波と海の関係

自身が海だったと気づいた時に生まれてきた時はそうだったと気づく

海だった時を忘れているだけ

自身を海ではなく波だと勘違いし続けていてもいずれは自身が海であることを再認識する時は訪れます。本当は海であるわけだから勘違いし続ける方が無理があるのです。もちろんこの勘違い自体を海が行なっているわけですから無理がないと言えばないのですが。どちらにしてもこの大いなるジョークが解けた時に海に戻るわけです、海が海に戻るわけですからそれは感動であると同時に当たり前の感覚に戻ると言うことになります。

海上の波と同様に止まれば波は消えてしまう

波が自身を海であると再認識するために物理的に行うべきことがあるとしたら止まることです。波は止まってしまえば海に戻ります。これは人間も同じで止まってしまえば大いなる一つに戻ります、人間が止まるのは何を止めるのか、それが思考です。思考を止めるとそこには海が広がっています。思考、行動を止めた時に広がる世界それは海、大いなる一つ、存在です。

人間がこの幻想ゲームの中で動き続ける理由

人間がこの幻想ゲームの中で日々慌ただしく動き続ける理由は、このゲームに留まり続けるためです。止まってしまったら波が海に戻るように、人間もワンネス、存在に戻ります。思考を使い続けなければ人間は存在に戻ります。無我で居続ければ自我は無我に戻ります、無我が自我を解体します。自我は自我を存続し続けるために次から次へと思考を必要する行動を取り続けるのです。波が波であり続けるためには動き続け、人間も自我が自我であり続けるために思考し続けます。

相手の要望を叶え続けるのが不可能な理由

海が自身を波だと勘違いしている時点で、、

自分のことを波だと勘違いしている海の要望を叶え続けることなど不可能です。なぜならば波が多少大きくなっても、豊かになっても、高くなっても、どんなに頑張っても本来の大きさになることなど不可能だからです。付き合ってるパートナーの要望を叶え続けても絶対に最終的に破綻がくるのはそのよの欲望は自身が波ではなく海であったことを思い出さない限り延々に続くことがわかっているからです。仏教で言う足るを知るなど自身を波だと勘違いしている存在にとっては一生理解できない言葉、戯言です。

巨人軍が何回優勝しても満足できないオーナー

ナベツネで有名な巨人軍オーナーですが巨人が何回優勝したって満足できないのは彼が海ではなく自身を波だと勘違いしているからです。自身の野球チームが何回優勝したって自身が海に戻るほどの感動を覚えないのは当然です。この欲望は尽きることがないのです。どこまでいっても無限地獄、人間の欲が歯止めが効かないのは当たり前のこと、程々で満足しているなど戯言です。

要望をなかったことにして生きていても絶望が襲ってくる

人間が中から湧いてくる欲望は自身が実は海だったことの記憶が作り出していますからそこを無視したり、抑えても絶対に上手くいかないのです。無視すればするほど、抑えれば抑えるほどにそのエネルギーはコップに溜まっていきいずれは爆発します。そうではなくこの欲望を使って無我夢中に入る、もしくはこの構造を俯瞰して理解し自身が海であることを腹落ちさせること以外にこの無限地獄から脱却する方法はありません。無我夢中になってそこから海になるか、、欲望をしっかりと見つめこの欲望がどこから出てきたのかを見定めるのです。出てきた場所は海です。

なぜ大海原である海が自身をちっぽけな波だと勘違いする珍現象が生まれたのか

大海原は波としての冒険をやってみたかった

大海原は大海原ゆえに何もそこには起きません。津波が起きようと、海底火山が起きようと、、、何が起きてもそれは自身が姿を変容させただけのこと。そこに何の感情も起きなければ感動も退屈もない、、何もないのです。そこで大海原は自身を波と勘違いすることで再び波物語というドラマを作り出したのです。自身を小さな波であると勘違いすることができれば大きな波との出会い、小さな波との出会い、さらに格闘、和解、取引、平和、争い、、、あらゆる事件をそこに起こすことができるのです。

波での人生はエキサイティングだが苦しい

波としての人生は大変エキサイティングです。何しろ自身以外に広大な世界が広がりそこには別個の波が広がっています。穏やかな波も、激しい波も、喧嘩っ早い波も、愛情豊かな波もいて毎日が新鮮、刺激的でしかありません。そして最も大きな刺激、それは自身が実は波ではなく大海原であったという気づきです。こんな大どんでん返し、こんな結末、こんなドッキリ企画の種明かし聞いたことがない。

海はあらゆる場面で独立した波が実は海であると気づくようなヒントを与えている

海は波に対し実はあらゆるヒントを与えていました。本当はあなたは波ではなく海の一部だよと。例えばゲームに熱中する時に訪れる安心感、安堵感、幸福感、歓喜、、これらはゲームに無我夢中になったときに訪れます。ゲーム自体にそのような仕掛けがあるのではありません、ゲームに夢中になれたときに自分自身を忘れています。この時波は自身が波であるというこの勘違いを忘れることができるのですがその時に訪れる安堵感、安心感、歓喜こそが自身が海であることの感覚です。自分を忘れればそこには海しかありません。このように波は何かに夢中になった時、無我夢中になった時に押し寄せてくる安堵感を生活の中で実感していたのです。この安堵感はなんだ?この歓喜はなんだ?なぜか懐かしいこの感覚は一体どこからきたのか?それは遠い場所から来たのではなく自身(波)の存在を忘れることで海(本当の自分)が押し寄せてくる感覚だったのです。

海として生まれてきた者を波であると洗脳するには7年間の歳月がかかる

赤ちゃんは海としてこの世に生まれてくる

赤ちゃんがなぜ生まれてきて大人とコミュニケーションができないのか?それは彼ら彼女らは見た目は別個の存在ですが感覚は海として生まれてきているのです。そのため海が海とコミュニケーションしようとします、そこに言葉を介在する必要がないのは明らかです。海が海としてコミュニケーションするというのはあり得ることではないからです。ところが赤ちゃんは戸惑います、自分にミルクをくれるこの海(母)はコミュニケーションが伝わらないと。そして途中で気づくのです、目の前の海(母)は以心伝心できる相手ではないと。そこからはひたすらに父(別個の波と思い込む海)と母(別個の波と思い込む海)による別個の波であるという洗脳が赤ちゃん(海)に続くわけです。

7年間かけて完全洗脳が完成する

海として生まれてきた赤ちゃんにあなたは海とは別個の独立した波であるという洗脳、勘違いを起こさせていきます。これを人間界んでは教育と呼びます。波の世界の言語、概念、考え方、波として生き延びるためのサバイバル方法に至るまで、、延々とこの教育は続くわけです。赤ちゃんが完全に独立した波であるという実感を覚えるのにかかる歳月は7年ぐらいと言われています、7年間の歳月を使って叩き込まれたこの固定観念はそう簡単に解けるわけがなく故に子供になった赤ちゃんはもう自分の意思ではほぼこの洗脳を解けずに人生を終了させるわけです。それもそのはずいくら苦しみ悩んでもそれを解決しようとする思考が波言語だからです。思考を使えば使うほどに自身は海ではなく波であるという洗脳が強化されるのです。言葉は自身は波であるという大前提に作られています。波が作り出した言葉、思考を使って自身が海であったという記憶が戻るわけがないのです。逆に言えば言葉、思考こそが波を波で居続けるさせの、海であった時の記憶を思い出させないための最強の砦でもあるのです。言葉の主語は基本別個の独立した波であることが多く、言葉の基本構造が波の独自性を強固にするのです。

なぜ独立した波を前提にした理論が破綻しないのか

本来は海であるにも関わらず自身を独立した波であると思い続けるのは実は苦しいことです、なぜならば実際は間違いなく波は海の一部でありしかも独立していないからです。独立していると思い込むことはできても事実は独立していないのです。こんな矛盾を抱え続けて生きているのが人間という勘違い生命体です。こんな勘違いした生命体がルールを決め、法律を決め、道徳を決め、正義を決めてお互いを監視し合って生きているのですからそこに争いが絶えないのは当然のことです。お互いがお互いを勘違いしながら生きていて平和な関係が続くわけがないのです。世の中の悩みの7割近くが人間関係であるのは当然のこと。自身を独立した波であるという大きなる勘違いをした者同士の関係性はいずれ破綻を迎えます。

大いなる勘違いをした状態で日々前を向いて生きていこうとすればあらゆる幸福マニュアルが必要になる

自身を海ではなく独立した波であると勘違いした状態でそれでも生きていかなければならないのがこの人間ゲームです。当然苦しいわけです、なぜこんなに小さいのか、力がないのか、影響力がないのか、人気がないのか、稼げないのか、貧しいのか、、、とあらゆる不足感、孤独感、渇望感、絶望感が襲ってきます、それはそのはず海の広大な感覚、海の喜び、歓喜、海の安心感を知っている(当たり前)存在が自身を波と勘違いすればあらゆる感情が中から湧いてくるのは当然です。しかも生まれてきた時(赤ちゃん)は間違いなく海として生まれてきたのです。喪失感たるや半端ないのです。だからこそ芸能人はバレても不倫をするし、犯罪もするし、お金持ちがなぜか万引きをする、成功者がなぜか他人を羨むという珍現象が生まれるのです。それもこれも初期設定の勘違い、大海原が自身を波だと勘違いしたことからこの不幸は始まります。

海であることを忘れた波は無価値観を感じながら生きていく

海であることを忘れた波は自分は小さいという無価値観を持つ

本当は広大な海であるにも関わらずその中のごくごく一部の波であるという錯覚、自覚、誤解を抱えた波は地震には価値がないと当然思うようになります。この広大な大海原で1%にも満たないこの小さな波に価値を見出すのは難しいものです。この無価値観をベースに今後この波を人生を歩んでいくことになるのです。これが波物語無価値観編です。

無価値観をベースに物語を作っていくからこれは辛い旅になる

自分自身は本当に小さく、弱く、影響力もなく無価値な存在であるという初期設定をした波はその後この観念をベースに大海原を動きていく旅を続けていくわけです。これは非常に辛い旅です。ですが実際は波ではなく海ですからこれほど悲惨な勘違い、大間違い、大誤解はないのです。そして自分にとって都合の悪い事件が起こる度にこの無価値観という観念を強化していくことになるのです。無価値な波が何を手に入れようと、何を達成しようとそもそもの設定が無価値ですから不毛感が無くなることは絶対にないのです。

ふと自身が海であることを思い出してしまう波が現れる

キリスト、ブッタ、トニーパーソンズ、ラマナ・マハルシ・大和田菜穂さん・雲こくさいさん、、などといった覚者と呼ばれる人がたまに現れるのは当然です。無価値だと思い込んでいた波が突然自身は海であることを思い出すという事故が起きるのは当然だからです。なぜならば波として生きながらもそこにはしっかりと常に大海原が広がり1秒たりとも自身からこの大海原が離れたことはないからです。無価値である波と思い込む観念以外そこには最初から何もなくただ海が最初から広がっていたのです。

海であることを忘れた波は孤独と欠乏感、不足感を抱えて生きていく

海であることを忘れてしまった波は疲労困憊になるまで波で居続ける

我々人間は生まれてきたときは海が波の形をとって生まれてきます、そしてそのときは海としてまだ生きています。ですがそこから7年間かけてあなたは波であって海ではないという教育、洗脳を受けていきます。この洗脳が完成するのが小学校二・三年生でしょうか。そこで圧倒的に自分は小さな存在でありここから必死に波として生きていかないことを教え込まれるわけです。あなたは小さな波なのだから努力し、仕事をし、周囲に気を使って生きていかければならないと教え込まれます。そうか自分はちっぽけな波なんだと覚悟を決めた波から受験勉強、就職競争、出世競争、結婚、子育てと、、逞しく波として戦っていくわけです。そしてどこまで戦っても、どこまで逞しく生きても一向に楽にならないこの波としての人生に徐々に疲れていくのです。

疲れ果てた波はもう逞しく生きることに興味がなくなる

逞しく生きてきた波はあるとき気づくわけです、、どんなに受験戦争で勝ち抜き、出世競争に勝ち抜き、子供のお受験に勝ち抜いてもいつまで経ってもこの孤独感、不足感、欠乏感はなくならないと。どこかで無くなると聞いていたこの渇望感はおそらくこのまま生きていてもなくなることはないだろうと。そこで急にこの波として人生に嫌気がさし死を意識する波まで現れるのです。もしくはたまたま悟り、ノンデュアリティーなどの情報に触れた波はそこに強烈な興味を抱きます。

波として至福になることができないのならば死を選ぶか目覚めしかない

リア充と呼ばれるような生活や、幸せと言われるような生活をしているにも関わらず満たされない感情を抱え続ける波は、死ぬか、覚醒するしか道がないことにどこかで気づきます。自分を波だと思っている限りは至福に至れないことを腹の底から理解した波は運が悪ければ死を選び至福(海)に帰るか、波の形を残しながらも海に戻る(覚醒)を目指します。我々が見ているこの世界は波という自覚を持つことで誕生した夢、幻想、現象界です。波物語という夢から覚めることを強烈に意識して生きていく、そのお手伝いをするのがこのブログです。