思考

体の美醜にこだわる理由

体の美醜に執着するのはなぜ?

これは夢です。ワンネスが見る夢です。この夢の中で人間は体の美醜にこだわったりします。ごく一部の女性はそのことで自殺を図るほど悩みます。これについて悟りから説明したいと思います。これは夢ですから本当は独立した体は存在しません。体という独立した存在はないにも関わらず全存在はこの体こそを自分と同一視します。無いにも関わらず体が在ることとしていきます。するとこの体が美しい、醜いと執着することでよりこの体への同一化が強化されていくのです。どっぷりとこの体を自分自身と錯覚することができます。この夢物語に没入できるのです。これは夢ですが全存在、ワンネスがこの体こそ自分(主人公)と勘違いすることからこの夢はスタートします。故に不足感が延々と湧き続けます、この不足感の対象が体の美醜に行き着くケースもあります。もっと美しい体であれば、もっと鼻が高かったら、この不足感を満たすことができるのでは、、、

美しさの先にあるもの、、

女性が美しさに執着するのは男性との関係もあります、美しい女性は好条件の男性をゲットできる。そう思い込む女性は多いでしょう。この夢の中では不足感が常に湧いてきます、そしてその不足感を埋めるのに異性は最高のアイテムです。より魅力的な異性をゲットすることでこの不足感は埋まるのではと妄想します。そのために先ずは自身がより美しくならなくては、、、ですが実際はどれほどハイスペックな異性と成就してもこの不足感が埋まることはありません。成就した瞬間は思考が止まり自我が緩みますから感動があります、ですがそれは瞬間的なもの、次第にまた不足感が湧き出してきます。その不足感は相手への不満に変幻し相手への攻撃に変わります。

美しくなることを目標にして無心に入る

美しくなることが悪いことはありません、美しくなるという目標が悪ではありません。そこを目標にすることでそこから無心に入ることができます。そこに一緒懸命になることで無心、無思考、無我に入り込めればそこに歓喜、美があります。手に入れる美以上の美がそこにはあります。美を目指すことで美そのものになることができます。全ての美は思考が抜け落ちた時に湧き出てきます。その美とはワンネス、大いなる一つそのものです。

お酒を飲んでいる時は夢から覚めている

一般的イメージとは真逆

これは夢です、ワンネスが見る夢です。この夢の中で、、お酒を楽しそうに飲んでいる人は夢を見ているかのようなイメージ、現実逃避しているイメージ見えます。ですが実際は逆なのです、実はお酒を飲んでいる人はその瞬間だけこの夢から覚めた状態なのです。お酒を飲むと思考が緩やかになります、お酒を飲むと緊張感が緩みます、自我を構築するこの思考が根本的に緩むのです。結果夢物語への没入が緩みます。つまりワンネスがワンネスに戻っているのです、その瞬間は。お酒を楽しく友人と飲むと時間を忘れます、実はこの瞬間だけワンネスに戻り時間を超越したのです。時間の外に出たのです。この心身こそは自分だという思考(自我)が緩み没中、洗脳が解けたのです、一時的に。

仕事帰りの一杯はワンネスに戻るひと時

夢に没入している代表格は仕事です。仕事中は思考全開、思考フルマックスになりやすいもの、他者との複雑な人間関係は思考を活性化します。この状態は疲れます、夢の中に入り込めばこむほどに不足感が湧き出てくるからです。そんな仕事の帰り道に一杯お酒を飲んで帰る、これはワンネスへの一時的帰還なのです。なぜ体に毒を入れて幸福感が湧くのか?体に毒を入れてでもワンネスに戻りたいという衝動です。次の日に体調が悪くなってでもワンネスに帰還したいのです。

このメカニズムを理解することが重要

お酒の良否は横に置いておいてなぜ人がお酒で幸福感を得るかを知ることが大変重要です。人間からワンネスに戻るということがいかに幸福になれることなのかの証明です。太古の昔からお酒、タバコ、、、などの嗜好品と呼ばれるものが無くなることがないのは人間という存在が苦しいことの証明、そこから抜け出せるアイテムは常に必要とされます。

世界的遺品などは無我になって制作されたもの

人間が人間のままで作ったものではない

世界的有名作品、ゴッホやピカソ、モーツァルトやベートーベン、彼らの作品が100年以上経っても評価が下がらない理由、それは人間が人間のままで作った作品ではないからです。ここは夢です。この夢の中で人間という形で作られた人間作品は思考、自我が作ったものです。私は人間であるという思考に支えられた作品は人間の制作物です。ですが多くの人に感動を起こす作品とは人間が作ったものではない、つまり自我ではなく無我が作ったもの。思考が抜け落ち自我も抜け落ち無思考の状態、無我の状態で作られたものはそのまま神の表現です。リアルな神、ワンネスの表現になります。そこに人間が介在していません。

人間とはこの心身こそが自分と思い込む思考のこと

これは夢です。ワンネスが見る夢です、この夢の中に独立した人間は存在しません。あんたが見る夢の中に独立した存在がいないように全てはそう見えるだけの表現です。この夢の中でもこれは同じで人間という独立した存在はいないのです、ですがこの心身こそは私という人間だという思考は存在します。つまり人間とは思考のことなのです。この思考がフルマックス、前回の時、この夢の中では人間が活動をしています。ですが火事場の糞力ではないですが思考が抜け落ちた時などは人間はそこには存在せず神、ワンネスの表現だけになります。

人間がいなくなるのではない、元々いなかった

夢の中に人間という特別な存在などいるはずがありません。元々いなかったのです、そこにこの心身こそが自分だ(自我)という思考が出現しました。この出現により初めて独立した人間(私)が誕生したのです。元々居ないのですからこれを無くすのは簡単、思考(自我)が抜け落ちる状況を作ればいいのです。例えば火事場、例えば事故現場、ポジティブには作業への集中、所作の集中、仕事への集中、などです。ピカソ、ゴッホ、モーツァルトなど偉人と呼ばれる人々はこれに気づき実践した者達です。ですから彼らは実際には人間ではありません。人間という後付けを削ぎ落としたワンネス、大いなる一つです。

ここは儚い(はかない)世界

人が夢の中にいると書いて「儚い」

これは夢です。これはワンネス、大いなる一つ、認識する私が見る夢です。その中で主人公としてこの人間(私)が存在します。人間とは独立した体、思考を所有すると錯覚する存在です。夢の中にこの主人公が居ることを人偏に夢と書いてはかない(儚い)と読みます。この感じを誰が考えたか分かりませんがこの感じは真実を照らしています。人間が夢の中にいる状態を儚いと表現するのは大変面白いことです。人間としてこの夢に存在すると常に不足感、欠乏感が湧き出てきます、あらゆる欲の形をとって常に常に不足感を欲が代替されて現れます。そしてこの欲はどんなに満たして直ぐにまたお腹が空く、食事のように満腹に至っても6時間後には腹が空くのです。どこまで行っても満たされないこの夢(人間の現実)はまさに儚いものです。

旅行しても儚い感覚を覚えたらもうけもの

旅行とは非日常に行くことで楽しむものです。非日常に行くと思考がストップします、お店、空気、気温、花々、どれもが新鮮でその瞬間に思考がストップするのです。だからこそ人は旅行にたまに行きたくなるのです。ですがこの儚さを知っている人はもう旅行にそれほど魅力を感じなくなります。なぜならば家に帰ればまた元の日常が待っているのを知っているからです。この瞬間だけの歓喜、無思考に興味を抱けなくなるのです。一瞬の幸福、一瞬の歓喜、一瞬の安堵に興味を持てなくなってきたらもう儚さの意味を知るマスターです。

儚さからの脱却

長生きなんてしたくない、、生きていても楽しいことは一瞬であとは退屈な日々、このような境地に至ったらこの夢物語は大成功。夢の中の人間活動をしっかりと全うしている証拠です。人間活動とはそのようなものなのです、ほとんどの時間は退屈、苦痛で、たまに一瞬だけ歓喜らしきものがある。思考が止まったその瞬間だけが幸福、歓喜、安堵が押し寄せてきてそに波は直ぐに引いてしまうのです。ではどうしたらこの儚い夢の中で歓喜、幸福、安堵を積極的に得ることができるのか?それが無我に入る、無心に入る、無思考に入ることです。このブログでも再三お伝えしていますが反復、ルーティンで物事を達成していくということです。茶道、花道、書道的に人生を歩んでいきます。

思考を落とした先に至福があることを知っている

CD売り上げを気にするミュージシャンは実はこの感覚を分かっていない

ミュージシャンであれば売り上げは重要です。音楽が売れなければ、聞いてもらえないならば音楽活動を続けることはできないからです。そしてもしも売れることができたならばこの上ない幸福でしょう。ですがその幸福は一瞬の幸福です、CD売上、ダウンロードの結果が出たときだけの幸福です。一瞬です。だからこそこの幸福は儚いのです。ですが一生懸命に音楽を作り続けるその過程で制作に集中すること、楽器の練習に集中すること自体から至福、歓喜、安堵に至ることを悟るミュージシャンが現れます。そこに集中することで無心、無思考、無我になりその結果安堵が押し寄せるのです。最初は何が起きたか分かりません、必死になって制作をしていたら突然至福が押し寄せてくる、安堵が押し寄せてくる、平和が押し寄せてくる感覚です。本当は売れたら得るはずだった幸福、歓喜、安堵がなぜかその制作途中に現れる。予定していない事件が起こります。

茶道、花道、柔道の達人はこれを知っている

茶道、花道、柔道の達人が、、最優秀賞に選ばれた時だけ喜び、それまでは血の滲むような苦労だけを重ねているとしたらそんなものに何の価値があるのでしょうか。一瞬の歓喜以外は苦労しかないならば辞めてしまった方がいいのではないでしょうか。ですが花道、茶道、柔道の達人は練習、所作の中から無心、無我、無思考に入り込みその場で歓喜、安堵、平和をえます。この夢の中で彼らは目覚めているのです。この儚い夢の中で彼らは無思考の歓喜を発見します。無思考の歓喜とは自我脱却の歓喜です。自我脱却の歓喜とは夢から一瞬覚める歓喜です。

CD売り上げを達成したとき、何が起きているのか?

CD得る上げを達成したアーティストはなぜ一瞬幸福に包まれるか?このカラクリを分かってしまうとビックリします。CD売り上げ100万枚達成、ダウンロード100万、、、、この瞬間アーティストは思考が抜け落ちます、今まで必死に思考をフル回転してどうしたら売り上げを上げるか考えていたのがその瞬間思考がなくなります。思考する必要がないからです。達成した瞬間だけは思考する必要性が欠落するのです、その瞬間だけは自我(我こそは自分という思考)が抜け落ち至福が押し寄せるのです。達成した自分が居なくなることで幸福になっているのです。こんな悲惨なカラクリ発見できるわけがないのです。要は自分が居なくなればいつでも幸福が押し寄せてくるのです。ところが売り上げを達成したアーティストは、逆に俺様は凄い、俺は偉業を成し遂げた、俺様はモテなくてはおかしいと、、自我が強化されていきます。これで益々思考万歳、思考フルスロットル、思考最強になり、、無我から遠く離れていくのです。これが人間の苦労生産システムです。

それでも生命(ワンネス)は完璧に夢を表現している

夢(生命)に優劣はない

あなたが昨日見た夢と一昨日見た夢、どちらが優れていると言えるでしょうか?恐らく言えないはずです。もちろんどちらが楽しかったか、愉快だったか、と比較することはできます。ですが優劣の判断はできないはずです。これはこの夢、ワンネスが見る夢でも同じこと、起きる状況に優劣はありません。ただ生命(ワンネス)が完璧に起こしています、この夢を。例えばコロナや戦争、これも生命の完璧な現れです、そこに優劣はないのです。コロナや戦争を危惧するなということではありません、それを完璧な生命の現れと理解することでそこから余裕が生まれます。深刻さが薄れてきます。

ニュースに右往左往するのは夢に没入すること

TVをつければあらゆる悲惨なニュースが流れていますがこれも生命(ワンネス)の完璧な現れです。ワンネスが見る夢です。そこに理由や根拠、今後時代がこうなるのでは?という危惧を加える必要はありません。ただそのようなことが起きた、夢の中で、それだけです。ワンネスがなぜそのような悲惨な事件を起こしたのか?ということをあえて深掘りすればワンネスはワンネスのままでは完璧、平和、安堵そのものでありそれ以外を経験できません。そこで夢(現象界)を作り不安、危機、困惑、孤独、不足、怒りを経験したかったのです。これは真反対の経験を積むことで完璧、平和、安堵の偉大さを知るという壮大なゲームです。

完璧を体験するには不完全を体験するしかない

完璧であるワンネスが完璧を経験することはできません。そこでワンネスは夢の中で不完全(人間)を作り不完全を経験することでそこから完璧を思い出すというゲームを思いついたのです。自身が不完全であれば完全を思い出すことができる。マリオをスーパーマリオ(夢)で操ることで人間の偉大さを思い出すようなものです。マリオは思考することも、寝ることも、起こることも、笑顔を作ることもできません。そんなマリオを操ることで人間って実は凄いと再確認できます。ワンネスも人間になりきることで再びワンネスの偉大さを思い出します。

この苦しみを終わらせることができるのは思考だと言い張る思考

今のこの苦しみ解決は思考に任せろと主張する

これは夢です、ワンネス、大いなる一つが見ている夢です。この夢の中に自身がいるという錯覚からこの夢物語はスタートしますがこの夢物語、ここに居るだけで基本苦しみが湧いてきます。湧くように設定されているのです。そしてこの苦しみをいかに解消するか?そこで出しゃばるのが思考です。我こそがこの問題を解決できるぜよ!と主張し問題解決に手を挙げて立候補します。結果思考が主導権を握り表面上は問題が解決されていきます。ところがです、また不足感、欠乏感、孤独感が湧いてきて次なる問題が発生するのです。そこでまた手をあげるのが思考です。前回は我こそが問題を解決した、今回も我に任せよ、そう主張して前回の実績を掲げながらさらに前倒しで主張してきます。結果この思考が大活躍してまたしても問題解決を図るのです。ところがです、またしても欠乏感、欠落感、孤独感が湧いてきて次なる問題が、、、、こうして人間の苦悩は延々と続くのです。

思考に問題解決を委ね続ける限り苦しみのループからは抜けれない

思考に問題解決を委ね続ける限りなぜ苦しみが解決しないかと言えば問題の本質を完全に見失っているからです。不足感、欠乏感が湧き出るメカニズムこそに思考がガッツリ絡んでいるのです。我こそがこの心身なりという思考、この思考こそが苦しみを沸き続けさせる根源です。この根源である思考が問題解決のためにフル回転する限り根元のメカニズムが解体するわけがないのです。問題が起きた時に思考に頼らない、むしろ一切の思考を使用しないで解決する方法を考えます。それが同じ動作のルーティンです。同じ動作、作業を繰り返すことで問題を解決させていきます。思考の出る幕を最初から遮ってしまうのです。

例えばダイエットであれば、、、

例えば体型にコンプレックスを抱く方は、、一日中ネットサーフィンをして自分を解決してくれる情報を漁ります。来る日も来る日も自分の問題を完璧に解決してくれるだろう情報を探し回るのです。思考フルスロットル、思考全開でこれらの情報に触れ続けていきます。結果そのような問題解決に至ってもまた新しい問題が湧き出てくるわけです。そうではなく1日30回ストレッチをすると決めて思いついたらやるを繰り返していきます。気づいたらストレッチ、気づいたらストレッチです。こうすることで一切の思考に頼らずに無心に入っていけます。どんなルーティンで今回の問題を解決するか?これを基本に問題解決を図るのです。思考を問題解決に最初から参加させない、これがポイントです。無思考な状態(至幸)で問題解決を図れば途中段階も至幸になれるということです。

夢の中で本当に目指しているのは戻ること

あらゆる欲望、目標は全てこの代替品に過ぎない

双対の世界に「私」は誕生しそこからこの私は色々と動き回っています。なぜかじっとしていられない、、、中から衝動が溢れてくるのです。退屈、暇、刺激が欲しい、安定が欲しい、認められたい、、何処かに属したい、、好きなことをしたい、、目立ちたい、認められたい、、、このような欲、目標が泉のように湧いてくるのです。どこまで行ってもこの欲がなくなることがなくこれを釈迦は「苦」と表現しました。この表現は人類で初めて真実を突き止めた人と称されるのは理解できます。ただし釈迦、ゴーダマシッダルータも夢の登場人物に過ぎないので人間ではありません。大いなる一つが人間錯覚ゲームをしているのですから不足感が湧くのは当然のことです。

自分がなぜここまで欲望につき動かされ続けるか分からない

希望の大学にさえ受かれば楽しくなるはず、希望の会社に就職が決まれば楽にらるはず、結婚相手が見つかればこの孤独感はなくなるはず、、人間はあらゆる目標を設定しそれが成し遂げられた暁には今の問題は消えてなくなると信じます。ところがそれが成し遂げられても一瞬で次の苦しみが襲ってくるから面白いものです。人間とはこのようにラットレースに乗せられ続ける存在なのです。それは私をこの体(人間)思考であると錯覚することからスタートします。

先ずは欲望に騙されない、、ここから深刻人生から脱却する

これは夢です、そしてその夢の中にいる時苦しみが湧いてきます。夢の中に自身はいるんだと勘違いし続けている間だけこの苦しみが湧いてきます。そしてその苦しみを解消するためにあらゆる欲望が湧いてくるのです。大いなる一つに戻る代わりにあらゆる欲望が湧いているのです。この事実から逃げなければもう欲望がそれを叶えてくれるとは信じないはずです。湧いてくる欲望に振り回されるのではなく欲望を通じて無心に入る、無思考に入る、もしくはこの事実を直視するという次元に入ります。

自我の完成は強烈なストレス生活の完成

自我が完成しストレスフルマックス

これは夢です、ワンネス(気づきの存在)が見る夢です。この夢を夢たらしむ存在、夢にとって絶対的に必要な存在、それが自我です。自分(自らを分ける)とは全体からの分離のことでありそれを維持するシステムこそ自我です。自我がなければこの夢物語は維持できません。自我が崩壊すればこの夢から覚めます。自我は幼少期、思春期、社会人、成人と、、、社会的役割が増えていくに従い強化されていきます。自我の完成とはストレス生活の完成なのです。本来は広大無辺である存在がこんな小さな体に閉じ込められ思考すらもその中に存在すると勘違いすることで不足感、欠乏感、孤独感を生み出すストレス発生装置なのです。

会社に行けば思考を使わなくていい

なぜ学校に行き、なぜ会社にいくのか?人間がなぜ起きている時間のほとんどを何処かに所属しそこで言われた仕事を、勉強内容をこなすことに費やすのか?それはそのほうが思考を使わなくていいからです。思考を使えば苦しくなります、そのため思考を使わなくてもいい環境に身に置くことを自然と覚えます。その究極の場所が会社です。朝から晩まで基本的にやることは決められていていかにそれを正確にこなすかを求められます。分業制になっていて其々が得意な業務に専念できる場合もあります。そういう意味では会社は人間のストレスを軽減してくれる場所とも言えます。

思考の暴走を自身で抑えることが出来たら

人間は考えれば考えるほどに自我が強化され先ほどの理論で苦しくなっていきます。思考フルマックス=ストレスフルマックスです。思考フルマックス=自我全開=夢没入=無我消滅=ストレスフルマックスです。思考の暴走がこの夢物語での快適不快を決めるのです、だとしたらいかに思考を止めるかです。何かに没入することでこの思考は止められますから基本人間の行動をルーティン化していきます。考える必要性をなくしていき決まったルーティンの軸を作っていきます。茶道、書道、剣道のように決まったことをルーティンでこなしていきます。反復することで何かを成し遂げていきます。すると無思考、無心、無我の感覚に自然と入れるようになっていきます。無思考、無心、無我とは大いなる一つ、ワンネスの状態、つまりこの夢から覚めた状態です。

強烈なストレス、、、それは夢だと気づくチャンス

毎晩見る夢でも絶対絶命の危機は夢から起きるチャンスのはず

あなたが毎晩見る夢の途中で、、絶体絶命の危機、強烈なストレス的状況、、、これは夢から覚めるケースあるはずです。夢から覚めちゃう時って、、幸福の極みではなく、、ストレスの極みが多かったりしないでしょうか。これって自我が強烈に緊張し、、緊張の極みから、弾ける、、陰が転じて陽になる、、陽が転じて陰になる、、自我が緩んで我(ワンネス)に返る。夢の中に自分から、、、、自分に返る。。。こんなメカニズムです。

この夢、ワンネスが見る夢でも、、、

主人公である私が絶体絶命のストレス状態にある時、もうどうでもいい、、こんな人生なんて終わってもいい。。こんな状態のとき、、自我が壊れてきています。強烈なストレスのエネルギーで自我が壊れる、、、これって要はワンネスが見る夢劇場が壊れる瞬間です。夢から覚めワンネス(主人公としての)がワンネスに戻る瞬間。主人公を主人公たらしむ自我がこの夢劇場のストレスで歪みが入り、ヒビが入り、ワンネスに戻る。

とは言え簡単にはいかない、、、

強烈なストレスがかかった時に自我にヒビが入ります。この心身こそが自分自身であるという思考を支えるエネルギーが弱まります。自我はそのまま崩壊するか、その状況を逃げるか、、、勿論逃げるケースが圧倒的に多い、、それが引きこもり、不登校、転職、廃業、など今までの行動を辞める自我の働きになります。ですがその逃げ場もなかった時には自我が崩壊しワンネスに戻る、、夢から覚める、、これが一瞥体験、気づきの一瞥、覚醒体験と呼ばれる多くです。