ヤサくれている人(波)この夢物語の初期設定成功

海であることを忘れた波はヤサくれることからスタートする

大人気漫画スラムダンクで桜木花道はヤンキーでヤサくれているところから漫画がスタートします。あしたのジョーも矢吹上が街の喧嘩屋であることから漫画はスタートします。あらゆるヒーローまんがの主人公はスタート時は大体退屈でヤサくれています。これは人間物語、波物語の定石です。そもそもが広大無辺な海が自身を忘れえ波となって人生はスタートしますから常に中から不満足が湧いてくるのです。クソみたいな人生が」スタートしたとヤサくれるのが当たり前なのです。

バスケットボールに出会い、ボクシングに出会い、会社に出会い人は人生を楽しみだす

私の場合は中学時代に受験勉強にハマり人生のヤサくれから抜け出すことができました。それまでは常に不完全燃焼していたのですが初めて受験勉強で燃焼できる体験を得ることができました。桜木花道はバスケット、矢吹上はボクシング、女性であれば子育て、、真剣にならざるを得ない状況に人間は押し込まれた時にそこで無我夢中、無心になり初めての体験を得ます。快楽とは別次元の状態、懐かしくもあり絶対に忘れることができない感覚、この感覚こそが無我の状態、海の状態、全存在の状態です。人間が神になった時の状態です。思考が抜け落ち、鋭敏な感覚だけが残る感覚、明晰さではなく明晰そのものになる感覚。

明晰ではない状態を体験するからこそ明晰に感動できる

海であることを忘れた波が最初から明晰(海)だったら分離体験の価値は一切ありません。波が最初から至福(海)だったらこの分離体験に何の価値もない。人間が最初から充実感の固まりだったら悟り(充実)に何の価値もないということです。ヤサくれ、退屈、不満足、飢餓、、、これがこの人間物語、波物語の定石であり初期設定成功なのです。

この世界が夢だとして、ではこの夢を見ているのは誰か

主人公は海であることを忘れた波、そしてこの波物語を見ているのは海

波物語は夢です、時間も、空間も本当はなく、、それは夢の中だけで存在しています。夢の中では時間も空間も自由自在、ただし夢の登場していない場所、登場人物は夢に登場していない間は存在しません。ですから主人公である「自分」も寝ている間や何に没頭している間、目をつぶっている間は姿をなくしています。海はこの夢を常に見ていますがそれは傍観者として高みから見ているのではありません。海は主人公(波)の五感+感情+思考を使ってこの夢を体験しています。

全ては幻想だが夢での体験は確実にある

夢ですから幻想です、ですがその夢の中で恐怖心、歓喜、安堵、幸福、、、湧いてくる感情は間違いなくあります。経験も確実にあるのです、夢として。夢ですがこの夢は海が投影したもの、海自身の投影を土台にしています。海が監督をし、海が海を使って舞台を作り、海が海自身を使って登場人物を登壇させ、海が海自身を使って(波)主人公を作る。海が変幻自在に変化してトータルでネットフリックス波物語を制作しています。

この夢から覚めるのは波ではない、海

マトリックスという映画では主人公のネオがこの夢から覚めるためにエージェントと戦い続けていきますが、、実際に眠っているのは海であり、、起きるのはやはり海です。主人公のネオ(波)ではありません。ただし波も海ですから正確には波を通じて海が目覚めるのです。ネオを通じてマトリックス映画全体が目覚めます。人間を通じて見えている世界全体が目覚めます。

夢から覚める

こんな緻密で巧妙な夢はない

生まれてから死ぬまで続くこの夢の完成度の高さはハリウッド映画やネットフリックスとは比較にならないものがあります。毎日気候が変わり、社会情勢も変わりつづけ、さらに自身の体も変化していきます。1日として同じ日はないようにこの夢は変化し続けます。毎日毎日変化していくこの夢に多くの方はこれが夢だという疑いなど一切持たずに生活し続けていくのです。99%以上の人は死ぬまでこれが夢だったということに気づきません。

もしかしたらこれが夢かもと一度でも疑問に持つと

ですがもしもこれが夢なのでは?と疑問に持つことができるようになると人生は大きな変化を起こします。夢だという可能性に日々気づいていくことになります。例えばこの物理次元と呼ばれる社会は有限の世界とも呼ばれますが、、、物があるという大前提で理論を構築していきますと、、日本の外には地球があり、地球の外には太陽系があり、太陽系の外には銀河系が、、銀河系の外には宇宙が、、宇宙の外には、、と延々と続く無限ループであることに気づきます。つまり人間が思っているようなこの物理次元は辻褄が合わないのです。ここだけとってもこの見えている世界は見えているようにはなっていないということがわかります。

触ればもちろんそこに人がいるが

この物理社会が夢だとして、、ですが当然人に触れればそこにしっかりと人はいます。触覚はこの夢のデフォルトです。匂いを嗅げば匂いがあります。嗅覚もデフォルトです。五感+思考+感情がデフォルトで設定されたこの夢を我々は実は生きています。映画マトリックスではないですが、、この夢を夢と見抜き夢から覚めるという決断をいつするか、、この夢の隣人は誰もそのタイミングを教えてくれません。

海であることを忘れた波は何者かになりたがる

自我は何者かになりたがる

海であることを忘れた波は何者かになりたがります。波は自身を不完全なものであると感じますから自身よりも完璧に見える何かになりたがるのです。例えばサッカーをする少年はメッシになりたがります。もしもその少年がそのままで完璧だと感じていればメッシを目指すことはないでしょうが自分を分離した独立した人間であると錯覚すればそこには不足感、分離感、不完全感が湧いてきて何者かになろうとします。

完璧に見える何者かは実は完璧ではない

海であることを忘れた波が生きている世界において完璧な存在は一つもありません。それはその世界自体が幻想の世界、ストーリーの世界、分離の世界だからです。その世界の中に完璧性を見つけるのは不可能なのです。ですから何者かになろうとする努力は全て無駄に終わります。仮に何者かになれたと感じても虚無感、不足感、飢餓感が抜けることは絶対にありません。ですがその何者かを目指す道中において無心に入り、無我に入ることができるのならばそこで安堵、安心、平和そのものになることができます。何者かになる前に広大無辺の海、全存在、ワンネスになることができます。そこに準備、プロセスは不要です。

波物語、現象界は完璧に入るための舞台

このストーリー、波物語で完璧(海)になることはできません。これは幻想の世界、分離の世界、夢です。これが夢であることを見抜くことでしか実は完璧(海)になることはできないのです。ですが何かに没入する、無心になることで完璧を一瞥することはできます。自分が波であることを忘れるぐらいに何かに無心(海)になることで完璧に触れることができます。完璧はどこか遠くにあるものではなく今この瞬間にそこに至れることを知れます。そしてこの感覚を一度でも知った波はそこから後退することはありません。

既知(波物語)の中から未知(海)は発見できない

私たちが思考を使う時、それは波としての記憶からなる

なぜ思考で海を見つけることができないか、なぜマインドで全存在、ワンネスを発見することができなか、、それはその思考、マインドは海ではなく波として蓄積した記憶をベースに構築されるからです。そもそもが勘違いの初期設定の中で育まれた経験、記憶をベースに沸き起こった思考、マインドで真我を発見することはできません。自我は真我を発見できないのは自我そのものが勘違い、錯覚でありその存在が真我を発見できないのは当然です。既知の中から未知を発見できないとは自我が真我を発見できないと同意です。

心はなぜいつも間違えるのか

心が真我、真理、海、ワンネスを絶対に見つけることができないのは心とは波の記憶からなりその記憶は勘違いの集積だからです。勘違いの集積から生まれた感情、思考が真理を発見できるはずがありません。故に心は常に不安、不快、恐れ、不足に満ちそれゆえ常に新しい経験、安堵を探し続けることになりますが結果見つけることはできません。見つけようとするのは海で在ることを忘れた波であり分離した自我だからです。勘違いした存在(涙、自我)のままで真実を発見することはできないのです。故に人間は至福には至れないということになります。

思考はなぜいつも間違えるのか

思考は真理、真我、ワンネス、全存在を見つけることはできません。それは思考とは波であり、分離した自我であり、分離している勘違いしている人間の記憶をベースに沸き起こるからです。波物語、人間物語の中では真我は発見できません。真我とはこういうものだよ、ワンネスとはこういうものだよと聞いてもそれを思考は波物語人間物語の中で発見しようとしますがそこには真我はありません。真我とは夢から覚めた時に出現するものだからです。夢の外に存在するものを夢の中で探してもそこにはありません。

海であることを忘れた波がどれほど苦しんでいようと海はその姿を見続けている

波が生死を彷徨うような苦しみの中にいても海はその姿をただ見守る

波が生死を彷徨うぐらいに悩み苦しんでいる時、海はその姿をただ見守っています。波にとっての地獄は海にとっては波物語最大のチャンス、クライマックス、自身が実は海であったことに気づく最重要ポイントです。波が意気揚々と波自体の物語を楽しんでいる時、その楽しいがどこから生まれているかに気づくチャンスです。なぜ目標を達成した瞬間安堵感に包まれるのか、絶体絶命の事故に巻き込まれたときに思考が鋭敏になるのはなぜか、、過去には楽しかったゲームは毎日のように楽しくなくなっていくのはなぜか?全てこれは波と海の関係で説明がつきます。波が繰り広げる波物語の中には自身が実は海であったことに気づくチャンスに溢れているのです。

苦しい時は自我は苦しみに執着しないから自我が弱まる

禅の修行などかなり厳しい修行が悟りに用意されている話などたまに聞きますが、苦しみは自我を弱めます。例えば禅の修行が金銭的な豊かさや精神的豊かさを与えるようなものであったら自我は肥大化し続けていくでしょうかこれは成り立ちません。ですが修行が厳しければそこで自我が肥大化することはありません、なぜなら自我はその苦しみにしがみ付くことはないからです。俗世間では自我が肥大化するチャンスに溢れています。評価されること、称賛されること、他人との競争、経済的に恵まれること、、これらは全て自我が自身を大きくなったと錯覚するパターンです。ところが厳しいこと、苦しいこと、、これらで自我が肥大化することはありません。むしろ苦しみは自我の存在を海が見つけ出し、波(自我)が海に吸収される可能性を秘めます。

無我夢中とは

そもそも苦しいという感覚は海であることを忘れ自身を波と捉えることからスタートします。突然自身がちっぽけな存在になってしまったことで苦しみが自然発生的に生まれるのです、自我ができることはこの苦しみをできる限り直視しないで日々の生活の中に楽しみを探しこれを忘れることぐらいです。無我夢中という言葉は自分を忘れ夢の中にいることを指しますが実際はこの世こそ夢の中ですから夢の中ら無我とは夢の外へ出る行為なのです。夢の外とはつまり海になっているということです。無我夢中はその瞬間悟っている、波から海になっている、人間から全存在に戻っていることです。

無心になって取り組んでいたら時間があっという間に経っていた

無心=全存在=時間はなくなる

無心になって物事に取り組んでいたらいつの間にか2時間以上経っていた、、これは何が起こったか?それは無心になることで自我が消えてなくなりその瞬間に全存在になっていた、結果時間がなくなったということです。無我夢中になっていると時間が経つことを忘れると言いますがこれは間違い、時間がなくなったのです。海、全存在には時間がありません、時間があるのは分離意識の世界、海ではなく波、全存在ではなく分離した人間の状態の時です。分離するとそこには空間、距離が生まれます、すると空間から空間まで移動するために時間が生まれます。ですがこれは海の世界、全存在の世界では空間、時間はありません。移動がないからです。

やりたくないことを嫌々やっていると時間が経つのが異常に長い

やりたくないことを嫌々やっている時、時間が経つのが異常に長く感じた経験はないでしょうか。これも当然のこと、思考全開、感情全開、自我全開の世界は無我、ワンネス、全存在であることを最も忘れている状態、、これは不足感、欠乏感、飢餓感全開の状態なのです。究極の時間、空間の世界が広がります。

何かを成し遂げた達人がエゴまみれ、自我まみれに陥るケース

有名ミュージシャンである小室哲哉さんが借金を重ね最終的には詐欺で捕まった事件がありました。あれだけでの音楽家ですから音楽の制作過程においては無心になって無我夢中になってつまり究極の至高状態で作品を制作し続けたはずです。何よりも音楽活動自体を楽しめ活動に専念すればするほどに無欲なっていくはずなのに彼の場合は結果逆の状態にお金を湯水のように使いさらに借金、詐欺と無限地獄に陥りました。これを自我・無我理論で説明すれば簡単、無我夢中、無心で作った音楽活動で得た成果を自我が悪用した結果になります。莫大な収入、地位、名誉を自我が不足感解消に使い続けたわけです、ですがこの自我の不足感が解消することは絶対にありません、つまりどこまでも使い切り最後は無限地獄に陥りました。彼は音楽活動以外の活動時は自我全開、不足感全開状態になってしまったということです。音楽活動で得たはずであろう無心の境地、無我の境地をその他の生活に応用できず、圧倒的に分離した人間活動に利用されてしまったことになります。

条件が揃ったら無心に入れるのではなく、無心に入ることで条件を揃えていく

目の前の問題の山を先ずは無視して無心、無我に入る

分離意識全開、自身を海ではなく波であると認識する波の前にはおそらくは問題点で満載です。自身を全体から分離した人間であると捉える人間の前には問題点が山のように転がっているはずです。そうなると多くの分離意識はこう考えます、先ずはこれらの問題の山が解消できたら無心、無我に入って行こうと。集中して仕事に取り掛かろうと。ですが問題はその問題と称される山々は自我、波が無理くり作り出したものだといくことです。不足感の塊である分離意識、自我は不足感を問題に置き換えていきますからこれは強制的に問題にすり替えられてしまった事象なのです。ですからこの問題点に焦点を合わせても解決しようがないのです。先ずはこの問題点を解決することに無心になる、もしくは問題点以外のことでもいいから無心になって取り組むようになると全存在が、即海に切り替わり問題点が消えてなくなります。問題が問題でなくなってしまうのです。

波、自我が錯覚ならば問題も錯覚

海ではなく分離した波である、全存在ではなく分離した人間であるという錯覚を持つ分離意識は不足感の塊です。この不足感が解消されますとそれまで問題と捉えていた事象が突然問題ではなくなってしまいます。波、自我=問題所有ですから、、海、全存在=問題所有できずです。海は問題を所有できないのです。ですから我々は全ての機会、掃除、洗濯、エクササイズ、仕事、子育てを無心で入り込みその場で海、全存在に切り替わってしまうことで問題を問題でなくしてしまうということができるのです。もちろんどうしても無心になれないこともありますからそれは横に置いておいて基本的にはそこから無心に入る、無我夢中に入る、、この癖をつけることが重要になります。

そこから悟りに入る、これは日本人の得意分野

茶道、書道、柔道、剣道にはこれが重要でこれは重要ではない、、という概念がありません。最初から最後まで全て重要、合理的、非合理的を超えたところにあります。つまりどの所作からでも悟りに入る、どの所作からでも無心、無我に入りなさいという教えです。無心になって邪念を払って無我に入り込むことを茶道、剣道、柔道では教えているのです。最も簡単に言えばどの所作からでも海、神、全存在になってしまいなさいということです。そしてこの動きを生活の全てに応用することが真の目的です。

自身が海であることを忘れた波は問題点を探す

自身のことを波と捉えれば世界は問題だらけになる

問題など全くない、悩みも何もない、課題も何もない、、という人間がいたら嘘つきと思ってください。もしくは自身の問題を見てみないふりをしている人です。自分が海であることを忘れた波(人間)は不足感にさらされているのが構造的に当たり前なのでこれを無視することはできません。自身を世界と分離している人間と認識している時点で基本構造として不足感が生まれてきます、この得体のしれない不足感を人は世界の問題点として置き換えるのです。例えば付き合っているパートナーの問題点、会社の問題点、結婚相手の問題点、住居の問題点、経済の問題点、収入の問題点として必ずそこから問題点を見つけてきます。そしてそれが解決したらまた必ず次の問題点を探し出すのです、それは自身が人間であるというこの錯覚、誤解が作り出す必然のメカニズムです。

自身のことを波と捉えれば職場は問題だらけになる

多くの方にとって会社はストレスの場所です。上司、部下、給料、勤務時間、残業、会社の将来性、、、全てが問題化します。自分を全存在から分離した人間であると認識した瞬間から不足感が生まれだしこの不足感は会社への不満へとシフトするのです。会社勤めは非常に楽しいと断言できる人がいればそれは仕事を無我夢中になれる道具に使えている人です。仕事を通じて、人間関係を通じて無我夢中に没入し自我を忘れることができる人です。どこに居てもどんな場所でもそこから悟りに入りなさい、と言うマスターがいますがまさにそうその行為に没入する、集中してしまうことで逆にそこから無我に入ることで自身を海、存在に変えてしまう以外に不足感を解除する方法はありません。

仕事の向き不向き、好き嫌いが実は全くどうでもいい理由

本当のことを言えば海であることを忘れてしまった波や、自身を全体から分離してしまった人間と捉えている人にとって仕事の向き不向き、好き嫌いは実はどうでもいい問題なのです。基本不足感の塊ですからその不足感はいついかなる場所でも不満に置き換わりその人を襲うのです。ですからこれからいかにそこに没入するか、無心になって取り組むかに焦点を絞ってみましょう。無心になって取り組めばその時は自我が引っ込みますから即無我、ワンネス、全存在になれます。そこは至高、安堵、歓喜です。勘違いしてはいけないのは波、人間が至高、安堵、歓喜を感じるのではなく分離した波、分離した人間が居なくなることで(無心)至高、安堵、歓喜そのものになるということです。無我、全存在、ワンネス=至高、安堵、歓喜であって、、、人間、波が至高、安堵、歓喜を味わうのではないということを重ねて伝えておきます。

相手の要望を叶え続けるのが不可能な理由

海が自身を波だと勘違いしている時点で、、

自分のことを波だと勘違いしている海の要望を叶え続けることなど不可能です。なぜならば波が多少大きくなっても、豊かになっても、高くなっても、どんなに頑張っても本来の大きさになることなど不可能だからです。付き合ってるパートナーの要望を叶え続けても絶対に最終的に破綻がくるのはそのよの欲望は自身が波ではなく海であったことを思い出さない限り延々に続くことがわかっているからです。仏教で言う足るを知るなど自身を波だと勘違いしている存在にとっては一生理解できない言葉、戯言です。

巨人軍が何回優勝しても満足できないオーナー

ナベツネで有名な巨人軍オーナーですが巨人が何回優勝したって満足できないのは彼が海ではなく自身を波だと勘違いしているからです。自身の野球チームが何回優勝したって自身が海に戻るほどの感動を覚えないのは当然です。この欲望は尽きることがないのです。どこまでいっても無限地獄、人間の欲が歯止めが効かないのは当たり前のこと、程々で満足しているなど戯言です。

要望をなかったことにして生きていても絶望が襲ってくる

人間が中から湧いてくる欲望は自身が実は海だったことの記憶が作り出していますからそこを無視したり、抑えても絶対に上手くいかないのです。無視すればするほど、抑えれば抑えるほどにそのエネルギーはコップに溜まっていきいずれは爆発します。そうではなくこの欲望を使って無我夢中に入る、もしくはこの構造を俯瞰して理解し自身が海であることを腹落ちさせること以外にこの無限地獄から脱却する方法はありません。無我夢中になってそこから海になるか、、欲望をしっかりと見つめこの欲望がどこから出てきたのかを見定めるのです。出てきた場所は海です。