ドラマ

今までの人生で決めてきた決断の全ては自分では決めていない

決めてきたと思っているとしたら夢を理解していない

昨夜見た夢の中で自身が大きな決断をして成功を遂げた時に、、、次の日になって夢の中での自分の決断に対して悦に入るということはないでしょう。夢の中でのあの決断は素晴らしかったと友人に話はしないはずです。なぜしないのか?それはその決断を行なったのは夢をみた張本人であって夢の登場人物ではないからです。そうなるとこの現実社会のカラクリも解けてきます。この現実が夢ならばこの夢の中で英断できる人物は誰もいません。この夢の創造主以外にその決断を起こした存在はいないのです。例えばこの現実の中でどんな失敗をしたとしてもそれはあなたの失敗ではあり得ないのです。なぜならば夢の登場人物に自由意志など存在しようがないからです。あなたが昨晩見た夢の中で大変自分勝手なパートナーが出現したとしてもそれを作り出したのがあなたであることは明白です。この夢劇場で自分で決断をしている人間はいない、そしてそもそも人間に見えるだけであって人間という独立した存在もやはり夢ではいません。

人間が毎晩夢を見ることこそこの現実のカラクリを解き明かす大大大ヒント

もしもこの現実が夢だとしたら、、、人間が毎晩夢を見るというこの設定はあまりにもチープなヒントです。毎晩人間に夢を見させていたら、、、この現実もやはり誰かが見てる夢なのでは?と疑ってしかるべきだからです。ですがそのような会話が日常生活であまり行われない理由はそれがこの現実に見える夢があまりに緻密で巧妙でリアリティーに溢れているからです。人間は起きている時は大いなる存在の夢の中で登場し、夜は自身の夢の中にいる。結局ひたすらに夢の中にいます。何のこっちゃです。

毎晩夢を見ているその瞬間意識だけがある

毎晩夢を見る時、、見ている瞬間は夢を見ているという感覚はありません。ではどのような感覚でしょうか、ただ意識だけがあります。繰り広げられるストーリーを意識しています。それだけです。見ているという感覚は皆無です。それはこの現実社会も同じ、ただ繰り広げられる自分ドラマを意識している存在が今もいます。このブログを私が書いている時、それを意識している存在がただいます。これがこの現実創造の張本人です。ただある、意識のみ、これが答えです。ただある、、これがこの夢が今この瞬間起こっています。

なぜ大海原である海が自身をちっぽけな波だと勘違いする珍現象が生まれたのか

大海原は波としての冒険をやってみたかった

大海原は大海原ゆえに何もそこには起きません。津波が起きようと、海底火山が起きようと、、、何が起きてもそれは自身が姿を変容させただけのこと。そこに何の感情も起きなければ感動も退屈もない、、何もないのです。そこで大海原は自身を波と勘違いすることで再び波物語というドラマを作り出したのです。自身を小さな波であると勘違いすることができれば大きな波との出会い、小さな波との出会い、さらに格闘、和解、取引、平和、争い、、、あらゆる事件をそこに起こすことができるのです。

波での人生はエキサイティングだが苦しい

波としての人生は大変エキサイティングです。何しろ自身以外に広大な世界が広がりそこには別個の波が広がっています。穏やかな波も、激しい波も、喧嘩っ早い波も、愛情豊かな波もいて毎日が新鮮、刺激的でしかありません。そして最も大きな刺激、それは自身が実は波ではなく大海原であったという気づきです。こんな大どんでん返し、こんな結末、こんなドッキリ企画の種明かし聞いたことがない。

海はあらゆる場面で独立した波が実は海であると気づくようなヒントを与えている

海は波に対し実はあらゆるヒントを与えていました。本当はあなたは波ではなく海の一部だよと。例えばゲームに熱中する時に訪れる安心感、安堵感、幸福感、歓喜、、これらはゲームに無我夢中になったときに訪れます。ゲーム自体にそのような仕掛けがあるのではありません、ゲームに夢中になれたときに自分自身を忘れています。この時波は自身が波であるというこの勘違いを忘れることができるのですがその時に訪れる安堵感、安心感、歓喜こそが自身が海であることの感覚です。自分を忘れればそこには海しかありません。このように波は何かに夢中になった時、無我夢中になった時に押し寄せてくる安堵感を生活の中で実感していたのです。この安堵感はなんだ?この歓喜はなんだ?なぜか懐かしいこの感覚は一体どこからきたのか?それは遠い場所から来たのではなく自身(波)の存在を忘れることで海(本当の自分)が押し寄せてくる感覚だったのです。

悟った人はいない、、という言葉の意味

夢から覚めるのはこの夢の創造主「I am」

この体は私だ、この思考こそ私だ、、、この発言の主は自我です。私の名前は山田太郎だ、、、の私こそ自我です。これは本当の私が見ている夢の中で主人公とされている人間が叫んでいる「セリフ」です。私はこの事件の被害者だ。私はこの建物の所有者だ、、、この夢の中、ドラマの中で繰り広げられる中での私は自我です。そしてそれをひたすらにずっと認識し続ける存在こそが本当の私です。私はただ在る。この夢そのものでありこの夢を認識し続ける、見続ける存在です。ですからこのドラマの中に悟った人は出てきません、自称悟ったと語る登場人物は出てくるかもしれませんが悟とはこのドラマが夢だと存在が気づくことであり、それは自我の開放、自我の欠落、自我の消滅でもあります。と同時に自我ドラマでの登場人物の欠落、消滅でもあります。

夢の中での成功に価値はあるのか

夢の中での個人の成功に意味はあるのでしょうか?夢の中での個人の安定に意味はあるのでしょうか?答えを言えば意味なんて何もないということになります。夢の中での成功も失敗も豊かさも不便さも快適さも何もかもが夢の演出でしかありません。そもそもなぜ個人は何か目的のために動くのかと言えばこれが夢だと信じていないからです。この個人が見る世界がリアルな現実であるという確信のもとに日々動き回っています。静止をすれば苦しみが襲いかかってきます。

夢の中での失敗に価値はあるのか

夢の中での個人の成功に意味が無いように、夢の中での個人の失敗も意味、価値はありません。ですが夢の中での個人の失敗を絶望を生み出す可能性はありこの個人の絶望はそのままこの夢からの覚醒になる可能性はあります。あなたが夜見る夢で悪夢と呼ばれる夢を見ている際に非常に怖い出来事に巻き込まれそのまま飛び起きた経験はあるのでは無いでしょうか。これがこの世、この現実からの覚醒です。そういう意味ではこの夢の中での大失敗は絶望へと繋がり夢の終焉に向かう可能性はあります。