錯覚

夢の中での自由は至福とは何も関係がない

夢の中は自由

毎晩見る夢の中でいくら主人公が自由であってもそれと永遠の至福とは関係がありません。主人公がいかに自由に夢の中で動きまわっても永遠の至福に至ことはありません。動いて動いて動き回る理由とは止まってしまったら不足感が湧いてくるからです。まさか夢の中でもこの不足感は常に湧いてきます。夢の中の主人公は当然全体から分離しています、分離しているから独立した個人として動いているのです。ですがこの分離感こそが不足感を湧き出すのです。逆にいえば自由に動き回れば回るほど分離感は強化され無限地獄に入っていくのです。だからこそ夢の中の自分は止まることなくストーリーが展開していくのです。もしもそのままで至福ならば動くなどという意味のないことはせず夢の中で瞑想でもしているでしょう。ですがそのような自分は夢の中に居ません。

一方リアリティーでは

ではこのリアルな世界では主人公である私はどうなのか?間違いなくそのままで至福ではないでしょう。幸福すぎて今日一日何もしたくない、、こんな日は当たり前ですがありません。至福過ぎて何もしないという状況があるとするならばお腹いっぱい大好物のお寿司を食べた時ぐらいのこと、3時間後にはこの至福感は消え去ります。そしてまた次の食事を考えるという動きの世界に入っていきます。そろそろ気づきましたね、そうです、このリアルな世界も夢の世界と全く同じで動かずにはいられないということです。そのままの状況では至福に至れないのです、そのままにしていたら不足感が滝のように流れてきます。「自身がこの体の中にある」この分離感を持った瞬間から人間は分離感に苛まされます、孤独感が湧いてきます、もう一人ではいられません。この世界に独立した自分がいるという錯覚を所有した瞬間から不足感、孤独感、欠乏感が湧いてくるのです。そしてその感覚を解消するためにモノやヒトを追い求め続けるという無限地獄が始まるのです。

夢の中ですら渇望しているのにリアルな世界で渇望しないわけがない

自分が毎晩見る夢の中ですら主人公は動き回っています、どこかに永遠の至福に至れる道がないかと。ですがありません、ストーリーの中は時間の世界ですからそこに永遠の至福があろうはずがないのです。永遠とは時間の制限を超えています。だとすればこのリアルな世界の中で永遠の至福などあるはずがありません、この体の中に自分がいるという錯覚をもち、この体の外は自分ではないという錯覚も所有します。この錯覚こそが不足感、欠乏感を生み出す原因ですからこれを解放する以外に至福の道はないのです。結論を言ってしまえばこれも夢です、リアルだと感じているこれも夢です。だからこそ毎晩見る夢と同じ苦しみを味わいます。

結果に飢える動物がいない理由

動物には結果が存在しない

これは夢です。神が見る夢です。この夢の中で人間は結果を出せる人間は優秀であるという価値観を持っています。結果を出す優秀、結果を出せない劣等であると。このような価値観を持つ理由は人間が神に比べて無知無能であるという大前提があります。だからこそ結果を出す=有能であるという思いが強くなるのです。ところが本来は全知全能の神がこの人間の正体ですから結果を出せなくても全知全能です。神そのものが結果です。自らを無知無能であると勘違いしたことから結果に飢える動物になりました。一方動物は自我がありませんから自らを無知無能であるという劣等感がありません。全知全能のままです、だからこそ結果に飢えるなどの意味が理解できません。

結果を出しても無知無能は無知無能のまま

自らを無知無能であると判断を下している人間が結果を出したところで自らを優秀であると勘違いできる期間は一瞬です。だからこそ一度優秀であるという結果をもぎ取った人間は結果を出し続けるという呪縛に縛られます。一生結果を出し続けていかないとならない呪縛に縛られます。これは果たして幸福でしょうか?いな地獄です。結果を出せなくても地獄、結果を出しても地獄、これが人間という神の夢の中での主人公に突きつけられた宿命です。

この呪縛から解放されるには結果ではなく、人間を辞めるしかない

神はこの夢の中で自身を人間であるという錯覚ゲームを始めました、この錯覚ゲームは無限地獄、不足感全開ゲームです。本当は結果全開、全ての結果である神が価値ゼロの人間になりきってしまった結果として結果に飢えています。解決方法はこの勘違い、錯覚のメカニズムから目覚めること解放されること。これだけです。これが錯覚であるという心からの気づきが生まれると価値観は逆転します。この見える世界すべてが自分自身でありもう結果に飢える感覚が分からなくなります。空腹だと思っていたら満腹だった。

一つのエネルギーが振動数を変えているだけ

TVゲームは光の種類を変えているだけ

TVゲームはTVの画面上でキャラクターが動き、敵が現れて変幻自在に画面の中でドラマが展開されますが実際は様々な種類の光が画面上で点滅しているだけです。そして様々な種類の光というのも波長の長さが違うだけで同じ光であることに違いがありません。全く同じ因子で構成されています。これは実はこの夢、神が見る夢でも全く同じで同じ粒子が速度、回転数を変えて変幻自在に動いているだけで実は全部同じエネルギーです。違ったものに見えるのも、違った硬さに感じるのも、違った匂いに感じるのも振動数が違うだけ。TV画面の光と同じ原理です。

自分がいるという思考も振動数

思考もエネルギーです。物を構成するのもエネルギーです。思考においてこの分離世界を作り出しているのが自我です。この体こそ自分自身だいう思考です。これもエネルギーです。全てを構成しているエネルギーと全く同じエネルギーが振動数を変えて自他を作り出しています。そういう意味では人間の五感とは振動数探知機みたいなものでしょう。見て振動数の違いを発見する機能、匂いで震度数の違いを発見する機能、触って振動数の違いを発見する機能、味で振動数の違いを発見する機能、、、そしてこの体こそを自分とする思考(振動)、湧き上がる感情(振動)を自分のものとする思考(振動)が組み合わさってこのバーチャルリアリティーが形成されます。

一つのエネルギーがこの夢物語を作る

記憶する脳もエネルギーです。脳という記憶装置にエネルギーとして記憶されます。その記憶をもとに過去が誕生しました。人間という個別の存在があるという前提のドラマをしっかりと脳にエネルギーとして記憶することでさもこの人生ドラマが本当であるかのような錯覚をすることができます。映画も同じで全部記憶されています。そしてそれを構成するエネルギーはたった一つです。神を構成するエネルギー、ワンネスのエネルギー、空のエネルギー、全部同じエネルギーですがこのエネルギーが震度数を変えて変幻自在のバーチャルリアリティーを作り出します。

神(一つ)がバラバラになることはできない

だがバラバラに見せることはできる

これは神(一つ)が見る夢です。この夢は神(一つ)が人間(バラバラ)になり切ることでこの世はバラバラであると錯覚できる場所を生み出しました。本当は一つ(神)ですからバラバラになることはできません。だからこそバラバラと錯覚するしかできません。これが我々が生きる世界です。バラバラではなくバラバラと錯覚できる世界です。

人間が体験できるのは一つ

この世界がいかに分離しているように見えようとそれは幻想です。その証拠に我々が体験できることは常に一つです、バラバラと体験できる、錯覚できることはできてもバラバラを証明することはできません。例えば良い音楽を聴くという経験はできますが良い音楽が自分と分離して存在することを経験することはできません。今音楽を聴いているという経験はできますが自分と音楽が別個として存在しているという経験を証明することはできません。美味しい料理を食べるという経験はできても美味しい料理と自分が分離してあるという証拠は経験できません。美味しそうな料理を「見る」という経験はできますがそれ以外はできません。香りの良い料理を「嗅ぐ」という経験は積めますが私と料理が別個に存在するということを経験できません。

バラバラ体験はできるがバラバラを証明できない

神(一つ)がバラバラになることはできません。バラバラに見えるという経験はできます。神(一つ)はどこまで行っても分離できません。分離している風の体験はできます。これが限界です。一つは一つゆえにバラバラにはなれません。ですがバラバラになったような体験(一つ)はできます。どこまでも体験(一つ)は一つ(神)です。神(一つ)は一つゆえにバラバラになれません、だからこそバラバラ風の体験(一つ)をしました。

偽りの自己は偽りゆえに自己保身が強い

自己保身とは偽るモノの妨害

これは夢です。神が見る夢です。神が人間に成り切ることでこの夢物語を作り出します。神は自分自身を人間であると錯覚する、偽ることでこの仮想ゲームを作り出しました。これが夢です。仮想ゲームですから全てのものには実態がありません。人間の五感が感じることを現実と呼んでいるに過ぎません。人間の五感が感じないものは現実ではない、こういう論理です。人間というこの自己は偽り、錯覚ですから当たり前ですが実態はなくそれゆえ自己は自己保身が強くなります。吹けば飛んでしまうようなこの偽りの自己を自己が保身するのは当然のことです。

悪口を言われれば過度に反応する

偽りの自己は偽りゆえに自己保身が強くなります。全く実体がないにも関わらずあるという大前提でことを進めていますから自己の存続に関わることには敏感に反応します。悪口を影で言われていれば機嫌が悪くなりますし。影で褒められればご満悦です。影で妬まれれば落ち込み、影で称賛されればご満悦です。この自己は偽りゆえに外部の反応を異常に意識するわけです。それゆえ非常に疲れます。人間関係の輪に入れば偽りの自己同士がこの無限地獄を引き起こします。

本当は神だから保身も糞もない

人間とは神の化身であって本当は神です。神は保身に走る必要など全くありません。神は陰口を言われて落ち込む必要はないのです。神が妬まれて落ち込む必要もありません。神は称賛されて意気揚々とするのも変な話です。神が持ち上げられて鼻を伸ばすのも不思議です。ということで偽りの自己は神に戻ることだけを考えるのが手っ取り早いでしょう。全ての動作から無心に入る、全ての仕事から無我に入る、全部を書道、花道のように無我に入る道具にします。何にからでも無心に入れることができれば周囲の反応を気にする必要はなくなります。

偽りの自分は人を引きずり下ろして不足感を解消する

不足感解消に仁義なし

これは夢です、神が見る夢です。この夢の中では神は人間に成り切ったゲームを展開します。人間という五感+思考+感情動物を利用してこのゲームを楽しみます。実際には全て幻想ですが五感があることでリアリティーを与えます。さも自分がいるかのような錯覚を感じることができる遊びを展開します。神が人間という不自由極まりない生き物に成り切るわけですから不足感が湧いてきます。しかもこれはこのゲームが続く限り延々と湧いてきます。この不足感が人間の価値観と絡み合うことであらゆる感情のベースになるのです。怒り、妬み嫉み、孤独、退屈、などなどです。人間ゲームに慣れていない神はこの不足感を犯罪、裏切り、理不尽な行為をしてでも埋めようとするのです。これが仏教でいう地獄界です。このようなレベルの人たちが集まる集団に属しているとそこは地獄になります。

不足感解消にルールを守る

不足感解消のために最低限のルールを守れるようになると社会人としてやっていけます。会社、法律というルールを守りながらこの不足感を解消していきます。もちろんこの不足感はルールを守っていても関係なくひたすらに湧いてきますからこれが辛いことに何も変わりはありません。ただしここに居る人たちはルールを破ってでも不足感解消をしない分お互いが楽です。各々が独自に不足感解消に向けて努力していきます。

不足感解消から無我に入る

不足感解消をする努力から無心、無我、無思考に入れる人もいます。茶道、書道、花道のようにそこに携わることでそのまま無我に入り歓喜を得ます。そこに集中し無心に入ることでその場で神を体現します。これが究極の娯楽です。本来であれば苦しみでしかない仕事や労働から悟りに入るこれは人間の究極の形です。そして最終的にこの感覚を理解することから人間の苦悩解明に入っていきます。神が演じるこの人間から意識的に離れる、人間観察者へとシフトしていきます。

偽りの自分はメリットを聞きたがる

偽りの自分は不足感でできている

これは夢です、神が見る夢です。この夢の中で神が人間になり切って、人間がいるかのような状況を作り出しこの夢物語を歩みます。人間が実際に実在するわけではありません、人間が実在しているかのように見える世界を神が作ったのです。マリオがいてクッパがいてクリボーがいてスーパーマリオは完成します。同じように主人公(私)と脇役を多数配置してこの錯覚ゲームはリアリティーが出て来ます。これは神が作った夢、ゲームですからリアリティーさにかけては右に出るものはありません。全知全能の神が無知無能の人間を作り出しそれに成り切っているわけですからこのゲーム、夢は不足感全開、欠乏感全開、、これがポイントになります。無知無能の人間が欠乏感全開になった時にどういう行動をとるか?メリットを追求します。コスパを追求します。損得を追求します。これが答えです。

五感+思考+感情、、これに脳の記憶装置を加えて完成

神が見る夢では人間(本当はいない)に五感を与え、見えて聞こえて、触れて、味わえて、嗅げる機能をつけると同時にその世界を現象化、バーチャル化、リアル化しました。人間の五感機能分だけ世界がリアライズされるのです。さらにこれに思考を加え、感情を加えることで不足感をいかに解消していくか、、思考を繰り返しながら観念を作り上げていきます。それに記憶力を加えることで過去を作り出しストーリーが完成します。湧き上がる不足感をあらゆる観念が感情化しそれを思考で解決していこうという試みになります。

不足感全開の無知無能人間は最初はメリットを重視するが、、

神にとって人間は無知無能です。その人間は不足感全開になりそれをなんとかして解決しようと行動します。人間ができることと言えばなるべく損をしないで生きたい、将来後悔しないような人生を歩みたいということになります。周囲から教えてもらう損が少ない人生を目指すようになるのです。進学しかり就職しかり結婚しかりです。ですがどこまで行っても消えないこの不足感は常に自分を追ってきます。この損しない生き方ゲームは死ぬまで続くのだろうか?ということです。神は人間を無知無能に作りはしましたがそれは不幸に浸かれと言っているわけではありません。その状況から神に戻ることを最終ゴールにしています。このブログでは神が教えてくれるあらゆるヒントを掲載します。

偽りの自分は引きこもる

引きこもりは不思議ではない

これは夢です、神が見る夢です。神はこの夢の中で全知全能から無知無能の人間に生まれ変わりました。生まれ変わるというか変わったという錯覚に入りこみました。神が人間になれるわけはなく神は人間だと思い込むことはできます。神が迫真の演技で人間をしています。これは演技です。とはいえ神ゆえに迫真の演技が乗じて人間になり切ってしまい、自身を無知無能であると自信を失っているのも事実。そんな人間こと神は家に引きこもることでこれ以上自信を失わないようにします。これが登校拒否や引きこもり状態です。

自信がないという状態は実は人間になり切れている証拠

神が人間になることで自信がないとは滑稽なことだ、そんなことはありません。神は自信がない状態を経験したくてわざわざ人間になり切っているのですから神の完璧なシナリオ通りです。自信満々な人間こそ神からしたら失敗作品、空気を読んでいません。引きこもり完璧、登校拒否完璧です、この初期設定は神が人間をやる意味を叶えます。全知全能の神ではなし得ない状況だからです。

そこからいかに自信をつけるか

とはいえ引きこもり状態が続くことは辛いことに変わりはなくここはどこかで解決したいものです。いかに自信をつけていくかになります。結論から言えば小さな成功を積み重ねていき自身が実は神だったという状態まで持っていくしかありません。小さな目標を立てて達成する、中ぐらいも目標を立てて達成する、大きな目標を立てて達成する、、、この積み重ねを行っていくことで自身の本当の存在を思い出させていきます。最終的には目標を達成する過程において無心、無我、無思考に入ることで自由自在に神に戻れる状態を目指します。

最高のサービスを受けると最低のサービスも生まれる、これが夢の世界

夢の中で最高の友人ができると最低の友人が誕生する

これは神の見る夢であり神が見る夢の中では至福に至れません。この夢では最高の何かを得ると最低の何かが誕生します。例えば最高の友人を得てしまったらそこに至らない友人は最低の友人になってしまいます。最高のサービスを受けてしまうと最低のサービスが誕生します。夢の中での自分は比較で幸福度を測りますから最高を知ることで最低を知ってしまうのです。自身がイマイチなサービスを受けると蔑まれているような錯覚を得ます。これがこの夢のどこまで行っても苦しい原因の一つです。

最高の車に乗れば最低の車が誕生する

外国人からすると日本はサービス天国のようです。どこへ行ってもサービスが行き届いている、ですが日本人にとってはそれが当たり前ですからそこに過度な幸福感は得れません。むしろちょっとした不親切に対し怒りさえ覚えるはずです。これがこの夢の双対の原理です。プラスマイナスゼロの原理です。正負の法則です。釈迦が言った言葉、解脱以外にこの苦しみから脱却する方法はない、というのはこのことです。最高の状況でこの偽りの自分で固めてもそれが苦しみからの脱却にならないのです。

夢の中での双対の原理から抜け出す

夢の中はどこまで行っても至福がありません。双対のバランスの中です。対象を得て幸福を得ようとしてもこの双対の原理で相殺されます。そうではなく対象をヒントにしてそこに向かう中で無心、無思考、無我に入っていきます。ここは双対の原理から外れた場所にあります、超えた場所にあります。この双対の世界、夢の中で幸福を手に入れようとするのではなくそこから抜け出た場所に至福を求めます。夢からいかに醒めるか、そこを拠り所にしていきます。

偽りの自分同士が争い合うこの世界

争いには参加しない

人の争いに参加する必要はありません。争いとは偽りの自分同士が不足感を埋め合うために行っているものです。自身から湧いてくるこの無限の不足感をいかに埋めるか、その解消のために争っています。ですからこの争いは無駄です。一時的には何かしらの不足感を解消できるかもしれませんがそれは何の根本的解決にも至らずまた次の争いに進みます。地球上で戦争が終わらない理由はここにあります。

争いを発見したら思い出す

争いとは自身から生まれる不足感を他人を使って埋めようとする行為です。本人は相手の非難すべきポイントを上げへつらいだから争うのだとそれを正当化しますが実はその目的は自身から湧いてくる不足感をそこで埋めようとしているのです。不足感を生み出しているのはこの偽りの自分を本当の自分だと勘違いしていることにあります。ですから争いに入るのではなくそこから本当の自分を見つけることに入ります。人の争いを見るときはそのような視点で眺めればそこから悟りに入れます。

偽りの自分を維持するのは大変

この心身こそは自分である、この体の中に自分がいる、、この発想を維持するのは大変です。なぜならばそれは偽り、錯覚だからです。この思考、プログラムを維持するのは大変だからこそ人は争うのです。争うことでこのメカニズム、プログラムを維持するのです。これは神の夢であり、神はこの夢の中で人間に扮しています。役にのめり込んでいます。ですが所詮は役ですからこれは危ういことでもあります。この体があるという錯覚はリアリティーがあり勘違いするには最高のアイテムです、五感という疑いようのない感覚がこれをよりリアルにします。ですがこの心身こそが自分であるという発想はどこまで行っても予想の範疇を超えることができずだからこそ人は争いを通じてその疑念を隠します。