気づきの意識

今気づいている存在が最終ゴール

これまで探し求めていた存在が今気づいている存在

今ここで何かに気づいている存在、、、これがこれまで見かけ上の「私」が探してきた存在です、、、今ここで光に気づいている存在、、、これこそが私がひたすらに探し求めてきた存在です。この事実が分かってしまうともう何かを探そうという衝動が起きなくなります、、、何かを成し遂げようとする衝動が起きなくなります、、なぜならば見つけてしまったからです、最終ゴールを、、、、生まれてこの方、、、ずっと一緒に居た存在が、、探し求めていた答えだったのです。

いつも一緒に居たよね、、、、

自分が悲しんでいた時、苦しいんでいた時、何かを達成して喜んでいた時、、、全部に気づいていた存在、、、それが探し求めてきた答えです。意識そのもの、、、これをズッと探し求めていました、、、どこかにあると信じて探してきた答えは、、、、1秒たりとも離れることなく、、、ここに居た存在でした。究極のダイアモンドは、、この気づきの意識です。

どこか違う場所に、、、

悟りを開けば視界が開き、、、、天国が突如として出現する、、、全く違った感覚が自分を覆い、、、全く味わったことのない感覚に襲われる、、、、、そうではないのです。。。これまでずっと意識してきた感覚、、、全てを意識してきた感覚が、、、、主人公だったという気づきが起きます。見かけ上の私はこの意識が意識していただけ、、、そして机もテーブルも、カップも、TVもこの意識が意識していただけだったという気づきが起きます。その時にもう何も探さなくていいという安堵が起きます。

神羅万象への信頼

今もこうして生きている

神羅万象への信頼、、今こして私が生きているのは神羅万象が生かしたのです、、私は今年で45になりますが、、、神羅万象が生かしてきました、、、、この事実、、、これは神羅万象への信頼になります、、、二十年前から悟りに興味を持ちましたが、、、これも神羅万象の現れです、、、、そこから二十年間ここへの興味が失せることはありませんでした、、そこも神羅万象への信頼になります。。。

超個人的な葛藤の全てが神羅万象の現れ

超個人的な葛藤の全てが神羅万象の現れです、、、全部個人的なものであると孤独に感じていましたが、、、そんなことは全くなかった、、、全部神羅万象の現れだったのです、、、、、これは癒されます。。。。そして肩の荷が降りていきます、、、、ただ葛藤が起こっていたんだなーという癒しが起きます、、、、なぜこんなことを悩むのか???他人はこんなこと悩んでいないのでは?????違います。。、、全部神羅万象から起きたのです。

それでも神羅万象の動きは止まらない

神羅万象の動きが止まることはありません、、、ですがそれを感じている自分(気づきの意識)は本当に静寂にこれを感じています、、こんな静寂が本当にあったんだなーと、、、本当に懐かしい感覚、、、でも感覚はいつもここにあった、、、ただ隠れていただけ自分から、、、光は暖かく、、音は静寂に、、、食事は美味しい、、、神羅万象の動きはあってもそこは変わらない、、、、

で??明日からどうすればいいのですか??

どうもできない

ノンデュアリティ、悟り、覚醒のメッセージは分かりましたよ、、、、で結局明日からどうすればいいのですか????どうもこうもそれを決める力が見かけ上の個人には無いのです、、、見かけ上の個人はやっているつもり、考えているつもり、感じているつもりしかできません、、、それじゃあ廃人と同じですよね????違います、、それを物心ついてからずっとやってきたのです、、だからこれからもやっていくのです、、、、唯一の違いはそのことに自覚的であるか否かです。。。。見かけ上の自分以外に、、神羅万象、気づきの意識があり本当の自分はそっちだったという気づきがあるか否かです。

どうもできないなら死にたい

どうもできないなら、、生きていてもしょうがないですよね????見かけ上の個人が完全自由意志で行動してきたと勘違いしていた状況から、、完全に神羅万象そのものであったという気づきが起きると、、、そのような感情、発想が神羅万象から湧き出すこともあるでしょう、、、、、ですが神羅万象の動きそのものであるという気づきは本当に退屈でしょうか??本当に無感動でしょうか???私はそうは思いません。

何を目標に生きたらいいか分からなくなった、、、

もう何を目標に生きたらいいか分かりません、、、大丈夫です、、、その目標も神羅万象から現れます、、もしくは現れないこともあるでしょう、、、そしてそのことと、、至福感、静寂、、とは何も関係がないということです。苦しみとは何も関係がないのです、、、独立した個人であるという脳の錯覚が神羅万象から起こった時に苦しみが湧き上がり、、、これが脳の錯覚であるという気づきが神羅万象から起きた時に苦しみが終わります。

手に入れた瞬間の安堵感を求めて

何かを得た瞬間、、安堵感が広がる

我々は常に何かを求めます、、異性、お金、地位、名誉、仕事、家族、安定、、、なぜこれらを常に求めるのか???それはそれを得た時の安堵感が欲しいからです。。。????対象でる、、、異性、お金、地位、名誉、、、、、などは実は何でも良くて、、、それを得た際の安堵感が欲しいのです。。。なぜ???それは今が苦しいからです、、、、今苦しから、、、、なんとかしてこれを拭いたい、、、これを拭う唯一の瞬間こそが達成なのです。

そのやり方は疲れる

しかしながらこのやり方は疲れます、、キリがない、、、、生きている間中、、、何かを目指さなくてはならない、、、、苦しい、、、、そうです、、、結局これも苦しのです。。。ということで我々はこの安堵感を目標達成から得るのではなく、、、、ダイレクトにそれを得たい、、、、これが悟り、ノンデュアリティ、覚醒です。

事実をただ理解する

そのためにはどうすればいいのか????事実をただ理解するだけです。。。この世界がどうなっているかに気づくだけでいい、、、何もしなくていい、、、気づきの意識がこの事実に気づくだけでいいのです。。。私ではなく????そうです。私が気づくのではなく、、、気づきの意識が私が居ないことに気づくのです、、そして私が居ないどころか、、、見える世界に広がるあらゆる対象(分別区別)が実は分離していなかったということに気づくことです、気づきの意識が。

私が気づくのではないならば、、不可能???

私が気づくのではなく、、、気づきの意識が気づくのならば、、、不可能ではないか???気づくの意識が気づくの待ちならば、、、こっちは完全な無力じゃないか?????まさに!!!その通り、、、、個人は常に無力なのです、、個人には何の気づきも起こせないのです、、、生まれてこのかた、、、個人が気づくというのは、、現象以外全く起きていないのです、、、全部は気づきの意識が気づいてきました、、、だから今回も気づきの意識の気づき待ちです。

トラウマの炙り出し

究極の防衛反応

トラウマとは究極の防衛反応です。自分という存在にとって脅威になる対象に対し(思い込み)強烈な緊張が走る状態です。このトラウマは悟りを開く際に邪魔になります、、、なぜならばトラウマを抱えるのは自分だからです、、この二つはセットです。。。強固に連携しています、、ですから自身がどんなトラウマを抱えているかを確認することは非常に重要になります。

自分では分からない

怖い対象がトラウマですから、、基本的には顕在意識には上がってきません、、、怖いのですから。、、これは何か事件、出来事があった時に急に現れるのです、、、、だからこそ厄介、、、自覚がない、、、、でも自分と強固に繋がっていて自我を完全防備しています、、

とはいえ無理にこじ開ける必要はない

とはいえこれを無理にこじ開ける必要はありません、、準備ができた時に勝手にそこの意識が向きます、、、悟りという事実に向き合っていく過程で、、、安心感からそこに意識が向く可能性があります。我々はどこまでいっても気づきの意識からの湧き上がりに委ねるのみ、、、安心してお任せです。お金に対しトラウマがある方は、、、全てを諦める(悟り)の際にお金がボトルネックになるのは当たり前のことです。。どこでお金の恐怖心と向き合うことになるかは分かりません。

ツイテル??

つ・い・て・る

ツイテル、ツイテル、、、、引き寄せの方法、、、、ありません、、、ツ・イ・テ・ル、、、、、、ク・ル・シ・イ、、、、、両方ともただの音の並び、組み合わせです。どの言葉も完全平等、、完璧平等、、、全部神の表現、気づきの意識の表現、神羅万象から発せられた音、、、です。では引き寄せの方法ってないの???個人が何かを引き寄せるという現象はない、、、ただし観念が書き換わることで見える世界が変わることはあるでしょう。

ただし苦しみが終わるわけではない

観念が書き換え、価値観変更が起これば見える世界が変わりますから居心地が良くなることもあるでしょう、、ですが、、、この個人が居るという大前提が変わらない限り苦しみが終わることは絶対にありません。この個人こそがあるという価値観が消え失せなければ、、苦しみの終焉にはならない、、、

ポジティブシンキングが、、この夢を快適にする要因はある

人の悪い部分を探し続けるよりも良い部分を探し続ける方が、、、一時的には快適な夢になるでしょう、、、ですがこの状態も個人は飽きます、、、快適が快適ではなくなるのです、、、その時に絶望します、、こんなに前向きで、、こんなに努力家で、、こんなに性格が良い私の人生が苦しいとは何事か?と。。。。どんな考え方であろうと、、、事実ではなく、、思考の世界に住んでいるから苦しいのです。。。脳が作り出した第六感の世界に閉じ込められているから苦しいのです。

「ば・か・や・ろ・う」に反応するって??

ばかやろうは、、、ただの音の並び

ばかやろう、、こんな言葉を会話中に向けられれば誰でも頭に来ますよね、、ですがよーく考えてみてください、、ば・か・や・ろ・う、、、これってただの音の組み合わせ、並びです。。???ここに人は意味が込められていると信じるから、、、怒りがこみ上げてくるのです、、だってそれはそうだろう先方はそういう意味で使った言葉だから当たり前では???違うんです、、先方からは実はただ現象として気づきの意識から湧き上がっただけなのです、そこに意味を込めた相手の人格は無いのです。

ばかやろうも、、ただの生命現象

ばかやろう、、という音の並びが、、、ただの生命現象、、これが真実、事実です。え???じゃあそこには意味はないのか???ないです。。。。じゃあ会話自体が完全に意味がないではないか???そうです、、、相手の発言に意味があると信じて行う遊びが会話です。ということでこちらが「ばかやろう」と先方に放てば相手は怒るでしょう。

いつまでこのゲームにハマっていますか???

相手の言葉に実は意味がないならば、、、コミュニケーションには意味がないでしょう、、そうです、、ただの生命現象である言葉に意味は全くないのです。。じゃあ今後何を目的に会話をすればいいのか???そういう遊びとして会話をすればいいのです、、、逆に言えば相手の言葉に深刻になる必要がないということです。だってただの生命現象です、花、植物、木々、と同じです、、そこに意味がないのです。

エックハルトトールに人が癒される

文章全体が気づきの意識から湧いてくる

悟り系の書籍で世界で最も売れた本はエックハルトトールの書籍でしょう。彼の本は気づきの意識そのものが彼を通じて描かれています。思考の仕組み、エゴの仕組みをエンドレスに描き続けています、、一度表現した文章が何度も手を品を変え描かれ続けています、、、これは気づきの意識そのものに帰るトレーニングのようです。彼は一貫して思考を観察せよといいますが、、一貫して気づきの意識の立場になれば直ぐに分かるということを示唆します。

文章を読んでいるとなぜか癒されている自分に

文章を読んでいますとなぜか癒されている自分に気づきます、、気づきの意識が織りなす様々な文章に触れ続けることで自身が気づきの意識であったことに気づくのです。気づきの意識の視点からの様々な人間活動が説明されているのです。揺るぎない気づきの意識からのメッセージが続きます。ピカソの絵が気づきの意識からエンドテスに描き続けられてきたようにエックハルトは気づきの意識の視点での描写が続くのです。

彼は言葉と言葉の間に空白を入れる

実際の彼の講演では、、言葉と言葉の間に無言が作られます、、、意識的な空白の時間が作られます、、これぞ気づきの意識そのものの時間、、本当の我々はこの空白の時間、気づきの意識であるという示唆です。自我は彼の言動にイライラします。自我のメカニズムが終始バラされてしまっているからです。この本に対し興味深く読める方は、、もう自我の終焉プロセスに入っているかもしれません。自我がこの本を拒絶する場合はもう少しこの夢を見ていたのかもしれません。それも良しです。

人間としての心の痛み

あらゆる感情が思考で封印されている

動揺すると口数が多くなりますね、、これは湧いてくる感情を一生懸命隠蔽しようとする動きです。一日中思考の渦に飲み込まれている人はつまり湧いてくる感情を見ないように隠蔽しているわけです。思考が次から次へと湧いてくれば感情に意識を向けなくて済むわけです。これは感情を無視する行為ですから結果的にはこの感情に飲み込まれていきます、、感情もしっかりと全体、気づきの意識から湧いてきますから、、、湧いてきたなとしっかりと見つめればいいのです。、無視ではなく受け入れるということです。

無視された感情は見かけ上の体に蓄積される

無視された感情は見かけ上の体に蓄積されていきます、、体が固く硬直していきます、、、体に意識を向けていきますと、、これらの蓄積された感情を感じることができるようになるのです。思考の隠蔽が自然と終わり感情そのものとしとして感じることができます、、ただしこの感情はただ全体、気づきの意識から湧いていますから神聖なものです、、神聖なものとして感じます、、、これを続けていきますとこの感情が湧く場所、全体、気づきの意識そのものになっていきます。

思考も神聖、感情も神聖

思考も感情も全体、気づきの意識、神から湧いてくる神聖なものです、、、無視するのではなく、、そう感じます。。。自分が作り出したような粗悪な物ではなく神聖なものなのです。。。出てくる思考、感情を神聖なものとしてただ受け止めるのです、、受け止めるのは勿論、気づきの意識、全体としてです。

いつやるの?今でしょ!?

今やるかやらないかはそれが起こるかが全て

林修先生は悟っていません、、あんな恥ずかしい言葉を全国区に広めてしまったのですから????あの林先生の名言で今やる人の人口は増えたのでしょうか???絶対に増えていません。。なぜならば今その行動が起きるか否かは全体、気づきの意識からそれが起こるかどうかだからです、、、残念!!!林先生と討論したら大喧嘩になりそうです。

常に今、、根源から行動が湧き出してる

一日中ボーとしてしてまして無駄にしました、、、違います、、ボーとするが根源から湧き上がり続けたのです、、、三食寝たろうで、、いつも休みは無駄使い、、、違います、、それが根源から起こったのです、、、本当はもっと外に行きたいんですがね、、、違います、、、その発想すらも根源から起きたのです。どこまでいってもそこに個人が居ないのです、、、そこは腹落ちしますとあら不思議、、、軽くなっちゃって、、休みがとにかく充実します。

何もしてないのに楽しい

幼稚園児で、、、朝から晩までスケジュールがパンパン、、リア充ぶって気取っている奴っていなかったですよね、、、関係なかったはずです、スケージュールのパンパンと充実は。。そうです、、、何かをしていないと至福になれないって完全にフェイクです、現実逃避です、、、現実とは、、、、色のこと、、、色全体のこと。、、色全体になることこそが完全なるリアリティー、スケージュールを埋めまくる個人こそ現実逃避です。