マトリックス

覚者の書籍が読めるようになる

自我の抵抗の終わり

悟り系の書籍は、、、興味があってもなかなか読めない、、、こんな時期は私には長い期間ありました、、、これだけ悟りに興味があるにも関わらずです、、、、それがあることがきっかけでいきなり読めるように、、、それが糖質制限です、、、炭水化物、糖質を一切取らない生活をしてみましたら、、、急に気分が落ち着き、、、書籍が読めるようになったのです。マトリックスのNEOが選んだカプセル、、、こっちを選べば今までの生活が、、こっちを選べば新しい世界が待っている、、、、私にとって糖質は今までの生活を続けるカプセルだった気がします、、、

馴染むように体に染み込む

それからというもの、、覚者のメッセージが、、、馴染むように体に染み渡るようになりました。。。。そして書籍を読むと自動書記のように私自身もこのメッセージを伝えたくなりました、、、現在のこのブログはそのように書いています、、、、覚者の言葉が呼水になって自身の中から湧き出してくるのです。。。。書かずにはいられない、、そんな気分です。

書けば書くほどに静寂に、、、

このブログを書いていて様々な不思議な体験が増えていきます、、、先ず静寂に常に在るということ、そして外に出ると輝いているのです、太陽の光が、、、、さらに気温が心地よいという感覚を超え、、感じたことがない体感があるのです、、、為すべきことはなにもない、、、この不思議な感覚が腹落ちした時に、、これらの感覚が気づくと湧いていました。

筒人間ならば野生動物と同じではないか???

その通り

人間がただの筒で、、全体からの起こりを通すだけの存在、、言動全て全体からの起こりを通すのみ、、だとするならば、、、意志を持たない野生動物と同じではないか????意思を持たない昆虫と同じではないか???その通りです。全くもってその通りです。人間の方が昆虫よりも優れて、、、全体の表現、アートに、、優劣などあるわけがないのえす。人間も野生動物も昆虫も自由意志など一切なくただ全体の起こりを表現しているのです。

それが素晴らしい

自由意志がなく、、ただ全体からの起こりを全現象が表現しています。ここに「自分」が居るという思考が全体からやはり起こることで、、自分劇場がスタートします。この「自分」はあらゆる経験をかき集め、あらゆる知識をかき集めることで、、価値観を形成していきます、、、この価値観は記憶ですから、、全体、空に収められていきます。そしてこの価値観を通じてこの現象界を眺めることで、、、エネルギー、生の揺れ動きの中に別個分別しているかのうように見える存在(現象)が現れるのです。

価値観を通じた現象に善悪はない

「自分」の価値観を通じた現象に善悪は全くありません、、ですが「自分」にとっての善悪は存在します、自分にとっての良否は存在します、自分にとっての優劣が存在します。これが分別です。この分別で周囲を縛り自分を縛ることでこの自分劇場は生き辛くなっていきます。よくわかんないけどなんか生きるのって辛いよね、、になります。

価値観分別劇場

この世界、価値観分別劇場から離脱するためには、、本当は何が起きているかを知って触れるしかありません。価値観分別劇場の中で真実にもう一度触れて、、真実を思い出すしかないのです。マトリックスの中でNEOは徐々にこの気づきを得ていきます、現象(エージェントスミス)に何度も取り込まれそうになりますが、、その中でも徐々に真実を発見していくのです。

私以外の全ての人間はエージェントスミスになってしまう

周囲の人間関係は全部エージェントスミス

エージェントスミスとは映画マトリックスで主人公NEOを攻撃してくる適役です。彼らの真の目的はNEOを覚醒させないこと、、NEOをNEOの体の中に閉じ込めておくことです。NEOが覚醒に近づけば近づくほどに彼らは束になってそれを阻止しようと企てます。この体の中に「私」が居るというのは全体の大いなる勘違いなのですが、、この勘違いを引き起こす大きな要因が周囲の人間関係です。周囲の人間はこの体に向かって間違いなく話しかけています、この体の中に「私」が居るという前提で話しかけてきます、、すると思わず全体は「私」になり切って話をするわけです。私に成り切る千本ノックが始まります。星一徹ばりの猛練習です。

話かけられると全体から「私」に戻る

我に返るとは面白い言葉で何かに集中してうると我を忘れて物事に打ち込んでいます、この我を忘れるというのが全体に帰っている瞬間です、、ところが人から話しかけられると、、、「私」に瞬時に戻ります。我に返ります。周囲の人間関係はどうしてもこの作業の連続になります。集中して小説を読んでいたら「お客様、ご注文は何にしますか?」で我に返ります。集中して映画を見ている時に「ピンポーン」のチャイムで我に返ります。本当の私は全体なのだという感覚が芽生えてきますと、、「我に返る」のが面倒になります、我に返る苦しさを強烈に感じます、、人間関係こそ苦しさの原因であることを悟ります。

では人間関係から逃げるのか???

では人間関係から逃げるのが正解なのでしょうか??違います、、人間関係をエンタメに変えてしまうのです、人間関係を遊んでしまうということです。周囲の人間はこの体の中に「私」に話しかけるというお遊びをしかけてきていると捉えます。その瞬間私を演じて楽しむのです。人間関係とは所詮3D映像同士の戯れ、蜃気楼同士の遊び、と感じていきます。その関係の良し悪しは絶対幸福、至福とは何も関係がないことを悟るのです。帰る場所は全体です、ここを強烈に意識します。我に返るのではなく全体に返るのです。

「悟り」と「自分」の綱引きに勝つ

五感全開で悟り、自分への呼び戻しを見抜く

悟りを学んでいきますと徐々に思考の仕組み、自分の仕組みが分かってきて五感中心、事実中心、根源中心の生活にシフトしていきます。思考のサイクル、悩みのサイクルが理解できてきますと悩み続けるということが逆にできなくなります。なえならばその思考こそが苦しさを生み出していることが腹落ちできるからです。するといつも爽快、いつも軽快という覚醒状態になっていきます。ところがこの状態は周囲からの評価も高いのでここでこの評価は「自分」が得たという思考が再登場してきます。この流れで多くの人はまた思考に振り回されていきます。

悟りが開きかけた時思考が大量流入してくる

この自分ゲーム最大の山場は悟りが開きかけたその瞬間、思考が大量流出して「自分が居る」を維持しようとする場面です。映画マトリックスでもネオが覚醒する瞬間までエージェントスミスが大量投入されてきます。覚醒を阻もうとエージェントスミスが大抵抗を続けるのです。この大抵抗こそが思考の大量投入、「自分」は凄い、「自分」はもっと評価されるべき、「自分」はついに悟りを開くぞ、、、です。気を抜いている間に「自分が居る」という最強の思考が湧いてきます。

爽快な状態に周囲は評価で「自分」を思い出させようとする

自我が薄れ爽快な状態が湧いてきますと、、この体に向かって周囲は最大限の評価を送ってきます。あなたはなんて素敵な人なのだろう、あなたの近くに居たい、あなたからその方法を教えて欲しい、という連打を浴びせてくるのです。これによってこの体は再び自分を思い出し自分への評価に酔いしれるという思考に取り込まれていきます。自分は評価されるなーという一瞬の酔いが覚めますとまた苦しみの人生が続くのです。これが思考(エージェントスミス)の悟り阻止メソッドです。

エージェントスミスの手の内を掴む

エージェントスミスの目的は、、、「自分が居る」を維持することそれだけです。これが目的ですからそのためにあらゆる思考が湧いてきます、例えばあいつはお前の悪口を影で言っているのでは?友人Aはお前を騙そうとしているかもよ、周囲から評価されているお前はいつか叩き落とされるかもよ、、、と、、するとそれは困る、それは腹立たしい、それはムカつく、、、という思考が再び湧いてきて、、、自分が再浮上するのです。まさか湧いてくる思考がエージェントスミスだったとは、、、、これは見抜けない。ただこれもエージェントスミスの手の内が最初から分かっていればスルーできます、思考が湧いたらバッサバッサと切り倒せばいいのです。

最後はテクノロジーが人間を解脱させるのか??

テクノロジーの進化が解脱を生み出す

マトリックスという映画の大成功、ポケモンGOなどのリアリティーを取り入れたゲーム、バーチャルリアリティー、グーグルグラス、、、、あらゆるテクノロジーが人間というシステム、脳が作り出している世界に類似した世界を作り出します。テクノロジーが脳の機能をまるで模倣しているかのようなゲーム、ソフトが日々誕生していきます。悟りの学びをしてきた人間からするとこれってもう答えだよね、、という驚きです。

今までも人間を驚異的に変えたのは技術

考えてみれば産業革命が起こり人間の生活は圧倒的に変わりました、そして次が今起こっているIT革命、そこからのAI革命、、恐らく今回の技術革新は人間を悟らせる、解脱させるとこまでいくのではないか???そんな感覚を強烈に覚えます。バシャールが言うにはテクノロジー改革はハイアーマインドの物質化とのこと、、これも理解できます。オーバーソウル、集合意識との繋がりが強固になってくるとそこから情報が降りてきます。自我という思考の分断が緩めば全体との繋がりが強固になります。IT革命は人間としての生活を大きく変えていきますから自我の緩みを生み出す可能性があります。

悟り、ノンデュアリティがYahooニュースに載る時代が来るかも

YOUTUBEの視聴回数などを見ていても悟り、ノンデュアリティに関する動画の再生数はそれほど多くはありません。まだまだ世間のこの分野に対しての理解は少ないようです。これからどれほど技術が進みこれらの分野に対する関心が増えていくかが楽しみです。

悟りへと導く「苫米地式コーチング」は凄い

脳科学は苫米地英人氏の方便では?

私は苫米地式コーチングに一時期ハマりにハマりました、、ハマっている当初は実はそこまで気づいていなかったのですが自身が悟り、非二元について探求を重ねていくに従い、、実は苫米地式コーチングは「悟り」への誘いであったことを強く痛感するようになりました。覚者が伝える「自我」というメカニズムを現代風に表したのが「コンフォートゾーン」、、コンフォートゾーンの外にゴールを設定するが「自己超越」「悟り」、、抽象度を高くする、、「分離の解消」、、、と気づけば全部悟りの世界のことなのです。

苫米地氏は映画「マトリックス」を制作する代わりに「苫米地式コーチング」を作った

あくまでこれは私の推測でしかありませんが、苫米地氏のコーチングは民衆、大衆を騙すための方便でゃないかと考えます。マトリックスという映画は監督による悟りへの方便です。苫米地式コーチングは自己啓発、目標達成、成功法則を謳った苫米地氏の悟りへの方便ではないでしょうか。脳とはこの人間の分離感覚を完璧なまでに強化するツールですからそこに責め込むのは素晴らしいアイデアです。

脳のトリックを見抜き悟りへ誘う

苫米地氏を著書の中で何度も抽象度の最高は悟であると述べています、、視座を最も高くした地点、全体を眺める視点とは悟りの状態です。この世は突き詰めればたった一つのエネルギーで構成されていますから分離というのは全くなく、、そこを苫米地氏は抽象度を上げていくことで情報を整理しそこに導きます。最終的には人間もその一つのエネルギーの構成要因であることは間違いがなく、、自分が消え失せます。その時に残るのは「無」であり「全体」であり「神」です。

本当はバラバラではないのにバラバラであると確信を持って生きている人間ドラマ

この世界は今も一つの宇宙現象

我々が観ているこの世界は今も完璧なる一つの宇宙現象です。ですが我々にはそう見えていないはずです。完全にバラバラに解体されているように見えているはずです。目の前にペットの犬がいればその犬は完全に犬以外とは分離しているように見えているはずです。これが人間が観ている分離世界、分離映画、分離ドラマです。完璧なる一つの宇宙現象が人間というフィルターを通する完全に分離した世界に一変するのです。これを覚者は「人間は寝ていて夢を観ている」と表現します。人間は一つの宇宙現象に名前を付けることで分断し細分化し本当に分裂しているように見える世界に今も居ます。

名前を付けちゃったんだから仕方がない

一つの宇宙生命体が、人間という存在を作り出し人間に思考、脳を与えたわけですから人間が名前を付けて分離その世界を上映しそこに住うことに何の問題はありません。これは一つの宇宙生命体が営む遊びです。人間主人公の一つの宇宙生命体分離映画を楽しんでいます。ですが人間からしたら冗談じゃない、、一つの宇宙現象のままがいいに決まっている、、こんな面倒臭いこの世界は終わりにして欲しい、、それが本音ではないでしょうか。ですが実は違います、、多くの人間はそんなことすらも考えません、絶賛分離体験中です。実は見ている世界は一つの宇宙生命体であり分離しているように見えているだけだ、、、こんなメッセージはウザイの一言で終わるでしょう。

覚者は皆同じことを言う「目の前が全て」

覚者はこの分離の夢から覚めた時に、、皆同じことをいいます「今ここが全て」「これしかないんです」「これだけがある」と、、、、、何を言っているんだ??と言う話です。人間にはこの見渡す世界は完全分離、支離滅裂社会でありもはやジャングルと化しています。信じるものは自分だけ、頼れるものは自分だけ、、、同情するなら金をくれ、、のヤサくれ状態です。ですがこの分離壊滅社会を作り出したのはこの思考であり、一つの宇宙生命体には何の罪もないのです。人間の脳が発達しこの体をより確実に生き延びさせるために生命現象に名前を付け文明の進化に大いに貢献しました。そしてその副作用がこの分離壊滅社会です。

分離壊滅社会を抜け出したいならば

分離壊滅社会、分離生気皆無社会をもしも抜け出したいならば、、、簡単です。この分離は真実ではなく人間というフィルターがそう見せていることを見抜くことです。そうです、この分離壊滅社会は幻想、夢なのです。人間が見れば確実に分離分断壊滅意気消沈ですがそれは「自分」が見ているからそうなっているということです。目に目える世界がなぜそうなっているか?ここを完璧に見抜いてください。そうすると目の前に起きた現象にいちいち反応しなくなる「自分」が生まれ始めます。マトリックスをマトリックスと見抜く「自分」が出現し始めるのです。

実際には分離できていないからこそ全体に戻りたい

自分とはどこまで行っても錯覚

自分というのは実際には存在しません。自分というのは全体から分離した独立した存在だと多くの方は思っていますが、もしも本当に独立したならば自分の欲には制限があるはずです。そして苦しみは存在しないはずです。なぜ完璧に独立した存在に悩みがあるのでしょうか?もしも個人が完璧に独立しているならば欲に制限がないこの人間という存在は何なんでしょうか?不完全過ぎます。自分とはどこまで行っても全体から分離していると思い込んでいる存在でしかなくだからこそいついも居心地が悪いわけです。

ライオンが自分は弱いと思い込めば苦しい

ライオンは百獣の王です。もっとも強い動物とされています。このライオンが洗脳されてもしも自身が非常に弱いと錯覚をしたらどうなるか?毎日草を食べ、シマウマに怯え、穴蔵に籠って生活する。雨の日は他の動物がいないからという理由で川に水を飲みに行く。こんなライオンは居心地が恐ろしく悪いはずです。本当は強いにも関わらず弱いと錯覚してしまっているライオンはどんに草を貪っても何かしっくりこないはず。もう分かりましたね。これが自分です、これが全体から分離していると錯覚している自分です。全体がこの体の中に閉じ込められた状態、この体の中に自分(全体)が居ると錯覚した状態、、、これこそが自分(人間)でありだからこそ居心地の悪さが消えないのです。

ライオンが自分の強さに気づくには?

自分のことを弱いと洗脳され錯覚を起こしたライオンはどうしたら本来の強さを取り戻すことができるのか?それは弱いということが錯覚であることに気づくしかありません。どのようにその錯覚が起こったのか?そこを理解する他ありません。自分もこれと同じ、自分がいかに全体から(自ら分かれた)存在になったのかを知ることです。この自分の人生の苦しさのカラクリを理解することです。それでもこの人間社会に馴染んでいると周囲は自分にあらゆる声掛けをすることで自分の存在を強化してきます。人間という周囲の存在こそが自分の存在を強化します、錯覚が溶けるのを妨害します。映画マトリックス同様に周囲の人間全員がエージェント・スミスになります。

夢の中での地獄も一瞬

至福にはなれないが地獄も一緒

毎晩見る夢の中で最初から最後まで地獄しかなかった、、こんなことも少ないはずです。というか無いはずです。夢というストーリーの中で最初から最後まで地獄続き、、、交通事故で跳ねられ全身麻痺に、病院に行ったら医療ミスが起き、さらに看護師からのイジメ、友人がお見舞いに来たら毒を盛られ死亡、、、と地獄が延々と続く夢も少ないものです。それはなぜか?簡単です、夢を見ているあなたがそんな夢は見たくないからです。

この現実社会も同じ

これは神が見る夢です。神が見る夢の中でこのリアリティーが起こっています。その中で自身は主人公になりこのストーリを右往左往しています。このリアリティーでは永遠の至福はありません、時間という縛りがあるが故に幸福は常に一瞬です、歓喜も常に一瞬です、だからこそ永遠の至福を主人公である私は求め続けるわけです。ですがこのストーリーの中では絶対に至福はありません、時間の中にいるからです。これは地獄に関しても同じで永遠の地獄は不可能なのです、時間がありますから。ただし問題はあります、永遠の不足感はついて回ります。全知全能の神が人間になりきっている夢ですから不足感しかありません。地獄は一瞬ですが不足感は永遠です。

不足感が永遠ならば夢から覚めるしかない

自分自身が見る夢も、神が見るこの夢も不足感が永遠ならば、、、この夢から覚める他ありません。分離体験には不足感は常にセットであり分離ゲームで永遠の至福は絶対に得れないのです。だからこそマトリックスという映画ではNEOは目覚めを目指したのです。この夢の中に永遠の至福への攻略があるならば釈迦は解脱を勧めないはず。もっとテクニックを話したはず。キリストは人間を原罪(的外れ)と表現し、釈迦は人間を「苦」と表現しました。テクニックに逃げるのではなくこの事実ととことん向き合う時期が起きます。それも神が決めます。

蜃気楼は確実に見える、だが実在はない

ハッキリと見えるのに実在しない

人間は視覚を誤解しています。蜃気楼はその良い例で確実に見えるにも関わらずその場所に行くと何もありません。蜃気楼は光と気温などが原因で発生するようですがこの事実を甘く見ています。今人間が見ている世界がもしも蜃気楼のようなものだったら、、確実に触れる、、だから実在するも間違い。確実に匂いがする、、だから実在するも間違い。確実に聞こえる、、、だから実在するも間違い。五感で確実に感じるものは実在すると言うのであれば蜃気楼の説明がつきません。我々が見ている世界、触っている世界、嗅いでいる世界、聞いている世界、、これらは五感が確実に認知しているから存在していると言うのは乱暴な考え方です。

見えるし、触れるし、聞こえるし、温度もある、、だから実在するはおかしい

五感が確実に感じることは実在すると言う考え方は乱暴な考え方です。視覚で感じても実在しないがあるわけですから五感全部で感じても実在しないはあり得るわけです。我々は五感で感じれるものは実在すると言う大前提で理論を組み立てていきますがこの理論は稚拙すぎるのです。マトリックスでも有名なセリフ「五感で感じることが本当だと思うならそれは嘘だ、脳の電気信号にすぎない」まあこれはその通りです。五感とは脳の電気信号ですからここを操作すれば人間は何でも実在していると錯覚できるのです。これが夢だということを否定できない事実です。全てがより緻密な蜃気楼だったら、、、あなたの友人も親もパートナーも会社の同僚も触って喋って、匂えるような蜃気楼だったら、、あなたはこれを実在すると必ず錯覚するはずです。

昨日見た夢を思い出してください

あなたが毎晩見る夢で、、もしも高級フレンチに行ったならばそこでは心地よい音楽、舌触りの良いステーキ、深みのあるスープ、香りの良いワイン、、全てを感じるはずです。夢の中なのに五感全部でフレンチを楽しむはずです。もしも夢の中で極寒のシベリア探検隊に派遣されたならば、そこでの猛吹雪、肌を凍らすような気温、空腹感、暗さ、、全ての五感を通じて厳しいさを味わうはずです。人間が見る夢ですらここまでリアルに味わうことができます。これがワンネス、大いなる一つが見る夢だったらそれ以上のリアリティーある夢を創造できないはずがありません。人間という登場人物が見破れるような夢であるはずがありません。