色即是空、空即是色

色が空に気づくことはない

色は空の中に出来た幻影

この体もこの自我もこの思考もこの感情も即座に気づかれるのはここが空の中だからです。空は色に気づくという動きは起きないのですが空の中、幻影の中では気づくが起きます。色とはつまり気づく、気づかれるの世界です。そして空では何も起きていません。空の幻影の中でこれらは起き続けます。空から幻影が起こりその中であらゆる現象が気づかれるわけですから何かが空の存在に気づくというのは不可能です。ですが空の幻影全体が全体に気づくこは可能です。

この自己感覚は

この自己感覚は現象の一つです、この体の中に自分が居るという感覚が気づかれているのです。ですがこの自己感覚は色の現象ですから消えることがあるわけです。その時に、、空の幻影全体に戻るのです。それが悟り、解放。目覚めです。ですがこれは空そのものになるということではなく空の幻影全体に気づく全体に戻っただけなのです。小さい子供はまさにその状態で生きていますから将来不安とは意味不明なんです。

空の幻影全体(色)が

空の幻影全体(色)としての感覚に戻った時に、、寂しいとか苦しいとかあるわけないんですね。そこはもう真の安らぎでしかない、、ただこの体は現象として起こり続け見かけ上あらゆる成功失敗をしますからあらゆる感情は起こり続けます。それは小さな子供が感情豊かなのと同じです。

色は空の中で起きる

投影は絶対の中で起きる

私たちは今どこに居るのでしょうか????たった一つのエネルギーの外でしょうか内でしょうか???たった一つのエネルギーの外にこれがあるならば、、ここはたった一つのエネルギーと分離していることになります。間違いなくここはったったひとつのエネルギーの中にあるはずです。そしてこの幻影、投影、映像はたった一つのエネルギーの中で起こっているのです。

自我が消えた瞬間

なぜ無我夢中で何かに没頭している時、、真の安らぎの中にいれるのでしょうか???なぜ絶対絶命に危機の時に、、真の安らぎの中に入れるのか????それは、、ここがたった一つのエネルギー内だからです。そしてその中に自我という分離感覚を作ることができますと、、「本当は誰だ???」が同時に起こります。なぜならば「この体この思考この感情は私だ」という思考は即座に読み込まれイメージ化されるわけですが、、それは真実とは異なるから、、憤りが生まれます。この憤りを消すためにさらにあらゆる思考が湧き上がっていきます。これが苦しみです。ですがこれらは全てたった一つのエネルギー内で起きているのです。

どんなに孤独でも

どんなに孤独でも、、、今居る場所はたった一つのエネルギー内です。そしてここは真の安らぎが漂う場所です。にも関わらず孤独を感じているのは、もしくは孤独感が起こっているのは「この私」がこの体の中に起きたからに他なりません。人が自殺をこの場所で図るのは、、自我が消えればこの場所(たった一つのエネルギー)に戻れることを知っているからです。まさかのこの場所は絶対安全領域です。

目の前の鳥が消えて居なくなるように

私が消えるかもしれない

目の前に確実に鳥がいます、触ることはできませんが確実にその存在を視覚で確認することができます。ですが突然羽ばたきこの視界から消えてしまいました。確実にあったこの鳥が消えたのです。この世界から。そしてこの「私」確実に感覚として認識しているこの「私」も突然居なくなるかもしれません。この世界で未来永劫残る物は一切なくこの私も例外ではないのです。

音が静寂から現れ静寂に消えていく

何もない静寂から音が現れました、、音が在る、、、これも紛れもない事実でしょう。突然何もないところから突然鳥の鳴き声が聞こえそしてその声は消えていきます。そしてこの「私」も同じです、確実にあるこの私という感覚がある日突然消えてなくなることはあり得るのです。この世界は何もないところから全てが現れているのですから「私」もいずれ必ず無くなるのです。

「私」が居なくなるなんて考えられない

あらゆるものが現れては消えていくこの世界で「この私」だけが残っているのはむしろ不自然なぐらいです、、この世界を見渡せば現れては全ては消えていきますから「私」もこれは例外ではないのは確かです。では「私」が消えてしまったらいったいどうなるのでしょうか????実は「私」はしょっちゅう消えているのです、何かに没頭した時、いきなり転んだ時、料理を夢中で食べている時、、、私という感覚が消えます。そうです私は実は消えては起こるという何も他と変わりのない存在です。

この体がたまたま残っているから

この体がたまたま残っているから、、私という感覚は現れては消えていくを繰り返しているのです。つまり「私」が居なくなることを恐れるのはおかしなことなのです、毎日頻繁に消えているんですから。しょっちゅう消えているのが安定したら常に消えていますよね、、要はそれだけです。「私」とは何もないところから現れ幼少期はたまに現れていましたが大人になるにつれて頻繁に現れるようになり、、それが消えるのです。それは悲劇なのか???悲劇であるはずがないのです、だって世界は現れては消えていく現象しかないのですから。

何もないところから生まれたこの現象が「実物」であるはずがない

空即是色

この世界は何もないところから生み出された世界です、、空、絶対、THE ONEなど言葉はあらゆる表現をしますが言葉では表現できない「何か」からこの現象界(色の世界)は生み出されています。何でもない世界から生み出されたこの見える世界(色)に現れるあらゆる物が実在であるはずがなく、、よってこの世界は「何か」の幻想、アート、投影です。

観察してください

雲を観察してみてください、、上空にあったはずの雲が10分もすれば無くなっていたりしますよね、、あの雲はどこから現れどこに消えたんでしょうか、、、この世界は常にどこかから何かが現れそして消えていきます。全く何もなかったところから何かが現れそして何かに吸い込まれるように消えていくのです。この体の「影」と同じで最初からそれはありますが、、常に変化し留まることを知りません。時に影は消え去ったと思ったら次の瞬間には現れます。

「儚い」ではない

この事実を自我目線では儚いと感じます、ですが逆に言えば、、この現象の全ては「分離」など出来るわけがないので(影を分離できない)現象全部、影全部は私なのです。私の影に間違いないのです。この現象の全て、影の全てを見て、、、ああ、、、私の本質は「空、絶対、THE ONE」なんだなーという気づきが起きます。その時真の平安、静寂、癒しが起きるのです。(色即是空)

「全部が自分」説

自分という概念は嘘

「全部が自分」説、、この言葉には矛盾が含まれています。それは自分という言葉自体が、、、この世界からの分離を表しているからです。自らを分ける=自分です。ですから自分という言葉は適切ではありません、ですが他に表現しようがないので「全部が自分」と表現します。そして見かけ上の覚者は「全部が自分」とは言わないはずです、、どちらかと言えば、、何もなかったが近いように感じます。この世界から自分が抜け落ちる、、という感覚でしょう。

経験しかないぞ

この世界には実は経験しかないんです、、何かが見えるという経験、何かに触れるという経験、、何かを香るという経験、何かが聞こえるという経験、何かを味わうという経験、そして思考を感じる経験、感情を感じる経験です。この何かや思考、感情というのは何かしらに付けた名前でしかないので、、、本当は経験しかありません。では経験とは何か????これを言葉で説明するのは難しいのです。この言葉にできない「経験」、、そして「経験」という言葉も何かにつけた言葉ですから経験という言葉が指し示す「なにか」しかないということです。

「なにか」は確実に在る

言葉にもならない、経験という言葉が指し示す「何か」は絶対にあります。ラーメンを食べれば経験という言葉が指し示す「何か」が確実に起こります。この何かをかき集めたのが「全体」という言葉が指し示す何かです。「経験」「全体」という言葉が指し示す「何か」が我々の本質です。

「経験」「全体」という言葉が指し示す「何か」から現象が生まれまた経験が起こり続ける

ここには「経験」という言葉が指し示す「何か」しかありませんから我々の本質はこの「何か」をかき集めたものです。この「何か」をかき集めたものから常にまたあらゆる現象が目の前で起き続け、、また「経験」という言葉が指し示す「何か」が起こり続けるのです。これが色即是空、空即是色です。これがただひたすらに起こり続けています。

ダイレクトパス

ここには経験しかないぞ!!!!

「この体とこの思考は私だ!」は嘘です。というかこれは想像です。真実ではないんです。なぜならばこの体も思考も実在しないからです。実在しないにも関わらずそれを私とすることはできます。ですが「私」という存在は間違いなく、、ありますよね!!!だって在るって感覚はありますからね、、、この在るって感覚がどこにあるかを突き詰めて、、、我々はこの体この思考が私って決めました。在る!!!のリンク先を体と思考に決めたんですが、、、その嘘を見抜きます。

コーヒーを飲む

目の前のコーヒーカップに入ったコーヒーを飲みます。先ずはそのコーヒーカップが視界に入ります。その時この私(体と思考)は存在しません、、、カップの映像だけです。実際に飲みます、、、この体、手が視界に入ります、、、、、口にします。画像だけあります、手の画像だけあります。香りだけあります、味覚だけあります、触感だけあります。終わり。この経験の中で体が実在しコーヒがー実在する、、、という事実は全くないんです。感覚を集めた経験しかないんです。それと在るという感覚だけです。

経験+在るという感覚だけ

ここには各種経験と在るという感覚しかありません。旅行に行こうと、どんな食事をしても、友人と会話をしても、、、「経験と在る」という感覚以外ないんです。この全てに実在するはずの物質って存在しません。つまりコーヒーカップもこの体も、、、物質として確実に在るって証拠はでてきません。少なくとも実在しているという証拠は出てこないんです。一方経験と在る、、、これだけは100%あります。だからこの世界は幻想だとしても、、経験は100%ありますから、、、、何もないというのもおかしい、、、経験が無限大に有る、、、世界です。逆に言えば経験しかない、、、世界です。何もないところから有るように見える現象が起き、その中で経験だけが積まれ、、、経験を寄せ集めてもやっぱり実在するものは何もなかった、、、です。

現象から大いなる一つを発見する

色即是空

「この体、この思考が自分」この大誤解を抱えながら生きてきたのがこの人生ストーリーです。ですがこの大誤解ストーリーは正直しんどいんです、正直いつまで経っても不安が消えない、孤独が消えないんです。だからもう辞めたいんです。ではこの体、この思考が自分ではないことを現象から説明しましょう。今目の前に観賞植物があります。この観葉植物が自分か自分じゃないか????の説明の前に、、この観葉植物という姿を私が見ているという思考を完全に外して冷静に観察します、、、画像だけがあります、、、よく見てください、、あるのは画像だけです。

私が観葉植物を見ている、、は思考

観葉植物をしっかり見てください、、、「私が観葉植物を見ている」なんて事実は一切わからないんです。だって画像しかないから、、観葉植物の。そこに私なんて居ないんです。次にこの観葉植物に触ってみてください。葉っぱの感覚だけがあります。もっと言えば感覚しかありません。私が観葉植物を触っているなんていう事実は一切ないです。感覚しかないです。私なんて存在しません。次にこの観葉植物の香りを嗅いでみてください。香りのみあります。次に葉っぱを千切って口に入れます、、葉の味がします。それだけ。

何が言いたいか?????

今の一連の動作において、、私が〇〇した、、、、という事実は全くもって証明できないんです。見えた、味がした、香った、触れた、、、という経験しかないんです、、感覚しかないんです、、、そこに「私は、、、、」なんて事実は何もないんです。つまりここには経験しか、感覚しかないんです。感覚だけが存在します。。。感覚だけが真実です。そこには「この体、この思考は自分だ」なんて事実は全くないわけです。どうですか???どこを探しても自分なんてものは登場しないんです。

感覚だけがある

我々の本質は、、この感覚だけです、、感覚だけ寄せ集めて寄せ集めて、、、それが全部です。私とか、自分とか、我々とか、コップとか、観葉植物とか、、誰かが誰かと見るとか、、、そんなの起こっていないんです。それは全部思考です。本当は感覚しか起きていないんです、この世界って。つまり感覚を寄せ集めて、、はい終わりです。寄せ集めて寄せ集めて、、、、何になりますか?????????無です。大いなる一つとは無なんです。そしてあえてあえていうならば「自分とは無」となります。

空はなぜ色を生み出したのか???

空は絶対完全ゆえに何もしない

空とは絶対完全完璧です、、ここに意識が生まれ、、、などはありません。ですが空は完全完璧完成ゆえに、、、空の中には空の鏡が存在します(完全完璧ですから何でも存在します)、、、この鏡に空が映し出されたわけです、、、するとその鏡には完全完成完璧が映し出されるわけです、、、、この映し出された完全完成完璧が、、色(現象)です。つまり今目の前に広がりる世界(私の前)は完全完璧完成の姿が映し出されているのです。

いやいや、、、全然完全完璧完成じゃないですけど、、、、

ちょっと待ってください、、この不況の日本が、、この大気汚染の日本が、、この税金が高い日本が、、、なぜ完全完璧完成なんですか?????じょうだんじゃない、、、、と思うでしょう。。ですがそれは全部「自分」にとってですよね?????目の前の景色を良く良くみてください、、この景色はアートです、、完璧なアート作品なのです。「私」だけがこの景色にあらゆる意味をつけて不平不満を言っているのです。

目の前に一匹の鳥が

目の前に一匹の鳥が居ます、、、鳥しかいない景色の、、、何が不完璧なのでしょうか???もっと羽が大きければ、、もっと羽が綺麗だったら?????それはこの自分の趣味ですよね、、、鳥は鳥のままで完璧なのです。鳥の進化系???ありません。つまり世界はどのように見えようと完全完璧完成なのです。その中で突如自分という登場人物が現れ悪戦苦闘するわけですがそれすらも、、、無限(空)から派生した、、、無限の表現です、、悪戦苦闘というアートが始まったのです。善戦楽闘もあれば悪戦苦闘もある、楽勝もあれば辛勝もある、、無限になんでもあるという意味でここは完璧なのです。

現象(色)は空(絶対)の無限の表現

我々は毎日現象(色)と空(絶対)を行き来する

起きているとき我々は空の絶対表現、色(現象)の世界の中に住んでいる気分にさせられます。寝ている時空に戻ります、意識すらない状態。夢を見ている時、夢という現象(色)の世界に居ます。というよりも現象(色)が立ち上がると気づきが(意織)が起きるのです、ただそれだけ。現実と呼ばれる現象が起きても気づきが起き続け夢(夜間)が起きようとも気づきが起き続けるのです。

現実も夜間の夢も同じ

なぜ夜間見る夢でも、、、景色が広がり、食事を味わえ、痛みも感じることができ、、コーヒーの香りも感じることができるのか???それは現実も夢も全く同じ、、空から立ち上がった色(現象)であることに変わりがないからです。だから気づきが起き続ける、熟睡時以外は。そしてこのあらゆる気づきをこの体の中に「わたし」が気づいているという思考が立ち上がり、、自我が完成するのです。これは思考、想像であって真実ではありません。真実はただ空から色(現象)が立ち上がり気づきが起きているだけです。

空(絶対)に気づきはない

空は絶対完璧ですから進化も退化も全くありません、つまり何も起き得ないのです。では今この気づきはなぜ起きているのか???それは色が立ち上がることで自動的に気づきが起き続けているのです、色の中で。色の中は無限の現象界ですから何でも無限に起きるのです、あらゆる現象、あらゆる経験、あらゆる気づきが無限の起こるのです。だからといって空が進化するのではなくその無限の活動全てが空が無限である証明作業でしかありません。

気づく私、気づかれる私

色と空は一つ

気づく私とは空です、気づかれる私とは色です。この世界で言えば、、、全現象が色です、、、そして全現象に気づくのが空です。色と空は一つです、、どちらも「私」色即是空、空即是色、、、全現象は全てこの仕組みで起こっています。これだけ。体の中の私が、、現象に気づく????そのようにはこの世界はできていないんです。

この体がしっかりと音を聞いてますよ!!

聞いていません、、、体という現象が他の現象に気づくというのは不可能なんです、、色とは現象のこと、、蜃気楼のようなものです、、蜃気楼が他の蜃気楼に気づくなどあり得ないのです。ということで体が気づいてきたのは嘘で、、本当は空が色に気づいているのです、、、しかしこの表現も実は嘘で、、、、本当は色として現象化すると、、、気づくが起きるのです、、、空と色の間で、、、これは化学反応のようなものです。空には気づくという動きすらありません、なぜならば空とはそのままで完全完璧、進化も退化もしない、不動の存在だからです。

気づくは色の中で起こる

空の中で何かが起きることは絶対に絶対にありません、、空とは絶対、完全、完璧、不動です。ですから気づきはあくまでもこの現象界の中(色)で起こるのです、つまり気づきが起きるのも現象の一つです。その気づきという現象を、、、自我は取り込み、、私(自我)が気づいている、、、という大嘘を作り出したのです。これによって私が主導権を握って人生を切り開くという「私」ストーリーが始まったのです。全気づきはこの体の機能によって起こり、、それを踏まえて自由意志で人生を切り盛りするという話です。ですがそれは真実ではありません、嘘です。