気づきの意識

自分をどう定義するかで自分以外(世界)が定義される

世界とは自分以外の定義である

本当の世界を知りたければ本当の自分を知ることです、、、自分が定義されると、、自分以外が定義されます、、これが見える世界(自分以外)になります。私たちは世界を見る前に、、、自分を定義し、自分以外を定義することで、、、定義された世界を見ているのです。分離解離した世界が目の前に広がっているのは定義された世界を見ているからです。自分をどう定義するかで、、自分以外(世界)が定義され続けているのです。

自分の再定義は、、世界の再定義

自分をどう定義するかで見える世界(自分以外)が定義され、、それに反映した世界を自分が今見つめています。自分という定義が変わってしまえば、、見える世界(自分以外)も定義が自動的に変わるため、、変わってしまいます。小さな子供は自分というものを定義していないので、、、見える世界も定義されていないのです、ワンネスに生きています。

自分が見える世界全てだった

本当の自分とは見える世界(森羅万象)そのものです、、自分以外と思っていた世界が自分なのです、、そしてこれを見てきたかつての自分の体も森羅万象の現れ、、です、全部ひっくるめて自分です、神です、気づきの意識です。自分の再定義が完成しますと、、、自動的に自分以外が再定義されます、、今回にあっては自分以外は無くなるという再定義です。全部が自分だったという再定義が完成します、、、すると見える世界が変わっていきます。

進学するか就職するか???

若い時期は悩む

進学すべきか、、就職すべきか????悩む。。。若い時期はとにかく悩みます、、、ですが、、、これを決めることができる個人は居ません、、、、全部森羅万象の現れです、、、個人が居るという感覚も森羅万象の現れです、、その個人が自由意志を行使できるという感覚も森羅万象の現れです、、、神羅万象の現れの共通点、、それは化学反応、縁起、因果の世界、、、です。。。反応が反応を起こし続けているだけの世界です。ここを見抜けない期間は「人が悩み続けるという現象」が起き続けます。

この仕組みに気づきの意識、空が気づく

悟りとは、、、気づきの意識の人間への同一化、、、からの同一化していることへの気づきが起き、、、同一化の終焉が起きることです。。。。全体、アイアム、気づきの意識が人間に同一化することでこの人間ゲームを堪能するわけですが、、、、この状態に気づき、、、、全体に戻る、、ことが悟りです。すると人間の動きも、この現実の動きも全部ただ森羅万象の動きであったことに気づき。。。。その中で分離錯覚しているというやはり現象が起きていたことにも気づきます。

なぜもっと早く気付けなかったのか????

違います、、、気づくのは気づきの意識です、、全体、アイアムです、、、人間はただの現象です、、現象が気づくのではありません、、、気づくことができるのは、、気づきの意識だけなのです、、、気づきの意識をコントロールできる存在は存在しません、、、気づきの意識が存在そのものだからです、、、、気づきがお遅い気づきの意識は居ないのです、、、気づきの意識は完璧なタイミングで気付いていきます。

何でもできるようになる???

真逆

悟れば何でもできるようになる???真逆です、、、、機能としての自分しかそこに居ないという気づきです。。体が強い自分は、、この体を機能としとしてより役に立たせる方向に行くかもしれません、、、言語が得意な自分は、、言語を生かした機能といて役に立っていくかもしれません、、、自分とは機能に過ぎないという徹底的にドライな捉え方です。

機能になるのが気持ちが良い

歯車の一部、、、社会の歯車の一部になるのが面白くない、、、エゴはそう考えるでしょう、、、全く満足できないからです。。この自分を機能ではなく、、アイデンティティーとして捉えれば、、もっともっと自分を大きくしたくなるわけです、、、ですが機能に過ぎないのです。。この体は、、、、ですが今まで思っていたエゴとしての自分はこんな小さなものではなく全体、森羅万象全部、気づきの意識そのものなのです、、、体は機能に過ぎません、、ですから歯車の一部でしかありません。

意識と体の徹底分離

意識は壮大で全部、ですがこの体は社会の機能の一部でしかない、、これが事実、真実です。、、、ここを徹底的に分離させます、、、ここを分離できない場合、、、この体を大きく大きく見せようとする動きが始まりますがこれが苦しみのもとです。意識はこの宇宙、見える世界を今作り出している張本人です、、ですがこの体はその中の現象の一部でしかない、、どこまでいっても機能でしかありません。

今に居れないから、、、時間を気にする

今に居ることが出来れば将来不安はない

今に居ることができれば、、、その時その時にその行為に埋没すればいいだけです、、、仕事に入り無我になる、、作業に入り無我になる、、、読書を通じ無我になる、、、なんでも気が向くことに入り無我になればいいのです。。ここは静寂の場所、平和な場所、至福の場所です、、、、誰にも邪魔されません、、、ここに入れない人が、、将来を過剰に心配するのです。

後悔も心配もしなくていい

後悔も心配も自由意志があると信じているからこそです、、、ですが自由意志はありません、、、将来を左右するような決断を自分の意思では一切できないのです。。。これが真実です、、、、だとしたら一体何を心配し悩むことができるのでしょうか????無理です。。。。心配も後悔もできなくなると自然と今に居ることができるようになります、、小さな子供が今に居れるのは、、心配できないからです。

現象として幻想として情報を集める

株のブローカーであれば、、、情報を集めるのは当然のことです、、、この際にはこれは現象、幻想であることを見抜いて集めればいいのです、、、情報という現象から株を精査し次に買うべき株を吟味していきます、、、ですがこのことと、、、静寂、至福、平和とは全く関係がありません、、、静寂、至福、平和は時間ではなく今にしかないのです、、、、ここを理解し、、、情報収集を通じて無我に入ります、、、もしくは株に関して思考が湧いてきてもそこを気づきの意識として観察し今に入るのです。

何かを変えられる誰かが居ない

こうした方が良いですよ、、と伝えるべき誰かがいない

悟りのメッセージが難しいのは、、このメッセージを伝えるべき誰かが居ないというメッセージだからです。一般のメッセージは誰かに向かって送られますよね、、ですが悟りのメッセージに関しは伝える相手が居ないのです。なぜか???この世界には分離独立した存在が実は居ないというメッセージこそが悟りだからです。そうなることこのメッセージも伝えるべき相手は居ないとなるのです。

では悟りのメッセージは誰に届くのか???

このメッセージの届け先は気づきの意識です、、人の役をしている、人を演技している気づきの意識そのものに届きます。思考の奥底に居る気づきの意識、個人の奥底に居る気づきの意識にこのメッセージは届けられるのです。そして気づきの意識が個人が実は居ないという気づきに至った時が悟りです。個人もおらず、自由意志もない、、という気づきに至った時が悟りです。

マインドという現状維持機能を俯瞰する

思考はただ現状維持のために機能する

多くの方は自分の思考に絶対的な信頼を置いていますが、、、この思考は、、、現状を維持するためにただ機能として湧き続けるだけです。今食べれているならば、、、、この状況を維持するために湧き続けます。。。例えばスーパーブラック企業に居てもそこにいて食べれていれば、、、思考はこの会社を辞めさせないように働くのです。過労死が存在するのはこのためです。これが思考のメカニズムです。この思考を絶対的に信頼するのはどなのか???これが気づきです、、、気づきの意識による気づきです。

思考は悪でもなく善でもない

思考とはただの機能です、、、現状維持機能、、、この機能に善も悪もないのです、、、ただしこの現状維持機能は、、、今至福を全く感じれていなくても、、、その状態を維持するために機能します、、、、覚者が思考を止めろというのも一理あるのです、、、、思考が止まり、、、気づきの意識そのものになれば至福が湧いてきますが、、、、この状態が安定すれば思考はこれを維持しようと機能します。思考が湧き続け、これは自分で在るという思考が湧けば、、、苦しいのですが、、、それでも思考は湧き続けこれを維持します。

思考を俯瞰するとは悟りである

多くの方は思考に振り回され、感情に振り回されて生涯を終えます、、そのような中で思考を完全に俯瞰できるのは思考の機能を完璧に理解し気づけた者だけ、、、これは悟りです。悟りとは究極の俯瞰であり、、、思考を現状維持機能であるという気づきはその一つです。「今日で首だ、、、」こう宣告された者からはあらゆる思考が湧き出すのは、、、、現状維持機能が働くからです、、、なぜ???頭がおかしくなったのか?法律的に大丈夫か??、、、これは現状維持機能のフル活動です。

悟りをコンフォートゾーンに

気づきの意識の状態に慣れる

瞑想とは気づきの意識そのものの状態に慣れることです、、、無我夢中になって何かに集中するのも同じことです、、自我のない状態に率先して慣れていきます、、、するとそこに至福、静寂、平和があることにはっきりと気づきます、気づきの意識が、、、これが悟りです。自分など全くの不在の場所にこそ、、、平和があることに気づくのです。自分が美味しい物、刺激物を得なくても、、、その場で安堵、平和、至福に至れることに気づきます、気づきの意識が。。。これが悟りです。

悟りを理屈として理解し実践して慣れる

悟りについての正しい理解は大切です、、これをしないと自我は全てを所有し、、コンフォートゾーンをズラすことができません。自分がはっきりと居るという認識の中で無我に入ろうと、瞑想をしようと、、、その獲得を全て自我が所有するという場所に戻るでしょう。理屈として悟りを理解し、、その上で瞑想、無我になって集中することで、、自己の不在が安定します。

機能としての自分に戻る

自己の不在が安定してもこの幻想の世界、夢の中の世界、イリュージョンの世界が続く限り、、機能としての自分は存続していきます、、、機能としてこの世界での役に立っていかなければ食べていくことができません。機能としての自己を維持していくことになるのです、、、、ですがこの時にはマインドはこの状態を維持しようとしますから、、、機能向上にただ努めるでしょう、、、機能としての自分磨きに入るはずです。。。

マインドはいつも騒ぐ

これもエンタメ

マインドはいつも騒ぎます、、この自分が居るという前提で動きがあるのがマインドですから悟りに関しては特に騒ぎ立てます、、、悟りとはこの個人が実は居ないというメセージですから、、とりわけ騒ぐわけです。マインドの最後の抵抗です、、、。自分を守るため、維持するためにマインドは徹底的に抗戦します。悟りという言葉がいつまで経っても市民権を得ない、ゲテモノ扱いされるのは当然といえば当然なのです。

マインドの抵抗こそが証拠

悟りに対しいマインドは異常に騒ぎ立てるわけですが、、これこそが悟りを過剰意識するマインドの仕組みが理解できます。マインドにとって悟りとは自己の解体、自己の終焉、、、マインドが守ってきた存在の終焉を意味します。マインドはここに徹底的に歯向かうわけです、、、ですが事実として真実として自己は存在しませんから最後は降参するわけです。

マインドが騒ぎ立てるからこそ

マインドがこれだけ騒ぎ立てるからこそ、、、そこには何かがあるのです。その何かとは、、真実です。マインドが隠しておきたい真実がそこにあるのです。この自分が居て、、、居ません、、、そこを隠しておきたいわけです、、マインドは、、、だから過剰に反応する、、、、最後は明け渡すことも分かっている、、、気づきの意識が個人が居ないということに気づくが起きるまで、、、これが続きます。

悟りとは観念ではない

悟りとは観念を粉砕すること

我々が考えている全ては観念です、、、この個人が居てこの個人にとって何がベターで、何がベターではないか???それが観念です。その観念が全部及ばない世界、それが悟りです。つまりこの個人が居るという大前提が嘘であるという発見こそが悟りです。この世界、この分離の世界が嘘、ファンタジーであるという再発見が悟りです。

ファンタジーは神羅万象の一つ

ファンタジーが駄目ということではありません、、、ファンタジーも神羅万象の一つの表現です、、、そこに良否、善悪、優劣は一切ありません、、、、ですがこのファンタジーの世界に住むのは疲れる、苦しいが必ず伴ってきます。ですからこれがファンタジーであることを見抜き、このファンタジーから抜けることを釈迦は悟り提唱したのです。かといって悟れる個人はいません。

悟りとは真実に気づくこと、気づきの意識が

悟りとはズバリ、、、観念の渦から抜け出して、、真実に気づくことです、気づきの意識が。これに気づくのは個人ではありません、個人が居ないことに気づくのです、気づきの意識が、これが悟りです。個人という蜃気楼が蜃気楼であることに気づく、、、この気づきが悟りです。悟りによるメリットを得る個人は居ません、悟りによるメリットを得る存在は皆無なのです、そういう意味では悟りとはただ真実に気づく気づきの意識のプロセスに過ぎません。

このメッセージを伝える誰かはいない

ノンデュアリティのメッセージは矛盾を抱える

今機能上の私がこのメッセージを書いています、、これは機能上の私であって実在する存在ではありません。誰かがこのメッセージを書かなければ、誰かに伝えることはできないのですが、、、誰かと誰かが居るというこの錯覚、幻想こそが、、、これが夢の中である証拠になります。全てはたった一つの意識の中で起きる神羅万象の動きでしかありません。神羅万象には一切の分離はなく、、あるのは分離しているという感覚のみです。

分離とは見かけ上の脳内でのみ起きている

分離はこの見かけ上の脳内でのみ起きています、、、実際の神羅万象には一切の分離は存在しません、、、我々の脳内でのみ分離は起き、、、我々はその分離の世界で生きているという夢を見ているのです。夜見る夢とこれは全く変わらず、、、意識と脳が作り出したこれは共同作業です、、、熟睡時以外我々はひたすらに夢の中に居るのです。

夢だけれども

夢ではありますからいつでも醒めてしまえば、、この夢は終わりです、、、ですがそれができない、、なぜならばそれができる個人という存在が居ないからです、、、、この夢が覚めるのは、、覚めるということが起きるのを待つ以外にないのです、、全体、気づきの意識がこれが夢だと気づき、、、夢を終わらせるが起きなくてはなりません。夜夢を見ている時に、、、なんとなくこれって夢だな、、、そんな気づきが起きる時ってありますよね、、、まさにそれ、、、それが今起きているのです。