思考の産物

我々は思考の産物の中に居る

私たちは実は思考の産物の産物の中に存在しています、、見えるモノ全て思考の産物です、、信じられないかもしれませんが知らないうちに思考が作り出した世界の中に閉じ込められているのです。。右を見た瞬間、まだ物を脳が認識できていないこの瞬間、、この瞬間だけが、、本当の世界です。。。逆に言えば、、この一瞬以外は我々は思考の産物を見ているのです。そして見ている私、、これも思考の産物です。

なんのことはない

なんのことはない、、我々は自分が作った思考の産物を見ているのであって神の現象そのものを全く見ていなかった、、本当はいつでも見れるのですが、、、思考が作り出した世界を真実、現実、リアルだと勘違いが起きているので、、、、もう本当に現実にしか見えない世界が登場しました。この夢は現実的過ぎるがゆえに完全に騙されます、、そして現実だという観念がさらにこの夢を現実的にするのです。本当の現実はまさにここに横たわっていますがこれがもう絶対に見えな代物に映っています。

宝の上に現れた代物達

今目の前に宝が凛として佇んでいるにも関わらず、、我々は観念によって作られた宝の代物を見ていますから、、何を手に入れても全くお腹がいっぱいになりません、、飢餓状態、餓鬼状態、畜生状態です、、この空腹感はなんだ???というぐらいに空腹です、、それはそのはず、、視界を変えたその一瞬だけ宝が見えているのですが、、その一瞬しか、、至福に気づかない、、残りの時間は観念が作り出した物語の中に閉じ込められてしまい、、常に宝に飢えているのです。

世界中に不幸が存在しなという気づきが起きた時、平和が押し寄せてきた

そうか、、、不幸を恐れてたんだ、、、

これは突然の安堵、平和でした、、、、この世界には不幸がなかった、、、人間から起こる全思考、全感情、全行動が神の現れであるという理解が起きた時に、、、突然平和が押し寄せてきました、、、そうか自分の意志で不幸に誰もなっていない、、、どんなに不幸のどん底に見える人も、、、実は、、、神の現象に過ぎない、、、自己責任じゃない、、だって自己が幻想だから、、、、気づきの連鎖が起きた時、、、景色が平和そのものになりました、、、見たことのない景色、、、幼少期に感じてた感覚、、あの平和、、、、

不幸への強い恐れ

東京は色々な人が居ます、、、凄い大変そうに見える人もたくさん居る、、、ああなってはいけない、、ああならないように気をつけよう、、、この緊張感、この緊張感が、、この私物語に強烈な緊張感をもたらしました。ただ今はない、、全部が全部神の現象ならば、、、不幸は誰のせいでもない。。。運の良し悪しもない、、、なぜならば全部が神が起こした現象だから。

人間の勘違いは最高に面白い

人間とはなんて自己愛が強い生命なのか???体の中に「私」というもう一つの存在をでっち上げ、、その私も同時に大切にする、、、この私の入れ物であるこの体は大切にしなくては、、、なんという防御体勢、、、体を守るだけでは飽き足らず、、体の中のでっちあげた「私」も守る、、、エグい、、、鉄壁の守り、、、だが苦しい、、、人間の超防御システムがまさかの苦しい人生まで作り上げてしまった、、やり過ぎ、、、

鳥の動きが優雅なのは

優雅さの理由

鳥の動きに焦りがなく、小賢しさがなく、優雅なのは、、、そこに自己が不在だからです、、、、在るという感覚の中でただ動きが起こっているからです。。。「私は今飛ぼうかな??明日にしようか、、やっぱり明後日だ???」これらの思考の動きが皆無です。。。私は周囲からどう見られているかな???という思考も湧かない、、、完全に今に在り、、、動きだけがあります。

思考に取り込まれていると

思考に取り込まれ自我全開、完全ストーリーの中に居ますと、、、、鳥の動きの優雅さに気づかない、、音楽の美しさも、植物の神々しさも、、何もかもが、、淀んだ世界に変わってしまう、、、この神の現象が、、、ただのイメージ、概念に浸っていく、、、、本当はただ今ここに神が起こす現象しかない、、、このことに気付いてきますと、、、観念が落ちていき、、その度に、、光が戻ってくる、、、これは幼少期に見ていた景色、、、

全部を神の起こりであると捉え直す

先ずは練習です、、頭でこれが神の起こりであると認識していきます、、全思考、全感情、全行動が、、、神の起こりであると、、、、徐々に徐々に認識が深められていきますと、、。次はそれを体験として感じるようになっていきます、、、体験としてその事実を経験できるようになります、、、次にただそれを感じる状態になります、、、

「私は在る」の中にもう一つの私ができた

私の二重構造

何かに夢中になっている瞬間、、、、これを無我夢中と言ったりしますが、、、それでも意識は明晰にあります、、、あの明晰な意識そのものの状態、、、意識としての私、、、という絶対的な感覚、、この意識そのものが本当の私です、、、、、「私が在る」という感覚が先ずあり、、、何かに夢中になっていて我を忘れている時、、、「私は在る」だけがあります。。。我を忘れているにも関わらず「在る」という感覚、、それが真我です。真我とは「真の我」、、、、「我が落ちた時に現れる存在、、それが真の我」です。

真の我の中に「自らの我」が現れた

人間活動とは、、真の我の中で、、、、自らは我が突然脳から現れ、、、真の我から現れた、、、たった一つの現象を、、脳が作り出した観念によって完全に分離して見える世界を生きることです、、、時間、空間という言葉で作った概念で、、、これをストーリー化したものが、、私物語です。これらは全部脳が作り出した言葉を通じてイメージ化したもの、、現象にイメージを当て込み、、、実は我々はそのイメージを重ね合わせて見ています。つまりそれぞれのイメージによってたった一つのエネルギーが今も分離しているように見えています。

脳が自我を忘れていても

脳が作業に没頭し自我の存在を忘れていても、、、、真我ははっきりとそこにあります、、真我が忘れ去られることはない、、、自我はいつでも忘れ去られますが、、真我は忘れ去られない、、、真我を忘れることができる存在がいない、、、誰からも忘れられることができない存在、、それが真我です、、在るという感覚です。脳が作りだした「私」は、、、どこまでいってもその瞬間に脳が作り出すしかできませんから神出鬼没、、ところが見える世界が完全分離しているように見えますから、、、周囲を見ればこの私は「体の中」に居るという錯覚が生まれるのです。本当は真我の中で、、自我も、、周囲の分離も、、分離に見える現象も、、何もかもが起こっています。

元「私」、現神

私を卒業します

元モーニング娘。元SMAP、、元乃木坂46、、、芸能人の多くはグループを脱退した後に、、そのような名称になります、、、元私、元自分、元我、、、、私は、、、私を辞めると元私としての活動になります、、、元私とは誰なのか、、、神です、、、、私とは、、神の動きの一部である人間という現象に、、、付けた名称、、概念、アイデアです、、、本当は神、森羅万象、諸行無常、真我の動きしかこの世には存在しません、、、

徹底的に「私」を外して生きてみる

徹底的に「私」を外して生きてみてください、、、、何にも問題なく過ごせます、、、バーに行っても、、、この私が存在しないかのように振る舞ってみてください、、、、誰からも声をかけられなくても気にしない、、、「私」はアイデアでしかないのですから、、全く問題がありません、、、、

私が馬鹿にされた、私が軽く扱われた

アイデアでしかない「私」が馬鹿にされると人は怒ります、、、ですが私はアイデアであって本当は実在しない、、、脳は「私」が馬鹿にされると、、、この体にとってマイナスと捉え、、、怒るという感情を生み出します、、、もっと大切に扱われるべきだと、、、ですが体にとって不利益がなければ本当はどうでもいいことです。

脳が作り出したトリック

最初に実在なし

なぜ人類はこんな簡単に脳に騙されてしまっているのか???最初に「私」という実在があって、、そこに「私」「我」「俺」「I」「自分」という名称を付けたのではない、、、、最初は何もなかった、、、そこに言葉を覚え、、、そういうイメージが存在するかのように、、、動いていただけ、、つまり元々は、、無かった、、、その動きに対し、、、「私」「我」「俺」「自分」を当て込んだ、、、、いつの間にか、、「私」「我」「俺」「自分」が存在しているという前提の行動が生まれ始めた、、、

「私」が実在している前提の思考、感情が生まれた

いつの間にか、、「私」「我」「自分」が実在している前提の思考、感情、行動が生まれ始めました、、この「私」が有利になるような思考、感情、行動が生まれる、、、、脳はこの体を安全に維持運行するために、、私を発明し、、、この体の責任者に仕立て上げたのです、、、、脳は「私」という概念を生み出し、、、この「私」がさも居るようにしむけ、、、この体、私の二つを維持するように仕向けたのです、、進化のプロセスでただそれが起きました。。。

食べれるならば、、「私」は要らない

体を維持管理するために発明された「私」という概念、アイデア、思考は、、、食べていけるならば、、もう必要がない、、、むしろ、、、この「私」ありきの思考、感情、行動は、、、うざい、、、不必要、、、となります。。。実際に、、食べていけているにも関わらず。。。「私」がもっと評価を受けるために、、高級車を求め、高級マンションを求め、高級時計を求め、高級異性を求める、、、、そのためにあらゆる犠牲を払ってでも。。。。時間の無駄、、、、

「私」を卒業し、、、神として生きる

私とはこの体を安全に維持運営するための机上のシステム、アイデア、概念ですから、、もしもそれが達成し、、さらに俯瞰できるならば、、、もう必要がなくなります、、、そして脳はそれを受け入れます、、なぜならば脳はこの体を維持運行できればそれでいい、、、もっと安全な方法があるならばそれを受け入れます。「私」の卒業です、、、万物は全てたった一つのエネルギーの移り変わり、諸行無常、森羅万象であり、、その中の活動の一部に「私」というラベルを貼りました、、、その「私」というラベルは森羅万象の動きに合わせて動くので、、、今度は[「私」が居るという思考]が起き、、、その前提の思考、感情、行動が起きるようになったのです、、「私」というラベルを剥がしてしまっても森羅万象は動き続けますから、、、元「私」は動き続けます、、、ただし「私」ありきの思考、感情、行動は徐々に減っていきます、、、

このゲームを現実と信じるとよりリアリティー感が増す

普通のマリオカートが、、、

最初は普通のマリオカートでした、、、しかし、、、これをゲームではなく現実だと信じるようになりますと、、まさかこのマリオカートがガンガングレードアップして、、、詳細な雨の感じ、エンジン音、落雷、タイヤの滑り、、全ては超現実的な作りに変わっていきます、、もうゲームなのか現実なのか区別が付かない、、、、このような変化が起きます、、、「これが我々がこのたった一つのエネルギー上でやっていることです」

最初は「蝶々」「バッタ」「ママ」が居るだけだった、、、

幼少期を思い出してみてください、、こんなに深刻な世界ではなかったはずです、、もっともっとフワフワしていた世界、、軽い世界だったはずです、、、ところが言葉を覚え、、。名前を覚える度に、、このフワフワした世界にあらゆる登場人物、登場物が増えていき、、、なんかこの独立分離した存在こそが、、、本物だと信じるようになった、、、するとこの独立分離した風の登場人物達が全くフワフワではなく、、超現実的に見えるようになったのです、、つまり観念が書き変わっていったのです。たった一つのフワフワした世界から、、、独立分離こそが真実という世界に生まれ変わっていったのです、見かけ上。

「これって幻想ですよね」、、精神病に入る

そして最後には、、、これって幻想ですよね、、、などと言えば、、、精神病院に入れられてしまうぐらいになります、、、この世界を見かけ上の「私」の観念が作り出したのです。ですがこれって夢かも、、、という観念が定着していきますと、、、それを支える現実(夢)が起きますから、、そこの気づきが助長されていきます、、、一旦振り切れた、、、超独立分離世界が、、、まあまあ独立分離世界、、、夢かも世界、、夢だ世界、、、に変わっていきます。

難しい入り方

こうした方がいい

こうした方がいい、、このメッセージは、、、こうすればもっと楽になりますよ、、幸福にんりますよ、、苦しみがなくなりますよ、、、という意味を含みます、、、ところがこのメッセージの功罪は、、、それを受け入れることができる自己意識、自我がまるでいるかのような書き方になってしまいます、、、相手は分かりました、、そうしてみます!!となる、、、、この勘違いが苦しみを生んでいます。。。ですが、、、本質の部分では、真我の部分では、、このメッセージによって反応が変わる場合もある、、ということです。。勘違いを起こすリスク、真我からの起こるが変わるメリット、、、この両面、矛盾を常にはらむのがこの悟りのメッセージです。

歯に海苔がついているよ

相手の歯に海苔がついている時、、、このメッセージを当然言いますね、、、相手は気づき、、直ぐに海苔をとる、、すると相手は、、私が海苔をとった、、、と思う、、、この当たり前のやりとりに人間の苦しみが隠れています、、メッセージを聞いた相手の中で、、、、「海苔を取らなきゃ」という思考が真我から起き、海苔を取るが起きた、、、そして最後に「私は海苔を取った」という感覚が起きる、、、これが全てです。。。この理解、この実感が湧かないがゆえに、、、、全ての苦しみが生まれます。

物事を良くしたい、、という不幸

もう少し売り上げが高ければ、、もう少し天気がよければ、、もう少し睡眠時間が取れれば、、人間とはこの連続、、毎日毎分、、この心理状態に犯されています。。。。。もう少し、、がなくなることは一生ないでしょう、、、ですが、、、、今この目の前の現象は神、真我、根源から起こった現象です、、明日も明後日も、来年も、、ずっと、、、この現象を変える力は個人には一切ない、、、、この事実が腹落ちしますと、、、急に楽になります、、もう何も改善しなくていい、、もうこの世界に私は何も責任を取らなくていい、、この脱力が起きます。。。。。人生で初めての脱力、、、それがこの事実を理解することです。

仮に変えたいという衝動が起こっても

仮に仮に、、この世界をこう変えたいなーという衝動が起こっても、、、それも真我、神、根源から起きています、、、、自己意識が起こした???とんでもない、、そんな力は一切ありません、、自己意識自体が真我からの起こりです、、、悟りのドミノはここから倒れます、、、身も蓋もない、、この事実から悟りのドミノが倒れていきます。

ユニフォーム(私)はただの番号

ユニフォームが突然、、、

スポーツ選手のユニフォーム、、ユニフォームには選手の動きの全てを、、、何もコントールする力はなく、、ただの番号として機能します、、ここを勘違いする人はいません、、、ところが、、、これを「人間」に当てはめると、、、体に付けられた「名前」これはユニフォームでしかないのですがこのユニフォーム「名前」がなぜ全思考、行動のコントロールをしている、、、という大勘違い起きます、、、ここで重要なのは、、、私は名前「ユニフォーム」であるという動きは、、、ユニフォーム「名前」にはできません、、これをできるのはこの体から思考を起こす存在、真我です。。

自己意識という罠

多くの方は自己意識、、この体の中に自分が居る、、という発想はこの体の中から起こっていると信じていますが違います、、、この体の中に真我からそれが起きているのです。。自己意識は神、真我作り出したものです、、この辺りが悟りを非常に難しくします、、、、この世界で何かを起こすことができる存在は神、真我、無我であり、、、この体、ユニフォームには何の力もないのです。。。

私の自己意識が、、、やっちまって

私の自我が、、私の自己意識が、、、私のユニフォームが、、、全部勘違いです、、、この説明こそが苦しみの元なのです、、、自我、自己意識、ユニフォーム、、、ここには力がないのです、、何かを起こす、、、起こすことができるのは神、真我です。。。ここさえ整理がつけば、、、あとはドミノが倒れるように、、気づきの連鎖が起きます。。。「昨日もううちょっとお酒を押さえておけば」、、、、、違う違う、、、それを決めることができる個人、自我、、ユニフォームは居ないのです。。。。動きは全部根元、神、真我から起きます。

インナーボディー

感じるということ

エックハルトは著書の中でインナーボディーの覚醒の重要性を説いています、、、体はマッサージなどをすると感じます、気持ちが良い、、と。。この感覚、、この感覚を感じているのが神です、、、神が感覚を経験しています、、、つまり体の感覚に沿ってマッサージをしている期間、、神がそれを感じています、、だから見かけ上の私はマッサージを好みます、、、

美味しいという感覚

何かを食べて美味しいという感覚を覚えます、、この感覚は神が感じています、、、見かけ上のこの私ではありません、神です、感じているのは、、、だから人は大金を払ってでも美味しい料理を食べるのです、、その瞬間神になっているのです、、、感じるのは全て神です、、、美味しいお水、美味しいご飯、美味しいお酒、、全部神が感じています。

感じるを意識する

体の感覚を良くして行きますと、、、この体は中からエネルギーを作り出します、、空から直接エネルギーが注がれてきます、、、空即是色の場になります、、この体が、、エネルギーが溢れ、、何もしていないのに、、何の目的もなくてもやる気が溢れてきます、、、