お金

私は在る、、以外は全部観念

この意識以外は観念

気づきの存在、私は在る、、、というこの感覚以外は全部観念です、、、あらゆる思考は全て観念です。この体の中に自分が居るという大前提での思考は全て観念です、、、この神羅万象は私は在るの中で繰り広げられ、、人間ドラマを作り出しました、、、、そのドラマに気づき続ける存在が私は在るという気づきの意識です、、、本来はたった一つのエネルギーが神羅万象として動き続けるだけです。

人間たるもの、、、

人間たるもの、、、法律はしっかりと守った方が良いよね、、お金のことはしっかりした方が良いよね、異性問題はトラブルよね、、、全部観念です、、神羅万象の動きの一つです、、、そこに良否、善悪、優劣は一切ありません。人間という個別分離した存在はそもそも居ません。ですから人間が居るという大前提の思考は全て観念です、真実ではありません。ただしその観念も神羅万象の一つです。

観念に良否はない

神羅万象の動きである観念に良否などは全くなく、、、ただ動きとしてあります、、、そしてそれらの全てじが観念であることを見抜き、、自己の不在を見抜き、、自分は誰かに迫っていきます、、、この人間ドラマの夢から醒め、、私は在る、、、に戻る、、、これだけが真の目的です、、、、ですがその動きがいつ起きるか???それすらも神羅万象の動き次第、、そこに関われる自己はいません。

手に入れた瞬間の安堵感を求めて

何かを得た瞬間、、安堵感が広がる

我々は常に何かを求めます、、異性、お金、地位、名誉、仕事、家族、安定、、、なぜこれらを常に求めるのか???それはそれを得た時の安堵感が欲しいからです。。。????対象でる、、、異性、お金、地位、名誉、、、、、などは実は何でも良くて、、、それを得た際の安堵感が欲しいのです。。。なぜ???それは今が苦しいからです、、、、今苦しから、、、、なんとかしてこれを拭いたい、、、これを拭う唯一の瞬間こそが達成なのです。

そのやり方は疲れる

しかしながらこのやり方は疲れます、、キリがない、、、、生きている間中、、、何かを目指さなくてはならない、、、、苦しい、、、、そうです、、、結局これも苦しのです。。。ということで我々はこの安堵感を目標達成から得るのではなく、、、、ダイレクトにそれを得たい、、、、これが悟り、ノンデュアリティ、覚醒です。

事実をただ理解する

そのためにはどうすればいいのか????事実をただ理解するだけです。。。この世界がどうなっているかに気づくだけでいい、、、何もしなくていい、、、気づきの意識がこの事実に気づくだけでいいのです。。。私ではなく????そうです。私が気づくのではなく、、、気づきの意識が私が居ないことに気づくのです、、そして私が居ないどころか、、、見える世界に広がるあらゆる対象(分別区別)が実は分離していなかったということに気づくことです、気づきの意識が。

私が気づくのではないならば、、不可能???

私が気づくのではなく、、、気づきの意識が気づくのならば、、、不可能ではないか???気づくの意識が気づくの待ちならば、、、こっちは完全な無力じゃないか?????まさに!!!その通り、、、、個人は常に無力なのです、、個人には何の気づきも起こせないのです、、、生まれてこのかた、、、個人が気づくというのは、、現象以外全く起きていないのです、、、全部は気づきの意識が気づいてきました、、、だから今回も気づきの意識の気づき待ちです。

トラウマの炙り出し

究極の防衛反応

トラウマとは究極の防衛反応です。自分という存在にとって脅威になる対象に対し(思い込み)強烈な緊張が走る状態です。このトラウマは悟りを開く際に邪魔になります、、、なぜならばトラウマを抱えるのは自分だからです、、この二つはセットです。。。強固に連携しています、、ですから自身がどんなトラウマを抱えているかを確認することは非常に重要になります。

自分では分からない

怖い対象がトラウマですから、、基本的には顕在意識には上がってきません、、、怖いのですから。、、これは何か事件、出来事があった時に急に現れるのです、、、、だからこそ厄介、、、自覚がない、、、、でも自分と強固に繋がっていて自我を完全防備しています、、

とはいえ無理にこじ開ける必要はない

とはいえこれを無理にこじ開ける必要はありません、、準備ができた時に勝手にそこの意識が向きます、、、悟りという事実に向き合っていく過程で、、、安心感からそこに意識が向く可能性があります。我々はどこまでいっても気づきの意識からの湧き上がりに委ねるのみ、、、安心してお任せです。お金に対しトラウマがある方は、、、全てを諦める(悟り)の際にお金がボトルネックになるのは当たり前のことです。。どこでお金の恐怖心と向き合うことになるかは分かりません。

何の制限もない世界から急に制限の中に閉じ込められた

この世の閉塞感とは??

おかしい、、小さい頃は全くの自由だったのに、、、いつの間にか不自由な檻の中に閉じ込められてしまった、、、なんかよく分からないけど、、、不自由な感じがいつもする、、、小さい頃よりもお金も得ているし、好きな服も、好きな靴も、好きな食べ物も食べているにも関わらずなぜ不自由感が溢れているのか???何かがおかしい、、、そうです、、我々はいつの間にか、、、不自由な檻の中に閉じ込められてしまったのです。

名前を覚えてこの私が食べれるようになったら、、

学校ではあらゆることを暗記させられますね、、、これはりんご、これは魚、、から始まり、、最終的には化学記号、二次方程式、英語、、世界中の国の名前、、、まで、、、これによって我々は、、この現象しかなかった世界に名前が付けられた現象の世界を重ね合わせました。これによってこの名前が付けられた「私」は食べていくことができる仕事が与えられて、、生きていくことが許されたのです。しっかりと名前を覚えればしっかりした仕事が与えられます。職場ではやはり仕事で使う名前を暗記させられ仕事を任されます。

食べれるようになったら、、、

食べれるようになったら、、、次はこの苦しみのメカニズムを覚えていきます、、、実は自分は元々はいなかった、、途中から名前が付けられただけ、、、実はあらゆる生命現象には名前はついていなかった、、便宜上つけられただけ、、、、実はこの私の自由意志はなかった、、、便宜上あるとされてきただけ、、、実はこの私のストーリーは錯覚である、、便宜上そうあることにしているだけ、、実は全ては気づきの意識の中で起こっているだけで、、それ以外何もないこと、、、実は気づきの意識は自由そのもので何も必要がないこと、、、と不自由な檻の中に閉じ込められていた何かは存在せず、、自由そのものしかないこと、、

普通でいい、、も執着

普通の暮らしでいいんです、の罠

普通の暮らしでいいんです、、これも自我の執着です、、、自我の生存戦略です。普通が出る杭ではないから安全でいい、、が隠れています。普通が一番安全で長生きできるが隠れています。ですから普通の暮らしをしていても苦しいが湧いてきます、、、だから普通じゃない生活をしている人の失敗に異常に感情が芽生えます。芸能人、著名人のスキャンダルに異常に反応を起こします。

普通を目指す自我の生存戦略に気づく

普通を目指す自我の生存戦略に気づきの意識として気づきます、、しっかりとそこには戦略があることに気づくのです、気づきの意識として。その戦略を気づきの意識として気づきます普通への執着が緩みます、苦しみが減ります。自我の無意識の動きに気づきの意識として気づくと苦しみが減るのは、、、気づくのが気づきの意識(至福)だからです。

気づくのはいつだって気づきの意識

何かに気づくのは全部気づきの意識です、、、だからどんどん楽になる、、、友人が多いからって幸福じゃない、、これに気づいたのは気づきの意識です、、、お金を持ったって幸福じゃない、、これに気づいたのは気づきの意識です、、、名声を得ても幸せじゃない、、これに気づいたのは気づきの意識です、、、、自我の無意識な執着が溶けていきます、、気づきの意識が自分ではなく気づきの意識そのものに意識が向く時間が増えます。この自分に意識を向けても苦しいだけ、、この自分が何かを達成しても苦しいだけという気づきが気づきの意識から起こります。

自我は覚者を脅威に感じる

自我にとって覚者は大敵

自我が強固なシステムになっている見かけ上の個人は、、覚者の存在を大いに恐れます、、、それは当たり前の話で、、、本当は存在していない自我にとってそれを見抜きさらにその事実を突きつけてくる行為は殺人と同じだからです。ですが本当は自我は存在しないのですから殺しようにも殺せません。錯覚としての自我が徹底的に覚者の存在を否定するのです。

覚者の扱いに困る自我

覚者とはこの体の中に自分が居ないことに気づいた全体のことです、、この体の外に全体がありこの全体がこの体を便宜上使ったゲームをしていることに気づいた全体です。。。見かけ上は人の体をしていますが主語は全体です。この全体は自我に話しかけます、、、それはないんですよと。。。お前はもう死んでいる、、、こんなメッセージを伝えるわけですからそれは嫌われるわけです。世界一嫌われる人種でしょう、覚者とは。誰もそんなメッセージは聞きたくないに決まっています。

覚者の重箱を突く自我

自我は覚者の重箱の隅を突くでしょう、、、悟ったならばお金がないのはおかしい、悟ったならば成功していなければおかしい、、悟ったならば独身なのはおかしい、悟ったならば性欲があるのはおかしい、悟ったならばお酒を飲むのもおかしい、、とですがこれこそが最後の抵抗です。本当は、、、ただ全体から起こりが言動が起きているだけ、、、その起こりが見かけ上のこの体を通じて起きていることに気づくことだけです。

思考が全開になるのはもっと良い方法があるのでは??と思考するから

絶対に損をしなくない、、、

一円でも安く買い物をしなくては。。。。あそこのスーパーでは2割引だった、、、だから絶対にそれよりも高くは買わない、、なぜならば損をしたくないから、、、これが思考の特徴です。絶対に損をしない、、、個人に「成り切った」全体はその時点で大変苦しい、、だから思考はこの苦しい「個人」を得をさせるために起き続けます、、思考が悪いのではなく、、、、思考とはそのようなエネルギーであるということです。

全体に触れる習慣が

無我になる習慣がある人は、、、この損得に興味が無くなります、、、だって損得より無我、全体が断然気持ちが良いからです、、、、損得に興味が起こる=自我全開、、、無我に興味が起こる=自我の終焉です。でもそんなことをしたら個人は生きていけないのでは、、、、、違います、、、、無我に入れば至福ですからそこには何も要らないのです。無我になるのにお金が一円もかからないのです。

無我に入れば入るほど、、、何も要らない

来週は旅行に行こう、来週あれを買おう、来週友人と花見に、、、こうやってスケジュールを埋めたがる人は、、、この個人にいかに喜びを与えるかに必死になっています。この個人は今苦しいから、、、ご褒美を与えてあげているのです。。ですがこの方法を続けるのが苦しい、なぜならば、、、それでは一時しか幸福になれないから、、、

このブログの意味

このブログでは、、、自我がどういうメカニズムで苦しみをこしらえているか詳細を記載しています。何度も自我のメカニズム、全体のメカニズムに触れますと、、、自我の自動反応に対し、冷静になる全体の姿が湧いてきます。「鼻を触る癖があるよ」これを言われた人はその後鼻を触る回数が減ります、少なくとも増えることはない、、なぜならば、、冷静に見つめの自分が誕生するからです。これと全く同じです。

あのタイミングで結婚しなければ良かった、、

離婚した人の多くは後悔をするが、、、

あの時もう少し考えていれば結婚を避けれたのに、、、、あの時もう一人のBさんを選んでおけば、、こんな悲惨な結婚生活を回避できたのに、、、、、残念!!!結婚するかしないかを決める自分は存在しません、全部全体からそれが起こりました。。もう少しだけ考えていれば、、、、違います、、、もう少し考えるが全体から起きなかったのです。

今回の離婚で多くを学びました、、、

いやー1回目の結婚では多くを学びました、、、やっぱり家庭的な奥さんが一番だと悟りました、、、、残念!!!今そのような思考が湧いていようと、、、それとは全く関係なくまた別の思考が全体から湧き、、、それとも全く関係ない誰かと結婚するが起きるのです、全体から。どこまでいっても学んだ「個人」は存在しないのです。学んで成長した個人は存在し得ないのです、、、この個人はこのゲーム、ストーリー上の見掛け倒しです。五感で感じる蜃気楼です。

結婚ってこういうものだから、、、君も気をつけて、、、

結婚生活10年の俺から言わせてもらうと、、、、「お金の管理は自分でやったほうがいいよ」、、、残念!!!結婚生活10年の俺も俺の奥さんも全ての言動は全体からただ起こっています。その結果として「お金の管理は自分でやったほうがいい」がただ起きたのです。誰一人この結婚生活に関わっていないのです、見かけ上はしっかり関わっていても。これで何を後悔し何を学ぶのでしょうか。

ほどほどの幸せでいい、、?

特に欲しい物ないから、、

悟り世代問という言葉がありますが、、、特に何も欲しい物ないし、、特別何かなりたい職業もない、、別段お金持ちになりたいとも思わない、、といった感覚、、これが今多くの方の正直な気持ちでしょう、、一生懸命頑張ったて、、それに見合うような幸せになれるわけじゃないし、、、その通りです、、、まさに真実、、ですがこの状態も苦しいのです、、ほどほどに執着しているのです、、まーまーに執着しています。

今私は「ほどほどだろうか??」を終日気にする

私は今ほどほどかなー、私は今まーまーかなーこんなことを実は日々気にすることになっていきます。子供がテストで100点を取ると、、、これはまずい、、ほどほどから外れてしまう、、、子供が学校でモテまくるようなイケメンであったならば、、、これはまずい、、ほどほどじゃない、、、こうなるのです。頭で考えるほどほどは、、全然「ほどほどの幸せ」じゃないのです。

本当の悟りは違う

悟りとは「ほどほどでいい」みたいな中途半端な感覚では全くありません。悟りとは全部が自分の所有物であったことを肌感覚で掴むことです、、目の前に居る、秀才もイケメンも、美女も、金持ちも、、全部自分の表現だったということです。この時に目の前で起きる現象にいちいち反応できなくなるのです、、周囲かた大称賛されようが大批判されようが、、、反応できないのです、、だって称賛する周囲も批判する周囲も自分自身、自分の表現、自分の現象そのものですから、、そこから本当のほどほどが生まれます。

空(0)から色(数字)が現れた

空とは0(零)

この現象界は数字で現せる世界です。りんごが1個、2個、、、人間が1人、2人、、となります、、、そしてこの現象界を起こしている全体(空)はカラという漢字からも分かりますが、、ゼロです、0です。そうですこの世界は零から現れているのです。本当はゼロ、0ですから1、2、3、4は幻想、蜃気楼、空想なのです。その証拠に空をこの現象界で現すとどうなるか、、、1(現象)✖️0(空)=0(空)です。2個(りんご)✖️0(空)=0(空)です。この現象界に空を巻き込めば、、、空になります。空と色は相入れない関係なのです。もしくは1(現象・色)✖️0=0(空)ですから色と空は一つということでもあるでしょう。

本当は0だから、、、

10000円(現象)✖️0(空)=0(空)ということは、、、この現象界でどれほどお金を得ても本当はゼロですよ、、とも取れます、、、本当はゼロだったということを知ることが悟りです。この現象の世界は物に溢れ、数字に溢れ、物質があるように見えてしまいますいからどうしてもこの物質に囚われてしまうのです。私は一時霊的真理探究の旅に出ましたがそれだけでも本当に気持ちが軽くなったのを覚えています。物質しかない、、この認識は完全な誤解であり苦しみを生み出すのです。

魂という概念でどれだけ救われたか

私は魂という概念によって本当に救われました、、、今世(概念)に全く縛られなくなったのです、、それまでどれほどこの今世というものに縛られていたのか、、、です。そして今は前世、今世、来世すら概念に過ぎないことを知っています。概念ですからそれは思考です、幻想です、空想です。事実ではありません。事実は今この場所に全部がある、、今この場所に空(ゼロ)があり色(現象)が全部あります。そこには自分という個別独立した存在は現象以外では居ません。この個人を認識する意識(全体)がただ在るだけです。