波と海の関係

波が努力して海になるということはない

波が海になるために努力は必要か?

波が実は海だったという気づきを得るのに波としての努力は必要でしょうか???もしも努力が必要だとしたら波ではないという事実を理解することだけです。波が海になるために進化向上が必要だとしたらそれはなんでしょうか???もしもあるとすれば波ではないことを理解するための素地を作ることかもしれません。もしくは波を維持するための強固なエネルギーの壁を柔軟にすることぐらいでしょうか。

頑張って頑張って海になる???

波として精進しいつか海になりたいと思います、この表現は滑稽です、、そもそもが海そのもので勘違いで波活動をしているのですからその勘違いを明晰にすれば良いだけです。波活動が勘違いであることを証明するためには湧いてくる思考のこと、自由意志のこと、自我の仕組み、これらを理解していく必要があります。勘違いというのは真実を知ることで解決するのです。真実を知ればなぜ誤解が解けるのか???それは誤解を解くのが真実そのものだからです。

自分(波)は真実なんて勘弁してほしい

自分(波)は真実なんて勘弁してほしいのです、なぜならば自分(波)が消えてなくなってしまうことを知っているからです。自分(波)を消すために活動するなどこれはもう自殺行為ですから積極的にやるわけがないのです。つまり自分(波)にとっては暴挙、テロ行為、自傷行為のようなものです。ですが散々波活動を通じてそれでは救われないことに気付いていれば海であるという実感が蘇ってきているのでそれらの活動が阻止されない可能性があるのです。

波が実は海だったという気づきは経験なのか?

最後の気づきは経験ではない

波としての人間活動が続きあらゆる経験を積んでいきます、最初は経済的欲求を求めていく、次に精神的欲求を求めていく、、、それでも全く満たされない。なぜならば自分を波だと思っているから、そしてこの波の中に自分という存在が居ると勘違いをしているから。この勘違いが苦しみを生み出しているのですから波としての波活動は全く報われないわけです。ですがその本質が分かり本当は自分は波ではないんではないか???そしてこの波の中に居ることになっている自分はフェイクなんではないか???という疑問が起き始めます、なぜ起きるのか??それは本質は海だからです、当然なのです。そうだ海だ、、は波の状態での気づきです、波が海そのものになるときにそれを経験する自我がもういない、、自我こそが波を維持してきたわけですから。この経験、波から海へのシフトは経験とはいえません。

主語が変わってしまう

波だと思っていたら実は海だった、、波を取り巻く環境の全てが自分だった、、、これは経験とは呼べないような経験でしょう。この経験とは呼べない経験が波の最終目標です、波の最終地点です。波は自由意志で動き回っていたと思っていたら実はその自由意志と呼ばれるような思考は海としてのものだった、だから時に全く上手くいかず時には上手くいくというシステム。思考は海からガンガン起こり、この波が自分だという思考もやはり起きる。そして同時に常に閉塞感、違和感、孤独感が起き上がります、海から。

孤独感が起きるのがおかしいのだ

簡単にお伝えすれば波として完全分離しているならば孤独感が起きるっておかしいのです。完全分離したらその状態がパーフェクトなのだから「足りない」という感情、「寂しい」という感情が起きるわけはないのです。つまり孤独感こそがこの波が自分という思い込みが真実ではないことを教えてくれているのです。私は波として完全独立しているという思い込みこそが孤独感を生み出す最大原因なのです。

不快感が生まれることがおかしいのだ

もっとこういう生活がしたい、できればお金が欲しい、できれば高級車が欲しい、できれば別荘が欲しい、できれば有名人になりたい、できればインフルエンサーになりたい、できれば人気者になりたい、、、全部全部波だからこその願いです。波が波として完全独立したらこの世界は完璧の鏡ですから欲求不満なんど起きえないのです。波という状態、そして波が独立しているという思考が真実は異なっているからブザーが鳴り続けているのです。それが不快感です。

海と小波の関係

波は神の人間体験

波は神の人間体験です、波は海の一部です、これが神です。波は独自の意識を獲得し日々波として生きています。ですが本当は全部海からのうねりです、思考も感情も行動も海からのうねりですが、、波は独自の意識を獲得したと錯覚し日々波体験を行います。波体験は如何せんサイズが小さい故に困難を伴います、ですがサイズが小さいからこそ自由気ままにこの大海を動き回れるという特典が付きます。小さいからこそこの小さい立場での視点で大海を遊び尽くせるわけです。魚と一緒に動き回ったり、太平洋から大西洋に移動してみたり、北極付近に遠征したりです。

波はあらゆる体験を積み最終的に大海に吸収される

波はあらゆる体験を繰り返し多くの経験を積みました、波としての成功体験失敗体験を積み重ねていきました。あらゆる欲求を満たしていき最終的に気づきます、「自分」って本当は誰なんだろう???これが波の究極の質問です。波としてこれまで生きてきたが、、本当に波は波なのだろうかと、、、その時ふと自身が実は海であったことを思い出します。散々動き回ってきたこのフィールドこそが自身であったという気づきが訪れます。

波になる前は海だった

波の経験の前に海の経験がある

海であることを忘れた波はあらゆる経験を重ねますが、波は元々海です。海としての経験を積んでいました、そこから突然波の経験が加わりました。もともとは海の経験のみです、そして海でありながら波であるという経験が後付けで追加されたのです。これは大変重要なポイントです、波の経験とは後付けなのです。だからこそ波が何かに集中することで波であることを忘れた瞬間に海の経験が湧き出してくるのです。海の中に魚の動き、潮の流れ、竜巻、海で起こる全てがそのまま経験として認知されます、他人が他人事に見えないのです。全てが海として認識されていきます。

音楽が流れれば音楽になり、風が吹けば風になる、、、、

人間あることは波であることと同じです、人間でないとき全体だけがあります、波でないとき海しかありません。人間は何かに集中し自分が人間であることを忘れると全体になっています、波は何かに集中し波であることを忘れると海になっています。風が吹けば風をそのまま感じ、音楽が流れればそのまま音楽を感じます、そこに人間は必要ないのです。波である時は魚が飛べば波視点でそれを確認します、上空に鳥が飛べば波視点でそれを確認します。ですが波が何かに集中し波であることを忘れるとき海がそのまま魚、鳥に気づきます。人間視点、波視点はあくまで後付け視点です、我々人間はこの後付け視点で日々生きているだけです。

人間としての後付け視点が消え去ると全体視点だけがある

人間が何かに没頭し我を忘れると、、人間視点が消え去ります。その時全体視点が湧き出てきます。音楽が音楽のまま認識されます、人が人のまま認識されます、花は花のまま認識されます、ゴッホやラッセン、モーツアルト、ベートーベン、などの偉人とは人間視点を放棄して全体視点でモノを音をそのまま認識していたと思います。それをただこの体が描いただけ、楽譜に刻んだだけ。ですからそこには人間としての損得、勝敗、感情の全てが抜け落ちています。

海であることを忘れた波は疲れている

海であることを忘れると思考フルスロットル状態になる

海であることを忘れた波はなぜか不足感、欠落感、孤独感が半端なく中から湧いてきます。朝起きて寝るまでこの欠落感、欠乏感、孤独感をひたすらに埋めるために思考フルスロットルで動き回るのです。そして動けば第二波、三波の感情が次々に湧いてきますがこれらは先ほどの欠乏感、孤独感が形を変えたものであることは間違いありません。なんとかしてこの感情解消のためにあらゆる手を尽くし、頭を尽くし動きますがこのイタチごっこは半永久的に続くために徐々に疲弊してくるのです。よって人間はどこかで中毒対象を見つけ出し中毒行動でこれを乗り越えようとするのです。それが恋愛だったりTVだったりゲームだったりギャンブルだったりお酒だったりです。

なぜここまで何かに中毒になるのか?

この夢物語の中では常に不足感、欠落感、孤独感が襲ってきますからいかにこの感情を沈めるかに思考はフルスロットルになります。結果多くは何かしらに中毒になることでこれを乗り越えようとします。それをしている間思考を削ぎ落とせるような何かを求め続けるのです。人間にとって中毒とは現実逃避ではなく全く意味がわからないこの欠乏感、喪失感、孤独感を感じなくさせてくれる助け舟なのです。そしてこの思考の削ぎ落としを中毒ではなく全ての人間活動の所作からそこに入れますと夢物語から常に抜け出た次元にシフトできているので欠乏感を感じずにいられるのです。どのタイミングでも意識、気づきの意識に戻れる人は中毒とは無縁で生きられます。

この夢物語では湧き上がる欠乏感を中毒ではなく、思考フルスロットルでもなく、見抜くことで解決する

もしかしたらこれは誰かが見ている夢なのか?そのような疑問が湧いてきたらこの夢から覚める準備ができています。夢を見ているのは主人公ではなくこの夢をただ認識するものです。これまでこのただ認識するものにあらゆる名前をつけてきました。神、ブラフマン、キリスト、仏、空、、、名称は多くの場合この夢の登場人物達によって誤解されていきます。このただ認識するものがこの夢を見ています。湧き上がる欠乏感を主人公のモノと勘違いさせ主人公を右往左往させ時に積極的に時に消極的にこの欠乏感を埋めることを目的に動き続けさせてきました。何かに中毒になっても相決するわけでもなく、思考フルスロットルでも解決はしません。これが夢だと見抜き俯瞰することで深刻さを根本から無くしていくことでこの夢物語から認識するものが覚めるのをただ待つのみです。

苦しみ、欠乏感、孤独感から逃げるのではなく、、

なんとか誤魔化してこの夢物語の欠乏感、喪失感から逃げ続けるのは至難の技ですからそうではなくこれに向き合うこうことが重要です。準備ができた登場人物はこの喪失感に向き合うことでそこから無心に入る、無我に入る、全存在に入っていきます。喪失感の根源は自分自身そのものであり外にこの解決を求めても無駄です。自分自身が全存在であることに気づく以外この戦いは続きます。

海であることを忘れた波は損得でしか動けない

思考とは損得を判断するもの

夢の中の登場人物は思考をフルに使って存在しますがこの思考とは損得機械です。自身にとって何かしらの得があると思考が判断すれば動き、損があると思えば動きません。究極の損得マシーンなのです。そんなはずはない、親が子にかける愛情はどうなんだ?となりますが見ず知らずの子供の世話をする親がほぼいないように自分が腹を痛めた子供だからこその限定的な愛になります。これは本当の愛ではありません。子供を自分と同一視して愛情をかけているだけです。故にこの夢劇場ではどこまでいっても損得での人間関係が広がります。

夢劇場の登場人物に損得以外の期待をしないこと

この現実社会は夢劇場でありよって人間関係はどこまでいっても損得で行われます。どんなに深い関係の夫婦も、友人同士も突き詰めると損得がそこにはあります。自身は人間であるという錯覚をしたこの夢劇場の登場人物である限りこの縛りから逃れられないのです。自身は全存在ではなく別個の人間であると誤解したこの夢の登場人物は本来が全存在であるからしてどこまでいっても不足感の塊なのです。ですからこの不足感解消のために生き続けることになりどこまでいってもこの不足感解消に繋がらない行動は取れないのです。人間の行動のベースは完璧なまでに不足感の解消になります。

不足感をお互いに解消しあえるから関係を結ぶ

どんなに神聖な関係に見える人間関係でも人間=不足感であり、この不足感解消が人間の義務です。この人なら自分の不足感を何かしらで補ってくれる、これが人間関係を結ぶ動機でありこれ無しで成り立つ人間関係は皆無です。だからこそお互いの期待を満たして上げることができなくなるとその関係は破滅に向かうのです。なぜならば不足感を解消できない場合、苦しみと向き合うしかもう方法がないからです。夢物語での人間関係とは究極の損得関係でありここから抜け出すには夢から覚めるしかありません。

この夢物語は不足感、欠乏感がひたすらに湧いてくる

湧いてくる感情を自分のモノとしてこの物語は続く

全存在が思考を使ってこの夢物語を誕生させているわけですが、この夢物語は不思議なほど感情がどこからか湧いてきます。物語上はこの主人公の感情ということになっていますが実際はただ感情が湧いていてそれを自分の感情と主人公が捉えるという流れです。自分のモノとするという自動反応が起き続けるのです。感情が湧きこれを自分のモノにするというメカニズムが起き、それによってまた不足感が変換された感情が湧き続けるのです。こういう流れでこの波物語には感情が頻繁に登場するのです。

この心身こそ自分自身と勘違いすることで不足感が湧きそれを思考で解決しようとすることで他の感情に変換されていく

思考と感情はセットです。もちろんそれもただ湧いてきているだけですが。全存在がこの心身こそを自分自身と勘違いする思考が現れることによって不足感が湧き上がり、見かけ上全存在ではなくなったことで全存在の代替品を探すことにまた思考を使います。ところが思考が探してきた代替品はこの夢物語の中にあるモノから探し出してきますからこれは全存在のやはり一部でしかないのです。そうなればその代替品の賞味期限は瞬時に尽きることになるのでまた違った感情が湧いてくるのです。この感情は全て不足感の変容パターンでしかありません。この感情を解決しようとまた思考が湧いてきて全存在の違う代替品を探し出していきます。

ゆえにこの夢物語の中に至福を探すのは疲れる

自分自身(全存在)自分を分離させ渇望感を味合わせ、自身(全存在)の代替品を追い求めさせるのがこの夢物語の基本構造ですかなかなかしんどいゲームであることは間違いありません。ですがあらゆる感情、不足感、欠乏感、孤独感、虚無感、焦燥感、、、これらは全存在が全存在のままでは味わうことが決してできない感情ですから全存在はこの感情を味わえていることに感動します。全存在(感動)が焦燥感を意識することに感動(全存在)しているのです。全存在(感動)が焦燥感を一時的に解消できることに感動(全存在)するのです。ですからアジャシャンティーはこの状況を全てうまくいっていると表現します。

海であることを忘れた波は夢に夢中になる

夢中になれない夢ならば意味はない

海であることを忘れた波にとってこの世は夢物語、波物語です。波の観念によって大きく様変わりする夢です。リアリティー全開、五感全開の夢ですからこの夢を夢と見抜くとのは至難の技です。思考すればするほどにこの夢は複雑に入り込んでいきます、そしてその夢の中でいかに自由に快適に生きようかと思考をフル回転させればさらに複雑な夢、リアリティーが誕生するという見破れないパターンが進みます。

全存在がこの世を作ったのは夢にどっぷり浸かるため

この夢がなぜあるかと言えばまずはこの夢にどっぷりと浸かるためです。最初からバレバレな夢ならば夢から醒める感動は皆無です。ですから先ずはいかにこの夢にどっぷり浸かるかが重要です、どっぷりと浸かり深刻に人生を考え、重く将来を憂うことから人生はスタートするのです。だからこそそこから夢を見破ることに価値はあるし夢から醒める感動もあるわけです。

簡単に醒めない夢だから価値がある

この世が簡単に見抜けてしまう夢ならば価値はありません。この夢の醍醐味とは夢から覚めたときの感動です。あまりにリアリティーがあって夢とは思えないからこそ夢から覚めたときの感動があるのであって簡単に夢だと気づけてしまうのならばこの夢の価値は半減するのです。この心身こそが自分であるという錯覚を作り出すエネルギーは紛れもなく全存在のエネルギーでありこの夢は悪意で創造されたわけではありません。全存在が自身のエネルギーを使ってこの心身が自身であるという錯覚ゲームを創造したのです。ツッコミどころ満載、アラ全開のこのゲームを愛おしいと思うぐらいの余裕があればいいのですがそうではこのゲームの醍醐味は薄れます。

自我は思考、体に集中すると自我は抜け落ちる

この心身こそは自分という錯覚は思考で行われている

この現象界にあるエネルギーは全て全存在、海の表現です。ですから思考も勿論その表現の一つです、表現の一つである以上悪いとか良いとかは一切ありません。つまり思考は悪ではありません。そしてこの思考を使って人類は発展してきました、思考こそが人類繁栄の主役です。この事実は変わりません。ですがこの思考はこの心身こそが自分自身であるという錯覚を引き起こす張本人でもあります。海であることを忘れ波が自分だと勘違いさせている真犯人です。全存在ではなく個人であるという勘違いを引き起こす真犯人です。人間の苦しみは間違いなくこの思考こそが生み出しています。これもまた事実です。ではこの思考を抜け落とし自身を全存在、海であると腹落ちさせるにはどうしたら良いのでしょうか。それは思考ではなく体を使うことです。体に全意識を集中するとそれに反比例して思考は弱まっていきます。例えば火事の時に子供を助けに行く母親の行動は体がおこなっているのであってそこに思考が入り込む余地はありません。オリンピックの短距離奏者が思考を使いながら走るということもありません。剣道の真剣勝負に入ったら思考の出る幕はありません。この時自我(この心身こそ自分という思考)は抜け落ち剣道術者は人間ではなく全存在になっています。マイケルジョーダンがプレイに集中する時に自分はマイケルジョーダンだという思考は抜け落ちしています、彼はプレイ中神になっています。

思考を観察するという行為に無心になる

思考を観察するという行為の凄さの理由は、思考を観察するのは自我にはできないということにあります。思考こそが自我ですから思考を観察するのは自我ではなく無我です。そう波になる前の海です。自我が形成される前の全存在、神、大いなる一つです。思考はこの存在以外に観察できないのです。だからこそ思考を観察するという行為は大変効果的です。ですがこれができない方は日々のあらゆる雑務に集中することで自我を抜け落とし無我に入ります。自我が抜け落ちた時には常に無我はそこにあります。なぜならば自我は無我の中でしか存在できないからです。自我がなくなった時に無我が現れるのではありません、自我は常に無我の現れです。無我を隠す無我の表現です。

空は常にあるがそれを隠す雲

私たちが生まれてきてこれまでの期間で空がなかった日はありません。空は常にありました、ですが空を雲が覆い隠し一時的に空が見えなくなってしまった時間はあります。自我と全存在、自我と大いなる一つの関係はこの雲と空の関係に似ています。全存在は常にあります、全存在がなかった日はありません。ですが時に自我がこれを覆い尽くし全存在が見えない時間があります。自我がない時は快晴です。自我が空を覆い隠す時は全存在は隠れて見えないということになります。大人になると自我は常に現れていて全存在を隠す時間が増えていきます。空が見えないからといって雲が必死になって活動すればするほどに空は雲で覆い隠されてより隠れてしまいます。これが我々人類を苦しめるメカニズムです。苦しい時は自我(思考)を活動させるのではなく自我(思考)にお暇してもらいましょう。思考を徹底的に観察する、もしくは無心になって何かに取り組むことで思考は行動を控え全存在が姿を表します。雲が消えれば空が見えます。

海であることを忘れた波は今日は明日のためにある

思考は今にはない、思考は常に過去、未来を俳諧している

海であることを忘れた波は、思考を駆使して生き延びていきます。そのため思考を手放すことを極度に恐れます。心身こそはこの私であるという思考も思考です、そのため思考を駆使して生きていれば苦しい日々が続きます。この心身こそ自分であるという思考は分離意識を常に強めていきますからこの分離意識を弱めたければ思考を手放す以外ありません。ですが現場が苦しければ苦しいほどに自我は思考を使って生き延びようとするのです。明日のために思考を駆使します、来年のために思考を駆使します。そして駆使すればするほどに分離意識が強まりますからより苦しくなるのです。

思考こそが海から分離した波をさらに分離に追い込む張本人

思考があるからこそ自身は波であると思い込むことができています。思考がなければ自身が波だという思い込みはできません。思考が海を波に分離し波物語というストーリーに誘っています。にも関わらずこの思考を使って生きようとすれば波は永久に波物語から解放されることはないのです。思考とは波を波の次元、時間空間次元にい続けさせるための張本人です。もしも波が海に戻るならばこの思考を落とし欠落させ、無心、無我に入り込むしかないのです。

将来のために今に入る、体に入る、所作に入る、思考を観察する

とはいえこの体を持ち、生き抜いて行かないのは事実ですから将来に対しヤケクソになるのは得策ではありません。自暴自棄になってもしょうがありません。そうではなく将来のための準備、明日の準備に入り込む、所作に入り込む、仕事に入り込むことでそのまま無心になります、無我になります。波は将来のために海になるのです。もしくは思考がグルグルするならばその思考を観察するという所作に入り込みます。思考を観察することに無心になって臨むのです。エックハルトトールは思考を観察することから大いなる一つになることを推奨しますが観察することに無心になる、観察道に入ればいいのです。思考を観察することに体を使うのです。体は常に今にあります。