いまここ

現実主義者とは夢中毒者

現実主義とは??

現実主義とは、、、思想や信念、思いよりも現実に重きを置くことです、、、現実に重きを置く、、、つべこべ言わずに結果を出してしまう、、そんなことです、、、この夢の世界で現実主義になるということは夢に重きを置くことであり、、夢にどっぷりと浸かることでもあります、、、、ですがこの夢の中で結果を出し続け、、、それでも幸福にならないという現実に突き当たった時に、、、人は悟りの準備を始めるのです。

現実主義者は観念がガンガン書き変わっていく

現実主義者は、、、結果を追い求めていきますから、、、この夢の中でもがくことになります、、、本当に結果を出そうとすれば思考にふけっていることができない、、結果、、あらゆる経験を重ねていくことになります、、するとその記憶の全てが価値観を強化していくことになり、、、価値観がこの自分、自我という大勘違いをも強化します。。価値観とはこの体の中に自分が存在しているという大前提で生まれるケースが全てだからです。ということで価値観が積み重なっていき、、、この個人ありきの人生が重く重くのしかかってくるのです。

最後の観念

そして人は最後の観念に突き当たります、、、それはこの体の中には自分が居なかったという観念です、、そしてこの現実だと思っていた世界が実は夢で、、その夢を見ている存在こそが自分だったという観念です。ただしこの二つの観念は個人が居るという大前提のこれまでの観念の全てをぶっ壊します。天動説から地動説に変わった時に、、これまでの天文学が全部壊れました。。それです、それが今ここで起きるのです。

改めて今を生きるとは

夢ならば、、、

改めて今を生きるとは????これが夢なのは分かった、、、そしてその上でこの体を保持しなくてはならない、、そしてこの私は全体、夢全体、夢を動かす存在、、、そこが腹落ちしますと、、、将来に関心無くなります、、夢の将来って意味不明ですよね、、、夢の過去って何ですか???急に関心が無くなる、、それこそが今を生きるです、、、それこそが今ここに集中するです、、、関心がないのです、夢の過去も未来など、、

過去と将来に無関心

今を生きよう、、これを自我に叫んでも全くの無駄、、なぜならば自我とは、、過去と将来にしか関心が持てないから、、、この体をいかに安全に保持するか、、、将来に渡って、、ここに関心が向く、、、ですがこれが夢だと分かってしまったら、、、意味不明、、残念無念、、、夢の将来を毎日心配しています、、、病気、、、となります。つまり自我は真我の中の活動とはいえ非常に苦しい活動を強いられるのです。

苦しいを見抜く

夢の中で苦しむって本当は無理があるんですね、、夢の中で苦しむには、、、夢の中の登場人物、この体に成り切る必要があるのです、、そしてこれが夢であることを忘れる必要も当然ある、、この二大条件が揃わなくては苦しむこともできないわけです。ですが今これが夢だという理解、自分は夢そのものであるという理解が起きた時に、、もう苦しめない、、、終わりです、、

だから何だ?

だから何だ?が出る内は理解していない

頭に鳥の糞がついてますよ!だから何だ??にはならない、、、直ぐに頭を触るはず、、、そうです、、真理の理解とは、、疑問が起きない、、、、分かったらもう戻れない、、、気づきとはそういうもの、、今ここに全部がある、真我の活動のみ、、鳥も声も太陽の光も、それを感じるという動きも、全部が全部真我の動き、、求めていた全てはここにあった、、この理解が起きるのを待っていた、、、何処に行かなくてもいい、、、全部ここに在る、、、

動かなくては、、と動きたい

人間活動の特徴は忙しないこと、、、あれは、、、今が苦しいから、、ですが悟りが起きれば、、苦しいがないから焦らない、、、焦って成し遂げたいことはなくなる、、、ただこれをやりたいは起きる、、、満腹にケーキを食べた直後に、、直ぐにラーメンを食べたいが起きない、、この状態、、、精神的満腹状態、、、これが悟り、、

この体しか自由にならないから

この体だけしか自由にならない、、この体しかコントロールが利かない、、、だから悔しい、、モドカシイ、物足りない、、、そこで個人は他人をコントロールしようとする、、、なんとなく偽りの万能感を味わう、、偽物、、他人から評価を受けることで万能感らしきモノを味わう、、虚しい、、、大誤解が続く、、、全然ポイントがズレてます、、、そうじゃない、、全部が全部自分の活動、、それしかない、、全感情、全思考、全経験、全物質がこの自分、真我の活動、、、、全く視点が違う、、論点が違う、、、

私の居場所

私はどこに居る?

私の居場所はどこでしょうか?この体の中???違います、、、この体の中に自分は居ません、、では一体どこに居るのでしょうか???今ここに居ます、全体としてここに居ます、、、変化が起こるこの場所そのものが私です、、、そして変化が起こることに気づくためには変化がない場所でもある必要がある、、絶対的存在そのものでもあります。

変化すらしない場所

変化する存在が居て、それに気づく存在「アイアム」がいます、、変化はアイアムの中で繰り広げられるわけですがこのアイアムを生み出す場所こそが絶対の場所、空です。空の場所から色(森羅万象)が生まれ、、、それに気づく存在(アイアム)が生まれます、、

アイアムも空の投影

アイアム、、私が居るという絶対的感覚、、、この感覚は空の投影です、、何もない場所から鏡のようにこの存在が現れました、、、しかしこの存在には実態がなく、、、変化に気づくことで、、、気づきの意識としてそこに居ることを実感します。そしてアイアムが居ることでこれを生み出す場、空が再発見されるわけです。

思考が過去と未来に向けて

思考とは過去のこと、未来のために起こる

思考というものを注意深く観察してみてください、、全思考は過去についての内容か未来についての内容になります、、、過去、未来の存在を全肯定した内容になっています、、将来のためにこうしなくちゃ、あの時あれをしなければ良かった、、、ばかり、、、本当は今しか存在しないにも関わらず、、なぜか過去、未来についてのメッセージなのです、、、これによって我々の意識が過去、未来に焦点が合います、今に焦点が合わなくなるのです、結果静寂、平和が離れます。

思考との同一化は、、過去、未来への同一化

思考の内容が過去、未来に向けてであることから、、、ここに意識がフォーカスされますと、、、今に居れなくなります、、今この瞬間の森羅万象の現れに意識が向かなくなります。。。。本当は今しか起きておらず、しかしなかが思考に飲み込まれれば、、過去、未来という幻想の中に入り込むのです、、、これが今映画、TVゲームに夢中になっている状態です。過去、未来は本当は存在しないのですから幻想です。

でも今見える世界も幻想ですよね???

そうです、今見えている分離した世界も幻想ではあります、、ですがこの幻想の世界で体感する経験は幻想ではありません、それはリアルです、経験だけは大いなる一つ、根源、神そのものです、、、そこが静寂、至福、平和なのです、、、今ここで思考にふけるということは幻想に意識がフォーカスしていう状態です、、今に居ながら、、幻想に意識がフォーカスされているのです。これが苦しみを生み出します。

自分を極める

他の誰かを目指さない

思考はあらゆることを言ってきます、、あの仕事に就けたあいつが羨ましい、あの顔に生まれたあいつが羨ましい、あの身長に生まれたあいつが羨ましい、、、と、、、こうして他人を羨むという思考がエンドレスに流れてきます、、、ですが本当は自分を極めるのが最も最速最短で幸福になれます、、、、自分を極める????自分はこれ以上の自分にはなれなかいから困っているんだけど。。。もっと能力を高めるってこと??違います、、自分の存在を知るだけです。

自分の存在ならば嫌なほど知っている

自分の存在なんて嫌になる程知っていますが、、、、違います、、、その自分はこの体の中に居ることになっている自分ですよね、、、違うんです、、これは偽りの自分です、、、、実態のない自分のことです、、、私が今話している自分とは、、、私が居るというこの紛れもない感覚の自分のことです、、、はっきりと今意識がありますね、、、これぞ自分でしょう、、、これはもう絶対に間違いない存在です、、、、この絶対に存在する存在、、、この存在はどこに居るのでしょう???体の中ですか、、違います、、その証拠はないでしょう、、、この全体の存在は、、いまここ全部に居るのです。

思考が渦巻いている時、、、

思考が渦巻いている時、、、この絶対なる存在の意識が、、、思考の中に閉じ込められます、、思考のオンパレードに絶対なる存在の意識の焦点が注がれ続けます。絶対なる存在が絶対なる存在ではなく思考に取り込まれ続けます、、、これが苦しいを湧き出します。ただこれだけです、、、思考に取り込まれることが無くなると、、、絶対なる存在は絶対なる存在として起きる全てを観察します、、これが静寂です、苦しみからの解放です。

今気づいている存在が最終ゴール

これまで探し求めていた存在が今気づいている存在

今ここで何かに気づいている存在、、、これがこれまで見かけ上の「私」が探してきた存在です、、、今ここで光に気づいている存在、、、これこそが私がひたすらに探し求めてきた存在です。この事実が分かってしまうともう何かを探そうという衝動が起きなくなります、、、何かを成し遂げようとする衝動が起きなくなります、、なぜならば見つけてしまったからです、最終ゴールを、、、、生まれてこの方、、、ずっと一緒に居た存在が、、探し求めていた答えだったのです。

いつも一緒に居たよね、、、、

自分が悲しんでいた時、苦しいんでいた時、何かを達成して喜んでいた時、、、全部に気づいていた存在、、、それが探し求めてきた答えです。意識そのもの、、、これをズッと探し求めていました、、、どこかにあると信じて探してきた答えは、、、、1秒たりとも離れることなく、、、ここに居た存在でした。究極のダイアモンドは、、この気づきの意識です。

どこか違う場所に、、、

悟りを開けば視界が開き、、、、天国が突如として出現する、、、全く違った感覚が自分を覆い、、、全く味わったことのない感覚に襲われる、、、、、そうではないのです。。。これまでずっと意識してきた感覚、、、全てを意識してきた感覚が、、、、主人公だったという気づきが起きます。見かけ上の私はこの意識が意識していただけ、、、そして机もテーブルも、カップも、TVもこの意識が意識していただけだったという気づきが起きます。その時にもう何も探さなくていいという安堵が起きます。

思考に振り回されているという、、気づきは素晴らしい

なんか頭の中の思考が大変で、、、

これは重要な気づきが気づきの意識の中で起こっています。頭がグチャグチャで、、、、本当にグチャグチャならば、、、それにも気づかない、、、思考がこの苦しみの根源であるという気づきが起きればそれはもう悟り間近です。あの人のあの発言でモヤモヤする、、、そうです、、このモヤモヤこそが苦しみの根源です、、思考と自分(気づきの意識)が一体化しています。苦しい場所(分離)に意識が向いているのです。

じゃあボーッとしてればいいんですか???

その通りです、思考に一切邪魔されない、、状態、、瞑想状態、無我状態は至福そのものです。ですがその思考のコントロールを自分がやるのだと思うと失敗します、、、コントロールできる自分が居ないことを悟るのです。思考とは湧いてくる温泉のようなもの、、、それをコントロールできてきたと思っている自分も思考です。ワンネスをバキバキに切り裂く存在思考を自分(思考)がコントロールしている(思考)という究極の思考ゲームの罠に居たことに気づくのです、気づきの意識が。

思考とは湧くもの

思考とは湧くもの、、、この気づきが起きますと、、、湧いてこなくなる、、、、面白い、、、あれだけ脳内でグチャグチャと回っていた思考が湧いてこないのです。なんという奇跡、そうです、、、思考の罠から抜けるには、、罠であるという気づきが起きればいいのです。気づく存在は誰?気づきの意識です。

気づきの意識はどこに居る?

さっきから気づきの意識、気づきの意識言ってますがそれはどこに居るんですか???今ここで気づいている存在です、、、光、声、温度、視界に気づいている張本人です。。いやいやこの体が感じているんですよ、、違いますか???違います、、、この体が感じているという錯覚はたまに起きます、、、夢中になってラーメンを食べているときに、、、自分が食べているなんて思いませんよね???ラーメンを感じ尽くしているのが気づきの意識です。

色の世界を生きる自我

自我は色の世界でもがく

自我にとって世界とは色です、そうです現象の世界です、、、物が溢れる世界、、名前がついた物だけが登場する世界に生きます。自我には空の存在は理解できません、、なぜならば空を理解してしまったら自我の存在がただの現象であることになってしまうからです、それは断じて受け入れがたいことなのです。自我にとって自我は盤石な存在、決して失われてはいけない存在、唯一無二の存在なのです。

自我は色の世界に居るということは、、、

色の世界に自我が居るとなれば、、、自我は現象です、色も現象です、、、色の中に自我も現象として現れています、、この現象は移り変わる世界、諸行無常の世界ですから、、、自我も同じままではいられません、、常に変化変化が起き続けます、、この体も一瞬一瞬同じままではいられない、、、これがこの色の世界の絶対的ルールです。同じがない、、ただ今ここで現れ続けるのみです。この色の世界で絶対に変わらない存在が居ます、、それはこの色の世界に気づき続ける存在、、空です。気づきの意識です。

気づいている、だから自分が居る

気づいている、、だから自分は居ます、、、違います、、ただ気づいているのです、、、この気づきはこの体の中で起こっているのではないのです。この気づきがこの体に気づいているのです、、この気づき(空)がこの経験に気づいているのです。自分など居なくても、、気づきの意識は常に気づき続けています、、自我に気づいていない時も常に気づき続けています、気づきの意識(空)が。

明るい未来を夢見ることで今が暗くなる

明るい未来を夢見る理由

なぜ人は明るい未来を夢見るのでしょうか、、それは今が苦しいからです。。。なぜ人は明るい未来に向けて毎日努力できるのか???それは今が苦しいから、、これ以上苦しくなってしまったら大変、、なんとかして今よりも明るい未来にしがみつこう、、、です。本当は今ここにダイアモンドのような現象があります、本当はこの場所に至福そのものがあります、、すると遠い未来に興味が無くなるのです、、、遠い未来ではなくなぜ今ここにあるはずのダイアモンドが見えないかに興味が湧きます。

今目の前にあるダイアモンド

今目の前にあるダイアモンドの存在をダイアモンドははっきりと分かっています、にも関わらずこの個人の人生は苦しいぞ、、、それでは将来は絶対にダイアモンドのような状態にしてやる、、、これが個人に成り切ったダイアモンドの発想です。ですが本当は個人を抜け落とせば直ぐにダイアモンドに戻るのです。個人としてダイアモンドを成し遂げてやる、、、それも分かる、、ですが個人としての視点こそがこの苦しみ、分離感、孤独感を起こしているのです。

今この場でダイアモンドに至る

この場にはダイアモンドしか存在していません、今です、、ですがここに個人が居るという錯覚が起きることで苦しみが溢れてきました、、ただそれだけが起こったのです。。今もここにはダイアモンドしかないのですが、、思考としての自分、自分ストーリーがダイアモンドの中で起きてしまったのです。そしてこの自分がダイアモンドのような人生を歩むぞとという次なる欲求が生まれました、ダイアモンドから。