観念

その人の価値観を否定する無駄

その人の価値観はその人の経験が作った

価値観を選ぶことは不可能です、、戦争を経験すればその経験が価値観を作ります、、、震災を経験すればその経験が価値観を作ります、、、多くの方はどこかに完全なる価値観が落ちているのではないか???と真剣に真剣に探したりしますがその行為が無駄なのは、、、価値観は経験からしか形成されないということです。そして究極の価値観、完璧な価値観がもしもあるのならば、、、人類はとうの昔にそれを発見し、、、、それを世界憲法として共有するはずなのです、、、それが今もないのは究極の価値観が存在しないからです。。

究極の価値観が存在しないならば、、、

探求者とは究極の価値観が絶対にあるはずだ、、、ということで本屋やあらゆる宗教、、ヨガ、禅、、、などを片っ端から制覇していく輩のことです。ところが究極の価値観は絶対にないので、、途中で夢破れ諦め、、、どうでもいいや、、、という究極の心境に至るのです。。。この「どうでもいいや」こそがサレンダー、降参を引き起こし、、、悟りが起きる場合もあります。。悟りとは究極のどうでもいいやだからです。

病気になるか悟りを開くか

究極の価値観を探してもどこにも存在せず、個人はあらゆる模索の旅にでるわけですがこの経験がさらに独自の価値観を作り続けていきます。。。新しい価値観はどこにあるのだという模索の旅が経験を作り価値観を強化していきます。。。そしてその価値観がさらに個人という存在を強化する、、、この強化が最大規模の強化になった時に「苦しい」が最大級になり、、、病気になるか悟りを急激に求めるようになるのです。

個人という存在の不在は、、価値観崩壊の核爆弾

個人が実は居ない、、、この事実を個人が絶対的に嫌うのは、、、そんなことを認めてしまったら、、これまでの価値観、個人が居るという前提の価値観が、、、大撃破、崩壊、粉砕するからです。。。。価値観を全部壊される、、、これが悟りの本性であり、、それゆえ悟りは多くの個人から嫌われ、拒絶され、、虐殺されるのです。その人の全経験、全価値観、全観念を木っ端微塵にぶち壊すのです。

最後の気づきが個人を壊しこれまでの全てを壊す

人間として価値観を積み上げるのは正しい

人間はこの体の中にアイデンティティーがあるという思考を学ぶますと、、このアイデンティティー、自我を通じた世界を経験していくことになります、、、この自分が何を経験したかが全部が全部記憶されていき、、太い太い価値観を徐々に形成していくのです。。戦争を経験した個人は、、食べていくためのお金は絶対に大切だという価値観が築かれ、、、災害を経験した個人は、、全ての財産は一瞬で奪われるという価値観が深く刻まれます。全くもって反対の価値観を各個人が所有していくのは、、、個人は置かれた環境、状況によって全く異なった経験を積むからです。個人とは価値観製造マシーンなのです。

価値観の共有は不可能

個人としての個人体験が全員が全員異なるわけですから、、、価値観は全員が異なります、、これがこの夢の世界での絶対的真理です。。人間関係とは価値観が全く異なる同士の関係ゆえに難しいのです、、、そしてそれぞれの価値観がなんであれ正しい価値観は一切存在しないのがどこまでいっても価値観はその人の経験からしか生まれないからです。私の価値観、他人の価値観には完全なるズレが生じます。これが個人間の争い、戦争に繋がります。

価値観自体を壊す

つまり人間は各々の独自の価値観を所有し、、その価値観に沿った世界を今見ています、、全く異なった世界を今みんなが生きているのです、、、、そしてどのような価値観を持とうと、、、その価値観は個人という存在を絶対的なものにしますから、、、全員が苦しくなるという共通点があります。逆に言えば苦しくない人は存在しないのです、、、ですから個人の最終目標は全員が同じ、個人を終わることです、、、個人を終わるにはどうsればいいのか????簡単です、、個人が全くもって存在しないことを確認すればいいのです。この体の中に個人が居るという価値観を注意深く観察し、、実在していないことを見抜くのです。これで今までの観念、価値観、、個人が居るという大前提で起こった価値観を粉砕します。個人は何も経験していなかったのですから価値観、観念はビル崩壊のように砕け散ります。

現実主義者とは夢中毒者

現実主義とは??

現実主義とは、、、思想や信念、思いよりも現実に重きを置くことです、、、現実に重きを置く、、、つべこべ言わずに結果を出してしまう、、そんなことです、、、この夢の世界で現実主義になるということは夢に重きを置くことであり、、夢にどっぷりと浸かることでもあります、、、、ですがこの夢の中で結果を出し続け、、、それでも幸福にならないという現実に突き当たった時に、、、人は悟りの準備を始めるのです。

現実主義者は観念がガンガン書き変わっていく

現実主義者は、、、結果を追い求めていきますから、、、この夢の中でもがくことになります、、、本当に結果を出そうとすれば思考にふけっていることができない、、結果、、あらゆる経験を重ねていくことになります、、するとその記憶の全てが価値観を強化していくことになり、、、価値観がこの自分、自我という大勘違いをも強化します。。価値観とはこの体の中に自分が存在しているという大前提で生まれるケースが全てだからです。ということで価値観が積み重なっていき、、、この個人ありきの人生が重く重くのしかかってくるのです。

最後の観念

そして人は最後の観念に突き当たります、、、それはこの体の中には自分が居なかったという観念です、、そしてこの現実だと思っていた世界が実は夢で、、その夢を見ている存在こそが自分だったという観念です。ただしこの二つの観念は個人が居るという大前提のこれまでの観念の全てをぶっ壊します。天動説から地動説に変わった時に、、これまでの天文学が全部壊れました。。それです、それが今ここで起きるのです。

個人としての経験が観念を作る

勘違いが強化されていく

個人としての経験の全ては記憶されて、、その人の観念、価値観に強化されていきます、、、例えば、、、人から何回もスリにあった人は、、、人は信用できないという価値観が強化されていきます、、、この価値観は人生が長く長くなっていけばいくほどに、、、強固になり、、、その価値観がこの個人という存在を絶対的にしていきます。。すると何をしても苦しい、何を達成しても苦しい、、と無間地獄に入っていくのです。状況が苦しいのではありません、、この個人としての価値観の強化が苦しみを圧倒的に作るのです。

個人が圧倒的になっていく

個人が居るというのは完璧な勘違いですがその勘違いを元にした経験の全てがデータとして蓄積されることで、、、価値観になり、信念になり、、、その価値観を照らし出した経験をさらにしていくことになるのです。個別の体験が自動的に作り出されていきます、、、、人は必ず裏切ると信じている人は、、、、裏切りそうな人に視点がフォーカスされそのような出会いを続けていきます、、、どのような価値観をその人が形成しようと、、この個人を強化することには変わりはなく、、これが苦しみを生み出すのです、、、価値観の差異はここではどうでもいいのです。

全ては「苦しい」に向かっていく

人が歳を重ねると悟りや仏教、禅などに興味がでてくるのは価値観の形成、価値観の強化に伴い、、個人が居るという価値観が圧倒的に強くなっていき苦しさが押し寄せてくるからです。中年のうつ病などはまさにそれで、、苦しいから逃れられない心の叫びを、、禅や仏教に求めるのです。個人といての経験の全てが苦しみを生み出します。。私の価値観は非常にポジティブだ、、、関係ありません、、、価値観の強化こそが大勘違いを強化するのです、、、全ては目覚めに向かっています、、、全員がテトリスのブロックを積み上げ、、必ずゲームオーバー、、究極の諦めに到達するようにできています。

私とは何か?

たったこれだけ

真実の探究はこの質問で終わります、「私とは何か」です、、私とはこの体のこと、、、これが多くの人の答えでしょう、、この体の中の思考、感情、そして体自体が自分自身であるという限定的な自分、、、ですがこれを自分とすると苦しみが始まります、、なぜならばこれは間違いだからです、、、間違っているから苦しいのです、ただそれだけ、、、本当の自分とはこの世界全て、経験全て、思考全て、感情全てです、、この現象、概念、経験を成り立たせる存在そのものです。

確かに、、

言われてみれば、、、この体、思考、感情を私と思ってきたけど、、、それは思ってきたんです、、思ってきたというのも全存在の活動の一つなんです、、ですがそれは真実ではない、、、だから苦しいのです、、、この体が織りなす経験を自分体験と思ってきたのです、、これは概念、思考、観念です、、だから苦しいのです。。この観念が真実ではないから苦しいのです。事実、真実は見える世界の全て、この体の全て、、全経験、全記憶をそうさせているパワーこそが私です。

こんな小さな私ではなかった、、

こんな小さな私が私ではなかったという突然の気づきは誰がするのか???それが先ほどの全存在です、、全存在が違う、この私はこの体のことではない、、という気づきを起こすのです、、、この私物語は物語であって真実ではない、、この私物語を物語になしうる存在こそが私です、、、全く違うスケールの私がそこに最初から居たのです。

否定できる現実が無い

全ての現象は森羅万象

我々が現実と呼んでいるこの現象は全部が全部森羅万象の現れです、、、森羅万象の現れでないものは一切ない、、、この森羅万象の現れを、、、我々の観念が物質化したのが現実と呼ばれている世界です。。完全なるユニティ、たった一つの世界を森羅万象、、、動きのある世界として経験しているのが我々の現実世界です。すると、、この森羅万象の動きにおいて否定すべき現象は一切ないことが理解できます、、、否定すべき現象と肯定すべき現象があるならば、、、森羅万象の一部を否定することになる、、、なぜ???森羅万象の動きにおいて否定すべき動きがあるならば、森羅万象は不完全であるということになるのです。

辛い、悲しい、しんどいも森羅万象の動き

辛い、悲しい、しんどいも、、、エネルギーです、エネルギーに言語を当てはめると、、悲しい、辛い、しんどいに変換されます、、、このエネルギーは完璧に森羅万象の現れです。。。この感情は否定すべきものでは絶対にないのです、、、では我々は悲しい、辛いをどう処理したらいいのか???完全なる無抵抗しかないのか???その通りです、、、、この悲しいが森羅万象の動きであることを悟るために悲しいというエネルギーが湧いているのです、、、無視するのではなく、、、そこを直視し、、森羅万象の現れが起きているという事実に向き合うのです。

現象を個人的に捉えると辛いが湧いてくる

老後のために二千万円貯めないと大変なことになりますよ、、、こんなニュースを観れば誰でも、、、しんどい、、が湧いてきますね、、、、実際には何が起きたのか??老後のために二千万円貯めないと大変なことになるというニュースが森羅万象の動きとして現れたのです、、あらゆる因果関係、縁起によって、化学反応によって、、このニュースが現象化したのです、、ただそれだけ、、、、では本当に老後二千万円貯めておかないと大変になるのか???全く分かりません、、、なぜならばそのニュースはただの現象だからです。

そこに向けて準備ができない自分はダメ

社会人として、分別ある大人として、、、老後のために準備ができない自分はダメ人間である、、、しっかりしなきゃ、、、これが間違った認識です。。。。我々の全動きは森羅万象の動きです、、、、老後のためにどういう動きをするかは森羅万象の動き次第なのです、、、今もその森羅万象の動きの中に居ます、つまり完璧なのです。。。一円たりとも老後のために貯めないが起きたら、、、それが森羅万象の動きなのです、、完璧です、、、1億老後のために貯めるが起きるかもしれません、、それも完璧です、、、一億円貯め込んで、、一円を使わずに脳出血で死んでも完璧です。

否定できる行動がない

森羅万象の動きを否定できる人間が居ても、、、その動きも森羅万象の動きです、、完璧です。。。ですが森羅万象の動きを否定している期間は少なくともこの真実を理解していない証拠です、、、イエスキリトとは処刑されましたが、、これも森羅万象の動きです、、、、ヒトラーが大量殺戮したのも森羅万象の動きです、、、マザーテレサの救援活動も森羅万象の動きです、、、

悟りとは観念ではない

悟りとは観念を粉砕すること

我々が考えている全ては観念です、、、この個人が居てこの個人にとって何がベターで、何がベターではないか???それが観念です。その観念が全部及ばない世界、それが悟りです。つまりこの個人が居るという大前提が嘘であるという発見こそが悟りです。この世界、この分離の世界が嘘、ファンタジーであるという再発見が悟りです。

ファンタジーは神羅万象の一つ

ファンタジーが駄目ということではありません、、、ファンタジーも神羅万象の一つの表現です、、、そこに良否、善悪、優劣は一切ありません、、、、ですがこのファンタジーの世界に住むのは疲れる、苦しいが必ず伴ってきます。ですからこれがファンタジーであることを見抜き、このファンタジーから抜けることを釈迦は悟り提唱したのです。かといって悟れる個人はいません。

悟りとは真実に気づくこと、気づきの意識が

悟りとはズバリ、、、観念の渦から抜け出して、、真実に気づくことです、気づきの意識が。これに気づくのは個人ではありません、個人が居ないことに気づくのです、気づきの意識が、これが悟りです。個人という蜃気楼が蜃気楼であることに気づく、、、この気づきが悟りです。悟りによるメリットを得る個人は居ません、悟りによるメリットを得る存在は皆無なのです、そういう意味では悟りとはただ真実に気づく気づきの意識のプロセスに過ぎません。

私は在る、、以外は全部観念

この意識以外は観念

気づきの存在、私は在る、、、というこの感覚以外は全部観念です、、、あらゆる思考は全て観念です。この体の中に自分が居るという大前提での思考は全て観念です、、、この神羅万象は私は在るの中で繰り広げられ、、人間ドラマを作り出しました、、、、そのドラマに気づき続ける存在が私は在るという気づきの意識です、、、本来はたった一つのエネルギーが神羅万象として動き続けるだけです。

人間たるもの、、、

人間たるもの、、、法律はしっかりと守った方が良いよね、、お金のことはしっかりした方が良いよね、異性問題はトラブルよね、、、全部観念です、、神羅万象の動きの一つです、、、そこに良否、善悪、優劣は一切ありません。人間という個別分離した存在はそもそも居ません。ですから人間が居るという大前提の思考は全て観念です、真実ではありません。ただしその観念も神羅万象の一つです。

観念に良否はない

神羅万象の動きである観念に良否などは全くなく、、、ただ動きとしてあります、、、そしてそれらの全てじが観念であることを見抜き、、自己の不在を見抜き、、自分は誰かに迫っていきます、、、この人間ドラマの夢から醒め、、私は在る、、、に戻る、、、これだけが真の目的です、、、、ですがその動きがいつ起きるか???それすらも神羅万象の動き次第、、そこに関われる自己はいません。

なぜみんな悟りに興味が湧かないのか?の罠

神羅万象の動きは完璧

なぜ多くの人は悟りに興味を持たないのか????悟りに興味がある人は抱くかもしれません、、、ですがこれも罠です、、自我の罠です、、、神羅万象の動きにミスは100%ありません、、神羅万象はただ動くのです、、この動きに思考が当て込まれ、、、そのように見える現象が浮かびました、、そこを忘れてはいけません、、、あの人も悟りに興味を持てばもっと楽になるのに、、、、違います、、そのような神羅万象の動きがあっただけです。

自身の統合

見える世界は観念の世界、、この観念の世界は、、、自身の統合によって統合されていきます、、、自身の絶対肯定によって再統合されていきます、、、、あくまでも見える世界は自身の分離感が投影された世界であることを自覚します。。すると見える世界には一切の問題がないことが分かります。。。。これは自身の鏡、分離発見機ぐらいの感覚でいいでしょう。

問題を抱えている人は居ない

全ては神羅万象の動きですから、、、そこに問題を抱えている人が居るように見えてもそれは見えているだけです、、、神羅万象の動きに、、、問題を抱えた独立した存在は居ません、、、これははっきりしています、、つまりそこに問題を抱えている人が居るように見えるならば、、、、私の中に分離が存在しているのです。私の中の分離がそこに投影されているのです。

ツイテル??

つ・い・て・る

ツイテル、ツイテル、、、、引き寄せの方法、、、、ありません、、、ツ・イ・テ・ル、、、、、、ク・ル・シ・イ、、、、、両方ともただの音の並び、組み合わせです。どの言葉も完全平等、、完璧平等、、、全部神の表現、気づきの意識の表現、神羅万象から発せられた音、、、です。では引き寄せの方法ってないの???個人が何かを引き寄せるという現象はない、、、ただし観念が書き換わることで見える世界が変わることはあるでしょう。

ただし苦しみが終わるわけではない

観念が書き換え、価値観変更が起これば見える世界が変わりますから居心地が良くなることもあるでしょう、、ですが、、、この個人が居るという大前提が変わらない限り苦しみが終わることは絶対にありません。この個人こそがあるという価値観が消え失せなければ、、苦しみの終焉にはならない、、、

ポジティブシンキングが、、この夢を快適にする要因はある

人の悪い部分を探し続けるよりも良い部分を探し続ける方が、、、一時的には快適な夢になるでしょう、、、ですがこの状態も個人は飽きます、、、快適が快適ではなくなるのです、、、その時に絶望します、、こんなに前向きで、、こんなに努力家で、、こんなに性格が良い私の人生が苦しいとは何事か?と。。。。どんな考え方であろうと、、、事実ではなく、、思考の世界に住んでいるから苦しいのです。。。脳が作り出した第六感の世界に閉じ込められているから苦しいのです。