ゲーム

思考が過去と未来に向けて

思考とは過去のこと、未来のために起こる

思考というものを注意深く観察してみてください、、全思考は過去についての内容か未来についての内容になります、、、過去、未来の存在を全肯定した内容になっています、、将来のためにこうしなくちゃ、あの時あれをしなければ良かった、、、ばかり、、、本当は今しか存在しないにも関わらず、、なぜか過去、未来についてのメッセージなのです、、、これによって我々の意識が過去、未来に焦点が合います、今に焦点が合わなくなるのです、結果静寂、平和が離れます。

思考との同一化は、、過去、未来への同一化

思考の内容が過去、未来に向けてであることから、、、ここに意識がフォーカスされますと、、、今に居れなくなります、、今この瞬間の森羅万象の現れに意識が向かなくなります。。。。本当は今しか起きておらず、しかしなかが思考に飲み込まれれば、、過去、未来という幻想の中に入り込むのです、、、これが今映画、TVゲームに夢中になっている状態です。過去、未来は本当は存在しないのですから幻想です。

でも今見える世界も幻想ですよね???

そうです、今見えている分離した世界も幻想ではあります、、ですがこの幻想の世界で体感する経験は幻想ではありません、それはリアルです、経験だけは大いなる一つ、根源、神そのものです、、、そこが静寂、至福、平和なのです、、、今ここで思考にふけるということは幻想に意識がフォーカスしていう状態です、、今に居ながら、、幻想に意識がフォーカスされているのです。これが苦しみを生み出します。

究極のリアリティ

幻想を見抜く

これは幻想です、今目の前に広がる世界は幻想です、、このことを理解できますと、、、、幻想に取り込まれなくなっていきます、、、思考はああだこうだと言ってきますが、、、その思考にも取り込まれなくなっていく、、なぜならば解決すべき問題があまりないのです、、、思考の出る幕が無くなっていくわけです、、、昔はよく考えていた老後の心配、将来の心配、日本の行末、、など、、全く心配する要因にならなくなっていくのです。

幻想を幻想と見抜くと、、、

幻想ならば深刻に捉えるべき問題って実はないんです、、、もしも深刻に捉えて解決しなくてはと考えるとすたらばそれはそういう趣味です、、、深刻に捉えて解決しなくちゃというゲームをやっている感じです、、実際には、、ただ幻想が起きているだけです、、、深刻に捉えなくちゃいけない問題など皆無です。

究極のリアリティを生きる

究極のリアリティとは悟ることです、、、幻想の世界を抜け出し、、非二元、真我を再発見することです、、非二元、真我を再発見することでこれが幻想であることを悟ります、深刻さが抜け落ち、この場が神の遊びの場に変わる、、深刻に深刻に世の中を眺める人々を見ると、、おかしくなる感覚、、、皮肉ではなく、、そんな時もあったなという安堵が込み上げてきます。

幻想はこの現実で十分

画面の世界に夢中になる滑稽さ

この現実は完全なる幻想です、、、我々は現実と呼ばれるこの幻想の世界にどっぷり浸かり生きています、、するとこの幻想の世界は現実的に見えます、、、この幻想の世界に疲れると、、、人は画面の中に吸い込まれていきます、、映画、TV、ゲーム、YOUTUBE、TIKTOKなどなど、、、これらはこの幻想の世界の中でさらに幻想の中に引き込んでくれる道具です。今既に幻想の中に居るにも関わらず、、、さらなる幻想に逃げ場を求めているのです。

この幻想をもっと楽しんでみる

ここがまさに幻想ど真ん中です、、この幻想が最高峰のクオリティー、この幻想が、、究極のサバイバルゲームです、、、なぜここを楽しまないのか???です。。。これを幻想と完全に見抜き、、この幻想を楽しみ尽くすのです。この幻想に後悔は禁物です、、、後悔できる自己は存在しません、、自由意志もないのです、、、本当は。。ゲーム中は勿論自由意志をフル発揮するればいい、、、本当はないけど。。

幻想ゲームを楽しむ機能としての自分

幻想ゲームを楽しむ機能としての自分が存在します、、、この体です、、、この体を機能として、、いかにこの幻想ゲーム上で楽しみ尽くすかです、、、宇宙の機能として、、楽しいを追求していきます、、、神としてこの体をフル回転させていく、、楽しいを追求していきます、、こんな役として世の中に貢献したいな、、こんな機能として世の中にサービスを提供したいなーの連続です。自己超越して楽しみます。

思考への焦点を剥がす

思考に焦点が集中する

思考に焦点が集中しますと、、、思考との完全一体化が始まります、、すると思考していることに気づかなくなります、、、1日中思考していてもそのことに気づく存在がいなくなるのです、、、思考との完全一体化、、が起きます、、、この事実に気づき、、、思考の湧き上がりに意識的になっていきます、、、思考が湧き上がる瞬間に注意深くあるのです。たったこれだけで、、思考の渦に取り込まれなくなります、、平和が満ちてきます、、静寂に包まれます。

どこに焦点が当たっているか

私たちはコップを凝視しながらTVゲームをやることができません、YVゲームに集中すると、、コップを凝視できません、、、一度に二つのモノに焦点を当てることができないのです、、、つまり人間ゲームに焦点を当てると、、他のものが見えなくあります。。。個人というこの感覚に焦点を当てると、、他が見えないのです。今人生が大変に苦しいのならば、、この個人に焦点が完全に合ってしまっている、、ただこれだけです。

焦点を気づきの意識に戻す

焦点を気づきの意識に戻す習慣を見に付けていきます、、、思考が湧く時に、、、それを観察する存在になります、、地面を踏み付ける時に、、その経験のみに焦点を当てます、、、ジュースを飲む時に、、、その味そのものに焦点を当てます、、、目を閉じて現象を消し去り、、気づきの存在として音に気づきます、、全ての経験を個人に焦点を当てず、、、気づきの意識の気づきに焦点を移行します。。。

進学するか就職するか???

若い時期は悩む

進学すべきか、、就職すべきか????悩む。。。若い時期はとにかく悩みます、、、ですが、、、これを決めることができる個人は居ません、、、、全部森羅万象の現れです、、、個人が居るという感覚も森羅万象の現れです、、その個人が自由意志を行使できるという感覚も森羅万象の現れです、、、神羅万象の現れの共通点、、それは化学反応、縁起、因果の世界、、、です。。。反応が反応を起こし続けているだけの世界です。ここを見抜けない期間は「人が悩み続けるという現象」が起き続けます。

この仕組みに気づきの意識、空が気づく

悟りとは、、、気づきの意識の人間への同一化、、、からの同一化していることへの気づきが起き、、、同一化の終焉が起きることです。。。。全体、アイアム、気づきの意識が人間に同一化することでこの人間ゲームを堪能するわけですが、、、、この状態に気づき、、、、全体に戻る、、ことが悟りです。すると人間の動きも、この現実の動きも全部ただ森羅万象の動きであったことに気づき。。。。その中で分離錯覚しているというやはり現象が起きていたことにも気づきます。

なぜもっと早く気付けなかったのか????

違います、、、気づくのは気づきの意識です、、全体、アイアムです、、、人間はただの現象です、、現象が気づくのではありません、、、気づくことができるのは、、気づきの意識だけなのです、、、気づきの意識をコントロールできる存在は存在しません、、、気づきの意識が存在そのものだからです、、、、気づきがお遅い気づきの意識は居ないのです、、、気づきの意識は完璧なタイミングで気付いていきます。

至福を求めるのではなく

苦しみを終わらせる

偽りの自己、、、この体を守るためにできたこの自己防衛システムは、、最初のうちは上手くいきます、、、この体を守りつつ、、、全体、存在をしっかりと意識していきます、、、苦しみがない、、、そしてこの体はしっかりと守れる、、、、ところが徐々にこの偽りの自己を完全なる自分で在るという思い込みが強固になっていくと、、、この体は守れるが、、、苦しい、、が生まれてくるようになります。この状態では偽りの自己は次から次へと楽しみを追い求め、面白いを追い求める餓鬼状態になっていきます。

先ずはここを終わらせる

ただ楽しいを追い求めても全く楽にならないことを学んだ自己は、、、何かに打ち込む方法を選ぶようになります、、、部活動、スポーツ、勉強、、などなど、、、すると貪っていた時期に比べてなぜか楽になるという経験を積むのです。。。そうか、、、貪るより何かに打ち込んだ方が楽だ、、、、ただなぜ楽かは全く分かりません。

集中し打ち込めば、、、楽だ、、、じゃあ次々に目標を

集中し打ち込むことで楽になることを覚えた偽りの自己は、、、次々に目標を達成していくことを学びます。受験の後は就職、就職の後は出世、次は結婚、次は子育て、、次はお受験、次はマイホーム、、、と、、、確かに貪っていた時よりは楽になった、、、だが、、、いつまでこの目標達成を続ければいいのか????徐々に疲れが出始めます、、、

なぜ楽になったかを知る

何をしている時楽で、、なぜ目標を持つと楽になるのか???目標を達成した瞬間は安堵感がある、、、この理由をどこかで突き詰めなければこのゲームはエンドレスに続くぞ、、、ここで究極の目標に舵を切るのです、、、本当の幸せとは???人間のままで幸せにはなれないのでは???です。事実自身をこの体と思っているようではこのゲームはクリアできない、、、その仕組みを理解します、、、そして実践します、、、

「ば・か・や・ろ・う」に反応するって??

ばかやろうは、、、ただの音の並び

ばかやろう、、こんな言葉を会話中に向けられれば誰でも頭に来ますよね、、ですがよーく考えてみてください、、ば・か・や・ろ・う、、、これってただの音の組み合わせ、並びです。。???ここに人は意味が込められていると信じるから、、、怒りがこみ上げてくるのです、、だってそれはそうだろう先方はそういう意味で使った言葉だから当たり前では???違うんです、、先方からは実はただ現象として気づきの意識から湧き上がっただけなのです、そこに意味を込めた相手の人格は無いのです。

ばかやろうも、、ただの生命現象

ばかやろう、、という音の並びが、、、ただの生命現象、、これが真実、事実です。え???じゃあそこには意味はないのか???ないです。。。。じゃあ会話自体が完全に意味がないではないか???そうです、、、相手の発言に意味があると信じて行う遊びが会話です。ということでこちらが「ばかやろう」と先方に放てば相手は怒るでしょう。

いつまでこのゲームにハマっていますか???

相手の言葉に実は意味がないならば、、、コミュニケーションには意味がないでしょう、、そうです、、ただの生命現象である言葉に意味は全くないのです。。じゃあ今後何を目的に会話をすればいいのか???そういう遊びとして会話をすればいいのです、、、逆に言えば相手の言葉に深刻になる必要がないということです。だってただの生命現象です、花、植物、木々、と同じです、、そこに意味がないのです。

思考に振り回されているという、、気づきは素晴らしい

なんか頭の中の思考が大変で、、、

これは重要な気づきが気づきの意識の中で起こっています。頭がグチャグチャで、、、、本当にグチャグチャならば、、、それにも気づかない、、、思考がこの苦しみの根源であるという気づきが起きればそれはもう悟り間近です。あの人のあの発言でモヤモヤする、、、そうです、、このモヤモヤこそが苦しみの根源です、、思考と自分(気づきの意識)が一体化しています。苦しい場所(分離)に意識が向いているのです。

じゃあボーッとしてればいいんですか???

その通りです、思考に一切邪魔されない、、状態、、瞑想状態、無我状態は至福そのものです。ですがその思考のコントロールを自分がやるのだと思うと失敗します、、、コントロールできる自分が居ないことを悟るのです。思考とは湧いてくる温泉のようなもの、、、それをコントロールできてきたと思っている自分も思考です。ワンネスをバキバキに切り裂く存在思考を自分(思考)がコントロールしている(思考)という究極の思考ゲームの罠に居たことに気づくのです、気づきの意識が。

思考とは湧くもの

思考とは湧くもの、、、この気づきが起きますと、、、湧いてこなくなる、、、、面白い、、、あれだけ脳内でグチャグチャと回っていた思考が湧いてこないのです。なんという奇跡、そうです、、、思考の罠から抜けるには、、罠であるという気づきが起きればいいのです。気づく存在は誰?気づきの意識です。

気づきの意識はどこに居る?

さっきから気づきの意識、気づきの意識言ってますがそれはどこに居るんですか???今ここで気づいている存在です、、、光、声、温度、視界に気づいている張本人です。。いやいやこの体が感じているんですよ、、違いますか???違います、、、この体が感じているという錯覚はたまに起きます、、、夢中になってラーメンを食べているときに、、、自分が食べているなんて思いませんよね???ラーメンを感じ尽くしているのが気づきの意識です。

先ずは「苦しい」を終わらせる

悟りを求める人々の大勘違い

なぜ覚者と質問者との間のコミュニケーションは食い違うケースが多いのか???質問者は自分が幸福のなる方法を聞きたがります、、ですが覚者は、、自分が居ないということ回答し続けます。その回答を聞いて、、自分が居なるための方法を質問者は問いてきます、、覚者はもともと自分が居ないから自分を無くす方法が無いと答えます。質問者はでも自分が居る感覚は確実にある、、どうすればいいか?と問いてきます、、覚者はどうすることができる自分が居ないと回答します。

これは非常に難解な問答になる

今まで生きてきて、、この体の中の自分が居ない、、、などのメッセージを聞くことは皆無です。総理大臣、国連事務正長ですら、、体の中に自分が居ると信じて疑わないでしょう。だからこそこの世から苦しみを解消することは不可能なのです。つまり大前提の勘違い、、ここに全ての根本理由があるということです。ですがこれを理解するのは至難の技、、なぜならば一歩外のでれば今もその前提で世界は回っています。TVを観ても、小説を読んでも、映画を観ても全部が全部このパターンです。

気づきの意識がこのカラクリに気づくまで続く

このカラクリに気づくのは個人ではありません、個人が居ないということを個人が気づくということは不可能です。マリオにのめり込みすぎてしまった子供がハッとゲームを止める瞬間が悟りです。個人に意識し過ぎてしまいこの世界にのめり込むことに、カラクリを発見し気づき直すことが悟りです。悟りとは気づきの意識の気づきのことです。この気づきが起きますと「苦しい」は消えます、、するとこれからの人生の課題や、人生の目的、、など今まで重要課題がどうでもよくなります。今までくるしかったから色々な課題を見つけては改善していたことに気づくのです。

サレンダーの本当の意味に気づく

降参とは粋な表現

降参という言葉、、、今となっては本当に素晴らしい表現だと気づきます、、スピを学び始めた際にも、悟りを学び始めた際にも、、言葉では理解できるのではどうしても腹落ちしない、、、でもここに何か真実があることだけは分かっていました、、、今はハッキリと分かります、、、究極の脱力、、これを求めていたんだなと、、自我の完敗、乾杯です。

それを言ったらお終いよ

結局何が苦しかったかと言えば、、、一度でも自分の力で何か良い結果を出してしまったことだったんです、、結局自分の努力で何かを勝ち取った、、自分のアイデアで楽ができた、、、自分の発送でお得感を感じれた、、、こんな小さな小さな勘違いが大勘違いを生み出し苦しんでただけだったのです。自分が居て、その自分には自由意志があり、、のゲームに上手く乗せられていただけだったのです。それが「自分も自由意志もない」、、、と覚者全員が宣えば、、、それだけは言っちゃいけない、、言ってほしく無かった、、

あれ???ちょいちょい出てくる自由意志がない、、発言、、、

大和田菜穂さんの動画を見ていると、、ちょいちょい自由意志がないって言っているような、、金森さんの動画を聞いても、、、溝口あやかさんの動画を聞いても、、アジャシャンティの本を読んでいても、、、あれ、、、なんかちょいちょい出てくるぞ、、、まーそこは気にしないでおこう、、、でも気になる、、、、そしてどこかでハッキリと、、、「自由意志はない」を言い切る人も、、、もう諦めよう、、、、が見かけ上の私に起きました。