幻想

自我OSを必要としない体

守るために、、

この体を守るために、、形成された自我OSですが、、、これに頼り切った状態は基本苦しい、、、、体を守ることはできますが、、、、虚しさ、退屈に、、、常に襲われます、、、、なぜか?????この世界の真実を知らないために、、、全くの勘違い生活をしているからです、、、、、この体があって、、その中に自分が居て、、、この世界を生き延びる、、、、というのは勘違いです、、、ですから目指す先にある幸福が、、、全く違う場所にあるのです、、、、

空を見る

空を見る、、この一瞬の体験を、、、、最高に感じるか、、退屈に感じるか、、、ここが全てです、、、幼少期は、、、、空を見るだけで楽しかった、、、、、ですが今は退屈、、、なぜ??????なぜか?????五感が閉じているからです、、、五感が閉じれば、、、、体験が薄くなるのです、、、、唯一の真実、、、体感に、、、、思考が混ざり込み、、、、ありのままの真実に触れられなくなっています。

思考が混ざる????

思考が混ざるとは???つまりこうです、、、、、、考えながら、、、、カレーを食べると、、、、味がしない、、、考えながら、、映画を見ても、、、集中できない、、、、、、全ての経験は無思考になることで、、、感動が生まれます、、、、この逆転現象が起きているのです。。。。五感が鈍ることで、、、思考が周り、、、思考が回ることで、、さらに五感が鈍る、、、、という負のスパイラルに入っているのです。

退屈な世界???

多くの方がニュースを観てホッとするのは、、、、苦しいのは私だけではない、、、と思えるからです、、、だからニュースには、、、、暗いニュースが多いのです、、、、、ホッとできるからです、、、、ですが本当は、、、五感が鈍り、、、、全ての現象を、、、暗く感じる、退屈に感じる、、、、体になっているのです、、、世界をそう感じ取るのではなく、、、その五感こそが世界を作り出すのです、、、この世界は完全な幻想であり、、、、本当は感じることはできないのです、、、

感じることができない????

そうです、、、本当はこの体も、、、この世界も幻想であり、、、、感じる、、、がおかしいのです、、、ですがこの幻想は、、、、感じるために作られた故、、、、、感じることができる、、、、、無限という存在が、、、無限ということを「感じる」ために作られた世界なのです、、、、退屈も至福も感じることができるのです。

退屈を散々味わったならば、、、、

退屈を散々味わったならば、、、、、もう味わう必要はない、、、、、そしてこの体を健康に健康に導くことことで、、、、五感を研ぎ澄ましていくことで、、、自我OSが、、、大我OSにアップグレードされます、、小周天OSが大周天OSにアップグレードされます。

ありのままに感じるために

全自動

全てが全自動である、、これもありのままに感じるツールです、、全てが全自動であることを理解することで、、ありのままに見やすくなります、、思考が湧いてこなくなります、、感情が湧いてこなくなります、、幼稚園児はこれが分かっています、、、全てが全自動であることを、、、思考、感情、行動をコントロールしているなど考えていません、、、、だから今を感じています、、だから今を感じまくっているのです。。。。

試しに

スポーツすると食事が美味しくなります、、マッサージをしてもらうと、、ただそれだけで幸せになります、、、ヨガをすると、、その後のお酒が美味しくなります、、、感覚は体の影響をダイレクトに受けるのですから、、、これを突き詰めます、、、収縮したエネルギーを全解放していきます、、、感覚がどんどんどんどん鋭敏になっていきます、、、原始感覚が蘇ってきます、、、すると、、、、何もしなくても幸せ、、、という悟りの階段を登り始めるのです。

この世界は幻想だから

幼稚園児は感覚が全開です、、、だからといって彼ら彼女らは、、、何もしないなどあり得ない、、その感覚を使って、、、感じまくっています、、、ボールで遊び、おもちゃで遊び、、毎日感じまくっています、、、毎日が変化、変化、変化、、、これです。。。この世界が幻想で、、、この幻想は幻想故に退屈なのではなく、、、この幻想は感じまくれる人にとっては天国です、、、感じれない人には地獄、、、感じるとは全緊張を解放し、、感覚を鋭敏の局地にすることです。

幻想は、、体験の場所、、

この幻想は幻想ゆえに、、体験しなければ、、地獄の場所になります、、、ですが一方で我々は毎日体験しかしていません、、、部屋に居るのも体験です、、、ということは、、、この体験の濃度が充実度を決めるということです、、、体験の濃度とは、、、感じる力です、、、感じる力が最大限か最小限かによってこの世が天国にも地獄にもなります。

体で覚醒する

体だけが真実を知っている

この幻想の世界の中で唯一真実に触れることができるのが、、からだです、、、体だけがこの真実を掴むことができます、、この世界は幻想の世界ですから、、、そこで起こる現象には実は意味がありません。。。無限の現象が起きるだけです、、、意味はないのですが、、、この無限の現象をただ感じているだけで本当は我々は至福に居るはずなのです、、、目の前に至福(現象)が揺れ動いているのですから、、、ですがなぜかこれが退屈に感じる、、、なぜ????五感が鈍っているのです。

五感が鈍ると、、、

五感が鈍ると、、、真実に触れているようで触れていない状態になります、、、借金1億円をしてしまった、、、その時にコーヒーを美味しいと思えるか????恐らく頭は思考でグルグルになり、、全く味を感じれないはずです、、、これが人生においてなっているのです。。。思考に乗っ取られ、、五感が全く働かない状態に陥っているのです。

五感を覚醒させる

五感を覚醒させていきますと、、、ただそこに居るだけで気持ちが良い、、、が起きます、、、なぜならば感じているからです、、真実を、、、そこを追求します、、、、思考という刺激物に頼らなくなります、、、思考よりも、、より体を覚醒しようという動きが起きます、、、ヨガ、ストレッチ、水泳、、、なんでもいいのですが五感を開いていきます、、、そして本当に開ききったと時に、、、思考という罠、マジック、妄想が邪魔になってきます、、その先の真実に触れたくなります、、、これが悟りへの誘いです。

悟りに興味がでる

悟りに興味が出るのは、、、、感じているからです、、真実を、、、真実を感じているから、、、もっと真実を知りたいが起きるのです、、、この衝動は、、、真実に触れていないと起きません、、、真実が誘ってくるのです、、、ここに真実があると、、、ここで思考を使ってもダメです、、、思考とは真実を隠すものだからです、、、思考に入らずに、、、体をより覚醒させていくのです、、、感じる力をマックスにしていきます。

体から入る

五感力

五感力とは何か???五感の感度です、、、この感度が落ちますと、、、、この幻想の世界での体験が薄まります、、、この幻想の世界では、、、体験しか、、真実に触れる方法はありません、、、ですから、、、この五感の鈍りとは、、、真実の軽薄、、、真実の虚脱のことなのです、、、真実が虚してしまった世界、、、それがこの世界を苦しみの世界に閉じ込めます。

歳を取ると

歳を重ねますと、、五感が鈍ってきます、、つまりこれはこの世界から真実が消え去ることと同じです、、、真実との接点が減るのです、、、真実はいつでも今目の前にあります、、、ですがこの真実に触れることができなくなります。真実はここにあるのです、、ここに触れるには五感を開く以外にありません。六感である脳は、、思考を作り出します、、、我々は思考を生み出し、、、思考の中で体感するという能力を生み出しました、、ですがこの中の体験は五感が働かず、、満足になりません。

昨日一日中思考して大満足だった、、、

こんな話を聞いたことがありません、、、思考だけして大満足にはならないのです、、、思考はあくまで刺激、妄想のみ、、、これは満足とはほど遠いのです、、、満足は真実に触れた時のみに起こるのです、、悟りとは大満足の世界、、それは真実そのものと常に触れるからです、、思考という刺激物に頼らない生き方ということになります、、思考はいつでも誘います、、思考の世界に、、、そこに乗らない、、、インスタントな快楽に乗らない、、、これが重要です。

なぜ独り言を言うのか???

楽しいから

なぜ人は独り言、考え事、思惑の世界に入り込むのか????楽しいからです、、、思考の世界、虚の世界を作り出し、、、幻想にふけるのです、、、擬似体験です、、、動く必要なしに、、、擬似体験を楽しんでいるのです、、面倒だから、、、思考して楽しんでいるのです、、、全員が思考中毒というドラッグ中毒になっています、、、、

思考は思考で価値がある

思考は思考で疑似体験を想像できます、、、ですがここには五感を使った体験がないので、、、真実に触れることができません、、、、思考により疑似体験は真実に触れる機会がないのです、、、ゆえに、、楽しくても満足感がありません、、、楽しくても充実感がないのです、、、

体の感度を高めて、、自然と体感にシフトする

思考中毒者の特徴は体が閉じているということです、、、体が閉じているから、、、体験が楽しくない、、充実感がない、、、だから思考に逃げます、、、、体感を楽しめない体にしてしまい、、、そのせいで思考に逃げます、、だからこそ無理くり体を開きます、、、体を開き切っていきます、、、つまりヨガ、ストレッチ、マッサージなどで、、感じるを永続させるのです、、、感じれば感じるほどに五感が開いていき、、、体験が勝手に楽しくなるのです、、感じるが楽しくなります、、、、即充実になります。

分かった

誰も彼もいない

全部が全部自動反応ということは、、、自己というものが完全に皆無な状態でただ何かが起き続けています、、、ただの反応ですからそこには何の意味もなく、、、海の中で何かドラマがあるように見えているだけ、、、魚が海藻を食べ、、その魚を大魚が食べ、、その大魚をアザラシが食べ、、、があったとしても本当はそこには名前はありませんから、、、そう見えているだけ、、、自己という存在無しに完全に動きがあるだけです、、そして厳密には動くというよりも、、、変化があるだけ、、、だから時間も全く存在しません。

自己という活動が起きている

自己意識という活動だけがあり、、、それ以外は何もありません、、、本当は強い意識という実在はありませんからそのような活動が幻想として起きます、、、真実は、、、ただ変化があるだけです、、、そして経験と、、、自己意志というのは本来一緒にはできませんから、、、、ただ感じる感覚だけが起こり続け、、ただ自分がいるという思考が起こり続けます、、、本当にこれだけが起きています。

私が居るという思考が起き続ける

何かを食べている時に、、、自分という存在を感じることはできません、、舌がスープに触れた瞬間、、味覚が広がります、、この時点では自分は居ない、、その後「私が食べた」という思考が湧く、、、ただそれだけ、、、本当は感じるという経験しか起きていない、、、この体は感じるマシーン、、そしてこの体は確実に幻想です、、、この体という幻想が、、、ただ感じるを起こし続ける、、、本当にそれだけです。

でも幸せ

自分が居ないならば、、、幸せになれないのでは???虚しいのでは?????大間違いです、、、自分が居るから虚しいのです、、、自分が居ないにも関わらず「居る」と思うから、虚構が生まれ、、、虚しい世界が誕生します。我々人類は言葉を発明したことで、、、想像という行為を覚え、、、想像=虚構を作り出したのです、、この世界の住人である虚構が生まれ、、、虚の世界、、、虚しい世界に住むことになったのです。

何をすればいいのか????

言葉が作り出した世界が、、虚構であることを完全に見抜くことです、、、言葉は虚構を作り出す道具に過ぎないことを見抜くことです、、、すると世界から深刻さが消えます、、、みんな深刻に深刻にこの世界を捉えていますが、、、この捉えるという思考の活動こそが虚しさの原因です、、、本当は真実しかここにはなく、、真実は静寂、生命、平和でしかありません、、、、この土台の上に今まさに言葉で作った虚構の世界をでっちあげ、、、虚しい虚しいと嘆いているのです。。。。

虚という抜け道

現実は苦しいから、、、

現実は苦しいから、、AKBにハマる、韓国アイドルにハマる、、スポーツ観戦にハマる、映画にハマる、小説にハマる、、、、これは、、、虚に逃げる方法です、、、、虚に逃げ続ける方法です、、、擬似体験に逃げる方法です、、、虚とは、、、虚しい、、、、虚しいに逃げているのです、、、刺激的だから、、、安全だから、、、虚の世界は安全なのです、、、、安全だから虚に逃げる、、だが虚は、、、、虚しいのです。

恐れという感情を壊す

虚に逃げる一番大きなポイントは安全だからです、、、、映画、小説、ゲーム、ネットフリックス、、、全部安全の塊、、、その中で擬似体験をして、、、、経験を積む、、、、だかそこは五感という、、、、絶対的な経験が欠落している、、、、だからそこは虚の世界、、、虚の世界は虚しいのです、、、どこまでも、、、、ならば、、恐れの感情を、、、、シンプルに削除してしまう、、、体を徹底的に動かして、、、恐れという感情を、、、手放す、、成仏させる、、、、すると自然と、、、虚の世界ではなく、、、この現実(幻想)の世界で五感を使った体験を始めます。

東洋医学では、、、

東洋医学では恐れの感情は腎膀胱経絡に溜まります、、、、これは体の前後中央のラインに走っている経絡です、、、このラインを通すことで、、、恐れの感情自体を解体できます、、、すると自然と、、、経験したいが湧いてくる、、、自然と五感を使って経験したいが湧いてくる、、、、虚の世界の中で、、、実が増えていく、、実が増えてくる、、、、実が増えれば充実、満足になる、、、、

虚しいを追求する

虚しいって何???

虚しいとは、、、実がない状態です、、、実がない状態が虚しい、、、じゃあ、、実って何か????真実に触れることです、、、、この世界で真実に触れると、、、、実が生まれます、、、、、「この世界に真実じゃないもの」なんてあるんですか?????全部真実じゃないですか?????それが違うんです、、、それが真実じゃないんです、、、、我々は言葉を覚えてしまったので、、、、言葉で作り出したイメージの世界に知らないうちに住んでしまったのです。

私が幻想

最初に答えを言ってしまえば、、「わ・た・し」も言葉ですから私も虚構です、、、つまり私を生きるとは虚を生きることになります、、、私とは虚、、、つまり虚しいのです、、、、だから先ず「私」は言葉で作ったマジックであるということを覚えるのです、、、すると私を生きるという、、、虚構が外れます、、、、五感は真実ですが、、、「わ・た・し」は虚です、、、、私はラーメンを食べたと思考すれば、、、虚しい、、、が湧くのです、、、、「私はラーメンを食べた」は虚構です、、、事実は味、香り、感触、満腹感、、、、、だけです、、、

じゃあ、、、どうすりゃいいんだ????

分かった、、、私が、、、、は虚構だから虚しい、、、、でも、、、、もう言葉を覚えちゃった以上、、、どうすりゃいいのか????????違うんです、、、今まだ虚しいのならば、、、言葉が作り出した世界は全部嘘だということが腹落ちしていないんです、、、、、腹落ちとは、、、悟りですから、、、虚しさはないんです、、、真実は何が起きているのか????を学ぶしかありません、、、、勘違いが全部削ぎ落とされた時に、、、真実しか残りません、、充実しか残りません。。。それだけ。

虚の世界で虚を描く

思考とは虚への逃避

この世界は虚構です、幻想です、、、これはハッキリしています、、、完全なる虚です、、、虚と書いて虚しいと呼びます、、、虚しい世界です、、、、虚しい、、、、でも小さな子供たちは虚しそうにしていませんよね、、、満足して遊んでいますよね、、、サッカーボールを蹴っているだけで、、、楽しそうにしてる、大満足している、、、、なぜ??????五感を使って遊んでいるからです、、五感です、、、五感を使って遊ぶと楽しいのです、、、、

五感だけは実

この虚の世界で唯一の実とは何か????五感です、、、五感のみです、、、五感だけが真実です、、、この五感を使って使いまくると、、、実が重なっていき、、、実が重なっていき、、、充実が生まれます、、、、、虚しさが消えていきます、、、虚しいという感覚が薄れていきます、、、、小説が楽しい、映画が楽しい、、これは、、、虚構の世界で五感を使わずにする遊びです、、、、だから、、、、虚しいのです、、、擬似体験です、、、擬似体験は、、、自らの体験のアイデアぐらいでいい、、、、擬似体験が面白いから、、、擬似体験を重ねていても、、、、虚しいが続く、、、

五感の究極

悟りとは究極の五感体験です、、、、我々は勘違いした、、、、思考が作った概念の中で活動をしています、、、「私」も居ませんし、、、相手もいません、、、これは思考が作り出した幻想です、、、幻想は言葉で生まれていますから、、、、擬似体験中なのです、、、今擬似体験中なのです、、、、だから虚しいのです、、、、私が、、何かを体験する、、、という擬似体験の中に住むと、、、それは幻想ですから虚しいのです、、、、真実に中で生きますと、、、見える世界は幻想ですが、、、体験は真実になります、、、五感が作り出した真実の世界です、、、そして最後に五感すらもなかったという気づきが起きます、、、真実はあるがままで「五感」という言葉にもならない経験がそこで起こっていることに気づきます。

思考はドラッグ

思考とはドラッグだった

思考について多くの方は甘く考えています、、、思考とは「こ・と・ば」で出来ています。。。これは音の組み合わせ、、発音の組み合わせを用いて、、、何をイメージさせる道具です、、、、「り・ん・ご」という音の組み合わせ、発音の違いを利用した、、、イメージ化ツールなのです、、、、この言葉を7歳ぐらいまでに覚えた子供はこの言葉を利用して、、、、イメージ化に成功します、、、、独り言を言ったりします、、、これは呪文です、、思考でファンタジーを作り出し、、、ファンタジーの世界に住むのです、、これはある種刺激的であるがゆえ人はこれにどっぷりハマるのです。。。

もしもあの子と付き合えたら。。。

小学生高学年ぐらいになれば、、、人間はしっかりと言葉を使ったイメージ化に成功し、、気になるあの子のことを想像するというファンタジー制作に勤しむことになるのです。これが大変刺激的であるがゆえに、、ハマりにハマるのです。。。。ですがこれは完全にファンタジーの世界への没入ですから「満足感」が抜けています、、ただ刺激的なだけです、、、「虚しい」のです、、、ファンタジーですから。

満足とは、、、

満足とは何でしょうか?????満足とはこの世界での真実に触れることです、、、真実に触れることしか、、「満足」は絶対にありません。。。。。では真実に触れる唯一の方法はなんでしょうか????幻想を経験することです、、、幻想にしっかりと経験を起こすことです、、、、この幻想の世界(現実)で体験、経験、五感を作るのです、、、これだけが真実です、、、それ以外は幻想です、、、、

思考しないで体験だけしていれば、、、、大満足????

え?????てことは、、、全く思考せずに、、、体験だけを積んでいけば、、、大満足の人生なのか?????そうです、、、、本当です、、、、ですが、、、、自我OSシステムは絶対にそれをやらせないでしょう。。。。。これは得か損か?????この行為はコスパが良いか????あの時あんなことをしなければ、、、、と大連発で起こり続けることでしょう、、、、

だから覚者は、、、、

だから覚者は、、、、思考を観察せよ!!!と連呼するのです、、、、思考の創造主ではなく観察者であれ!!!と、、、、思考の湧き上がりに注意せよ!!!!と、、、、自分が思考しているということに気づけば、、、自分が思考というドラッグに手を出していることに気づけば、、それで半分終わりです、、、、あ、、、また思考してたな、、、、は、、、、あ、、、またドラッグに手を出していたな、、、と同じです。