ゲーム

このブログをカフェで書いてる時

音楽が聞こえる、、、

私は今このブログをカフェで書いています。音楽が聞こえます、この音楽私の耳で聴いているということもできますが気づきの意識が聴いているとも捉えれます。パソコン画面が見えます、これも人間である私が見ていると捉えることもできますが気づきの意識が見ていると捉えることもできます。この体はありますがくPC画面と私の間には体は存在しません、ただ目の前にPC画面だけがあります。気づきの意識がこれを認識します。勿論目をつぶるとPC画面は消えます、真っ暗が見えます。気づきの意識が真っ暗をい認識します。人間としても捉えることはいつでもできますが気づきの意識としても捉えることができます。ブログをタイピングする時にPCに指が触れる感覚を感じます。これを体が感じていると認識することもできますが気づきの意識が感じていると認識することはできます。

マリオを意識しようとしなくてもスーパーマリオはできる

スーパーマリオをプレイする時、全体験をマリオがしていると錯覚してもプレイできますがプレーヤーがやっているという事実でもプレイできます。当たり前の話です。この人間ゲームも同じ、人間のなかに自分が居るという前提でプレイできますが、その前提を壊し全部を気づきの意識が体験していると捉えることができます、本当はこちらです。どこまでも人間の中に自分が居てこの人間をプレイしていると捉えることはできます、ですが全部をこの気づきの意識が経験していると捉えることができます。

マリオがコテンパンにやられて

マリオに五感があるとしましょう、その五感がある状態でクッパにコテンパンにやられた、、、マリオの中に自分がいると錯覚するのは容易にできます。痛いのですから、さらに悔しいという感情が湧いてきたら、、自分の感情と錯覚するマリオを作るのは容易でしょう。ですが本当は全部プレイヤーがやっています。このリアルバージョンが人間ゲームです。人間が感じる痛み、辛さ、苦しさ、悔しさ、、、これを自分の体が体験しているという思想、、、完璧に人間ゲームにどっぷりはまり込み、気づきの意識、プレイヤーは自分がやっていることを忘れます。人間ゲームの凄いところはこの体の中に自分が居ると錯覚を起こしても何一つ矛盾がないことです。

ただ音だけがある

マリオのBGMはマリオが聞いていない

スーパーマリオではBGMが鳴ります、このBGMマリオには五感がある場合マリオは聞くことはできます、ですがマリオが聞かなくてもプレイヤーが聴いています。この自分劇場も同じです、我々には聴覚がありますからお店に入ればBGMが聞こえます、ですが同時にこれをプレイヤー、気づきの意識が聴いています。人間の聴覚としても聞けます、ですが気づきの意識としても聞けます。マリオがキノコを取った時に効果音がなります、この効果音をマリオの耳でも聞けます、ですがプレイヤーとしても聞けます。雨を降ると人間としても私の耳が聞けます、ですが気づきの意識としても聴いています。我々は音楽をきくと体の中の自分が聴いていると認識します、これをただ音楽が流れていると気づきの意識として捉えていきます。この体の中に自分が居るという認識をこうして外していきます。

いつでも「この体の中の自分が経験している」に戻すことはできる、、

スーパーマリオに集中してる時は、クリボーからのダメージも、倒した時の効果音も、スターを手に入れたときの無敵状態も、、、マリオが経験しているかのうように錯覚することができます。ですがこれは全て錯覚です。この人間ゲームも集中している時は全部を人間(自分)が経験しているように認識できます、ですがこれが錯覚です。本当は音楽を全体として聴き、この体が味わうコーヒーも全体が経験しています、食事をすれば人間が美味しいと感じていると錯覚していますが、全体が経験しています。友人と喋ればこの体が楽しんでいるように感じますが全体が感じています。マリオが経験していると認識するのも自由、人間が経験していると認識するのも自由ですがそれは錯覚です。

コンサートに行く

コンサートに行きます、あまりに煩いので耳栓をしました、、、人間として聞こえる音量は下がりました、、ですが同時に気づきの意識が認識する音量も下がります。やっぱりしっかり聴きたいと耳栓を外します、すると人間の耳として聞こえる(錯覚)音量は上がります、ですが気づきの意識が認識する音量も上がります。不味い料理を食べる時鼻をつまむと味覚が半減したようになり食べれます、鼻をつまむと人間として味覚が減る感覚を得ます、ですが同時に気づきの意識として味覚の半減を感じます。全部が全部、人間としてこれを経験するか気づきの意識としてこれを経験するかです。悟りを開くとは「自分が居なくなること」という認識が世間であるかないかは分かりませんが実はこんな簡単なことです。

気づきの意識で観察する

マリオの体感を全て観察していく

スーパーマリオの中でマリオが体感していくことを気づきの意識として体感していきます。マリオがクリボーに出会います。クリポーを発見します、クリボーにぶつかります、痛いという感覚を持ちます、血が出ます、クリボーにジャンプして踏みつけます、足にクリボーの感触があります、クリボーが潰れます、手が痛みます、体温が上昇します、嬉しいという感情が生まれます、よし次に行こうという思考が湧きます、、、気づきの意識として全てを観察する時、マリオという独立した存在は居なくなります。マリオを経験する気づきの意識だけがあります。このように我々の人間活動も同じように気づきの意識として観察していくと体の中の自分が居なくなります。

体の中の自分は経験を自分のものとする思考のこと

気づきの意識で観察するのと一般の人間活動の大きな違いは、、、経験を自分のもの(体)とするかしないか、、、これだけです。実は我々は全経験、全思考、全感情を自分(体)のものとして捉えているだけです、この捉えがなくればマリオを操るプレイヤーに直ぐになれます。主人公が180度変わります。主人公の次元はいつでも変えることができます。

プレイヤー、気づきの意識、全体の視点に戻る

今コーヒーを飲んでいます、コーヒーが口に入ります、苦味を経験します、喉を通ります、冷たさを感じます、安堵感が湧いてきます、、、これを今までは体の中の自分が経験していると認識してきました。これをしません。この経験だけがある、経験を積んでいるのは気づきの意識、ゲームプレイヤーです。またコーヒーを飲みます、コーヒーの香りがします、今度はミルクの味がしました、甘みを感じます、喉を通ります。これを体の中の自分が経験したという認識をしません。ただ経験だけを観察します。主体客体の世界が崩れました、経験だけが湧き続ける世界です。

自分は対象がなくては存在できない

何かを感じ、何かを思考するからこそ自分が居ると錯覚できる

自分が居るから、何かを感じ、何かを思考し、何かをすることができると思っています。ですが実際は逆です、何かを感じ、何かを思考し、何かを実行できるからこそ自分が居るのだと信じているのです。もしも何も感じず、思考もないのならば自分が居ると信じることはできません。対象があって初めて自分はこの世に存在すると信じることができています。主体客体セットで自分は存在できるのです。

五感があって、思考が湧いて、感情が湧いて、この体の中に自分が居るという思考も湧く

この体に五感があって、思考が湧いて、感情が湧いて、それらをこの体の中の自分が所有しているという思考がさらに湧くことでこの自分は存在できています。何かしらの対象があることでこのプロセスは成就します。コップがあって、それをこの体が視覚で確認し、この体が触って確認し、持ち上げて確認し、このコップは美しいという思考が湧いてきてきて、このコップが欲しいという感情が湧き、それらの感覚を所有するのはこの私であるという思考が湧くと、、この自分の存在を信じます。

この自分という存在を絶対的に信じる限り、苦しみは消えない

対象に対する五感プラス思考、プラス感情を通じて自分が居ることに絶対的な自信を持つわけですが、、、この錯覚を信じる限り、、不足感、欠乏感、欠如感が癒えることはありません。自分という存在は全体が作ったゲームであり、そこにのめり込むほどにギャップが生まれ苦しみが湧いてきます。全体がこの小さな体であると錯覚を起こせば不快感が湧くのは当然なのですが、、この分離の世界に一旦のめり込んでしまうとなかなか脱出できません。

私たちは体ではない、、では何か?

答えはいつもシンプル

この自分劇場、この体の中に自分が居る、、、この大前提は非常に強固で革新に満ち素晴らしいアイデアです。体が動けば五感もあるし思考も感情も湧いてくる、、、だからこの体の中に自分が居るのは当たり前。ただもしもこの体の中に自分が居ないとしたら、、どこに居るのか???ということです。自分、自我それについてもしっかりとした打開策、代替案を持っています。そうです、自分は体の周りを囲っているという理論です。オーラという表現をする人もいます。ですがもしもそれも違う、、、となったならば自分はどこに居るのでしょうか?全部ということになります、視界入る全部が真の存在ということになります。

体の中に自分が居ないなら全部

自分が居るという感覚に絶対的に自信があるから、もしも体の中に居ないならば外にいる、、、この理論が生まれます。そして死んだならばこの自分はどこに行くのか?という理論に発展するのも当然なんです。スピリチュアルにハマったきっかけも江原さんが死後の霊とダイレクトに会話をしているのを見たからであり、そこに何の疑いを持ちませんでした。ですが今は分かります、自分が居るというこの感覚は絶妙な条件が合わさっての錯覚であるということが。五感、思考、感情、、これらが湧いてくるからこそこの絶対的な感覚に自信を持てるのです。マリオに五感が発達し、さらに思考、感情、この体の中に自分が居るという思考が湧き続けたら、、、マリオに自我が芽生えます。覚者が人間に対し「安心して苦しめ」と言うのはこのような理由からです。

マリオに五感と思考、感情を与えてみる

マリオがクッパと戦う時に痛み、苦しさ、戦略を考える思考、そしてその感覚を自分のものだという思考を与えたらどうなるか、、、間違いなく自分が居るという感覚を持てるはずです。マリオ自身が痛みを感じそれを自分のモノとする思考があれば間違いなく自分がクッパと戦っていると思えるはずです。この自分がマリオという感覚はゲームケイレイターの望みです。本当は自分はマリオであるという認識はゲームクリエイターが認識しているのですが、、、要はゲームクリエイターがマリオになり切るという遊びをしているのです。それが我々人間です。

自我が芽生えたマリオはそう簡単には死ななくなる

もしもマリオに自我が芽生えた自分がこのゲームをやっていると勘違いしたらどうなるか?そう簡単には死ななくなります、死なないために恐ろしく慎重になるでしょう。一個の壁越えジャンプでも何度もシュミレーションしてから行うはずです。クッパと戦う時などはデータを集めて対クッパ、シュミレーションを完璧にするどころか寝首を斯くという奇策に走るかもしれません。もしくは賄賂を渡して穏便に済ませるという方法も取るかもです。こんなことは当たり前にやります。これって人間の行動のことです。人間がマリオですらも簡単に騙せるのですから全体、神が人間を騙すのなど屁の河童なのです。

さあ自分を卒業しよう

自分とは人間ゲームの表面

ドラゴンクエスト3というゲームがありこれには表面と裏面が存在します。表面をクリアするとまさかの裏面に突入という流れです。私はこの人間ゲームの表面こそが「この体に自分が居る」という設定ゲームだと思います。そしてそこを見破り次第、次のゲームに裏面に突入すると。表面は非常にエキサイティングです、なぜならばこんな小さくて卑小で極弱な体の中に自分が居るという史上最低の初期設定だからです。勿論この体の中に自分が居ないということが分かってもこの体がパワーアップすることは絶対にありません。ですが少なくとも深刻さが消えます、マリオを自分と思っていた自分がマリアは自分ではないと気づく気軽さです。

裏面は「経験はあるが自分はいない」

この体の中に自分は居ないという気づきが起きても当然経験は続きます。朝起きてコーヒーを飲めば美味しいと感じるし、運動をすればスッキリします。人とコミュニケーションを取れば喜怒哀楽全部起こります。ですがそれを所有する個人が居ないという点が全く異なります。経験、感情、思考だけが起こり続けます、そしてそれを所有する個人が消えています。この体に向けてあらゆる人がアプローチをかけてきてもそれはこの体に向けてのこと、それだけです。個人としてそれを所有しないのですから周囲からすれば飄々と生きているようには見えるはずです。多くの方は全てを自分ごととして捉え重くなっているのです。

自分ごとと捉えないのは無責任?!

全ての出来事、感情、思考を自分ごとと捉えないわけですから無責任に映ることもあるでしょう。もっと深刻に悩むべきだ、もっと熟慮を重ねて行動すべきだ、、、と。ですが実際には、、自分ごとと捉えないことで頭脳を常にリラックスさせておくことができますから頭脳が明晰になっていきます。この体に起こる問題に対して迅速に明瞭に処理していくことができるのです。無責任どころか積極的解決に向かいます。

地動説以来の大発明「自分が錯覚」

自分が錯覚であることに気づいたら二度と戻らない。。。

自分が錯覚である、この感覚の気づきは、、天動説が地動説に切り替わった時の人類の驚きと同じです。そもそも地球は平坦で、その周りを宇宙が回っていると真剣に信じ込んできました、研究者が実は地球こそが太陽の周りを回っていると唱えても変人扱い、病気扱いをされたモノです。今回の提案、実は自分とは錯覚であるというアイデアはその当時と全く同じ扱いを受けます。この体の中に自分が居るというのは思考のアイデアです。思考と記憶が作り出した画期的なアイデアです。

人間同士は自分の存在を共有し続ける

天動説が人間にとって当たり前の定説だった時、それに異を唱える動物は皆無でした。人間だけが人間同士で勝手にそう思いこんでいただけです。人間全員がそう信じればそれに異を唱えるのは誰もいないのです。今回の自分錯覚説も全く同じです、人口の99。999パーセントがそう信じていれば先ずこの理論が覆されることはないでしょう。もしも自分錯覚説に気づいた者が現実的に目の前に現れても病人か変人に扱われて終わりです。

自分というのはアイデア

人間がどれほどのテクノロジーの進化を遂げても体に中に「自分」を発見できることはできません。断言できます。なぜならば自分とは思考と記憶が作り上げたアイデアだからです。この体の中に思考も湧いてくるし、感情も湧いている、そして五感もガッツリ感じている、、、だからこの体の中に自分が居るというアイデア、理論です。この体無しに思考も感情も湧かないではないか!その証拠に熟睡中は何も湧いていない!ということです。ですが実際は思考、感情が湧いた時にこの体の中に湧いたのだと信じ込んでいるだけです。マリオがゲームの中で味わう辛酸はマリオのものだと言い張るのと同じです。スーパーマリオの中で辛酸を味わっているのはマリオではなくプレイヤーです。

文春砲よりも強烈な自分砲

まさかの自分で自分の幸福を壊す

女優の杏さんと旦那の東出君、東出君の度重なる不倫で結果離婚に至りました。このエピソードは自我のメカニズムを顕著に現しています。東出君は杏さんと結婚する時、まさか自身が不倫をするとは思っていなかったはずです、なぜならばそのようなレベルの人と思ったから結婚したわけです。他によそ見をしたくないほどに魅力があると感じたから結婚したはず。杏さんをもしも他に目を向けてしまうようなレベルであると判断したら危なくて本人も結婚しなかったはずです。ですが現実は違った。東出君を不誠実であるとるメディアの対応は稚拙です。自我とは自分とは不足感発生器であり誰と結婚しようとその事実は絶対に変わりません。

東出君がこの自我のでのメカニズムを理解していなければ

自分、自我とは不足感発生器ですから結婚後もこの不足感は延々と沸き続けます、その際に不足感の原因をどこに向けるか?それがパートナーになるケースは多々あります。もしも彼がその矛先を杏さんに向ければ杏さんの粗探しに、もしくはその不足感を補うために他の女性に向かいます。杏さんに対し何も問題を見つけることができなければ他の女性によってその不足感を補おうとするわけです。彼がもしもギャンブルも、お酒も、ゲームにもその対象を見つけることができなければそれを女性で補おうとするのは当然です。

メディアの対応は常に稚拙

杏さん東出君の事件をどれほど大々的にメディアが取り上げようと夫婦間の問題が今後減ることは絶対にありません。なぜならば人間とは不足感発生器でありこの問題に切り込まない限り人間はこの苦しみから逃れられないからです。不足感をいかに解消するか?そして不足感を生み出すメカニズムを共有することでお互いに切磋琢磨するという姿勢がなければ全ての解決策は対処療法ということになります。もう人間同士、自分同士が罪の擦り付けをし合うのは辞めてもいいかもです。

自分至上最悪の出来事、自殺について

最大のタブーに切り込む

全体から自らが分かれた状態、自分にとって最低最悪の事件が自殺です。自らの命を自らが断つということになります。自身にとっても周囲にとっても最悪な出来事であることは間違いありません。ですがこれを全体の視点に経ってみたらどうなるか?例えば自分の友人が自殺をしたとしましょう、その事実だけを自分が認識する時、友人は大いに苦しみ大いに悩みその決断をしたんだろう、、自分に何かできることはなかったか?自分がもっと優しくしていれば、、、こんな思いが間違いなく湧くでしょう。ですが真実をお伝えすればそれは全体が起こしたただの現象です。自分以外に起きたものは全て全体が起こしたゲーム上の現象です。無礼承知でお伝えすればスーパーマリオに出てくるクッパがゲームの中で死んでしまっただけということになります。クッパが苦しんだという事実はなくただゲーム上でそうなりました、終わり。勿論亡くなった友人の部屋を調べれば苦しみの日記や手紙が出てくるかもしれません、ですがそれも亡くなった後に全体がそれを起こしただけです。失礼承知で続けますがスーパーマリオのゲームにおいて自分はマリオだけ、それ以外は全部ゲーム上の出来事になり他のキャラの自由意志はそこにはありません。

自分は常に周囲の行動に振り回されるが

自分は両親の離婚、両親の死、友人の闘病、友人の投獄、、、、、に常に振り回されます。それがこの自分劇場のデフォルトです。ですが真実をお伝えすればそれらはスーパーマリオゲームでの脇役キャラでの出来事、そこに意味は何もありません。意味があるように確実に見えますが。この辺りはこの自分劇場最終段階のネタバレになってきます。映画の中の「七人の侍」ではもしかしたら次々に仲間が戦いの中で死んでいくかもしれません、ですがそれも映画の中での脇役がただ死んだだけ、、、そう見えるだけ。。。映画ですからそこに意味はないのです。自分は間違いなく居ます、この体の中に錯覚として。ですがこれは全体が自分錯覚を起こしているだけです。友人の死や両親の死を悲しむことはない、、、そんなことを言いたいわけではありません。全体という絶対に失われることがない存在が失うという経験をしたくて起こしたのがこの自分劇場だということです。

ネタバレが腹落ちすると死が怖くなくなる、、、

自分というものが全体から分かれたモノであるということ、実際には分かれることはできず分かれたという錯覚が起こっただけということ。このことが徐々に腹落ちできるようになってきますと死にたいする恐怖心がなくなってきます。これは全体最大のジョークであることが分かってきます。ジョークですがこの人生劇場に真剣に取り組んだ方がオチでしっかりとズッコケることができます。吉本新喜劇でもたまに真剣モードがないと笑いになりません。最初から最後までボケ倒しでは笑いは起きなくなります。一方このブログを書いている自分はこの自分劇場をまだ終わらせたいとは思っていません、ですから死にたくはない。ですがかつての死を恐れる感情はとうの昔に終わりました。特に死んだ後に対する恐怖、どこへ行くのだろう?という漠然とした不安は今はもうないと断言できます。自分というこの全体の錯覚、ジョークが終わり全体に戻るだけです。だからこそこのジョークが継続されるうちはこのジョークを最大限楽しもうと思います。

全体は自分に疲れた時だけ全体に戻る

全体は頻繁に全体に戻っている

自分で居ることは疲れます。自分とは自らを分けると書きますが、これは全体から自らを分けているのです。実際には分けることはできません、全体は一つのエネルギーですから。一つのエネルギーが全体を形成し、その中で諸行無常、様々な形態を表現しています。ということで自分とは全体から分かれているという錯覚(思考)が湧いている状態ということになります。実際に自分活動をしている最中は思考、感情が湧いてくると、、それはこの体、自分の感情であるという思考が同時に湧き、自分というプラットフォームを維持します。これはなかなか骨が折れる仕組みです。そして全体の中から自分として分離し続けている間、全体は狭苦しいこの状況を楽しんでいる一方苦しんでもいます。子供がTVゲームに夢中になっていても2時間ぐらいで力尽きる感覚を想像ください。ということで全体は自分で居ることに頻繁に疲れるためTV,映画、SNS、ネットフリックス、など没頭できること、無心にできることを使って全体に戻ります。その時だけは自分を辞めます。

全体はたまに全体に戻りながら自分を継続する

全体はたまに、もしくは頻繁に全体に戻ることで自分を継続していきます。何かしらの没頭できるアイテムを利用しながら自分を継続します。自分という存在はエキサイティングである一方で大変疲れるのです。とは言え全体はこの自分体験を愛しています、全体が全体のままでは絶対に経験できないことを自分が発見してくれるからです。だからこそ全体は常に自分を大切にしているのです。自分が地獄の苦しみを経験している時ですらも、自分体験を重宝するのです。

自分体験最大の喜びは自分が実は全体だったという気づき

自分体験とはエキサイティングだが疲れるという全体の経験です。この自分体験は喜怒哀楽、七転八倒、あらゆる感情を味わえる全体にとっての最高のエンターテーメントです。映画を5本連続で観ると疲れるようにこの人生ドラマ、自分劇場は楽しいが非常に疲れるわけです。ですがこの映画の最も面白い、最大のクライマックスとは何か?それは自分体験を行なっている全体が実は自分は居ないということに気づくことです。自分はなく全体だけがあったという大オチ、これです。だからこそこのブログは史上最低のネタバラシブログでもあります。勿論このようなブログに興味を持つ人間は既に準備ができているエンディング待ちの人々になります。