自分劇場

もしも記憶がなければ私の人生はない

もしもあなたに記憶がなかったら

人間は実は大きな勘違いをしています、もしもあなたに記憶する力が無かったら自分の人生というのは存在しません。昨日の自分も、一昨日の自分も、自身の親も、自身の友人も存在しません。なぜならばこれらの存在は全部記憶が作り出しているからです。記憶があるからそれを友人、自分、親と認識するのであって全部記憶に頼っています。ということは記憶力がない動物、昆虫には自分の人生がありません。???つまり自分の人生というものを歩んでいるのは人間だけということになります。世界中の全ての生命体の中で自分の人生を生きているのは人間だけです。自分のことを蔑ろししやがって、自分のことを軽く扱いやがって、、自分の人生には希望がない、、、このように悩んでいるのは人間だけです。

記憶力が人間に発達してから人生が生まれた

元々人間は自分人生を生きていたのではありません、記憶力というのが身についてから自分人生が始まりました。混乱してきますね。人生があるのが当たり前だと全人類が考えていると思いますがそれが事実ではありません。人生とは記憶力がある生命の遊びなのです。自分というこの分離した感覚を所有し続けるには記憶力が必要になりますし、、それを維持し続けることで映画のフィルムのように人生劇場を記憶し続け人生が成り立つのです。

人生が苦しいから人生は無しにしよう、、ではない

この人生が作りモノならば明日から人生を歩むのをやめよう、、、そう思ってもまた明日からも人生は続きます。なぜならば昨日の自分の記憶がガッツリあるからです。そうではなくこの自分人生、自分劇場がどう形成されているかを理解することです。そうすると重さが少し抜けます、こうしなくては、、、ああしなくては、、という重さが半減していきます。人生という確固たる事実はなく、、人生とは人間の記憶力が作り出していると腹落ちすると深刻さが減ります。人間を深刻にしている原因とは、、、この人生が本当に存在しているという錯覚です。

自分を無視する生活を続けると自分が消えてなくなる

何かに没頭している時自分はいない

この世の苦しみは自分が作り出しています、自分という存在、この体の中に自分が居るというアイデア認識こそがこの自分人生、自分劇場のデフォルトです。この自分劇場の苦しみは自分というアイデアが引き起こしていますからいかに毎日自分がいない状態でいるかが鍵になります。自分という存在を満足させようと何かアクションを起こしてもこの自分の空腹が癒えることは絶対にありません。自分を置き去りにする、自分を忘れる状態を作り出すということが自分劇場から抜け出す唯一の方法です。

毎日何かに没頭する、毎日体に意識を向ける

何かに没頭している時、頭が没している状態を作り出しますと、、自分が消えてなくなります。歓喜、平和、安堵の波に襲われます。激しいトレーニングなどをして体に意識を完全に向けますと思考が剥がされ自分が居なくなります。この習慣を意図的に行なっていきます。このブログを書いている自分は基本、全てをルーティンで作り上げていくことで思考の介在を許さないようにします。このブログを書いている時も思考の介入を許しません。なぜそのようなことができるか?最初から思考を使わなけえばならないことをしないと決めているからです。もしもこのブログを書く際に思考を使わなくてはならないレベルに居るならば最初から書きません。書けるまで読書をして待ちます。

大きなことを成し遂げたいと思ったら

大きなことを成し遂げたいと思ったら思考を介在しないでいいルーティンで突き進めていきます。例えばエベレストを登ることになったら、、、毎日50メートル登れば160日間で登頂できる計算になりますから逆にそこからは戦略を練りません。戦略を練っていかに効率よく登るかを考えれば思考がシャシャリでてきます。これによって登山自体が非常に苦しい旅になります。もしも毎日50メートル登れているならばもう他のことは何も考えない、ただ没頭することでそのまま歓喜、平和、安堵が襲ってきます。エベレストに登る価値よりも歓喜、平和、安堵に至る方が遥かに価値があります。

自分の強制解体作業

運動は思考の発生を抑え自分を緩める

体を激しく使うながら思考を使うことは難しいことです。激しいスポーツをしながら明日の予定について考えることは至難の技です。体を使うと思考が収まり、思考を使うと体が収まります。両方を同時に使うことは難しいものです。結論から言えば自分体験をする全体は常に一つの経験しかできません。お酒を味わいながら食事も味わい、さらに最良の音楽も同時に堪能し、さらに友人との会話に集中することは不可能です。つまり経験は常に一つなのです。これが自分劇場のルールです。ということは自分を緩めるのは簡単、体の感覚に意識を集中してしまえばいいのです。激しい運動をすれば意識が運動に集中し自分を形成する思考は無くなります。

激しい運動をした後なぜか安堵感の残滓がある

激しい運動をしますと強制的に思考の感覚が薄れていきます。本来激しく動くことはストレスフルなことでもありますがなぜか運動後安堵感に襲われます。運動をしている間、自分を作り出す思考が抜け落ちるからです。自分が居ない時に何があるか?全体だけがそこにあります、つまり安堵、歓喜、平和がそこにあるのです。頭脳を酷使する労働者が休日に山に登りたくなりのはこのためです。あえて山という厳しい環境で歩くことで思考が湧くのを落としその瞬間全体に戻っているのです。

全体に戻る方法を積極的に活用する

「この体の中に自分が居る」というのは思考です。この思考が随時湧いてくることで全体から分離した自分を存続し続けるのが自分劇場です。激しい運動をしますとこのシステムを壊すことができ自分が崩壊します、自分が崩壊しますと歓喜、平和、安堵が襲ってきます。なんという皮肉、ブラックジョークです。この事実を理解したならば積極的にこの自分の解体作業を行います、ルーティンで激しい運動を取り入れることで全体に積極的に戻るのです。すると思考を記憶する脳の疲労が取れ思考の活用が上手くなっていくのです。

老人になると楽になる理由

悩むのはいつも若者

自分とは全体から自ら分かれた存在です。分かれたというのは錯覚ですから錯覚を起こし続ける必要があります。それには常にこの体の中に自分が居るという思考が必要になります。この思考が湧いてこないと自分の体の中に自分が居るという錯覚を維持できません。若者はエネルギーが溢れていますからこの思考を取り込むエネルギーも強烈、その分孤独感、分離感、虚無感も強くなっていきます。そしてこの感情を他人事には到底できません。だからこそ若い時期は大いに悩むのです、そこまで悩まなくてもというぐらいに悩みます、それはエネルギーが在るが故です。

不足感を解消しようという衝動も大きくなる

若者が不足感を解消するために学校のガラスを破る、モヤモヤした虚無感を解消するために非行に走る、、これが無くなることはないでしょう。悩む感情も大きければそれを解消しようとするエネルギーも大きくなります、手段選ばず解消に向きます。老人になるとこのような悩みも、そしてそれを解消しようという衝動も少なくなるのは当然なのです。エネルギーがあるということは悩みも行動もエキサイティングになっていきます。

受験勉強、部活動が忙しくなるのはそれを発散させるため

中学生になると部活動が忙しくなったり、受験競争が激化しますがこれって非常に合理的です。エネルギーを生産性のあることで発散させておかないとその分悩み、衝動的な行動をしてしまいます、若者は。国の教育機関がそこを理解してそうしているかは不明ですが実際には受験や部活には発散には最適です。そこから就職活動、婚活、妊活、子育てと、、、エネルギーを発散できるチャンスが年齢別に用意されているのは自分劇場の面白い要素です。

自分は錯覚だから常に虚しい

虚無感とはこの自分が虚であることから来ている

自分とは全体から自らが分かれた状態です。この体の中に自分が居るという感覚のことです。本当は全体しかなくその中に独立した風の自分を作り出しました。本当は全体しかなくその中に別個の確立した風の自分をこの体の中に作りました。実際には全ての体験を経験しているのは自分演じる全体です。全体の中に分離した存在を作ることはできません、あくまでも分離風個人ということになります。だからこそこの自分は常に虚しさを感じます。何かがおかしい、何か不足している気がする、何か孤独な気がする、、、これは間違いなく事実です。なぜならば自分とは虚だからです。

この虚しさを晴らすためにあらゆる試行錯誤をする

この虚無感を晴らすために自分は色々試行錯誤します。多くの試行錯誤は没頭できる何かを探すことです、TV、YOUTUBE、SNS、ギャンブル、友人とのお喋り、カラオケ、恋愛、旅行などなど、、、世の中には自然と没頭できるエンタメが溢れています。これを仕事など生産性のある分野で見出すことができる人もいます、好きな仕事で自己実現する人々です。もしくは母親として子育てに没頭することでこれをする人もいます。全ての行動の動機、それはこの虚しさを解消するためです。

虚しさ、孤独、漠然とした不安は自分劇場のデフォルト

何か虚しい、何か孤独、何か不安感がある、、、これはこの自分劇場のデフォルトです。精神病でも何でもありません。自分とは本来存在しないのですから当たり前です、自分とは全体から自ら分かれたと錯覚した存在です、エネルギーを解明すれば明白ですがこの全体(一つのエネルギー)の中に全く別物のエネルギーが存在することは不可能です。ですが分離したと錯覚する一つのエネルギーの存在は可能です。そして錯覚ですからどこまで行っても虚しさが拭えないのです。このメッセージはだからこそ絶望しろ、という内容のものではありません。虚しさ、孤独、不安感に悩む必要がないということです。ある意味自分の責任ですが笑根本的誤解から生じています。

自分を支える様々な価値観

キノコは秋が狙い目

自分とは全体から自らを分かれさせた存在、分かれたつもりになっている存在のことです。「この自分は体の中に在る」という思考が延々と湧き続けることでこれを維持します。「この体に自分がいる」という思考は全体から湧いていますからやはりこの自分劇場を永続させているのは全体ということになります。この自分劇場が始まるとあらゆる経験を自分はするわけですがその度に自分は新しい価値観を身につけていきます。動物は朝方に狙うのが良い、寒い日はじっとしていた方が得、キノコは秋が狙い目、、、などです。こうして自分の生存戦略として様々な思考を取り入れていきます。自分を存続させるためのあらゆる思考が湧いてきてそれを自分は記憶していきます。

記憶された思考はやがて価値観になる

自分を生存させるための思考が記憶されていきますとやがてそれらは統合されて価値観になっていきます、思考の複合体ですね。この価値観は全て自分の生存戦略です。人種差別、宗教差別、国家差別、民族差別、、、などの強い価値観は全て自分を生存させるための思考の束です。この価値観の凄いところは実際にそのように見えてくるということです。〇〇人は性格が悪い、、、という強い価値観を持つと本当にそのように見えてくるということです。これも自分の生存戦略です。

全ての価値観は幻想

ということで価値観とは自分を生存させるための生存戦略であってこれは事実ではありません。そのような価値観を持った方が自分が生存しやすいだけです。その価値観を持つことによって(例えば人間はみんな嘘をつく)人生が苦しくなったとしてもそれは自分にとってはどうでもいいこと。自分はいかにこの自分を生き伸ばしていくかが重要になります。ですがこの価値観は思考の束ですから人生劇場を続けていくことで日々移り変わっていくという特徴があります。

江原さんもビックリ!自分の生存戦略

自分を存続させるためなら死後も操る

自分とは全体から自らを分けた状態のことです。この全体から分かれた自分はこの自分をどうしても存続したという衝動があります。なぜかと言えば全体から分かれた状態は実は不足感、不快感、喪失感の塊になるわけですがこれが自分の感情として起き上がる時にもっと食べたい、もっと安定したい、もっと有名になりたい、もっと人気者になりたい、もっと自分として認められたい、もっと自分を築き上げたいと、、、違う欲望に変換されます。これによって分離という状態を結果永続させることになっていくのです。これは何という皮肉、ブラックジョークです。ということでこの欲求を持たすべく自分は自身の永続を願うようになっていきます。ただしこの体は永続ではないためいずれ死が訪れます、これが自分の消滅になるはずでした。ところがこの自分の思考は諦めません、自分というのは死後も永続できるという思考を持つことに成功したのです。そもそもこの体の中に自分がいるというのも「思考」です。この思考にオプションを加えて死後も永続できるという思考に切り替えました。この思考が肉体の死も全体から湧いてくることで「自分」は次の体を確保します。

江原さんのように思考のエネルギーを見れる人がそれをみると、、、

霊能者と呼ばれる人々は感情や思考など一般人には視覚化できないエネルギーを視覚として見える人々だと思います。この思考「自分エネルギー」を視覚から読み解いて人に伝えているのだと。これには欠点があり死後も自分が永続できるというアイデアを持った自分は必ずこの思考を自分に取り込むようになります。結果輪廻転生が自動的に行われるようになります。この部分に関しては自身もまだ調査中でいずれしっかりと解明したいと思います。

釈迦は言った、良い輪廻転生をしようではなく「解脱しかない」

お釈迦様も全体の表現でしかないので人間という実在ではありません。ですがこの全体の表現(釈迦)は良い輪廻転生をしよう!とは言っていません、「人間が苦から解放されるには解脱しかない」です。この自分劇場を終わらせる以外に苦からの脱却はないと説いています、これは刹那的、逃避的意見に聞こえるかもしれませんが私は真実を突いた優しいメッセージだと思います。もっと頑張ろう、いずれ幸福になれる、夢を持とう、、、というのは自分が大好きなメッセージであり的を外しています。これをイエスキリストは原罪と称しました。

自分至上最高の出来事、自分発見

自分を発見することがこの自分劇場最大の祝福

進学、就職、結婚、出産、出世、、、、人生の中であらゆるおめでたい行事は多々ありますがその中で最も大きなお祝いとは何か?それは自分が自分の存在を発見することです。一般的に言われている自分という存在はこの体の中に主人公がいるという認識です。ですがこの設定での自分がいる限り、進学、就職、結婚などのあらゆるお祝い事を重ねても常に不足、不満が残ります。完璧な就職、結婚、出産、出世はこの自分人生には存在しません、必ず何かしらの不満が残りその解消に向けてまた走り出すようになります。自分人生においてこれを散々やってきた人はある時気づきます、これを続けても終わりは来ないと。ということでこれに気づいた自分はもう世の中の祝事に興味がなくなります。それよりもこの苦しみ、不満、不足が続く自分という存在は一体何なのか?ということです。

自分人生を諦める

どうやらこの自分という存在を前提にした人生には至福がこないことはいつやら分かってきます。というのも成功者の自殺、芸能人の自殺、幸福の絶頂に見える人の自殺を見ても辻褄が合わないことが多すぎるのです。ネタバレにはなりますが他者の死は自分とは関係はないのですがそれでもそう見えます。自分人生を生きてきて多くのハードルを超えてきても全く不足感が減ることがない、この事実だけを見てもどうも雲行きが怪しくなるのです。自分人生を一旦諦めて自分という存在に切り込んでみる、そんなアイデアがこのブログを書いている自分に何年か前から訪れました。自分人生はとりあえず横に置いて自分とは何なのか?という話です。

自分というものを調べてみたら文字に答えが書いてある

自分というものが入っているこの体は一旦何なのか?その疑問を追求すべくこの自分は鬼のような書籍を読み漁りその解明に乗り出しました。するとまさかのその答えは自分という漢字にしっかりと刻まれていました。自分とは「自らを分ける」と書きます。とんでもない意味です、自らを分けたものが自分、こんな意味の言葉で我々は自身を表現していたのです。分けるという言葉は分離をいみするわけですが一体何からの分離なのかという話です。答えは「全体」ということになります。我々は全体から分かれた存在である、だから不足感、孤独感、喪失感がどこまで行っても拭えないのです。もっと詳しく言えば我々は全体から分かれたつもりになっている存在ということです。分かれたつもり?そうです、初期設定が勘違いだということです。これで自分人生、人間人生において永遠の至福が来ないことがわかりました。

自分至上最悪の出来事、自殺について

最大のタブーに切り込む

全体から自らが分かれた状態、自分にとって最低最悪の事件が自殺です。自らの命を自らが断つということになります。自身にとっても周囲にとっても最悪な出来事であることは間違いありません。ですがこれを全体の視点に経ってみたらどうなるか?例えば自分の友人が自殺をしたとしましょう、その事実だけを自分が認識する時、友人は大いに苦しみ大いに悩みその決断をしたんだろう、、自分に何かできることはなかったか?自分がもっと優しくしていれば、、、こんな思いが間違いなく湧くでしょう。ですが真実をお伝えすればそれは全体が起こしたただの現象です。自分以外に起きたものは全て全体が起こしたゲーム上の現象です。無礼承知でお伝えすればスーパーマリオに出てくるクッパがゲームの中で死んでしまっただけということになります。クッパが苦しんだという事実はなくただゲーム上でそうなりました、終わり。勿論亡くなった友人の部屋を調べれば苦しみの日記や手紙が出てくるかもしれません、ですがそれも亡くなった後に全体がそれを起こしただけです。失礼承知で続けますがスーパーマリオのゲームにおいて自分はマリオだけ、それ以外は全部ゲーム上の出来事になり他のキャラの自由意志はそこにはありません。

自分は常に周囲の行動に振り回されるが

自分は両親の離婚、両親の死、友人の闘病、友人の投獄、、、、、に常に振り回されます。それがこの自分劇場のデフォルトです。ですが真実をお伝えすればそれらはスーパーマリオゲームでの脇役キャラでの出来事、そこに意味は何もありません。意味があるように確実に見えますが。この辺りはこの自分劇場最終段階のネタバレになってきます。映画の中の「七人の侍」ではもしかしたら次々に仲間が戦いの中で死んでいくかもしれません、ですがそれも映画の中での脇役がただ死んだだけ、、、そう見えるだけ。。。映画ですからそこに意味はないのです。自分は間違いなく居ます、この体の中に錯覚として。ですがこれは全体が自分錯覚を起こしているだけです。友人の死や両親の死を悲しむことはない、、、そんなことを言いたいわけではありません。全体という絶対に失われることがない存在が失うという経験をしたくて起こしたのがこの自分劇場だということです。

ネタバレが腹落ちすると死が怖くなくなる、、、

自分というものが全体から分かれたモノであるということ、実際には分かれることはできず分かれたという錯覚が起こっただけということ。このことが徐々に腹落ちできるようになってきますと死にたいする恐怖心がなくなってきます。これは全体最大のジョークであることが分かってきます。ジョークですがこの人生劇場に真剣に取り組んだ方がオチでしっかりとズッコケることができます。吉本新喜劇でもたまに真剣モードがないと笑いになりません。最初から最後までボケ倒しでは笑いは起きなくなります。一方このブログを書いている自分はこの自分劇場をまだ終わらせたいとは思っていません、ですから死にたくはない。ですがかつての死を恐れる感情はとうの昔に終わりました。特に死んだ後に対する恐怖、どこへ行くのだろう?という漠然とした不安は今はもうないと断言できます。自分というこの全体の錯覚、ジョークが終わり全体に戻るだけです。だからこそこのジョークが継続されるうちはこのジョークを最大限楽しもうと思います。

全体は究極のマゾヒスト

全体は自らを弱くしてマゾ体験を堪能している

全体はマゾヒストです。全体は自らを分けて自分という存在を体の中に作り出しその最弱な体で自分劇場を生き始めます。全体は最大最強、自分は最小最弱です。全体がわざわざこの人間という体の中に自分を作り出し最弱体験をしているというのですからこれはマゾヒストとしか言いようがありません。ですがこのマゾヒストはこの体験を大いに気に入り、輪廻転生といってまさかの肉体の死をも超越してこの体験を継続させていきました。肉体が死んでも魂が存在しその魂が次の体を見つけてまた自分体験を継続するという例の流れです。

全体は徐々に自らを強くして成長を楽しむ

全体から分離した自分は最弱状態を体験します。最弱のままではこの体を生き伸ばすことができない、生きていけないと悟った自分は自分を強くするという道を歩むようになります。これが子供から大人になるということです。筋力を付けて、学力を付けてというのがこの時期です。そしてその自分の成長体験を楽しんでいるのは全体です。全体は成長するという体験をすることができません、全体は最初から完璧だからです。だからこそ全体は自分の成長ストーリーを大いに楽しむのです。

全体は強くなっても至福に至れない自分にヒントを与える

自分という存在になった全体は最弱経験から徐々に強い自分体験をしていきます。収入を得て信頼を得て、安定を得てとコツコツとこの経験を積んでいきます。ですが困ったことにどこまでいっても居心地の悪さが解消されない、それはそうです。全体という史上最強の存在が人間に成り切っているわけですから強さには限界があるわけです。ということで自分は強くなっても至福には至れないことを徐々に理解していくわけです。そこから自分は一体この世界でどこに至福があるのかを探し始めます。自分が強くなることで至福に至れないならばどこにそれがあるのかと、これがこの自分体験最大の山場です。