錯覚

自分が弱いと洗脳を受けたライオンは草を食べ続けて死ぬ

草を腹いっぱいに食べても居心地が良くならない

自身が弱いという洗脳を受けたライオンはシマウマ、象、虫すらも怖いと思い生きていくようになります。仕方なく草をコッソリと食べ続ける生活、草を食べても美味しくはありませんがそこは仕方がない、、徐々に草の育成に成功し大量の草を食べることに成功します。そしてその草を乾燥し寝床を完備、さらに草を燃やして暖を取ることにも成功。草から栄養分を抽出してサプリを完成、栄養価の高い食生活を維持。草を使って虫の繁殖に成功し大成功ライオンに。ですがなぜか居心地の悪さ、胸糞の悪さ、不足感が解消できない。。言葉にできないこの焦燥感は何か?そうです。自身が弱いという洗脳からくる気持ち悪さです。記憶の遠い部分に強かった過去ののことが残っていてそれが得体の知れない居心地の悪さを生み出しているのです。

全体が洗脳を受け、体の中に自分(全体)が居るという錯覚に成功する

この人間ドラマ、自分ドラマは実はライオンの洗脳と全く同じです。大いなる存在、全体が言葉の洗脳を受けこの体の中に居るという錯覚を起こしました。目の前にあるこの体の中に全体があるのだと、、これによって全体は自分はこの体だと勘違いして生きるようになります。体の中に入ってみたら何と脳の記憶力がありかつての勘違い行動が全て記憶されています。これによって全体の勘違い人間ドラマが誕生しました。この体の中に自分(全体)が居るという大いなる勘違いは居心地の悪さ全開です。人間として有名企業に就職し、ハイスペック伴侶を得て、ハイスペック住宅に居住、子供をハイスペック私立学園に入学させても癒えないこの居心地の悪さ、、という流れです。

全体よ、この夢から目覚めよ!

人間のこの人生とは完璧な作り物です。なぜならばそもそもこの体の中に自分は存在せず、この体を主人公にしたこの人生も錯覚だからです。強いライオンが自身を弱いと勘違いするストーリーが偽物のように、全体がこの体の中に閉じ込められているというこの人生ストーリーもまた偽物です。本当はこの視界に広がる全てが自分です。この視界(全部)がこの体の中に主人が居ると勘違いする強烈なジョークがこの人生です。過去も未来も人間の記憶が作り出したモノであり、空間も人間がここを動くことで在るということになりました。本当は全体の中でこの体がシフトしているだけです。

実際には分離できていないからこそ全体に戻りたい

自分とはどこまで行っても錯覚

自分というのは実際には存在しません。自分というのは全体から分離した独立した存在だと多くの方は思っていますが、もしも本当に独立したならば自分の欲には制限があるはずです。そして苦しみは存在しないはずです。なぜ完璧に独立した存在に悩みがあるのでしょうか?もしも個人が完璧に独立しているならば欲に制限がないこの人間という存在は何なんでしょうか?不完全過ぎます。自分とはどこまで行っても全体から分離していると思い込んでいる存在でしかなくだからこそいついも居心地が悪いわけです。

ライオンが自分は弱いと思い込めば苦しい

ライオンは百獣の王です。もっとも強い動物とされています。このライオンが洗脳されてもしも自身が非常に弱いと錯覚をしたらどうなるか?毎日草を食べ、シマウマに怯え、穴蔵に籠って生活する。雨の日は他の動物がいないからという理由で川に水を飲みに行く。こんなライオンは居心地が恐ろしく悪いはずです。本当は強いにも関わらず弱いと錯覚してしまっているライオンはどんに草を貪っても何かしっくりこないはず。もう分かりましたね。これが自分です、これが全体から分離していると錯覚している自分です。全体がこの体の中に閉じ込められた状態、この体の中に自分(全体)が居ると錯覚した状態、、、これこそが自分(人間)でありだからこそ居心地の悪さが消えないのです。

ライオンが自分の強さに気づくには?

自分のことを弱いと洗脳され錯覚を起こしたライオンはどうしたら本来の強さを取り戻すことができるのか?それは弱いということが錯覚であることに気づくしかありません。どのようにその錯覚が起こったのか?そこを理解する他ありません。自分もこれと同じ、自分がいかに全体から(自ら分かれた)存在になったのかを知ることです。この自分の人生の苦しさのカラクリを理解することです。それでもこの人間社会に馴染んでいると周囲は自分にあらゆる声掛けをすることで自分の存在を強化してきます。人間という周囲の存在こそが自分の存在を強化します、錯覚が溶けるのを妨害します。映画マトリックス同様に周囲の人間全員がエージェント・スミスになります。

全体はなぜ自分を作ったか?

自分とは分離錯覚ストーリー製作機

全体だけが実際にはありそれ以外は何も存在しません。全体は全体でありただそれだけです。全体はある時自分という独立した存在(錯覚)を作り出しました。思考というもので全体の中に独立した分離した存在があるということにしました、錯覚で。これによって全体は突然体の中に自分がいるというゲームをスタートしたのです。独立した個人が全体の中を暴れ回るゲームを作り出したのです。全体から分離した個人は常に喪失感を感じその喪失感をいかに埋めるかに右往左往します。この経験が全体にとって面白くて仕方ありません。

全体が突然自分ストーリーの舞台になる

全体から分離した自分にとってこの全体は分離ストーリーの舞台です。自分がそこあそこにいく時の舞台そのものです。自分という全体から分離した(錯覚)存在にとって全体は自分が暴れ回るステージです。全体は分離した自分が遊ぶための道具になります。ただし自分は同時に居心地の悪さを常に抱えます。なぜならば自分はあくまで錯覚で主体は全体のままだからです、全体が個人という極小の存在になるのは居心地が悪いわけです。この居心地の悪さの根本原因を分からず彷徨い続けるのが自分という錯覚存在です。

だが自分という錯覚にはあらゆる救済措置がある

TVもネットフリックスも、YOUTUVEもSNSも全部自分にとって楽しいのは没頭できるからです。没頭とは頭が没すると書きますがまさにここに信実が隠されています。頭とは思考や記憶のことであり自我が抜け落ちます。何かに没頭する時そこから自分がいなくなります、つまり全体に戻るということです。自分という錯覚が解かれ全体そのものになります。自分はこのような救済方法を無意識に知っていて多くの時間をゲームやギャンブル、パチンコや恋愛などに没頭します。

それが分かったところでどうするか?

自分というのは錯覚ですからこの錯覚が抜ければ終わります。上記の救済措置を理解したところででは今後の人生をどうしたらいいか?このように自分は考えますがこれこそが自分のトリック、錯覚を解く以外にこの自分から覚める方法はありません。なぜ自分は苦しいのか、なぜ自分は時々楽しいのか、なぜ何かを達成するときは一瞬歓喜なのか、、、これらが腹落ちしてくると自分の錯覚が緩んできます。

全体が自分を生み出した

自分は全体の最高傑作

全体が今ここにあります、全体だけがここに存在します。全体以外はここにはありません。そんな全体の中に自分という分離した(錯覚)存在が誕生しました。全体の中に独自の個性を持つ存在が錯覚ではありますが誕生したのです。これによりその自分は自分を生き伸ばすために思考を駆使していきます。ですが実際には全体しかなく自分はその中での錯覚でしかありません。この自分は全体の中を逞しくサバイブしていくことになります。

自分錯覚ゲームは全体の遊び

全体は全体しか存在できませんから全体以外を経験することはできません。それゆえ全体は全体の中に個別の分離した存在を無理やり作り出しその分離した(錯覚)存在に経験を積ませました。この経験は全体が全体としては経験できないものです。だからこそ全体は個別の自分を起こし積極的にその経験を引き起こすのです。全体創作個別自分ストーリーです。全体総指揮自分ストーリーの始まりです。この個人とは全体の遊びです。

自分は全体の遊びだが苦しい

自分とは全体から分離した(錯覚)存在です。この存在が成立することで自分ストーリーが始まります。自分が見る世界(全体を)はエキサイティングそのものです。なぜならば自分は喪失感の塊でありその喪失感をいかに埋めるか?全体に戻る方法を知らないこの自分は全体の中でヒト、モノをかき集めることで不足感を解消しようと躍起になるのです。

全体とは同価値の世界

全体とは優劣のない世界

全体だけがあります、全体しかありません。この見える世界が全てです。この見える世界において自分という全体から独立した存在が生まれました(錯覚)。それによってこの自分はこの世で一番価値のある存在になりそれ以外の存在は自分以下の存在になります。つまり自分という独立した存在が誕生した瞬間から価値観に優劣が生まれるのです。存在の優劣は独立した自分という存在の登場からスタートします、逆に言えば全体において重要、重要じゃないという価値の優劣は存在しません。独立した自分は価値がある、価値がないの判断をし始めます。なぜならば独立した自分は不足感の塊でありいかにその不足感を効率良く埋めるかを考えるからです。結果価値があると思う物を優先してかき集めるということになります。

一方全体には優劣がない

この見える世界、全体には優劣がありません。全体として変化し続ける何かはありますがそこに優劣が発生することはあり得ません。全体は全体ゆえにその中に分離した何か絶対にないのです、だからこそ価値の優劣が起こることはありません。価値の優劣とは分離した自分という存在が出現したことによりその自分が何かを得たいという欲求が起こりその対象物に優劣を付けました。つまり自分という存在の確立こそが物事の優劣の諸元です。自分という存在が無ければ見える世界に優劣などあろうはずがないのです。

体は体以外よりも価値が高い、、

この体は体以外よりも価値が高い、、これは人間であれば誰もが思うことです。自身の体以上に価値がある物などあろうはずがない、、これが多くの人の信念です。だからこそ美容整形に何百万円と費やしたり、健康食品に数十蔓延を費やすのです。ですが実際には全体に優劣は存在しません、全体は全体であってその中に優劣はないのです。分離したという錯覚、自分が存在した瞬間から優劣が生まれそれこそがこの苦を生み出す原因になります。

自分錯覚ゲームはどこまで行っても空腹

自分とは本当はいないからこそ空腹が止まらない

全体から無事分離できたと錯覚することができた自分は身の安全を確保するために思考をフル回転してこの自分を守ります。食事を確保し、安全を確保し、寝床を確保し、老後の保証を確保します。これに成功した自分はそれでも収まらない空腹感を埋めるためにブランド物を確保し、高級車を確保し、良妻を確保し、高級住宅を確保し他人からの羨望の獲得に成功します。それでも収まらない空腹感を次に何に向けるか?次は霊的地位向上です、来世のために徳を積む、前世のカルマを解消する、、と霊的浄化に乗り出すのです。それでも収まらない空腹をいかに解消するか?次は自己実現だ、、、となるわけです。ということでこの自分分離錯覚ゲームはいつまで行っても収まらないこの空腹を満たし続ける旅でもあるのです。

自分錯覚ゲームは楽しいが苦しい

全体がこの自分錯覚ゲームを作り出したわけですからこのゲームは偉大な発明です、全体の。この自分錯覚ゲームは本当はん分離した自分など居ないにも関わらず居るかのように味わえるというところが醍醐味です。そしてこの自分錯覚は自らが弱く小さく狭いからこそエキサイティングにこのゲームに参加できるのです。全体が全体のままでは体験できないエキサイティングな感覚こそ面白い。ですがここで大きな問題が、、それはこの自分錯覚ゲームはどこまで行っても不足感空腹感が癒えることはないということ。それは主語はあくまで全体であり全体にとってこの分離自分は狭すぎるのです。このゲームはエキサイティングですが常に焦燥感に掻き立てられるのです。もっと良い生活がないか、もっと便利な生活がないか、もっと高級な生活はないか。。。これが止まりません。

焦燥感を止めるには?

焦燥感を止めるためにはどうしたらいいか?どう考えてもこの錯覚から目覚める以外にありません。全体からの自分錯覚というこのメカニズム、このメカニズムから外れる他ありません。全体は全体である時至福以外の何もでもなく、この自分という錯覚は至福から外れます。全体から分離した自分などは本当はいないということを理解し全体が全体に戻る、これ以外に焦燥感を無くす方法はないのです。

自分が全体を隠すメカニズム

自分とは全体からの分離錯覚状態

自分とは全体から分離できたのではありません。分離していると錯覚できた状態のことです。あくまで錯覚ですから実際には自分は全体から分離できません。全体から分離していると錯覚しているだけです。ここ最重要です。本当に全体から分離できたならばもう全体に戻りたいという衝動は生まれませんし不足感も分離感もないはずです。一つの完成したものですから。ですが自分は実際には分離できません、なぜならば全体は一つのエネルギーであり分離できないからです。あくまでも分離した存在があると錯覚している状態、これが自分、人間です。

自分とは分離したという錯覚のこと

神はいつでもあなたを見捨てはしない、、、これは当然のことです、なぜならば「あなた」という独立した存在はなく、独立しているという錯覚がそこにあるだけだからです。つまり一度もあなたは神でなかったことなどないのです。神から独立したと錯覚をしていただけです。神があなたを見捨てないどころかあなたは実在していないということになります。だからこそ見捨てることなどできません。

自分錯覚ゲームに疲れたら

全体から分離できたと錯覚することの成功した自分はこの体の中に自分が居ると信じ行動します。朝は山に行きキノコをとり、昼は海に行って魚を釣る、夜は自分の寝床に戻って獣に襲われないような場所で休む、、、こうしてこの体を安全に確実に生存させる方法を取得しました。それが現在のこの文明の土台になります。ですがこの分離錯覚には問題点があります、それは分離感、孤独感、欠乏感を伴うということです。全体がこんな小さな体を全てだと勘違いするわけですから欠乏感は半端ないモノがあります。ということでこの欠乏感解消のために分離錯覚した自分は常に次のモノ、ヒトを追い求める旅を続けることになるのです。もしもこの欠乏感に疲れてしまったらこの事実を思い出す他ありません。

分離が起きる奇跡

自分とは自らが分かれること

自分という言葉は凄い言葉です。自分=自らが分かれる、、、どこから分かれるのか?全体からです。自分とは全体から分かれた状態のことです。分かれるということは分かれる前があるわけで分かれる前は全体だけがあるということです。我々は自分の人生を生きているつもりですが自分とは全体から分かれた状態のことであり自分も幻想でありだからこそ人生も幻想を土台に作られます。幻想の自分をかき集めたものを人生と呼んでいます。実際は全体だけがただありそこには自分も人生もあるわけがありません、ただしこの自分体験は確実にあります、幻想として。

全体から勝手に分離しストーリー化する面白さ

人間とは全体から勝手に分離した自分というものがいるという勘違いからスタートします。脳が発達することで自分と自分以外というアイデアを作り出しました。そしてこの分離した自分が体験することを全部合わせて自分の人生と呼ぶようになります。脳が記憶機能を持つことでこの分離した自分が独立した存在であることを証明しているように見せてくれます。ですがあくまでこれは全体の一部が勝手に分離していると勘違い勘違いを記憶し続けた結果でしかありません。ただしこの分離活動、分離部は自分の家、自分の食料、自分の衣服とこの分離体の存続に成功します。全体の中に勝手に「我あり」という存在が現れ勝手にその記憶をかき集めて人生と宣うようになりました。面白い事件です。

それでも全体は全体でしかない

全体の中に分離していると錯覚している自分という存在がいようといまいと全体には何も関係がなく今もただ全体だけがあります。全体は分離したと錯覚する自分という存在が勝手に「我が人生悔いなし」と宣おうと何も関係がなく全体はあり続けます。自分は全体に影響を与えているつもりかもしれませんが全体があり続けるという意味では何も関係がありません。そしてこの分離した自分が死んでもただそこに全体があるだけです。何もなかったようにそれでも全体は全体であり続けます。

辛くなったらこの錯覚を解いてみる

自我の成り立ちを見れば何もないことが分かる

自我ができる前、誕生した赤ちゃんには何もありません。自分と自分以外という区別はないどころか、全てのモノに名前すらないのでただ全体があるというだけです。一切の分離がない世界です。徐々に言語を覚えこの体の中に自分というモノが居るのだと教わりました、実際はそんなモノはなく自分とは全体そのものです。ですが全体がこの体の中に入っているいう錯覚、認識を持つことで本当にそう信じるようになるのです。この体の中に自分が居る、、、これで自分と自分以外が初めて誕生するわけです。分離の誕生、分離意識の誕生、孤独感の誕生です。

元々は何もないのだから、、、

自我が芽生える前はここには何もない、もしくは全体だけがあったのですが自我が形成されることで自分が誕生し自分以外が誕生しました。さらに自分以外にあらゆる名前をつけていき全体をバラバラに切り裂いていきました。自分はこの分離しよって生活が大変便利になりました。自分の寝床、自分の食料、自分の衣服、、、などを所有することができ生活が便利になっていきます。その一方で全体から切り離された自分自身は常に孤独、分離感、不足感を味わいます。全体であった記憶は間違いなくあり、そことのギャップに苦しむのです。何を得ても何を達成しても何を手に入れても満たされないこの感情に一生苦しみ続けることになるのです。

自我とはアイデア

自我とはアイデアです。この体を生き伸ばすためのアイデアです。全体の発生後、後からできたアイデア、発想でしかありません。なぜならば言語がなければ自分とは存在しないのですから。言語が地球上から消えれば自分はいなくなります。これってギャグですよね。「はじめに言葉あり」聖書にこのような言葉がありますがこれって真実です。言葉が生まれて自分が誕生したのです、言葉がなければ自分というアイデアはないのです。

この分離自我は便利だが辛い

全体の中に生まれた自我、このアイデア、発想は大変便利ですが辛いモノです。この体は自我のお陰で生き延びやすくなり助かりますが辛い、孤独、不足という感情がひたすらに湧いてくるというまさかの副作用があります。この副作用、感情に耐えられなくなったならば再び全体に戻ることも有効です。というよりもこの自我のカラクリを解いてしまう、本来は全体でありこの体は全体の一部でしかない、なぜこの体に全意識を委ねなくてはならないのか?ということです。この体は全意識の一部でしかありません。

これは幻想である、それを見抜ける人間はいない

夢の中でそれを夢だと気づく主人公はいない

自身が見る夢の中でこれが夢だと気づく主人公はいません。夢の途中でこれって夢ではないか?このような気づきに至ことはまあありませんよね。そしてここは重要になりますがこれが夢であると気づくのは夢を見ている自身であって夢の主人公ではありません。このリアリティー、現実社会でも同じですがこれを夢だと気づける主人公(私)はいません。この夢を見ている神以外にです。主人公にこれを夢と気づく力はないのです。あるのはこの夢を見ている存在だけです、つまり神です。

このリアル世界を生きる主人公とは

もしもこのリアルの世界を生き抜く私(主人公)が本当に存在していると思っている限りはこれが夢だと気づくことはできないでしょう。この体の中に自分がいるという思考、思い込みはあくまでも錯覚であり事実ではありません。この体の中に自分がいるという思い込みを信じ切ることでこの人間ゲームはスタートしますがこれは錯覚です。毎晩見る夢の中で主人公が自身の存在を疑わないようにこのリアルストーリーでもこの体の中に自分がいるということに疑問を持つ者はいません。

この体の中に自分がいるという前提で全員が同意する

世の中に自分一人しか居なればこの体の中に自分が居るという概念、アイデア、考え方は浸透しません。たまたま両親がいて、友人がいてこの体の中に自分が居るという考え方を無武備で信じ込む環境があったからこうなりました。大自然の中で生み落とされ動物に育てられたらこの体の中に自分が居るという感覚は皆無です。自分というアイデアも存在しません。悟りを開くとは大袈裟な話ではなくこの人間として当たり前の常識を壊すことです。この体の中に自分が居るという大前提が実は思い込みですよという大きなお世話な提案です。地球の周りを宇宙が回っていると信じられていた時代に「地球が太陽の周りを回っている」と話すのは大きなお世話だったはず。これと同じことを言っています。