自分って「気づきの意織」のことだった。。。

え?????

あなたは何を指して「自分」って呼んでいるんでしょうか?????「僕は太郎ちゃん」って自分のことを呼ぶ時、、何をもって自分なんでしょうか??????「気づきの意織」+「この体」です。実はこの二つをくっ付けた存在を「自分」と呼んでいたのです。「この間違いない存在体」そして「紛れもなく実感できる五感」これを指して「自分」と呼んでいたのです。

紛れもなく実感できる五感

この紛れもなく実感できる感覚「五感」は、、、、体のみでは起こりません。これは、、空から色が現象化される時「起こる」のです。認識はこの次元では起こらず、、そのまま空から直接起こります。この空から直接起こる気づきを「自分」と呼んでいたのです。ですが「自分」という言葉を用いる時その事実は横に置いておかれ「イメージ」が作られています。真実とは別のイメージが作られます、それが「自分」です。

明晰な観察

自分というイメージから解放され、、「気づきの意織」そのものに戻れば、、、全ての現象はイメージを通さず認識されます。というよりも「気づきの意織による気づき」が起こったっ時にさらに起こる、、それを「認識した自分」という思考の立ち上がりが消えます。気づきは気づきそのままに気づかれるのです。すると今までの気づきとは全く違う、、「本当の気づき」「明晰な気づき」がスタートします。気づきの上に乗っかった「モヤ」「霧」「霞」が消えるのです。

自分の解体

「ブログが重要なんです、、ブログがないと生きていけません、なぜならばブログをやらないと食べていけないからです」あなたがそう思い込んでいる時「ブログとはつまり集客用ツールであって、、本当は集客はブログじゃなくてもいいんですよ!!!!」というメッセージに出会えば「ブログ=生きるための必需品」という概念が落ちます。これは「自分」も全く同じ、自分とはつまり「この体と気づきの意織」のことを言うのであってこの体は現れ出る現象であり「気づきの意織」は空から直接現れ出るこれもやはり現象ですよ!!!!!というメッセージに出会えば「自分=全て」という呪縛から解放されます。

気づきの意織は死なない

気づきは死ねません、、気づきは、、、現象ですから死ねません。気づきは空から色が立ち上がるその時「起こる」ものですから空が存在する限り消滅しないのです。だから我々は絶対に死ねないのです。気づきのことを「自分」と呼ぶならば消滅できないのです。そしてもう「気づき」のことを自分と呼ぶ必要もない、、そう信じる必要がなくなりました。人間業界の勘違いに合わせる必要が無くなったのです。

でも体は自分でいいんですよね??????

勿論そうです、、この体には「名前」が便宜上必要であり、、名前がないと社会生活が成り立ちません。ですから自分とはこの体に付けられた「名前」です。そもそも自分とは体に付けられた「名前」でしかなかったはずです。そこに「気づきの意織」も含まれ、、そこから起こる「思考」「感情」も含まれ「自分」と呼んできたのです。だから自分は大切で大切で大切で全部だったんです。でも今それが解体されました、、自分の因数分解が起こったのです。

(Visited 4 times, 1 visits today)