神が見る夢

問題を起こすのは常に自分だがそれを起こしているのは神

起きる出来事を自分ごととして問題化していく自分

朝起きた瞬間に人間の体の記憶装置が起動することで、この体は私で、〇〇という名前で、、職業は〇〇である、、、と自分人間が誕生します。これは全体、神が変化した状態、全体、神の中から浮かぶあがった状態です。この自分人間は記憶力を持つのでこの体に起きる経験を全て自分の経験として記憶していきます。そしてその経験に基づき思考が固まっていきそれも自分の価値観として所有していくのです。こうして自分劇場が全体、神の中で形成されていくのです。悟り系の書籍ではこの自我形成を悪の根源と称するものも多いですがこの自我形成の成分、エネルギーは神、全体という一つのエネルギーです。つまりこの自我形成は神、全体が起こしているのです。

自我形成はどこまで行っても神の遊び

この視界に広がる世界は色の世界です。神が色として表現している世界です、この色の世界において人間は独自の進化を重ね脳を所有するようになりました。これにより思考が生まれ、その思考が記憶されていくことで人間は自分というアイデアを創造するまでに至ったのです、神が作った色の世界に自分が誕生したのです。これは神の表現の進化でもあります。この自分を作り出しているのは間違いなく神です、神は神自身が作り出した世界に自分というアイデアを所有する生命体を作りだしたのです。その生命体は活動のほとんどを記憶して「我が人生」を誕生させました。そしてそこに起こる様々な体験を自分に起こったとしてさらに記憶するという流れです。

この現象界に神でないものは一つもない

この現象界で起こる出来事で神が起こしていないものは一つもありません、ヒトラーもスターリンも、プーチンも、世界中で非難の的になっている人物の活動、思考の全ては神のエネルギーです。本人は自分が考え出したものだと言い張るでしょうが、、、神でないエネルギーは皆無です。神でないエネルギー、思考、活動があるならば一体それは何か?ということです。神とは全体のことであり全体の中で繰り広げらえる出来事、人間の活動、思考、感情において全体のエネルギーでないものなどあろうはずがないのです。全出来事は神が創造したものです。

道を行き交う人々の全ての行動は神の顕現

ということは私が街を歩く時に行き交う人々、人々の会話、行動、全てが神の顕現ということになります。飲み屋で喧嘩をしてるお客さん同士は神の顕現の一つです。全部が神の遊び、表現です。その出来事を見て自分はあらゆる判断を下すでしょう、、ですがその判断すらも神の表現ということになります。神の表現ということはこの判断は自分の判断ではないのか?ということになりますが判断を下しているのが神としての自分ということです。街を歩いていて不平不満、愚痴が自身の中から湧き上がったとしてもそれは神の顕現なのです。神が不平不満や愚痴などこぼすわけがないとあなたは思うでしょう。ですが神は愚痴や不平不満を吐きたくて人間を進化させたのです。

深い眠りから目覚めた時は体の疲労回復以外の何かが起こっていることを知っている

深い眠りとは人間から神に戻っている

深い眠りを侮ってはいけません。深い眠りとは人間に扮している神が神に戻っている時なのです。だからこそ熟睡時から目覚めた時はとんでもない充実感、安堵を感じるはずです。あの安堵感をお金で払って手に入れることはできません。人間としての活動であの境地の安堵を経験できないのです。あの安堵は人間を同一視する状態から外れた神の状態です。熟睡の安堵とは神そのものの安堵です。

人間は毎日神を思い出している

人間の熟睡とは神への帰還です。人間扮する神が神に帰還している状態、それが熟睡です。主体客体の世界、人間が何かを得たり、達成したり、日々のストレス解消では絶対に得ることができない境地です。それが熟睡、神、ワンネスです。そしてその神が朝目覚めて起床すると人間に戻ります、人間の記憶装置が稼働して我は人間あり、我は〇〇何べいである、、我は会社員である、我は長男である、、、と記憶が蘇り自分劇場がまたスタートするのです。そして神は今日も人間に成り切って生活をスタートします。マリオをスタートする人間と全く同じメカニズムです。

熟睡とは記憶装置をオフにすること

熟睡時の特徴とは記憶にないことです。何時間熟睡したという感覚は寝起きにないはずです。つまり記憶が働いていないのです。人間は記憶がなければ自身の存在を維持できないもの、その記憶をオフにすることで神に戻ります。人間は起きている間でもこの状態に近づくことができます。何かに没頭する時に実は記憶機能がオフになっています。自分の存在を忘れます、無我、無心の状態とは記憶がオフになっている状態でもあります。この時人は神に戻ります、自分の存在を忘れています。人間扮する神が扮していない状態です。

夢の中での要領の良さは至福とは何も関係がない

毎晩見る夢の中で要領の良さを披露しても至福には至れない

毎晩見ている夢の中で要領を駆使して何かを達成したとしても一時的な快楽にしかなりません。次の瞬間からでは次はどうするか?という疑問が湧いてきます。そして次の展開、次の展開と夢は続いていくはずです。夢の中で永遠の至福を手に入れることができないのは次の展開に移ればまた振り出しなのです。これが夢です。ストーリーです、時間が管理する物語です。残酷なまでに感情は一瞬一瞬であり夢の中でさえ自身の感情をコントロールできません。そしてなぜ夢の中で主人公が次々に行動を起こさなくてはならないかといえば不足感が湧き出ているからです。夢の中ではこの不足感はデフォルトです。なぜならばデフォル分離した自分というものを設定した瞬間から全体から離れ孤独感、分離感、不足感が湧いてくるからです。

このリアリティーにおいてもこれは同じ

このリアリティーの世界、現実社会でもこれは同じでして要領の良さで何かを達成しても至福は一瞬です。次の瞬間から不足感、欠乏感、分離感が襲ってきます。この現実社会の中で自分の体を境界線にすることで自他を作り出した瞬間から分離感がひたすらに襲ってきます。この分離感、不足感を何とかして解消しようとして要領の良さを発揮し一瞬の至福感を得ます、ですが次の瞬間にはまた不足感、欠乏感が湧いてきてその解消に努め続けることになるのです。もうお気づきだと思いますがこのリアリティーと毎晩見る夢はあまりに様子が似ています。そうです、このリアリティーは神が見る夢です。

夢もこのリアリティーも覚めるしか解決方法はない

毎晩見る夢にしてもこのリアリティーにしても分離意識、主人公の中に自分があるという感覚を手放さない限り不足感、欠乏感が解消することはありません。我々は物心が付いた時から不足感と戦ってきました、それは夢の中でもこのリアリティーの中でもです。今日は至福の極みだから何もしないでおこう、、こんな日は1日たりとも無かったはずです。安心してください、この夢の中でそんな人間は一人もいません。毎晩の夢の中でもこのリアリティーの中でも至福過ぎて何もする気は起きない、、こんな登場人物は皆無なのです。分離とはそのようなものです。

これが夢であるという事実から逃げない

人間がこれまで戦争や争いを終えることができず、世の中から紛争を無くすことができないのはこれが夢だからです。たった一つのエネルギーが分離して見えるこの世界は不足感体験ゲームなのです。しかもこの不足感は分離が終わるまで延々に続くというオチです。こうなりますともうこれを夢と認識する以外ありません。勇気を持ってこのリアリティーに向き合うほかないのです。人間はあまりにこのリアリティーに長く触れ続けた結果、不足感、欠乏感にどれほど苦しまされてもうこのリアリティーを手放しません。リアリティーに執着しています。だからこそこのようなメッセージ、ノンデュアリティー、悟りと言われるような内容に嫌悪感すら抱きます。

夢の中での地獄も一瞬

至福にはなれないが地獄も一緒

毎晩見る夢の中で最初から最後まで地獄しかなかった、、こんなことも少ないはずです。というか無いはずです。夢というストーリーの中で最初から最後まで地獄続き、、、交通事故で跳ねられ全身麻痺に、病院に行ったら医療ミスが起き、さらに看護師からのイジメ、友人がお見舞いに来たら毒を盛られ死亡、、、と地獄が延々と続く夢も少ないものです。それはなぜか?簡単です、夢を見ているあなたがそんな夢は見たくないからです。

この現実社会も同じ

これは神が見る夢です。神が見る夢の中でこのリアリティーが起こっています。その中で自身は主人公になりこのストーリを右往左往しています。このリアリティーでは永遠の至福はありません、時間という縛りがあるが故に幸福は常に一瞬です、歓喜も常に一瞬です、だからこそ永遠の至福を主人公である私は求め続けるわけです。ですがこのストーリーの中では絶対に至福はありません、時間の中にいるからです。これは地獄に関しても同じで永遠の地獄は不可能なのです、時間がありますから。ただし問題はあります、永遠の不足感はついて回ります。全知全能の神が人間になりきっている夢ですから不足感しかありません。地獄は一瞬ですが不足感は永遠です。

不足感が永遠ならば夢から覚めるしかない

自分自身が見る夢も、神が見るこの夢も不足感が永遠ならば、、、この夢から覚める他ありません。分離体験には不足感は常にセットであり分離ゲームで永遠の至福は絶対に得れないのです。だからこそマトリックスという映画ではNEOは目覚めを目指したのです。この夢の中に永遠の至福への攻略があるならば釈迦は解脱を勧めないはず。もっとテクニックを話したはず。キリストは人間を原罪(的外れ)と表現し、釈迦は人間を「苦」と表現しました。テクニックに逃げるのではなくこの事実ととことん向き合う時期が起きます。それも神が決めます。

夢の中で「あなたは既に知っている!」

夢の中での至福体験は至福ではない

もしもあなたが夢の中で最上級の幸福を手に入れたとしても幸せすぎて起きてしまったということは少ないはずです。人間がみる夢とはリアリティー全開でミシュランレストランの味覚も、高級ホテルの寝心地も、人間国宝のお皿の渋みも全て再現ししかも感動できます、夢の中で。ですがにも関わらずその夢の中で永遠の至福を手に入れたことはありません。夢の中ですら人間は至福に至れないのです。これかなり重要なポイントです。夢の中で人間は最高の感情を味わうことができます、夢の中で金メダルをとっても涙を流して感動できます。夢の中ってその点においてかなり自由です、にも関わらずその夢の中で永遠の至福を手に入れたことがないはず。結論をお伝えします、夢の中だから至福に至れないのです。夢の中というのは分離体験であり分離体験の主人公が至福に至ことは絶対にないのです。分離しているから。

この現実社会も同じ

この現実社会、あなたが見ているこのリアリティーにおいてもあなたは永遠の至福を手に入れたことはないはずです。勿論一時の幸福、歓喜、喜び、感動を得たことはあるはずです。ですが永遠に続く至福を手に入れたことはないはずです。なぜでしょう?そうこれが分離体験だからです。人間という主人公を使った分離体験だからこそどんなに頑張っても至福に至れないのです。毎晩見る夢の中と同じで一時の幸福しか持てないのがこの現実社会です。つまり毎晩見る夢と、この現実は同じなのです。同じく分離体験なのです。これは神が見る夢です、夢の中で主人公(人間)は絶対に永遠の至福に至れません。夢ですから。

夢の中でも永遠の至福になれないのに、この現実でなれるわけがない

毎晩見る夢と、このリアリティーには共通点があります。それは其々に主人公が登場し、その主人公が右往左往するストーリーということです。ストーリーとは時間が必要になります。空間が必要になります。そうです、時間と空間が存在するこの分離体験ゲームでは永遠の至福は不可能なのです。永遠とは時間ではありません。時間を超越した状態です。この時間軸の中に居ながら永遠の至福は存在しないのです。だからこそ主人公は一瞬、一瞬の幸福をかき集めるという無限地獄を続けます。そしてそのことに薄々気づいているのでこのゲームは苦しみなのです。釈迦が伝えたたった一つのこと、、夢から覚めて解脱せよです、この意味はここから来ています。

結果に飢える動物がいない理由

動物には結果が存在しない

これは夢です。神が見る夢です。この夢の中で人間は結果を出せる人間は優秀であるという価値観を持っています。結果を出す優秀、結果を出せない劣等であると。このような価値観を持つ理由は人間が神に比べて無知無能であるという大前提があります。だからこそ結果を出す=有能であるという思いが強くなるのです。ところが本来は全知全能の神がこの人間の正体ですから結果を出せなくても全知全能です。神そのものが結果です。自らを無知無能であると勘違いしたことから結果に飢える動物になりました。一方動物は自我がありませんから自らを無知無能であるという劣等感がありません。全知全能のままです、だからこそ結果に飢えるなどの意味が理解できません。

結果を出しても無知無能は無知無能のまま

自らを無知無能であると判断を下している人間が結果を出したところで自らを優秀であると勘違いできる期間は一瞬です。だからこそ一度優秀であるという結果をもぎ取った人間は結果を出し続けるという呪縛に縛られます。一生結果を出し続けていかないとならない呪縛に縛られます。これは果たして幸福でしょうか?いな地獄です。結果を出せなくても地獄、結果を出しても地獄、これが人間という神の夢の中での主人公に突きつけられた宿命です。

この呪縛から解放されるには結果ではなく、人間を辞めるしかない

神はこの夢の中で自身を人間であるという錯覚ゲームを始めました、この錯覚ゲームは無限地獄、不足感全開ゲームです。本当は結果全開、全ての結果である神が価値ゼロの人間になりきってしまった結果として結果に飢えています。解決方法はこの勘違い、錯覚のメカニズムから目覚めること解放されること。これだけです。これが錯覚であるという心からの気づきが生まれると価値観は逆転します。この見える世界すべてが自分自身でありもう結果に飢える感覚が分からなくなります。空腹だと思っていたら満腹だった。

一つのエネルギーが振動数を変えているだけ

TVゲームは光の種類を変えているだけ

TVゲームはTVの画面上でキャラクターが動き、敵が現れて変幻自在に画面の中でドラマが展開されますが実際は様々な種類の光が画面上で点滅しているだけです。そして様々な種類の光というのも波長の長さが違うだけで同じ光であることに違いがありません。全く同じ因子で構成されています。これは実はこの夢、神が見る夢でも全く同じで同じ粒子が速度、回転数を変えて変幻自在に動いているだけで実は全部同じエネルギーです。違ったものに見えるのも、違った硬さに感じるのも、違った匂いに感じるのも振動数が違うだけ。TV画面の光と同じ原理です。

自分がいるという思考も振動数

思考もエネルギーです。物を構成するのもエネルギーです。思考においてこの分離世界を作り出しているのが自我です。この体こそ自分自身だいう思考です。これもエネルギーです。全てを構成しているエネルギーと全く同じエネルギーが振動数を変えて自他を作り出しています。そういう意味では人間の五感とは振動数探知機みたいなものでしょう。見て振動数の違いを発見する機能、匂いで震度数の違いを発見する機能、触って振動数の違いを発見する機能、味で振動数の違いを発見する機能、、、そしてこの体こそを自分とする思考(振動)、湧き上がる感情(振動)を自分のものとする思考(振動)が組み合わさってこのバーチャルリアリティーが形成されます。

一つのエネルギーがこの夢物語を作る

記憶する脳もエネルギーです。脳という記憶装置にエネルギーとして記憶されます。その記憶をもとに過去が誕生しました。人間という個別の存在があるという前提のドラマをしっかりと脳にエネルギーとして記憶することでさもこの人生ドラマが本当であるかのような錯覚をすることができます。映画も同じで全部記憶されています。そしてそれを構成するエネルギーはたった一つです。神を構成するエネルギー、ワンネスのエネルギー、空のエネルギー、全部同じエネルギーですがこのエネルギーが震度数を変えて変幻自在のバーチャルリアリティーを作り出します。

偽りの自己は偽りゆえに自己保身が強い

自己保身とは偽るモノの妨害

これは夢です。神が見る夢です。神が人間に成り切ることでこの夢物語を作り出します。神は自分自身を人間であると錯覚する、偽ることでこの仮想ゲームを作り出しました。これが夢です。仮想ゲームですから全てのものには実態がありません。人間の五感が感じることを現実と呼んでいるに過ぎません。人間の五感が感じないものは現実ではない、こういう論理です。人間というこの自己は偽り、錯覚ですから当たり前ですが実態はなくそれゆえ自己は自己保身が強くなります。吹けば飛んでしまうようなこの偽りの自己を自己が保身するのは当然のことです。

悪口を言われれば過度に反応する

偽りの自己は偽りゆえに自己保身が強くなります。全く実体がないにも関わらずあるという大前提でことを進めていますから自己の存続に関わることには敏感に反応します。悪口を影で言われていれば機嫌が悪くなりますし。影で褒められればご満悦です。影で妬まれれば落ち込み、影で称賛されればご満悦です。この自己は偽りゆえに外部の反応を異常に意識するわけです。それゆえ非常に疲れます。人間関係の輪に入れば偽りの自己同士がこの無限地獄を引き起こします。

本当は神だから保身も糞もない

人間とは神の化身であって本当は神です。神は保身に走る必要など全くありません。神は陰口を言われて落ち込む必要はないのです。神が妬まれて落ち込む必要もありません。神は称賛されて意気揚々とするのも変な話です。神が持ち上げられて鼻を伸ばすのも不思議です。ということで偽りの自己は神に戻ることだけを考えるのが手っ取り早いでしょう。全ての動作から無心に入る、全ての仕事から無我に入る、全部を書道、花道のように無我に入る道具にします。何にからでも無心に入れることができれば周囲の反応を気にする必要はなくなります。

偽りの自分は人を引きずり下ろして不足感を解消する

不足感解消に仁義なし

これは夢です、神が見る夢です。この夢の中では神は人間に成り切ったゲームを展開します。人間という五感+思考+感情動物を利用してこのゲームを楽しみます。実際には全て幻想ですが五感があることでリアリティーを与えます。さも自分がいるかのような錯覚を感じることができる遊びを展開します。神が人間という不自由極まりない生き物に成り切るわけですから不足感が湧いてきます。しかもこれはこのゲームが続く限り延々と湧いてきます。この不足感が人間の価値観と絡み合うことであらゆる感情のベースになるのです。怒り、妬み嫉み、孤独、退屈、などなどです。人間ゲームに慣れていない神はこの不足感を犯罪、裏切り、理不尽な行為をしてでも埋めようとするのです。これが仏教でいう地獄界です。このようなレベルの人たちが集まる集団に属しているとそこは地獄になります。

不足感解消にルールを守る

不足感解消のために最低限のルールを守れるようになると社会人としてやっていけます。会社、法律というルールを守りながらこの不足感を解消していきます。もちろんこの不足感はルールを守っていても関係なくひたすらに湧いてきますからこれが辛いことに何も変わりはありません。ただしここに居る人たちはルールを破ってでも不足感解消をしない分お互いが楽です。各々が独自に不足感解消に向けて努力していきます。

不足感解消から無我に入る

不足感解消をする努力から無心、無我、無思考に入れる人もいます。茶道、書道、花道のようにそこに携わることでそのまま無我に入り歓喜を得ます。そこに集中し無心に入ることでその場で神を体現します。これが究極の娯楽です。本来であれば苦しみでしかない仕事や労働から悟りに入るこれは人間の究極の形です。そして最終的にこの感覚を理解することから人間の苦悩解明に入っていきます。神が演じるこの人間から意識的に離れる、人間観察者へとシフトしていきます。

偽りの自分はメリットを聞きたがる

偽りの自分は不足感でできている

これは夢です、神が見る夢です。この夢の中で神が人間になり切って、人間がいるかのような状況を作り出しこの夢物語を歩みます。人間が実際に実在するわけではありません、人間が実在しているかのように見える世界を神が作ったのです。マリオがいてクッパがいてクリボーがいてスーパーマリオは完成します。同じように主人公(私)と脇役を多数配置してこの錯覚ゲームはリアリティーが出て来ます。これは神が作った夢、ゲームですからリアリティーさにかけては右に出るものはありません。全知全能の神が無知無能の人間を作り出しそれに成り切っているわけですからこのゲーム、夢は不足感全開、欠乏感全開、、これがポイントになります。無知無能の人間が欠乏感全開になった時にどういう行動をとるか?メリットを追求します。コスパを追求します。損得を追求します。これが答えです。

五感+思考+感情、、これに脳の記憶装置を加えて完成

神が見る夢では人間(本当はいない)に五感を与え、見えて聞こえて、触れて、味わえて、嗅げる機能をつけると同時にその世界を現象化、バーチャル化、リアル化しました。人間の五感機能分だけ世界がリアライズされるのです。さらにこれに思考を加え、感情を加えることで不足感をいかに解消していくか、、思考を繰り返しながら観念を作り上げていきます。それに記憶力を加えることで過去を作り出しストーリーが完成します。湧き上がる不足感をあらゆる観念が感情化しそれを思考で解決していこうという試みになります。

不足感全開の無知無能人間は最初はメリットを重視するが、、

神にとって人間は無知無能です。その人間は不足感全開になりそれをなんとかして解決しようと行動します。人間ができることと言えばなるべく損をしないで生きたい、将来後悔しないような人生を歩みたいということになります。周囲から教えてもらう損が少ない人生を目指すようになるのです。進学しかり就職しかり結婚しかりです。ですがどこまで行っても消えないこの不足感は常に自分を追ってきます。この損しない生き方ゲームは死ぬまで続くのだろうか?ということです。神は人間を無知無能に作りはしましたがそれは不幸に浸かれと言っているわけではありません。その状況から神に戻ることを最終ゴールにしています。このブログでは神が教えてくれるあらゆるヒントを掲載します。