、、、、幸福度がハッキりと高まります、、、

五感VS思考、、ではない

五感が鈍くなり、、、、退屈になると、、、思考が飛び出す、、、つまり思考は、、、、体のセイフティーネットです、、、、セイフティーネットに甘えないことです、、、、思考は退屈凌ぎの覚醒剤ですから、、そこに甘えてはいけない、、、あ、、やばい!!!五感が鈍っている、、、で体に戻るのです、、、、体の五感を開いていきます。

小我とはブレーキ、大我がアクセル

ブレーキを解体する

子供が大人になる過程においては、、、自身を守るという意識がどうしても必要になります、、、財布を持ってお店に入れば、、、財布を盗まれないように、、、「自分の財布」という意識が必要になります、、これが自我形成の目的です。守る、守る、守る、、、、車でいえばこれはブレーキ、、、ブレーキが無くては車は直ぐに壊れるのです。。。。ですがこのブレーキばかりを踏んでいますと、、、車が全く前に進まないという状況になります、、、これが苦しみです、、、、何かをスタートしようとしても、、、ブレーキが直ぐに踏まれていまう、、、人生が退屈の局地になっていきます。

頑張るが、、、、ブレーキから起こる

よし毎日、、ランニングしよう、、、、これがブレーキ(小我)から起こります、、、ブレーキがランニングをするのですから、、、何も何も進んでいる気がしない、、、、そうです、、、、見た目は進んでいても何も起きていない、、、ブレーキですから、、、、、ではアクセルである大我を働かせて、、、、無理です、、、ブレーキがかかってしまっているからです、、、

大我(アクセル)はいつでも踏まれている

アクセルは常に常に踏まれているのです、、、全員がこのアクセルの中にいますから、、、アクセルは実は全開なのです、、、ただブレーキが踏まれてしまっている人が多い、、、だからこのブレーキを剥がすだけでいい、、、ではどうしたらいいか????体の緊張を物理的に解体するのです、、筋肉を解してしまう、、、筋肉という緊張、、収縮したエレルギーを物理的に解放するのです、、これが完全にブレーキです、、ブレーキの物理的現象です、、、この現象をそのままで解放します、、小我というブレーキが効かなくなる、、小我というブレーキが忘れさられる、、、、大我(アクセル)全開になっていきます。

分かった

誰も彼もいない

全部が全部自動反応ということは、、、自己というものが完全に皆無な状態でただ何かが起き続けています、、、ただの反応ですからそこには何の意味もなく、、、海の中で何かドラマがあるように見えているだけ、、、魚が海藻を食べ、、その魚を大魚が食べ、、その大魚をアザラシが食べ、、、があったとしても本当はそこには名前はありませんから、、、そう見えているだけ、、、自己という存在無しに完全に動きがあるだけです、、そして厳密には動くというよりも、、、変化があるだけ、、、だから時間も全く存在しません。

自己という活動が起きている

自己意識という活動だけがあり、、、それ以外は何もありません、、、本当は強い意識という実在はありませんからそのような活動が幻想として起きます、、、真実は、、、ただ変化があるだけです、、、そして経験と、、、自己意志というのは本来一緒にはできませんから、、、、ただ感じる感覚だけが起こり続け、、ただ自分がいるという思考が起こり続けます、、、本当にこれだけが起きています。

私が居るという思考が起き続ける

何かを食べている時に、、、自分という存在を感じることはできません、、舌がスープに触れた瞬間、、味覚が広がります、、この時点では自分は居ない、、その後「私が食べた」という思考が湧く、、、ただそれだけ、、、本当は感じるという経験しか起きていない、、、この体は感じるマシーン、、そしてこの体は確実に幻想です、、、この体という幻想が、、、ただ感じるを起こし続ける、、、本当にそれだけです。

でも幸せ

自分が居ないならば、、、幸せになれないのでは???虚しいのでは?????大間違いです、、、自分が居るから虚しいのです、、、自分が居ないにも関わらず「居る」と思うから、虚構が生まれ、、、虚しい世界が誕生します。我々人類は言葉を発明したことで、、、想像という行為を覚え、、、想像=虚構を作り出したのです、、この世界の住人である虚構が生まれ、、、虚の世界、、、虚しい世界に住むことになったのです。

何をすればいいのか????

言葉が作り出した世界が、、虚構であることを完全に見抜くことです、、、言葉は虚構を作り出す道具に過ぎないことを見抜くことです、、、すると世界から深刻さが消えます、、、みんな深刻に深刻にこの世界を捉えていますが、、、この捉えるという思考の活動こそが虚しさの原因です、、、本当は真実しかここにはなく、、真実は静寂、生命、平和でしかありません、、、、この土台の上に今まさに言葉で作った虚構の世界をでっちあげ、、、虚しい虚しいと嘆いているのです。。。。

思考と戯れる

いつでも思考していたい

思考とは妄想です、、思考とはファンタジーです、、、多くの方は目の前の現実(これも幻想)を使って体験ゲームをするよりも、、、思考というファンタジーに逃げ込み、、思考と遊びます、、、妄想のなかでさらに妄想をするという遊びをします。。。。。ディズニーランドに行ってスマホゲームに戯れています、、、山に遊びに行ってスマホゲームをしています、、、、今目の前に完璧な幻想が広がっているにも関わらず、、その中で思考というスマホにハマっているのです。

体の感覚を研ぎ澄ましていく

ストッレッチ、ヨガなどで体の感覚を研ぎ澄ませていきますと、、、現実(幻想)を感じる力が増えていきます、、思考しているよりも、、、体験が面白くなっていきます、、、思考に溺れるよりも、、体験自体に面白さが増していきます、、、ただ歩くだけで面白い、、、が湧いてきます、、、、感じるという本当のゲームが、、、楽しいということを思い出すのです。

思考、感情のトリック

思考、感情と戯れるのは面白ものです!!!なぜならば、、、自分で作っていないから、、、自分で作っていないからこそ、、、何が湧いてくるか分からない、、、、だから面白いのです、、、、ですが、、、これは何度もお伝えしますが、、、妄想、幻想という現実の中で、、、さらなるファンタジーを作り上げているのです、、それが思考の力です。。。

思考というドラッグ

ドラッグとは、、夢の世界に居るような錯覚をさせてくれる毒です、、、思考とはドラッグのようなもの、、、思考に意識を向けるとファンタジーを作れるドラッグです、、、このドラッグに溺れると、、、思考というファンタジーから抜けれなくなるのです、、、、思考、感情がどれほど辛いものでも、、そこは「渡る世間は鬼ばかり」同様楽しいのです。自分を主人公にした「渡る世間は鬼ばかり」を上映しているのです。

現実(幻想)を楽しむ

この現実こそがディズニーランドです、、、ネバーランドです、、、この現実を遊びつくためには思考というドラッグを一旦横に置いて、、、、思考を相手にしないことをお勧めします、、、勝手に湧いてくる思考、感情を無視していますと、、、ファンタジーが消えます、、、そして、、今目の前に広がる本当のファンタジーを楽しむ力がついてきます、、、、

コンフォートゾーンの崩壊

快適域

個人は、、、コンフォートゾーン、快適域の中で生きます、、、、会社員をやっている、、年収はだいたいこのぐらい、、、快適と思える生活を無意識にしています、、、、私というイメージは、、、、、、慣れ親しんだ空間、生活、友人関係を維持しようとします、、、、脳は、、、生き抜くために、、、快適域を設け、、、、その中で良くも悪くも生きるのです。

個人が居ない

個人が居ないとなりますと、、、、このコンフォートゾーンが崩れます、、、、、快適域に収まる個人が居ないのですから、、、快適域自体が消えてなくなるのです、、、、私というイメージに見合った、、空間、友人、財産、、、全てが消えてなくなります。。。。この時に気づくのです、、、、この快適域は、、、、実は個人という妄想を縛り付けていたのだと、、、この快適域こそが個人を絶対的なものに仕立て上げていました、、、、

あなたってこういう人だよね

〇〇さんってこういう人だよね、、、〇〇さんらしいね、、、これらは全部周囲が認識する、、、、「私」のイメージです、、、、、このイメージが、、、この私というイメージを強化します、、、、、やっぱり「私」ってこういう人なんだ、、、、と。。。。ですが全ては妄想、イメージ、概念です、、、、本当は、、、「私」は居ないんです、、、、、ですから「私」に見合った、ちょうど良い、環境は存在しません、、、、あえていうならば「私」とは見渡す限りの現象全てです、、、生命現象、幻想そのものです、、、、