私物語で起こる思考を重視しない

どうせ夢だから

私物語は夢です、、、この夢の中での出来事、、、から起きる感情、思考を重視しますと、、物語に飲み込まれます、、、どうせ夢、、、この感覚が起きると、、、深刻さが薄れていきます、、、「私を軽く扱いやがって」「私を馬鹿にしやがって」「私が利用されているのでは」。。。。全部夢です、、、、そして今起こる出来事は、、、残念ながらこれが現実だ!!!と思い込みやすくなる、出来事が起きます、、、つまり、、、構わずにはいられないような、、出来事、、、が起きます。

だからこそ

だからこそ、、、そこを冷静に観察してください、、、、、見かけ上の「私」が経験した全てが観念化し、、その観念に沿った出来事(夢)が起きますから、、、これは現実だ!!!と信じ込んでいれば、、、これは現実だ!!!と思うような出来事が起きるんです、、、、これはどう考えても現実だろ????という出来事です。

これは現実だ!!!から抜ける

この生きる世界を現実だ!!!と思っていますと、、そう思いたくなるような出来事に満たされます、、、、私の観念がイメージ化された出来事です、、、、今映る現象は全て私の観念が作り出している、、この事実を徹底的に認めます、、、すると起こる出来事に反応しない私が現れます、、、全部観念だから、、、そこに反応しても意味がない、、ただ観念を強めるだけ、、、、反応するということは「これは現実だ!!!」と信じているからこそです。

「私は在る」の中にもう一つの私ができた

私の二重構造

何かに夢中になっている瞬間、、、、これを無我夢中と言ったりしますが、、、それでも意識は明晰にあります、、、あの明晰な意識そのものの状態、、、意識としての私、、、という絶対的な感覚、、この意識そのものが本当の私です、、、、、「私が在る」という感覚が先ずあり、、、何かに夢中になっていて我を忘れている時、、、「私は在る」だけがあります。。。我を忘れているにも関わらず「在る」という感覚、、それが真我です。真我とは「真の我」、、、、「我が落ちた時に現れる存在、、それが真の我」です。

真の我の中に「自らの我」が現れた

人間活動とは、、真の我の中で、、、、自らは我が突然脳から現れ、、、真の我から現れた、、、たった一つの現象を、、脳が作り出した観念によって完全に分離して見える世界を生きることです、、、時間、空間という言葉で作った概念で、、、これをストーリー化したものが、、私物語です。これらは全部脳が作り出した言葉を通じてイメージ化したもの、、現象にイメージを当て込み、、、実は我々はそのイメージを重ね合わせて見ています。つまりそれぞれのイメージによってたった一つのエネルギーが今も分離しているように見えています。

脳が自我を忘れていても

脳が作業に没頭し自我の存在を忘れていても、、、、真我ははっきりとそこにあります、、真我が忘れ去られることはない、、、自我はいつでも忘れ去られますが、、真我は忘れ去られない、、、真我を忘れることができる存在がいない、、、誰からも忘れられることができない存在、、それが真我です、、在るという感覚です。脳が作りだした「私」は、、、どこまでいってもその瞬間に脳が作り出すしかできませんから神出鬼没、、ところが見える世界が完全分離しているように見えますから、、、周囲を見ればこの私は「体の中」に居るという錯覚が生まれるのです。本当は真我の中で、、自我も、、周囲の分離も、、分離に見える現象も、、何もかもが起こっています。

私というでっち上げ

所詮は脳のイメージですから

私は脳が作り出したイメージです、、、この体の一部である脳が、、この体の中に私が居るというイメージを作り上げ、、、二重の意味でこの体を守らせようとするアイデアです。。時間というアイデアも作りだし、空間というアイデアも作り出し、、この私というアイデアが、、、この時間空間を歩むというアイデアをでっち上げたのです。。。壮大な壮大な茶番をぶち上げたのです。

悟りとは茶番の終わり

悟りとはこの茶番の終わりです、、悟りとはこれが茶番と見抜くことです、、、悟りとはこれを茶番と見抜き、私というアイデアを見抜き、この時空間も概念であることを完全に見抜くことです。。。全経験を感じているのは真我であって、、私というアイデアではなかった、、、私というアイデアがなぜ経験を感じることなどできるのか、、私というアイデアがなぜ経験を積むことなどできるのか???経験という言葉すらも概念です、、本当は経験という概念すらもない、、、

私物語の終わり

私というイメージが、、この時空間というイメージの中を歩むというイメージが起こり続けた、、脳が作り出した壮大な茶番劇、、本質は再び本質に戻り、、本質として、、感じ続ける、、、私というイメージを通じた経験ではなく、、、本質が本質そのものをただ気づくというそれだけ、、、言葉の全ては概念で、、、その概念が抜け落ちた世界、、、ただこれだけ、、、、

元「私」、現神

私を卒業します

元モーニング娘。元SMAP、、元乃木坂46、、、芸能人の多くはグループを脱退した後に、、そのような名称になります、、、元私、元自分、元我、、、、私は、、、私を辞めると元私としての活動になります、、、元私とは誰なのか、、、神です、、、、私とは、、神の動きの一部である人間という現象に、、、付けた名称、、概念、アイデアです、、、本当は神、森羅万象、諸行無常、真我の動きしかこの世には存在しません、、、

徹底的に「私」を外して生きてみる

徹底的に「私」を外して生きてみてください、、、、何にも問題なく過ごせます、、、バーに行っても、、、この私が存在しないかのように振る舞ってみてください、、、、誰からも声をかけられなくても気にしない、、、「私」はアイデアでしかないのですから、、全く問題がありません、、、、

私が馬鹿にされた、私が軽く扱われた

アイデアでしかない「私」が馬鹿にされると人は怒ります、、、ですが私はアイデアであって本当は実在しない、、、脳は「私」が馬鹿にされると、、、この体にとってマイナスと捉え、、、怒るという感情を生み出します、、、もっと大切に扱われるべきだと、、、ですが体にとって不利益がなければ本当はどうでもいいことです。

自由意志があるという勘違いが「私」への強烈な執着になる

もしも自由意志がないとなると、、

この世の住人で、、自由意志があることを信じる人はほとんどでしょう、、なぜか???この私、イメージの私、概念の私、、、を強化するためにこの自由意思という概念は非常に強力な武器になるからです。。。この自由意志を起こしているのは誰だ???私だ!!!です。ゆえに自由意志の否定は自己意識があるという設定の夢物語から強烈な拒絶反応が起きます。。。

ただ起こっている

思考も感情も、行動も、私が居るという概念もただ起こっている、全体から、、、このような認識で過ごしてみてください、、本当にそれで成り立ってしまいます、、、私というのは概念で概念が自由意志を駆使するっておかしいよね、、だとするとこの思考、感情、行動はただ全体から起こっているとしてもおかしくはない、、、今は信じられないかもしれませんが本当にこれで生活が成り立ってしまいます。

「私」がこの体を守っているという概念

皆なぜ「私」に固執するかと言えば、、この「私」がこの体を守っていると本気で信じているからです。。この私が居なくなってしまったら誰がこの体を守るのか???という話です、、、ですが本当は大丈夫なのです、、自我を俯瞰する超意識を持つことができれば、、思考を要所要所で使うことができますから、、、自我はもう必要なくなります。今までは自我意識でこの体を守ってきました、夢を現実と信じて。。ですがこれからは自我もこの世界も夢であることを俯瞰し、、夢を利用して生きていきます、、

私は悟って金持ちになる???

分かっていない、、

悟ったらモテますか???金持ちになりますか???有名になりますか???人格者になりますか????全く分かっていない、、、、悟りとは自我、エゴ、自己意識の解放であり、、、この見かけ上の私がイメージに過ぎなかったという気づきです。主語がこの見かけ上の「私」から全体にシフトします、、、主語が全体になっている存在が見かけ上の「私」を生きることになります、、ただそれだけ、、、全体として生きるならば、、、やりたい放題ですよね???違うんです、、、この全体は何一つ、、自由意志はないのです、、、、、つまりこの見かけ上の「私」をコントロールなど全くできない、、、これまでもこれからも、、、

悟ったらどうなるかは何もわからない

悟とはこの世界を俯瞰した目で見えること、、、ただそれだけ、、、その中の動きにはまるで関与できない、、、という気づきです、、、、この見かけ上の「私」が今後どうなるかなど全く分かりません、、、ただし一つ言えることがあります、、、どうなってもかつての深刻さが戻ることはありません、、苦しみの原因が分かり、、、また苦しむことができないのです、、、苦しみの原因が分かったって苦しみに飲み込まれることはありますよね????ないんです、、、苦しみとは巻き込まれる見かけ上の「私」が主語の時だけです、、、巻き込まれる私が居ないんです、、、巻き込む動きそのものが私だったんです。

ブログを書く

見かけ上のこの私に気づきが起きた後、、、ブログを書くが起き続けています、、、ただそれだけ、、、書けば書くほどに気づきが深まっていきます、、、、なぜ書くのか???ただその衝動が起き続けます、、、ストーリーとしては思考はあらゆる意味を付けますが、、、書くが起き続けています。一つ言えること、、、この安心感は味わったことがない、、、動かなくてはの、、、衝動が起きない、、、しなくてはいけないことが一つもない、、ただ淡々と行動が起きる、、、面白い世界です。

分離感こそが私

分離感そのものが私

このたった一つのエネルギーがある世界で分離感というエネルギーが生まれました、、このエネルギーこそが私自身です、、、分離感を作り出したのも私(真我)それに気づく存在も私(真我)です。分離感はこのたった一つのエネルギー(真我)の中でただ起きました、、そこに理由はありません、、、あらゆる変化が起き続けるこの真我の中で、、、それがただ起きたのです、、、そこに理由はありません、、、

その分離感が起きて

その分離感が起きることで、、、この私と私以外という世界が誕生しました、、これも真我(空)から起き真我がこれを感じます、、、私を取り巻くストーリーが起こったのです、、、、何度も言いますがここに理由はありません、、、ただそれが起きたのです、、、このストーリーは苦しみが伴います、、閉塞感、孤独感、分離感、、、これを解消したいという衝動も起きる、、真我(空)から。。。。

そこでこれを解消しようとする動きが起こる

そこでこれを解消しようという動きが起こります、、、真我(空)から、、、その動きに気づきます、真我(色)が。。。この動きは多くの場合、、、ストーリーの中で解消しようという動きになります、、それがお金、異性、地位、名誉、安定、、、、となっていくのです、、、ですがこの夢、ストーリーの中では全くもって解消されないことに気づきます、、、この気づきが起きます、、、

絶望が起き、、この解消を悟りに求める

悟りという言葉は知っている、、、恐らくこの現実の中で何をやっても解決しない時にそこに意識が向くのだろうというぐらいの知識、、、ですが本当にそこに意識が向く時が来ます、、、全員が。なぜならばこの苦しみはこのストーリーの世界では解決しないから。これは究極の諦めです、、、心からの諦めですから、、、この現実でまだ可能性を感じている期間は難しいでしょう、、完全なる諦めが必要なのです。

ユニフォーム(私)はただの番号

ユニフォームが突然、、、

スポーツ選手のユニフォーム、、ユニフォームには選手の動きの全てを、、、何もコントールする力はなく、、ただの番号として機能します、、ここを勘違いする人はいません、、、ところが、、、これを「人間」に当てはめると、、、体に付けられた「名前」これはユニフォームでしかないのですがこのユニフォーム「名前」がなぜ全思考、行動のコントロールをしている、、、という大勘違い起きます、、、ここで重要なのは、、、私は名前「ユニフォーム」であるという動きは、、、ユニフォーム「名前」にはできません、、これをできるのはこの体から思考を起こす存在、真我です。。

自己意識という罠

多くの方は自己意識、、この体の中に自分が居る、、という発想はこの体の中から起こっていると信じていますが違います、、、この体の中に真我からそれが起きているのです。。自己意識は神、真我作り出したものです、、この辺りが悟りを非常に難しくします、、、、この世界で何かを起こすことができる存在は神、真我、無我であり、、、この体、ユニフォームには何の力もないのです。。。

私の自己意識が、、、やっちまって

私の自我が、、私の自己意識が、、、私のユニフォームが、、、全部勘違いです、、、この説明こそが苦しみの元なのです、、、自我、自己意識、ユニフォーム、、、ここには力がないのです、、何かを起こす、、、起こすことができるのは神、真我です。。。ここさえ整理がつけば、、、あとはドミノが倒れるように、、気づきの連鎖が起きます。。。「昨日もううちょっとお酒を押さえておけば」、、、、、違う違う、、、それを決めることができる個人、自我、、ユニフォームは居ないのです。。。。動きは全部根元、神、真我から起きます。

私という概念が完全矛盾

私という言葉の意味

私という言葉の意味は、、、「この世界から独立分離したこの存在」という意味です、、ですがこの意味は完全に真実と矛盾しています、、、私の体という時、、、この世界から独立分離した存在の体という意味になります。。この「私」に含まれる意味、「自分」という言葉に含まれる意味が真実とかけ離れている、、ここが苦しみを生み出す原点です。

自分は、、、、

自分という意味、、自ら分かれる、、、世界かわ分かれた存在、、自ら。。。この言葉は真実はかけ離れています、、自分はこの現象界には絶対に存在しない、、、なぜならばこの世界はたっは一つのエネルギーの移り変わりしかないからです。たった一つのエネルギーの移り変わりの中に、、なぜ「自分」という意味の存在が存在しえるのか???存在できない、、、つまり自分、私は、、、、このたった一つのエネルギー上に現れたアイデアです。

「私は〇〇です」、、苦しみが湧く

私は〇〇○男です、、、この意味はこの世界の中で独立した存在である私は〇〇○男です、、、という意味になります、、、これが真実とかけ離れているので、、、苦しい、、、そうではなく見かけ上独立分離しているように見える存在、私は〇〇○男、、、が真実です。全ては全て独立分離した存在を見かけ上、、、であるいう深い気づきが苦しみを解消します。。。

私が他人と会う時

見かけ上の他人

見かけ上の「私」が見かけ上の「他人」と会う時に何をするか、、、その「相手」をあらゆるイメージを当てはめレイヤーを乗せていきます、、、この人は「性格が悪いタイプ」「相手を見た目で選ぶタイプ」「上昇志向タイプ」「お金に細かいタイプ」。。。私が覚えた言葉(イメージ)のどれがこの人に当てはまるかを確認していきます。。。そして5分も話せば、、その相手はその相手そのものではなく、、私の「イメージ」に変わってしまうのです。。これが人間関係です。

それぞれが「イメージ」を作り上げる

あの人は「男」で「収入が普通」で「性格は怒りっぽく」「幼稚」で、、、と全部が全部イメージとなります、、、そしてその「相手」すらもイメージですから、、イメージが何十層ににもなっただけなのです。。結婚とはこのイメージとの約束です、、、結婚し、、「私」というイメージが考える「相手」のイメージとのズレが生じた時に離婚になります。

イメージとイメージの出会い

本当は存在はイメージではないので、、イメージに焦点を当てて居ると苦しみが湧いてきます、、、つまりイメージとイメージの人間関係は疲れるのです、、、「私」というのもイメージでありこの「私」のコミュニケーションは基本疲れるのです、、、、、ですが「私」は同時に孤独な存在でもあり、、疲れるけども人に会わざるをえない存在でもあります。。。ですからどこまでいっても苦しいのです。「私」というのがイメージであることを見抜き、、苦しみの根本を壊す必要があります。