自分

自分が全体を隠すメカニズム

自分とは全体からの分離錯覚状態

自分とは全体から分離できたのではありません。分離していると錯覚できた状態のことです。あくまで錯覚ですから実際には自分は全体から分離できません。全体から分離していると錯覚しているだけです。ここ最重要です。本当に全体から分離できたならばもう全体に戻りたいという衝動は生まれませんし不足感も分離感もないはずです。一つの完成したものですから。ですが自分は実際には分離できません、なぜならば全体は一つのエネルギーであり分離できないからです。あくまでも分離した存在があると錯覚している状態、これが自分、人間です。

自分とは分離したという錯覚のこと

神はいつでもあなたを見捨てはしない、、、これは当然のことです、なぜならば「あなた」という独立した存在はなく、独立しているという錯覚がそこにあるだけだからです。つまり一度もあなたは神でなかったことなどないのです。神から独立したと錯覚をしていただけです。神があなたを見捨てないどころかあなたは実在していないということになります。だからこそ見捨てることなどできません。

自分錯覚ゲームに疲れたら

全体から分離できたと錯覚することの成功した自分はこの体の中に自分が居ると信じ行動します。朝は山に行きキノコをとり、昼は海に行って魚を釣る、夜は自分の寝床に戻って獣に襲われないような場所で休む、、、こうしてこの体を安全に確実に生存させる方法を取得しました。それが現在のこの文明の土台になります。ですがこの分離錯覚には問題点があります、それは分離感、孤独感、欠乏感を伴うということです。全体がこんな小さな体を全てだと勘違いするわけですから欠乏感は半端ないモノがあります。ということでこの欠乏感解消のために分離錯覚した自分は常に次のモノ、ヒトを追い求める旅を続けることになるのです。もしもこの欠乏感に疲れてしまったらこの事実を思い出す他ありません。

偽りの自分は人を引きずり下ろして不足感を解消する

不足感解消に仁義なし

これは夢です、神が見る夢です。この夢の中では神は人間に成り切ったゲームを展開します。人間という五感+思考+感情動物を利用してこのゲームを楽しみます。実際には全て幻想ですが五感があることでリアリティーを与えます。さも自分がいるかのような錯覚を感じることができる遊びを展開します。神が人間という不自由極まりない生き物に成り切るわけですから不足感が湧いてきます。しかもこれはこのゲームが続く限り延々と湧いてきます。この不足感が人間の価値観と絡み合うことであらゆる感情のベースになるのです。怒り、妬み嫉み、孤独、退屈、などなどです。人間ゲームに慣れていない神はこの不足感を犯罪、裏切り、理不尽な行為をしてでも埋めようとするのです。これが仏教でいう地獄界です。このようなレベルの人たちが集まる集団に属しているとそこは地獄になります。

不足感解消にルールを守る

不足感解消のために最低限のルールを守れるようになると社会人としてやっていけます。会社、法律というルールを守りながらこの不足感を解消していきます。もちろんこの不足感はルールを守っていても関係なくひたすらに湧いてきますからこれが辛いことに何も変わりはありません。ただしここに居る人たちはルールを破ってでも不足感解消をしない分お互いが楽です。各々が独自に不足感解消に向けて努力していきます。

不足感解消から無我に入る

不足感解消をする努力から無心、無我、無思考に入れる人もいます。茶道、書道、花道のようにそこに携わることでそのまま無我に入り歓喜を得ます。そこに集中し無心に入ることでその場で神を体現します。これが究極の娯楽です。本来であれば苦しみでしかない仕事や労働から悟りに入るこれは人間の究極の形です。そして最終的にこの感覚を理解することから人間の苦悩解明に入っていきます。神が演じるこの人間から意識的に離れる、人間観察者へとシフトしていきます。