悟り(非二元)解説

変われども変われども

視界

我々は生まれてから死ぬまで変化し続ける「視界」として生きていきます。熟睡時以外はひたすらに変化する「視界」です。視界の中でが五感バリバリ、、、思考全開感情全開です。3歳ぐらいになると「視界」の中に「自分」と呼ばれる存在が現れでてきます、、そしてその自分がこの世界の主人公であるという思考が現れます。すると「視界」から「違う!!!」という感覚が起こるわけです。この「違う」という声が起こった時、、この「違う」をこの主人公が解決しなくては!!!という災害が起こります。「視界」は我々の本性ですが、、「視界」が「その考えは違っていて本当のあなたはこの視界のことだよ」と伝えようにも伝える「誰か」がいるわけではありません。

ただ起こる

視界の中に「この体こそがあなたよ」と伝える両親は現れても、、、その両親とは視界の中に映像に過ぎないので、、両親の誤解を解くことができません。「視界」そのものには自由意志もないので、、「視界」はただ起こることを認識することしかできないのです。結果この「視界」の中で起こることは無法地帯、自然現象、あるがままです。「視界」誕生以降、、「視界」が消滅するまで、、、視界の中を「コントロール」できる誰かは登場しません。

我々にできること

唯一たった唯一視界である我々にできることは「認識」これだけです。何が今起こっているかを認識することはできます。逆に言えば本当にこれしかできないのです。これまでは視界が認識していた全てを『「この体の中の私」が認識している』という思考が現れでてその認識が起こっていました。ですがその事実の認識が起こった以上、、認識以前に戻ることはもうできません。

認識以降

視界の中で全てがただ起こっていただけなんだ、、この認識が現れますと、、、、これまでの思考の連打が起こりません。勘違いの思考の連打が起こった時に「視界」としてそれを認識しているという新しい自覚が現れ、、「いやいやその思考違うやん」という思考が途中で現れでて思考の連打を強制終了させます。「だって私って視界ですやん」です。それがいつもいつも起こる時、、、不思議なことに気づくんです、、あれ?????めっちゃ静かなんですけど、、、、です。

どこにも行けない

視界としての自覚

「視界」であるという自覚のもとに1日を過ごしてみてください。。まさかのどこにも行っていないことが分かります。「視界」は激しく変わっていきますが、、、「視界」自体が「視界」でなくなることはなく、、、「視界」は「視界」そのものです。どこにも行けないのです。半端なく早く歩いても、、「視界」は「視界」のままなのです。「視界」の中で息が切れようが脈が激しく動こうが、、、「視界」はびくともしません。

音がする

音がします、、、遠くの方で音がします、、、ですがそれも視界の中です。後ろから音が聞こえようとも、、「視界」があって音がします。友人が話しかけてきます、、ですがそれも100%視界の中です。携帯の着信が鳴ります、、、、ですがそれも視界の中です。熟睡中に「携帯が鳴っていても」そのことに気付けるのは「視界」が現れてからです。

この体が私だ

「この体こそが私だ」この思考が現れることができるのは「視界」の中です。「この体は私ではない」この思考が現れ出るのも「視界」の中のみです。『「視界」が本当の私だとしたら、、この体はただの登場人物だよな』という思考も視界の中にしか現れでません。『この体のことみんな「〇〇君」って呼んでくれるから俺って「〇〇君」なんだな』という思考も視覚の中に現れでます。

どうする?????

どうするも何もこの「視界」が本当の私だという気づきが起こってしまたら、、もう「この体は私だ」には戻れません。なぜならばこの「視界」は常に常にここにあって無視できないからです。「この体が私だ」と思い込んでみても、、結局視界からは逃げれないのです。だから常に常に視界に引き戻されるんです。

何もしなくていいや

だから何にもしなくていいんです、、、、「視界」は最初から「視界」であって「視界」になれないなんてありません。なりたい「視界」にいつかなりたいんです、、、?????何それ?????「視界」はなりたいも糞も「変化」しかしません、、「何か」であり続けることが不可能です。一日中変化しっぱなしですから。

人生VS真実

綱引き

真実のメッセージがなかなか馴染みにくいのは「何十年間の勘違い」が相手だからです。真実のメッセージを聞いても「人生」に直後引き戻されます。じゃ!!戻ります!!!です。。そろそろ買い物に行って夕飯の支度をしなくちゃ!!!です。人生という大勘違い期間が強烈に長過ぎて、、、真実はその前に何度も打ち砕かれるわけです。ですが最後には真実が必ず勝利します、なぜか?????それはその勘違いすらも真実という土俵の上で繰り広げられているからです。勘違いが逃げ出せる場所はないのです。

人生という勘違い

人生がなぜいつまで経っても苦しいのか????それは人生が勘違いだからです。「人生がある」って本気で本気で信じてますよね??????だから苦しいんです。人生の中に「苦しみ」があるんじゃないんです。人生があるって信じることで「苦しみ」が発生しその「苦しみ」を人生の中で味わっていると勘違いしているんです。

いやー人生って世知辛いよね????

違います、、、人生には苦しみは存在しないんです、、、世知辛くも甘辛くもないんです。人生があると信じたことで「苦しみ」が発生し、、その「苦しみ」を人生の中に持ち込んで苦しい苦しいと叫んでいるんです。構造ミスです、科学的ミスです。そのミスをこの人生の中の「自分」が解決しようとフル回転でペダルを漕ぐから、、漕ぐことでさらに「苦しみ」が発生し、、、さらにペダルを全力で漕ぐというとんでもない喜劇が今起こっています。

まさか

とはいえ、、、このミスに気づくというのは大変大変難しい、、、、、なぜならば、、、、、友人知人、同僚、上司、先生、校長先生、学者、科学者、、どこを取っても、、、誰もこのミスに気づいていない、、、だから信じられないのです。もしかして、、、、が起こっても「ないない」で終わってしまうのです。空気を読まない全く読めない見かけ上の人間だけがある日興味を持ちます。もしかしてこれ全員勘違いしてんじゃね????です。

リアリティがあり過ぎる

視界

我々は視界です、、今見える「視界」これが我々の本性です。目を閉じてみてください「視界が黒くなりました」目を開きます「視界に色々な物が映ります」真っ暗だろうと、色鮮やかだろうと、、、両方視界には変わりはありません。夜夢を見る時「視界にはあらゆる物語が現れます」あれも「視界」です。熟睡状態の時「視界」が消えます。我々の本性が消えるんです。

夢の中で

一気に本題に入ります、、夢の中でラーメンを食べます、、、美味い!!!!!!!味がします、、え????なぜ?????なぜ紛れもない味がするんですか???????夢の中で最上級のコンサートに行きます。。音楽がハッキリと聞こえます。なぜ???????そうです、、我々は「視界」であってその中では何でも起こせるのです。そして目が覚めます「視界」が変わりますよ!!!!!はい、、、何でも味わえて、、、何でも触れて、、何でも聞けて、、、何でも、、、起こります。。。夢と何が違いますか??????何も違わないのです。なぜならば我々は「視界」だからです。

感じれるから物質がある??????

こうやって触れて、、、こうやって嗅げて、、、こうやって味わえるんだから、、、これは物質として100%存在します!!!!!!!うっそーん。。。。。。夢の中でさっきまで触りまくり、嗅ぎまくり、味わいまくり、、、やってましたやーん。。。。。夢の中で五感フル回転やってましたやーん、、、あなた。。。。そうです、、五感=物理的実在って嘘です。。。。五感は五感で、、、それが実際に実在しなくても起こせるんです。だから味わえるから嗅げるから「ラーメンは物質として100%ある」は嘘です。この体は物質として100%あるも嘘、、この体の中に自分が実在するも嘘です。

本当の私

本当の私とはこの「視界」でこの体ではありません、、この体は限りなく物質として存在しているように感じますが、、、、「感じる=実在」ではないことは夢が証明しているんです。我々はこの体を含む「視界」なんです。この視界は物質ではありません、よってこの体も体以外も物質ではない。我々は視界ですからその視界の中に分離は100%存在せず、、、よって「自分」と呼ばれる「視界」とは「自ら分かれた存在」も存在しません。もしも存在するとしたらそれは概念、妄想、空想としてです。

全部違う

引き寄せる?????

明るい服を着て明るい言葉を喋って夢を言葉にして夢を写真にして、、、そうやってそうやって人生を宝箱みたいに素敵にしていきましょう!!!!!分かるんです、、、そうです、、そうやってやっていけば変わって行きますよね、、色々。。。。。。でもどこか苦しくないですか??????どこかで何かが違うこと分かってますよね?????子供の頃のあの感じとは何かが違うの知ってますよね?????

視界

なぜ明るい服を着ると気分が良いんですか????素敵な服を着るとテンションが上がるんでしょうか?????我々が視界そのものだからです。その視界にチラチラその素敵な服が映るから気分が良いんです。視界が視界に映った素敵な服に喜んでいるんです。素敵な車が視界にチラチラ入れば気分が良いんです、我々は視界そのものですから。でもそれを私の服、私の車、私の私の、、、になっていく。。。。すると「何か違う」が湧いてくる、、、手に入れると「何か違う」が湧いてくるんです。当たり前です、、我々は視界であって何かを手に入れれる誰かではないからです。

手に入れた物に縛られていく

素敵な服、素敵な車、素敵なパートナー、素敵な仲間、素敵な家族、、素敵な家、、、それでいいんです。。。。それ自体は何も問題がない。。。。ところがその所有者は誰か?????となった瞬間に「何か違う」が起こるのです。だって所有者は本当は存在しないんです、、存在しないのに「私」とした瞬間「何かが違う」が起こります。本当は「視界」なんです、、その「視界」は本当はこの体の中の私は私じゃないことを知っています。だから即答で「何か違う」が湧くのです。

「何か違う」を消したくて

「何か違う」が湧くから、、、え??????これも違うの?????ウッソーン。。。。。が起こります。じゃあ仕方ない、、もう一人彼女を作ろう、、、仕方ない、、、奥さん以外にも彼女作るか、、、仕方ない、、、車もう一台購入しよう、、、仕方ない、、、会社もう一社だ、、、、、となるんです。「何か違う」っていうのはそういう意味の何か違うじゃないんです。。。「主語が違う」の何か違うなんです。

主語が違う

勘違い

私たちはどうやったって幸せにはなれません、、どう転んでも、、、3億円の宝くじに当たろうが、、、とんでもない最愛の人と結婚しようが、、どうやったって幸せにはなれないのです。なぜならば主語を間違えちゃったからです。ある時主語が入れ替わっちゃたんです。ある日突然私が私じゃなくなったんです。ある日突然気づいたらこの体の中の私を私と呼んでいたんです。そこからです、、なんかしんどい、、なんか違う、、、なんか違うけど、、やるしかないのか、、、の日々です。

毎日学校に行くのよ

ちゃんと寝なさい、、明日は学校なんだから。。。この言葉の行き先、向き先、、対象は「私」です。なんかしらないけれどこの体の中の「私」には色々色々やらなきゃいけないことがあって、、どうやらこの先、、死ぬまでやらないことをやっていかなくてはいけないようだ、、、、が起こります。何かが違う、、でも言葉にできない。。。こんなはずじゃないんだけれど、、話す相手が居ない。。。。

強引に

小学校高学年になればもう「この体の中の私」を疑うなどという発想はありません。すっかりとこの私になっています。この私の将来目標、、、、この私のなりたい仕事、、この私の理想の相手ができちゃっているんです。なんか違う、、、は消えてなくなり、、、、人生とは我慢することが当たり前に、、、なります。大人になるってそういうことだよね、、、です。

宇宙空間地球号では幸福にはなれない

諦める

宇宙空間地球号、、この生命体に乗っている期間は我々は幸福にはなれません。この地球という惑星に住んでいる以上は、、、我々は幸福にはなれない、、だからこの地球を脱出しなくてはいけません。今です、、今脱出するのです。。。今???????どうやって????????何千億円払ったって1ヶ月宇宙旅行も出来ませんよ。。。。。1円もかかりません、、、、無料です。無料でこの地球から今脱出できます。

そもそも住んでいなかったことに気づく

簡単です、、簡単過ぎるんです。。。我々はそもそもこの地球に住んですらいないのです。そのことに気づくだけです。え?????????住んでいない???????頭が狂っちゃったんですか???????狂っているのは我々の方です。広大な宇宙の小さな小さな地球号に乗ってとんでもないスピードで自転を繰り返しながら公転もし、、さらに太陽系すらも公転している??????いやいや忙し過ぎますよね????????やってないです、、そんなこと。。。。。。

視界だけがある

我々は実はこの「視界」の中に住んでいるんです。空間があってそれを目が「切り取っている」んじゃないんです。空間はないんです、「視界」だけがあるんです。広大な宇宙のこの目の前のスペースを切り取って見ているんじゃないんです、、「視界」のみあるんです。「視界」以外は存在しないんです。「視界」というのは空間ではありません、、、空間がある、、というのは思考です概念です。。。「視界」だけがあります。奥行きなど一切ありません。

奥行きゼロ

奥行きがあると信じていたから、、空間があると信じ、、、地球があると信じ、、、太陽系があると信じ、、銀河系があると信じ、、〇〇系があると信じ、、、、、宇宙の果てがあると信じてきたんです。。ないんです、、奥行きが、、、、「視界」だけがあります。もちろん、月に旅行に行けば「視界」に地球と呼ばれる星が映りますよ、、、でもそれは空間のことじゃなくて、、映像です。奥行きがないのですから。

ズッコケる

最初から我々はこの地球という星に一度も住んだことがなかったのです。「映像」だけがあったんです、、つまりその映像の中にこの「肉体」もありません、、、「肉体」と呼ばれる映像はあります。。。映像ですからこの「肉体」と肉体以外には境界線がありません、、、映像としてはあるように見えます、、でもないんです。だからこの肉体がこの地球に住むというのは空想です。。。本当はこの肉体の映像と地球と呼ばれる映像のみです。

なんで学校で教えてくれないの??????

学校で教えてくれるはずの先生が「映像」でしかないからです。「先生」という物体が存在しないんです、、「先生」と呼ばれる映像のみです、、その映像が教えてくれなかっただけです、、そこには意味はありません、、、たまたまそうだったという話です。

洒落にならない

この肉体に生を預かり??????この肉体は物体ではなく映像です、、預かりたくても預かる物体が存在しません。だからこの肉体に魂が存在したくても物体がないから入れないのです。私の体には先祖代々のご先祖様がついていて?????いやいやこの体映像ですから映像につくってどうやって??????

私とはこの「視界」

本当の私とはこの「視界」です。「視界」の中に「体」もあらゆる映像として写りはしますが「視界」そのものにはなれません。「視界」があって、、、その中にちょくちょく映るのがこの体です。この私は「視界」ですから物体でもなく、、何ものかではないんです。「視界」と視界を認識する「意織」です。じゃあこの「視界」はどこにあるんですか?????どこにも何も空間が存在しないのですから収まる場所がありません。「意織」はどこにあるんですか????意識も同じです、、、意識が収まる場所がないんです。

どこから生まれたの?????

我々とは「視界」ですから、、「視界」に時間は存在しません。ですからどこから生まれるというのは不可能なんです。視界は今「空」の鏡としてここにあります。視界は「絶対」の鏡としてここにあります。視界は「無限」の鏡としてここにあるのです。今私が「視界」として私を見ています。そして世界には「私」しかいないのですから「私」と「私以外」がありません。だから「空」のことを私とは呼びません。

五感が鈍ると思考に走る

五感が鈍ると食に走る

なぜ思考ばかりを巡らせてしまうのか???????五感では退屈しているからです。ただあるがままが退屈だから思考に走るのです。つまり妄想に耽るのです。ですがこの妄想は刺激的ですが「違和感」を伴います。だから苦しいわけです。苦しいからといってありがままでは退屈なわけです、、、だからこの違和感をさらに思考で解消しようとしますがその動きこそが「違和感」を生み出します。

五感が鈍った理由

この体の中には自分が居てこの私は生き抜くための努力を強いなければならない、、、この思い込みが「楽しい」よりも「やるべきこと」を優先するようになります。我慢して我慢してでもやるべきことをやる、、、これが体を鈍感にしていきます。体が鈍感になっていきますとこのあるがままの生が退屈になるので、、、思考に走るのです。妄想癖になっていくのです。

だから

重要なことは五感を開くのです、、体を整えて五感を開いていきます。体が整えば整うほど、、五感が開けば開くほど、、、ただあるがままの生が楽しくなります。妄想を求めなくなります。あらゆる癖が無くなっていきます、食癖、性癖、嗜好品癖、、、、なぜならばこれらは退屈に対する刺激ですから。なぜ〇〇中毒が解消しないかと言えば、、退屈が原因だからです。そしてその中毒こそがさらに体を鈍感にし退屈にしていくのです。

最初に物があって、、、

違う

最初に物、対象物があってそれが視界に映った、、、、そう人間は「考え」ます。違います、、、視界だけが存在します。物も対象物も存在しません。この世界には分離が100%ないので、、、私にはその対象物がこう映っています、、、というのは空想妄想幻想です。事実では、、そのままの視界だけが起こったのです。視界だけが最初に起こり、、その視界を利用して、、、「私がこのグラスを見た」というストーリーをぶち上げるのです。

GAPに行ってきた

今日GAPに買い物に行ってきたよ、、、違います、、、GAPというお店の映像がただ起こったのです。そこでTシャツを買いました、、、その画像の中で「お金」と「Tシャツ」が交換されて、、今ここにそれがあるのです。Tシャツがこの部屋の中に在るという映像に切り替わったのです。分離が100%存在しないこの世界に、、空間は存在しません。視界、画像の中にギャップと呼ばれる店が映し出され、、今部屋と呼ばれる画像に変わっているのです。

大革命

人類は革命の時を迎えたのです。真実をベースにした思考の中に住むのではなく真実そのものの中で思考が起こす作用を自覚して生きる、、という時代への革命です。思考がどのように真実をこねくり回しても真実が変わることは絶対にないのです。思考は常に真実を利用してああだこうだと騒ぐのです。思考が何をしているのか????そこに明晰に気づく、、これが悟りです。

空間がないのだから

頑張る?????

なぜ頑張らないといけないのでしょうか????だってこの世界で生きていくには頑張って働いて生き延びないといけないじゃないですか!!!この世界?????この世界ってどの世界のことですか?????ここですよ、、この体があってこの私が存在するこの場所です。この場所??????この場所ってのはこの「視界」のことですか????そうです!!!この視界に映るこの場所です!!!!これは視界であって場所ではないんです。「視界」それだけです。

視界

我々は「視界」があるからその視界に映る「場所」があると信じているんです。視界に映し出された「場所」があると信じています。ですがこの世界には分離がないんです。分離が絶対に絶対にないのです、、つまり「視界」と「その場所」の二つがあるのではなく「視界」だけが存在します。つまり視界に映し出された場所は絶対に絶対に存在しないのです。

え??????

友人が存在し、、その友人の姿が視界に現れたのではないんですか?????違います、、視界だけが存在します。「映る」という分離は存在しません。その視界のみが続くのです。何かがあってそれが私にはこう見えている、、ということではなく「視界」だけが存在します。

視界に映った魚

視界に小さな魚らしきものが写りました。人間はここからだとよく見えないから魚をもっと近くで見ようと「考え」ます。近くに行ったから魚がよく見えました、、となりますが、、、、実際には「魚らしきもの」があってそれが魚に変わったのです。え???????そうです、、、視界が全てですから「魚らしきもの」だったんです、、それが魚と呼ばれる何かに変わったのです。「私」が近づいたのではありません、画像がそのままに変わったのです。