真実

悟りとは全てが同価値であることの気づき

優先順位がないことの気づき

全ては神羅万象の現れ、この自分、相手も、世界の全てもが神羅万象の現れですから、、、そこに良否、善悪、優劣は絶対にないわけです、、あったらおかしい、、、、全ては同価値、、、、これが真実です。ですがその中で生きる我々は常に優先順位を考え、、、何を優先するかを考えていきています。。。これは間違っているのか???違います、、、、本来は完全なる同価値であることを把握し、、その上で、、、便宜上、機能上優先順位を付ければ苦しくないのです。。。

全ては同価値、、、

これは本当に幸福なことなのです、、全てに価値がるという気づきは幸福です、、、自分だけが価値があり、、それ以外には価値がない、、、これは苦しい、、、悟りとは全肯定、全価値平等、、そこが分かった上で、機能上、、何かを優先して生きていきます。。。本当は全てが同価値であることが分かっている、、、この認識の有無が幸福に大きく影響します。

空に触れる

空に触れる、気づきの意識そのものになる、、、この体感が神羅万象、全てが同価値であることに気づかせます。私は何かに集中する、無我に入ることでこの体感を得ていきました、、、そして人間の全ての行為が神羅万象から、気づきの意識からただ起こっている気づきを得ました、、、この自分という存在ですら神羅万象の動きの一つであるという気づきが起きました、、、これは体感で得ていきます。

自分を雑に扱うことではない

全ては同価値であるのは分かった、、、では自分よりを他人を優先して生きていってもいいんですよね????という疑問が生まれるはずですが、、、自分を大切にしなければ、、先ず生きていくことができません、ですからこれは他者優先主義ではありません。機能としての自身を大切にしていくことになるでしょう、、、とはいえ、、、神羅万象の動きから脱して自分が何かを自由意志で行うことはありませんから、、、そこに介在できる自分が居ないというのが答えです。

陰謀論について

現象として起きる可能性がある

陰謀論、、、世界には世界を牛耳る裏の存在が居て、、、、とありますが、、、これって真実なのでしょうか????陰謀論というこのアイデアは神羅万象の現れ、現象の現れです、、、これが紛れもなく現れたのです、、、そこは事実です、、、ですがそこに書いていることが現象として現れるかどうかは分かりません、、、現象界で何が起こるかを分かっている誰かはいません、、、これは現象を起こす空すらも分かっていません、、、つまりこの世界で次に何が起こるかを予想できる誰かは居ないのです。

宇宙人も、、、

宇宙人の存在は????これも現象として現れる可能性はあります、、、ですが私の目の前に現れていない限り、、そのままです、、、情報としては現れるかもしれません、、、、目の前に現れるかもしれません、、全ては現象ですからそこにはルールは皆無、先のことは誰にも分かりません、、、重要なことは、、、、そのことと至福にることとは全く関係ないということです、、、、どのような現象が起こっても、、、それが現象に過ぎないことを見抜く以外に価値はないのです。

宇宙人のメッセージには興味ある???

宇宙人のメッセージが人類に役に立つかもしれないじゃないですか????それも現象としてあるかもしれません、、ですがその現象(宇宙人のメッセージ)は現象であって、、、、それを見抜いた上でそのメッセージを楽しむのは何も問題ないでしょう、、、ところがそのメッセージが事実であるという思い込みは注意しなくてはなりません、、、

日本の将来を心配するという杞憂

神羅万象の現れを心配する個人

朝まで生テレビ、、、日本の将来を占う、、、やってますやってます、、、ですがこれらは全くの「無意味」、、、論点が完全に間違っています、、、、起きる現象は全て神羅万象の現れ、、、ここに関われる個人は誰もいません、、、いやそんなことはない、、、優秀な総理大臣が出れば日本は変わるではないか????その通りです、、、神羅万象の現れとしてそのような人物(見かけ上)が現れれば変わりますよね、、、、

そんな他人任せじゃなく、、、

そんな他人任せ、風任せではなく、、、そのような総理大臣を我々が選ばなくてはならないじゃないか、、、、違います、、、それを選ぶことが神羅万象から起きれば選ばれます、、、神羅万象からそれらが選ばれなければ、、それで終わりです。。。。全ては神羅万象次第????その通りです。。ここに関われる我々は存在しません、、、なぜならば我々も神羅万象の現れだからです。

じゃあ、、日本の将来を憂うのに意味はないのか???

ありません、、、日本の将来を憂うということは神羅万象の動きを憂うということになります、、、、神の動き、空の動きを憂うことになります、、、、意味ありますか????神羅万象はそれだけで完璧であり、完全、、この動きが不完全であるわけがなく、、、、神羅万象の動きに不平不満を言うのは、、、その動きを観察する「個人」がそのように見ているからです、、、事実、真実ではなく、、、、脳が見る世界を見せられているのです。

個人にはいつまで経っても神羅万象が完璧には見えない

個人の観点からはこの神羅万象の動きは完璧には見えません、、、常に問題、問題、問題ばかり、、、そうではなく完璧な神羅万象が完璧に見えないことが問題なのです、、、、、ではそうしたら完璧な神羅万象を見ることができるのか????それは神羅万象そのものであることに気づくことです、、個人ではなく、、神羅万象そのものであったことに気づくのです。事実、真実に気づき、、、脳のカラクリから脱却することです。

「ば・か・や・ろ・う」に反応するって??

ばかやろうは、、、ただの音の並び

ばかやろう、、こんな言葉を会話中に向けられれば誰でも頭に来ますよね、、ですがよーく考えてみてください、、ば・か・や・ろ・う、、、これってただの音の組み合わせ、並びです。。???ここに人は意味が込められていると信じるから、、、怒りがこみ上げてくるのです、、だってそれはそうだろう先方はそういう意味で使った言葉だから当たり前では???違うんです、、先方からは実はただ現象として気づきの意識から湧き上がっただけなのです、そこに意味を込めた相手の人格は無いのです。

ばかやろうも、、ただの生命現象

ばかやろう、、という音の並びが、、、ただの生命現象、、これが真実、事実です。え???じゃあそこには意味はないのか???ないです。。。。じゃあ会話自体が完全に意味がないではないか???そうです、、、相手の発言に意味があると信じて行う遊びが会話です。ということでこちらが「ばかやろう」と先方に放てば相手は怒るでしょう。

いつまでこのゲームにハマっていますか???

相手の言葉に実は意味がないならば、、、コミュニケーションには意味がないでしょう、、そうです、、ただの生命現象である言葉に意味は全くないのです。。じゃあ今後何を目的に会話をすればいいのか???そういう遊びとして会話をすればいいのです、、、逆に言えば相手の言葉に深刻になる必要がないということです。だってただの生命現象です、花、植物、木々、と同じです、、そこに意味がないのです。

真実を知るか、何かを信じるか

何かを信じなくてはならない理由

この人の言うことを信じる、、この教団を信じる、経験を信じる、、これは事実を知らない人が何かを信じるというパターンです。事実は信じるものではありません、、事実とは真実そのものです。では何かを信じることに意味はないのか???そんなことはありません、、その人の人生ストーリーにおいて何かを信じることが重要な時期があるだけです。ですが真実知ればそれは終わります、、信じるという個人が何かにすがるという構造が終わるのです。

真実は信じるのではなく気づくもの

私はこれが犬であることを信じる、、、そんな言葉はありませんね、、事実とは事実です、信じるものではないのです。事実を知ると今までの信念が消えていきます、、今までの思い込みが消えていきます、、、実はこの信念こそが自身のストーリーを重くしていたことにも気づきます。信念の人生に疲れてきたら事実に向き合うことです。事実はどこにも隠れずにいつでも我々の前に鎮座しています。

何かを信じるという個人のプロセス

この世にこの自分という分別された存在が居るという大前提は非常に寂しい、孤独、心細いものです、、ですから多くの方は何かに常にすがりたいのです、これは当たり前のこと、、、だからこそ無頓着に何かにスガっている人を見ると人は脅威を覚えるのです、、なぜならばこの心境が痛いほどに分かるからです。何かを信じて生きていなければ心が破滅してしまいます。ですが事実を知るとその脅威が無くなります、事実を知れば孤独も錯覚であったことに気づきます。事実は信念を木っ端微塵に燃やします。

分離に生きるのではなく分離の視点で生きる

分離そのものではなく

私たちは分離の世界にのめり込み、、本当に分離していると信じ切って生活していますが、、、本当は分離はなく、、分離の視点があるだけです。ワンネス、大いなる一つ、空そのものであることが真実でそこに分離を作り出したのはこの見かけ上の脳です、脳が名前を記憶することで、、、記憶された現象がボコっと便利しているように見えるのです。この見えるというのが最重要で、実際には一つです。

一つだった

一つだったが腹落ちしますと景色が輝き始めます、、音楽は天国の音色を奏でるようになります、人の中の無邪気が見えます、、、これは子供が世界を眺めている時の状態です。これが大人になってから戻るのです、、、何もしていないのに幸せ、、できればこのまま、、だけでいい。肩にのしかかる重荷は消え失せ、こなさなきゃいけない課題も消えます、、、、本当はないことを知っています。

分離視点で片付ける

ということで本当は一つです、、それが分かると焦ることができない、、、ただこの体(見かけ上)を通して起こる言動をこなすのみです。成否は全部全体任せ、気づき任せ、神任せです。それを判断する自分も実は居ない、、仏教では他力本願という言葉がありますが自力本願が不可能だということです、自力の自とは全体、気づきの存在、大いなる一つなのですから。あくまでも作り上げられた分離視点で淡々と片付けるのみです。

サレンダーの本当の意味に気づく

降参とは粋な表現

降参という言葉、、、今となっては本当に素晴らしい表現だと気づきます、、スピを学び始めた際にも、悟りを学び始めた際にも、、言葉では理解できるのではどうしても腹落ちしない、、、でもここに何か真実があることだけは分かっていました、、、今はハッキリと分かります、、、究極の脱力、、これを求めていたんだなと、、自我の完敗、乾杯です。

それを言ったらお終いよ

結局何が苦しかったかと言えば、、、一度でも自分の力で何か良い結果を出してしまったことだったんです、、結局自分の努力で何かを勝ち取った、、自分のアイデアで楽ができた、、、自分の発送でお得感を感じれた、、、こんな小さな小さな勘違いが大勘違いを生み出し苦しんでただけだったのです。自分が居て、その自分には自由意志があり、、のゲームに上手く乗せられていただけだったのです。それが「自分も自由意志もない」、、、と覚者全員が宣えば、、、それだけは言っちゃいけない、、言ってほしく無かった、、

あれ???ちょいちょい出てくる自由意志がない、、発言、、、

大和田菜穂さんの動画を見ていると、、ちょいちょい自由意志がないって言っているような、、金森さんの動画を聞いても、、、溝口あやかさんの動画を聞いても、、アジャシャンティの本を読んでいても、、、あれ、、、なんかちょいちょい出てくるぞ、、、まーそこは気にしないでおこう、、、でも気になる、、、、そしてどこかでハッキリと、、、「自由意志はない」を言い切る人も、、、もう諦めよう、、、、が見かけ上の私に起きました。

全価値観は真実の前で砕け散る

平均的幸福を目指しても、、

平均的幸福だけを求めて生きてきたにも関わらず突然の末期癌宣告、、成功だけを夢見てガムシャラに走り抜けていたら突然の末期癌宣告、子供のために全部を費やして生きよう、、子供が末期癌宣告、、、何に価値をフォーカスしてもこの事実の世界、真実の世界では簡単に壊されます。では我々は何を大事に生きればいいのでしょうか???真実を知ることです、、真実をしることに重きを置くのです。

私も私の人生も思い込み

私というのは後天的に学んだアイデアです、、私の人生も後天的に学んだアイデアです、、アイデアであって事実、真実ではないのです、、、真実ではないにも関わらずこれをどうやって幸福にする方法があるのでしょうか???幸不幸すらも思い込みですから、、解決のしようがないのです。無いものをあると信じて生きているだけ、、、もしも私に出来ることがあるならば、、、真実をお伝えすることだけです。

私も私の人生も実はなかった

子供のために全てを費やしてきたにも関わらず子供が末期癌に、、、、だから不幸のどん底に落とされました、、違います、、、元々苦しかったのです、、苦しいを解決するために子供に夢を預けたのです、、、その子供が末期癌になることで、、元々苦しかったことを思い出したのです。だから不幸のドン底と感じるのです。そうではなく、、、私も私の人生も実が幻想で、、ゆえに苦しいのだという事実と向かいあうことです。すると苦しみの根本が薄れていきます、、今まで中途半端に隠し巧妙に逃げていたから苦しかったのが分かります、肌感覚で。

反省も、、、執着

いつも反省ばかりしている、、、

いつも反省ばかりしていて、、、人生が苦しい、、、なかなか自分の思い通りに行動できなくて、、、それで反省ばかりしている、、、、ここには大きな勘違いがあります、、、「自分で決めて動くことなど全体にできない」ということです、、我々は全部全体からの起こりをこの体を通じて表現しているだけです、見かけ上。反省するということはハッキリと「自由意思」があると信じ切っています、ですがありません「自由意思」は、、そしてこの体の中に居るはずの「自分」も居ません、本当は。ですから「自分の言動を反省する」というのは不可能なのです。

自我は反省すらも自我存続の道具にする

反省は自我の延命戦略です、、、反省のするのは誰か『自分』です。。自分を強烈に意識する行為「反省」です、、、大いなる意識が「自分」を意識するのです、、反省によって、、、すると自分は延命されます、、、、毎日毎日反省して、、大いなる意識に「自分」を意識させるのです。これが反省できなくなるとどうでしょう、、大いなる意識は「自分」を意識できません、、、自分が途端に居なくなってしまいます。

こんなことしちゃって、、あんなことしちゃって、、、

相談では無い、、、友人に「私こんなことしちゃって、、、あんなことしちゃって、、、困っている」これぞ相談風自我存続メソッドです、、、こんなことをしたのは誰、、あんなことをしたのは誰、、、、「自分」です、、、他人を使って自分を強烈に意識できます、、大いなる意識が、、、この自分を意識します、、、、はい、自分延命完了です、、、、いや「あなたは居ないよ」こんな回答を受けようものならば、、、怒り出して「私」は帰るでしょう。ここに色々な真実が隠れています。

悟りに興味が出るだけ奇跡

悟りに興味は起きない

見かけ上の私は、、とんでもない好奇心旺盛な人間で、、興味の湧くことは片っ端から極めていこうとしました、、幼少期は動物、昆虫遊び、、小学生になるとTVゲーム、、中学は受験勉強、、高校はスポーツ、大学は異性関係、就職後は自己実現、、一直線にそれを満たしていきたい、、そう思う人間でした、、、就職後にどうしても仕事が合わず、、かつ次にやりたいこともない、、、ここで八方塞がりに突入しました。この八方塞がりは見かけ上の私の人生史上最大の壁になり、、さすがに現実から逃げたいという欲求が渦まきました、、、結果仏教、善の悟り関連のメッセージに自然と救いを求めるが起きたのです。

趣味は徹底した、努力も徹底した

自己実現の壁に出会った時に、、、なかば諦めの境地が来ました、、、もしかしたら今回は不可能かもしれない、、何もやりたいことがない、、、、参った、、、その時に染み渡ったメッセージが釈迦、禅などの悟りメッセージだったのです、、ですがこの時は本当の意味など分かるわけがなく、、、ただそこに真実があることだけは分かっていました、、。最後はここに行けばいいのだという、、、

自由意志を手放すには

自由意志を手放すのは怖いものです、、、なぜならば自由意志でこの人生は守られていると本気で信じているからです。ですからこれは完全な人体実験が必要になります、、、何も考えず、、何も計画を立てず、、生きてみよう、、、やってみよう、、、すると不思議何も問題なく行動が起きるのです、、、何も準備なくしっかりと行動が起きます、、、え???本当だっ、、、という気づきが起きます。