マリオ

地動説以来の大発明「自分が錯覚」

自分が錯覚であることに気づいたら二度と戻らない。。。

自分が錯覚である、この感覚の気づきは、、天動説が地動説に切り替わった時の人類の驚きと同じです。そもそも地球は平坦で、その周りを宇宙が回っていると真剣に信じ込んできました、研究者が実は地球こそが太陽の周りを回っていると唱えても変人扱い、病気扱いをされたモノです。今回の提案、実は自分とは錯覚であるというアイデアはその当時と全く同じ扱いを受けます。この体の中に自分が居るというのは思考のアイデアです。思考と記憶が作り出した画期的なアイデアです。

人間同士は自分の存在を共有し続ける

天動説が人間にとって当たり前の定説だった時、それに異を唱える動物は皆無でした。人間だけが人間同士で勝手にそう思いこんでいただけです。人間全員がそう信じればそれに異を唱えるのは誰もいないのです。今回の自分錯覚説も全く同じです、人口の99。999パーセントがそう信じていれば先ずこの理論が覆されることはないでしょう。もしも自分錯覚説に気づいた者が現実的に目の前に現れても病人か変人に扱われて終わりです。

自分というのはアイデア

人間がどれほどのテクノロジーの進化を遂げても体に中に「自分」を発見できることはできません。断言できます。なぜならば自分とは思考と記憶が作り上げたアイデアだからです。この体の中に思考も湧いてくるし、感情も湧いている、そして五感もガッツリ感じている、、、だからこの体の中に自分が居るというアイデア、理論です。この体無しに思考も感情も湧かないではないか!その証拠に熟睡中は何も湧いていない!ということです。ですが実際は思考、感情が湧いた時にこの体の中に湧いたのだと信じ込んでいるだけです。マリオがゲームの中で味わう辛酸はマリオのものだと言い張るのと同じです。スーパーマリオの中で辛酸を味わっているのはマリオではなくプレイヤーです。

自分至上最悪の出来事、自殺について

最大のタブーに切り込む

全体から自らが分かれた状態、自分にとって最低最悪の事件が自殺です。自らの命を自らが断つということになります。自身にとっても周囲にとっても最悪な出来事であることは間違いありません。ですがこれを全体の視点に経ってみたらどうなるか?例えば自分の友人が自殺をしたとしましょう、その事実だけを自分が認識する時、友人は大いに苦しみ大いに悩みその決断をしたんだろう、、自分に何かできることはなかったか?自分がもっと優しくしていれば、、、こんな思いが間違いなく湧くでしょう。ですが真実をお伝えすればそれは全体が起こしたただの現象です。自分以外に起きたものは全て全体が起こしたゲーム上の現象です。無礼承知でお伝えすればスーパーマリオに出てくるクッパがゲームの中で死んでしまっただけということになります。クッパが苦しんだという事実はなくただゲーム上でそうなりました、終わり。勿論亡くなった友人の部屋を調べれば苦しみの日記や手紙が出てくるかもしれません、ですがそれも亡くなった後に全体がそれを起こしただけです。失礼承知で続けますがスーパーマリオのゲームにおいて自分はマリオだけ、それ以外は全部ゲーム上の出来事になり他のキャラの自由意志はそこにはありません。

自分は常に周囲の行動に振り回されるが

自分は両親の離婚、両親の死、友人の闘病、友人の投獄、、、、、に常に振り回されます。それがこの自分劇場のデフォルトです。ですが真実をお伝えすればそれらはスーパーマリオゲームでの脇役キャラでの出来事、そこに意味は何もありません。意味があるように確実に見えますが。この辺りはこの自分劇場最終段階のネタバレになってきます。映画の中の「七人の侍」ではもしかしたら次々に仲間が戦いの中で死んでいくかもしれません、ですがそれも映画の中での脇役がただ死んだだけ、、、そう見えるだけ。。。映画ですからそこに意味はないのです。自分は間違いなく居ます、この体の中に錯覚として。ですがこれは全体が自分錯覚を起こしているだけです。友人の死や両親の死を悲しむことはない、、、そんなことを言いたいわけではありません。全体という絶対に失われることがない存在が失うという経験をしたくて起こしたのがこの自分劇場だということです。

ネタバレが腹落ちすると死が怖くなくなる、、、

自分というものが全体から分かれたモノであるということ、実際には分かれることはできず分かれたという錯覚が起こっただけということ。このことが徐々に腹落ちできるようになってきますと死にたいする恐怖心がなくなってきます。これは全体最大のジョークであることが分かってきます。ジョークですがこの人生劇場に真剣に取り組んだ方がオチでしっかりとズッコケることができます。吉本新喜劇でもたまに真剣モードがないと笑いになりません。最初から最後までボケ倒しでは笑いは起きなくなります。一方このブログを書いている自分はこの自分劇場をまだ終わらせたいとは思っていません、ですから死にたくはない。ですがかつての死を恐れる感情はとうの昔に終わりました。特に死んだ後に対する恐怖、どこへ行くのだろう?という漠然とした不安は今はもうないと断言できます。自分というこの全体の錯覚、ジョークが終わり全体に戻るだけです。だからこそこのジョークが継続されるうちはこのジョークを最大限楽しもうと思います。

最大のタブーに切り込む

この体に自分が居ないならどこに居るのか?

この体の中には自分が居ません。浮かび上がる思考、浮かび上がる感情がこの体の中で発生しているという錯覚、認識があるだけです。この体の中で思考、感情が浮かび上がっているという証拠はどこにあるのか?勿論脳に何かしらの磁気を当てて調べれば思考、感情と脳の関係はデータとして上がるでしょう。ですがそれによって思考、感情はこの体のものだという考え方は極論です。思考と感情がこの体とは一切関係ない場所で湧いている、、そう捉えて見てください。不思議な気づきに襲われます。例えば思考と感情は別次元に起こっていてそれをこの体がキャッチしているという捉え方です。すると突然この体の中に自分は居なかったという気づきが起きます。

思考と感情は違う場所で発生しているとしてもこの体主体であることは事実ではないか、、、

仮に思考や感情が全くの別次元で発生しているとしても、この体が関わっているならば結局は自分は体ではないか?それは当然の見解です。感情、思考が湧き出る場所がどこだろうと体が主体になってそれが起こるならば何も変わらない、、、ここが重要なポイントです。全体が体に成り切っているのです、だからこそこの体の動きに反応して思考や感情が湧いてくるのです。この体はスーパーマリオのマリオのようなものスーパーマリオゲーム自体がマリオに成り切っているのでマリオを操作するとあらゆる感情、思考がゲームの中に湧き上がるという仕組みです。思考や感情がマリオの中に湧いている必要はないのです。

湧いてくる感情、湧いてくる思考をマリオの中だと認識する思考がゲームの中で湧いてくる

そろそろ気づいてきたと思います。スーパーマリオというゲーム本体がマリオに成り切ってこのマリオ人生を歩んでいく、マリオに起きる事件、事故によって思考、感情が湧くが、、、それはマリオの中で湧いたとする思考も同時に湧く(自我)ということでこの勘違いは延々に続いていくのです。人間というのは集団でこれを行なっている民族であるということです。

人生の勘違い

テクノロジー進化の秘密

人間というのは面白いものでこの体の中に自分が居るというこの感覚に絶対的な自信を持っています。なぜかと言えば、、、友人も親も、会社の同僚も、TVに映るタレントも、町内会のおじさんも、、みんなそう信じているからです。大統領も、ノーベル賞受賞者も、日本国宝者も、マザーテレサもです。みんなが全員そう信じて疑わないのだからそれが真実である、、、これが人間という動物の中の一種だけが頑なに信じることです。この体の中に自分が居る、、、一方他の動物はどうでしょう?鶏も猫も、ライオンも、魚も、虫も、、、どの種もこの体の中に自分が居るとは信じていません。断言できます。なぜかと言えば信じるには言葉が必要だからです。言語を持たない(発達していない)種に何かを信じるという芸当はできないのです。ということで地球の頂点に君臨する人間様だけがこの体の中に自分が居ると信じている、ということになります。一方、体の中に自分が居るというアイデアはこの人間という種の発展に貢献しました、他の種では絶対的にできないような繁栄を極めました。テクノロージーを発展させ地球に人間の住めない場所はない、、というところまで居住空間を広めていったのです。

その一方で人間のストレスは何も解消されていない

この体の中に自分が居るというアイデアは、人間に脅威の発展をもたらしました。ですがその一方で人間は果たして幸福になったのか?ということです。人間は確かに年々文明が進化し産業革命、IT革命と便利を極めています。ですが幸福度という点に関しては実はあまり変わっていない、、、ここを追求する科学者は中々いません。国家をあげて国民の幸福度調査に乗り出すということも今後ないでしょう。なぜか?調査をすれば壊滅的なデータがでてしまうからです。結論から言えば「人間が発展できたのは人間が不足感製造機だから」ということになります。人間とは不足感、孤独感、分離感製造機なのです。この体に自分が居るという誤認識は常に居心地の悪さを生み出します。それを解消すべくあらゆるテクノロジーが発展しました。

最大のタブー「この体の中に自分がいない」

人間は脳が発達して言語を操るようになりました、その結果この体の中に自分が居るという認識をでの人間全体で保有するようになりました。これは言語がなくてはできません。その証拠に生まれてきた赤ちゃんはその後何年にも渡って「太郎くん」と呼ばれ続けます、これはこの体の中に太郎という全体から分離した存在が居るという洗脳です。そこには勿論悪意はありません、言語を使いこなすことで人間という種はそこまで進化してしまったのです。つまり自分という存在をこの体の中に作り出すほどに進化したということです。湧いてくる思考も感情も、、この体の中で起こっているという認識を作り出したのです。スーパーマリオというゲームの中でクッパが進化を独自繰り返し、、突然意識を持ったようなものです。そしてクッパはまさかのマリオの邪魔をしなくなるという結末、マリオと一緒にピーチ姫を救うと言い出す始末。

偽りの自分はメリットを聞きたがる

偽りの自分は不足感でできている

これは夢です、神が見る夢です。この夢の中で神が人間になり切って、人間がいるかのような状況を作り出しこの夢物語を歩みます。人間が実際に実在するわけではありません、人間が実在しているかのように見える世界を神が作ったのです。マリオがいてクッパがいてクリボーがいてスーパーマリオは完成します。同じように主人公(私)と脇役を多数配置してこの錯覚ゲームはリアリティーが出て来ます。これは神が作った夢、ゲームですからリアリティーさにかけては右に出るものはありません。全知全能の神が無知無能の人間を作り出しそれに成り切っているわけですからこのゲーム、夢は不足感全開、欠乏感全開、、これがポイントになります。無知無能の人間が欠乏感全開になった時にどういう行動をとるか?メリットを追求します。コスパを追求します。損得を追求します。これが答えです。

五感+思考+感情、、これに脳の記憶装置を加えて完成

神が見る夢では人間(本当はいない)に五感を与え、見えて聞こえて、触れて、味わえて、嗅げる機能をつけると同時にその世界を現象化、バーチャル化、リアル化しました。人間の五感機能分だけ世界がリアライズされるのです。さらにこれに思考を加え、感情を加えることで不足感をいかに解消していくか、、思考を繰り返しながら観念を作り上げていきます。それに記憶力を加えることで過去を作り出しストーリーが完成します。湧き上がる不足感をあらゆる観念が感情化しそれを思考で解決していこうという試みになります。

不足感全開の無知無能人間は最初はメリットを重視するが、、

神にとって人間は無知無能です。その人間は不足感全開になりそれをなんとかして解決しようと行動します。人間ができることと言えばなるべく損をしないで生きたい、将来後悔しないような人生を歩みたいということになります。周囲から教えてもらう損が少ない人生を目指すようになるのです。進学しかり就職しかり結婚しかりです。ですがどこまで行っても消えないこの不足感は常に自分を追ってきます。この損しない生き方ゲームは死ぬまで続くのだろうか?ということです。神は人間を無知無能に作りはしましたがそれは不幸に浸かれと言っているわけではありません。その状況から神に戻ることを最終ゴールにしています。このブログでは神が教えてくれるあらゆるヒントを掲載します。

どうせ夢ならば遊び倒す

夢だからこそ真剣に生きる

これは夢です、ワンネスの見る夢です、神が見る夢です。夢の中で人間扮する神が人間活動をする夢です。夢ならば本気になれない、夢ならばしらける、夢ならば適当に生きよう、、これも理解できます。ですがなぜこの夢を神、ワンネスが作ったかを考えればそれは間違いであることが理解できます。神は完璧、安全、安堵、平和、愛そのものでありだからこそそれ以外の経験を積みたかった、これが答えです。だとすれば適当に生きるよりも真剣に生きる方が様々な感情を得ることができます。この夢、ゲームを真剣に遊び倒すことでその目的は達成できます。

失敗、失望、落ち込み、は夢、ゲームの醍醐味

スーパーマリオを真剣にプレイしない人間はゲームで感動もありません。真剣にこれに打ち込むことで感動があります。真剣だからこそ失敗すれば悔しいし、落ち込むし、頑張れる、、そして上手くいったならば感動、幸福、歓喜も訪れます。ゲームは真剣だからこそ面白いのです。この夢、神が作った夢も同じ、真剣に遊び倒すのが正解です。夢ですからどうせ大したことがない、、だからこそ真剣に遊んでしまうということです。夢中になること、無心になること、無思考になることで遊びながら神になる、歓喜になる、平和になれたらさらに最高です。

夢だからこそ映画のように生きれる

人間がハリウッド映画に魅了されるのは信じられないほどにスペクタルな人生をそこに観れるからです。自分の人生では絶対にできないようなチャレンジをそこに観れるからです。ですがこれが夢であると分かってしまったらもう映画に負ける必要はありません。映画の主人公ばりに人生をチャレンジで満たすことは可能です。映画はなぜ深刻な気持ちで観なくて済むか?それは幻想、ドラマ、作り物だからですよね。そうしたらこれも夢です。これも幻想です。これも神が見る夢です。何を恐れる必要があるか?という話になります。

マリオは敵キャラの存在でキャラ立ちする

敵キャラの存在はこのゲームにのめり込むための道具

敵キャラがいなければマリオはスーパーマリオというゲームにのめり込めません。マリオは本当はゲーム上のキャラでありこのマリオに成り切るためにはどうしても敵キャラが必要になるのです。敵キャラが継続的に現れてくれるおかげでさもマリオが実在しているように感じるのです。まるでマリオが実際に生きているかのような錯覚を持つことができるのです。この地球ゲーム、人間ゲームも全く同じです、あらゆる敵が現れてくれるおかげでさも人間という個人が実在しているかのような錯覚を持てるのです。

あらゆるアイテムもゲームにリアリティーを持たせる道具

スターもキノコ、これらアイテムもスーパーマリオにリアリティーを持たせる道具です。これらのアイテムを手に入れることでゲームに多様性を持たせよりリアルにこのゲームを体感できるように設定されています。本当はマリオは実在しません、スーパーマリオゲームという夢の中にだけ存在します。だからこそあらゆるアイテムを用意することで夢に没入できるのです。さもマリオが実在するかのような錯覚を起こすことができます。

地球ゲーム、スーパー人間はリアリティーの塊

人間が主人公ですからゲーム名はスーパー人間です。このゲームの中で人間は多種多様な敵、多種多様な仲間、多種多様なアイテムと出会うことで圧倒的にリアルな経験を積んでいきます。スーパーマリオの10000倍リアリティーのあるゲームです。GOOGLEグラスというアイテムが出ましたがこの100000倍リアルにゲーム展開します。今後任天堂グラス、PLAYSTATIONグラス、アップルグラス、と様々なゲーム用グラスが売られるでしょうが神グラス、ワンネスグラス、大いなる一つグラスに勝てるものが出ることはありません。

この小さい体に自分がいるという錯覚

世界中でこの小さい体の中に自分を発見した人はいない

ついにこの体の中に自分を発見しました!そのようなニュースを耳にした人はいません。そのような発見をした人がいたらノーベル賞でしょう。国民栄誉賞です。ですが実際はそのような発見が今後されることはないでしょう。というのはこの小さな体の中に自分はいないからです。今私はこのブログを自身の手を使って思考を使って目を使って書いていますがこの体の中に自分はいません。勿論体にナイフを刺してみれば血も出れば肉片も出るでしょう。ですが=自分がいる、とはならないのです。

経験はある、だが経験者はいない

このブログを書くという経験はあります、この文章を書いているという経験もあります、ですがこのブログを書いている経験者がいるというのは錯覚です。これは神の見る夢です、夢の中で人間と呼ばれる者が登場し、自分という者も登場します。ですがそれは全て夢です。夢の中の登場人物に実在の証明をしようとしても無駄です。般若心経では空即是色と言ってこの見える世界を色と表現しました。具体的には色であり、匂であり、触であり、味であり、音です。空がこれらの表現をしています。これを感じるから自分と感じる(錯覚する)人間がいます。バーチャル体験があるから体験者がいるという錯覚を持てます。これだけの多様な感覚があるのだからそれを経験する経験者(人間)がいるという錯覚をできる、これが神(一なるエネルギー)が創造した夢です。

諸行無常を経験できる、、だから経験者がいるという錯覚

スーパーマリオというゲームは非常に楽しい、クリぼうには手こずるし、クッパの動きは読めない、ヨッシーは頼りになる、、ピーチ姫は可愛い、、と感じる、、だからマリオは絶対にいる、、、こういう錯覚です。我々はこの空想、幻想の世界で明らかな体験を経験しています。疑いようのない感覚、経験です。だからこそ自分(人間)は実在しているという錯覚ゲーム、神の夢を見ることができるのです。地球に裏側まで飛行機で行けばそこにはブラジル大陸があって、間違いなくブラジル人がそこにいることを発見できる、だから自分は居るんだ、これが夢です。

神が作ったこの夢の中で主人公(私)は他の登場人物の心配不要

スライムの心配をする勇者はいない

ドラゴンクエストで昨日退治したスライムを心配するプレイヤーはいません。マリオカートで二位に蹴落としてしまったクッパを心配をするプレイヤーはいません。ポケモンで退治したモンスターを思いやるプレイヤーはいません。もう分かりましたよね、この夢物語、現実社会で主人公である私が攻撃してしまったので相手のことを何ヶ月も心配する必要は一切ないのです。残念ながら主人公以外に自由意志や隠れた感情はありません。とてつもなく傷ついたと言ってきたとしてもそれはそいう表現が生まれただけです。クッパが本当に傷ついたとマリオにゲームで伝えてきてもその状況は事実でも本当ではありません、ゲーム上そうなっただけです。ですから我々は他人の心配は今後一切する必要がありません。そんなことよりも私のこの不足感、欠乏感、孤独感を埋めることだけを考えればいいのです。

スライムは悪意があって勇者を攻撃したのではない

逆に言えばあなたがどんなに酷い扱いを他人から受けたとしてもそれはあくまで夢、ゲームの中であってそこに悪意はありません。信じられないかもしれませんがゲームと同じですからそうなります。勿論その相手に真意を尋ね、なぜこのような扱いをしたのか?と聞き倒せば何かしらの感情を吐露するでしょう、相手は。ですがこれもゲーム上そう言っているだけであってそこには実は何もないのです、夢ですから。多くの方はなぜ?このような扱いを?なぜあいつはこんな性格なのか?なぜ?と三日三晩考えてしまうかもしれませんがそれはスライムに攻撃した理由を聞き続けるのと同じぐらい愚かなことです。

スライムが嫌いならば遠ざけるそれだけ

勘違いをしてはいけないのはだからと言って他人からの攻撃を無抵抗で受けろということでは断じてありません。ガンガン抵抗しやり返せばいいのです。重要なことは相手のその攻撃に理由がないということです、これは夢です。夢での行動に理由はないのです。夢の創造主が勝手にそうしただけです。人間のような高度な頭脳を持った存在であって相手はスライムではない、、このように思う人もいるかもしれません。ですがこれは神が作った夢です、神のコントロールなしにこの夢が進展するはずがないのです。神の許可なく動ける登場人物はいません。

神は人間に成り切ってはいるが「私はある」というこの感覚は神の感覚でしかない

今ここに「居る」という感覚は神の感覚

これは神夢です、神が創造した夢です。人間を主人公(私)にしてこの夢を創造しました。神は人間に成り切ることでこの夢はスタートしていますがでは神感覚と人間の感覚はどのように区別すればいいのでしょうか?区別はできません、なぜならば人間も神の創造物だからです。思考が湧き、感情が湧き、五感を感じているのは全て人間扮する神です。神が今この瞬間も自身を人間と勘違いしながらこの夢、ゲームを堪能しているのです。

この世に苦しめる神など存在するのか?

この人間活動を認識しているのは神ですから苦しみも切なさも、息苦しさも、孤独感も神が感じています。人間のフリをして。神以外が認識することはできません、人間とは姿形の生命現象であってこれは独立したものではありません。神がこの夢の中を活動するための仮の姿です。マリオに感情はありません、マリオを使ってゲームをクリアした時に喜んでいるのはプレーヤーです。これはこの夢物語でも同じです。マリオを使ってに喜怒哀楽は全部プレーヤーが感じているのであってマリオではありません。マリオの使い勝手の悪さも、マリオのジャンプ力の低さに対する苛立ちも、マリオが横にしか動けないもどかしさも全部プレーヤーが感じています。

人間としての孤独感は、一番の勘違い

人間活動の最も大きな要素は孤独感をいかに感じないようにするか?これをクリアするために朝から晩まで我々は人と触れ合い続けています。どんなに人間関係が苦しくてしんどくても我々は人間を求めます。神が作ったこの夢で主人公はこの私ですがそれ以外は全部神が作った脇役です。主人公とは全くの別物、別次元です。ですからこの夢の中で多くの友人、知人、家族に囲まれてもこの孤独感が埋まることはないのです。神が扮するこの主人公(私)が実は神であったと気づくまでこの孤独感は続きます。