自身が海であることを忘れた波は問題点を探す

自身のことを波と捉えれば世界は問題だらけになる

問題など全くない、悩みも何もない、課題も何もない、、という人間がいたら嘘つきと思ってください。もしくは自身の問題を見てみないふりをしている人です。自分が海であることを忘れた波(人間)は不足感にさらされているのが構造的に当たり前なのでこれを無視することはできません。自身を世界と分離している人間と認識している時点で基本構造として不足感が生まれてきます、この得体のしれない不足感を人は世界の問題点として置き換えるのです。例えば付き合っているパートナーの問題点、会社の問題点、結婚相手の問題点、住居の問題点、経済の問題点、収入の問題点として必ずそこから問題点を見つけてきます。そしてそれが解決したらまた必ず次の問題点を探し出すのです、それは自身が人間であるというこの錯覚、誤解が作り出す必然のメカニズムです。

自身のことを波と捉えれば職場は問題だらけになる

多くの方にとって会社はストレスの場所です。上司、部下、給料、勤務時間、残業、会社の将来性、、、全てが問題化します。自分を全存在から分離した人間であると認識した瞬間から不足感が生まれだしこの不足感は会社への不満へとシフトするのです。会社勤めは非常に楽しいと断言できる人がいればそれは仕事を無我夢中になれる道具に使えている人です。仕事を通じて、人間関係を通じて無我夢中に没入し自我を忘れることができる人です。どこに居てもどんな場所でもそこから悟りに入りなさい、と言うマスターがいますがまさにそうその行為に没入する、集中してしまうことで逆にそこから無我に入ることで自身を海、存在に変えてしまう以外に不足感を解除する方法はありません。

仕事の向き不向き、好き嫌いが実は全くどうでもいい理由

本当のことを言えば海であることを忘れてしまった波や、自身を全体から分離してしまった人間と捉えている人にとって仕事の向き不向き、好き嫌いは実はどうでもいい問題なのです。基本不足感の塊ですからその不足感はいついかなる場所でも不満に置き換わりその人を襲うのです。ですからこれからいかにそこに没入するか、無心になって取り組むかに焦点を絞ってみましょう。無心になって取り組めばその時は自我が引っ込みますから即無我、ワンネス、全存在になれます。そこは至高、安堵、歓喜です。勘違いしてはいけないのは波、人間が至高、安堵、歓喜を感じるのではなく分離した波、分離した人間が居なくなることで(無心)至高、安堵、歓喜そのものになるということです。無我、全存在、ワンネス=至高、安堵、歓喜であって、、、人間、波が至高、安堵、歓喜を味わうのではないということを重ねて伝えておきます。

なぜ大海原である海が自身をちっぽけな波だと勘違いする珍現象が生まれたのか

大海原は波としての冒険をやってみたかった

大海原は大海原ゆえに何もそこには起きません。津波が起きようと、海底火山が起きようと、、、何が起きてもそれは自身が姿を変容させただけのこと。そこに何の感情も起きなければ感動も退屈もない、、何もないのです。そこで大海原は自身を波と勘違いすることで再び波物語というドラマを作り出したのです。自身を小さな波であると勘違いすることができれば大きな波との出会い、小さな波との出会い、さらに格闘、和解、取引、平和、争い、、、あらゆる事件をそこに起こすことができるのです。

波での人生はエキサイティングだが苦しい

波としての人生は大変エキサイティングです。何しろ自身以外に広大な世界が広がりそこには別個の波が広がっています。穏やかな波も、激しい波も、喧嘩っ早い波も、愛情豊かな波もいて毎日が新鮮、刺激的でしかありません。そして最も大きな刺激、それは自身が実は波ではなく大海原であったという気づきです。こんな大どんでん返し、こんな結末、こんなドッキリ企画の種明かし聞いたことがない。

海はあらゆる場面で独立した波が実は海であると気づくようなヒントを与えている

海は波に対し実はあらゆるヒントを与えていました。本当はあなたは波ではなく海の一部だよと。例えばゲームに熱中する時に訪れる安心感、安堵感、幸福感、歓喜、、これらはゲームに無我夢中になったときに訪れます。ゲーム自体にそのような仕掛けがあるのではありません、ゲームに夢中になれたときに自分自身を忘れています。この時波は自身が波であるというこの勘違いを忘れることができるのですがその時に訪れる安堵感、安心感、歓喜こそが自身が海であることの感覚です。自分を忘れればそこには海しかありません。このように波は何かに夢中になった時、無我夢中になった時に押し寄せてくる安堵感を生活の中で実感していたのです。この安堵感はなんだ?この歓喜はなんだ?なぜか懐かしいこの感覚は一体どこからきたのか?それは遠い場所から来たのではなく自身(波)の存在を忘れることで海(本当の自分)が押し寄せてくる感覚だったのです。

海として生まれてきた者を波であると洗脳するには7年間の歳月がかかる

赤ちゃんは海としてこの世に生まれてくる

赤ちゃんがなぜ生まれてきて大人とコミュニケーションができないのか?それは彼ら彼女らは見た目は別個の存在ですが感覚は海として生まれてきているのです。そのため海が海とコミュニケーションしようとします、そこに言葉を介在する必要がないのは明らかです。海が海としてコミュニケーションするというのはあり得ることではないからです。ところが赤ちゃんは戸惑います、自分にミルクをくれるこの海(母)はコミュニケーションが伝わらないと。そして途中で気づくのです、目の前の海(母)は以心伝心できる相手ではないと。そこからはひたすらに父(別個の波と思い込む海)と母(別個の波と思い込む海)による別個の波であるという洗脳が赤ちゃん(海)に続くわけです。

7年間かけて完全洗脳が完成する

海として生まれてきた赤ちゃんにあなたは海とは別個の独立した波であるという洗脳、勘違いを起こさせていきます。これを人間界んでは教育と呼びます。波の世界の言語、概念、考え方、波として生き延びるためのサバイバル方法に至るまで、、延々とこの教育は続くわけです。赤ちゃんが完全に独立した波であるという実感を覚えるのにかかる歳月は7年ぐらいと言われています、7年間の歳月を使って叩き込まれたこの固定観念はそう簡単に解けるわけがなく故に子供になった赤ちゃんはもう自分の意思ではほぼこの洗脳を解けずに人生を終了させるわけです。それもそのはずいくら苦しみ悩んでもそれを解決しようとする思考が波言語だからです。思考を使えば使うほどに自身は海ではなく波であるという洗脳が強化されるのです。言葉は自身は波であるという大前提に作られています。波が作り出した言葉、思考を使って自身が海であったという記憶が戻るわけがないのです。逆に言えば言葉、思考こそが波を波で居続けるさせの、海であった時の記憶を思い出させないための最強の砦でもあるのです。言葉の主語は基本別個の独立した波であることが多く、言葉の基本構造が波の独自性を強固にするのです。

なぜ独立した波を前提にした理論が破綻しないのか

本来は海であるにも関わらず自身を独立した波であると思い続けるのは実は苦しいことです、なぜならば実際は間違いなく波は海の一部でありしかも独立していないからです。独立していると思い込むことはできても事実は独立していないのです。こんな矛盾を抱え続けて生きているのが人間という勘違い生命体です。こんな勘違いした生命体がルールを決め、法律を決め、道徳を決め、正義を決めてお互いを監視し合って生きているのですからそこに争いが絶えないのは当然のことです。お互いがお互いを勘違いしながら生きていて平和な関係が続くわけがないのです。世の中の悩みの7割近くが人間関係であるのは当然のこと。自身を独立した波であるという大きなる勘違いをした者同士の関係性はいずれ破綻を迎えます。

大いなる勘違いをした状態で日々前を向いて生きていこうとすればあらゆる幸福マニュアルが必要になる

自身を海ではなく独立した波であると勘違いした状態でそれでも生きていかなければならないのがこの人間ゲームです。当然苦しいわけです、なぜこんなに小さいのか、力がないのか、影響力がないのか、人気がないのか、稼げないのか、貧しいのか、、、とあらゆる不足感、孤独感、渇望感、絶望感が襲ってきます、それはそのはず海の広大な感覚、海の喜び、歓喜、海の安心感を知っている(当たり前)存在が自身を波と勘違いすればあらゆる感情が中から湧いてくるのは当然です。しかも生まれてきた時(赤ちゃん)は間違いなく海として生まれてきたのです。喪失感たるや半端ないのです。だからこそ芸能人はバレても不倫をするし、犯罪もするし、お金持ちがなぜか万引きをする、成功者がなぜか他人を羨むという珍現象が生まれるのです。それもこれも初期設定の勘違い、大海原が自身を波だと勘違いしたことからこの不幸は始まります。