錯覚

何者かになろうとしなくていい

自分は直ぐに何者かになりたがるが、、、

自分とは全体から分離しているという錯覚です、この自分は体の中にいるという感覚を持っています。この自分は自分のままでは(錯覚ゆえに)不安感、不足感、孤独感の塊りです。そのため自分は何者かになろうとします、その何者かは今の自分よりも豊かで幸福そうで、自由に見える何かです。そこで自分は毎日その何者かになれるように日々努力を重ねるわけです。ですがその何者かに何年かかけてなれたとしてもその時には次の何者を目指さなくてはなりません。なぜならばその何者かになっても不足感が全く癒えないからです。

自分が理想とする何者かは、

若者は将来こんな大人になりたい、、と夢みますがそれは今に対して居心地の悪さを覚えているからです。もしも今が至福そのものならば絶対にそこから離れようとしません。将来の夢に向かって、、、、このように若者を鼓舞する大人はなぜ夢を追いかけるかの本質に気付いていません。若者が将来の夢、目標となる大人を目指す時目をキラキラさせますが大人になるうちにその目が曇ってきます。自分はどうやら今世そんな大人になれないと諦めるか、道半ばでそこに至っても幸福になれないことを悟からです。夢を叶えたつもりでいる大人はそんな若者に努力が足りないと叱咤激励します。ですが実際は夢を叶えたつもりでいる大人も不安を常に抱えているのです。

成功者の末路が幸福になっていないことは歴史が証明している

「知っているつもり」というTV番組を子供頃頻繁に観ていましたが、、ここに出てくる偉人、成功者の多くが晩年寂しい人生を送って死を迎えているのを覚えています。現代でもハリウッドスターの薬物乱用、野球選手の引退後の転落、芸能人のスキャンダルからの末路、、、我々は有名になるほどの優秀な人々が決して至福に至っていないことを実は知っています。ですがそこには目を伏せて自分は自分と言い聞かせ毎日を必死に生きることにします。自分というこの体の中に存在する錯覚感覚を見抜き、本質に迫ると決めた時に真実が顔を出します。実は真実しかなかったことが分かります。真実の中で「自分」はドラマに入り込んでいたのが分かります。

するべきことは何もない

何かをして解決を望むのは全て自我

自分というのは常に何かをして目的を達成しようとします、問題を解決しようとします。これが自分の特徴です。自分は何かをしなければ何も変わらないと信じています。お腹が空けば食べて解決する、眠ければ寝て解決する、痩せたければダイエットする、部屋が汚ければ掃除する、、全てこの調子です。そこで自分は幸福になるためにも何かをして幸福になろうとするのです、これが今世紀最大の引っ掛け問題です。人間の「苦」の解消もこのスタンスで臨むがためにこの前で皆大敗してきたのが人間の歴史です。

不幸だけは何かをするだけでは解決しない

人間、自分というこの存在、この体の中に自分が居るというこの認識、これがこの苦しみを生み出しています。まさか主人公の初期設定がこの苦しみを生み出しているとは?ということで自分の人生とは苦しみのストーリーでありこれをいかに解消しようと24時間365日動きまくっても意味がないのです。ここに気づけるか、気づけないかで人生という意味が変わってきます。覚者が言う「するべきことは何もない」この言葉を言われた自分はただ困惑します、何を言っているのか?です。

何かをする時に、、それでこの自分の不足感がなくなるわけがない、という境地に立てるか

何かをする際に自分はこれで自分も至福になれるのでは?という淡い希望を持ちます。希望の会社に就職した時、希望の相手と結婚した時、希望の家を購入できた時、希望の年収を得れた時、、、ですがそれらの淡い希望はこの自分の前で木っ端微塵に打ち砕かれます。なぜならばこの自分こそが不足感製造機だからです。全体から分離してこの体の中に自分がいるというこの錯覚こそがこの不足感、苦痛を生み出しています。だから覚者は「するべきことは何もない」を伝え続けます。

全体の悪趣味「自分」

自分とは全体の苦しみ体験マシーン

自分と書いて「自ら分ける」自分とは全体から分かれる状態のことです。この体には脳があるのでこの体の中に自分が居ると錯覚をすることができます。錯覚という表現をするのはこの世には一つのエネルギーしか存在していないのでその中に独立した何かが現れることは不可能です。ピカソが描く絵の中の登場人物が突然意識を所有し、私はこのピカソの絵とは何も関係がないと言い出すようなものです。本人がどんなに大きな声を張り上げても絶対に独立などできません、なぜならばピカソが描いた油絵具で出来ているという事実は絶対に変わらないからです。その中の登場人物に意識が生まれてもそれは錯覚です。

ディズニーランドのミッキーマウスが突然意識を持つ

ディズニーランドのミッキーマウスに突然が芽生え私はディズニーとは何も関係がないと宣っても誰も信用しません。ミッキーマウスがいかにそれを本気で思っても今日もディズニーに居ます。ディズニーの外には出れません。我々も同じ、この全体の中に生まれた突然変異です、突然意識体です。全体の中から出ることは絶対にできませんし、勘違いを実感しているのも全体です。

全体は勘違いマシーンを作り出し苦しみ体験を今日もする

全体は全体のままでは苦しむことができません。全体が苦しみためには全体ではない存在を作り出す必要がありますが全体が作り出す存在は全体以外にはなれません。そこで全体は肉体に「これが自分だと勘違いする存在」を無理くり作ったのです。こっれによってこの存在は大いに苦しむことができたのです。苦しみためには苦しむという経験が必要になり自分と自分以外を作り出し自分体験記を作りました、分離した自分は全体とのギャップにより不足感、喪失感、欠乏感が湧き出しますから常に苦しむことができるのです。そしてこの苦しみを解消すべく様々な冒険を歩むことになります。

誰も生きていない

独立した個人はここには居ない

誰も生きていない、これは事実です。信じられない話かもしれませんがこれが事実です。世の中を見渡せばあらゆる生命体、人間、動物が存在しているように見えますが実は一つも独立していません。独立しているように見えます、確実に。ですがこの世に独立した存在は絶対に存在しません、なぜならばこの世は一つのエネルギーでできているので分離した存在は存在しえないからです。つまりどこまで行っても個別の存在は勘違いです。渋谷駅に行けば視界に何千人という人が見えますが一人として全体から分離した存在はいません、全員が分離していると錯覚を起こした生命現象です。

一つのエネルギーでこの世は誕生している

この世を浮かび上がらせているエネルギーを空と般若心経では説きます。そしてその一つのエネルギーが変幻自在に見える世界を色と称します。勘違いしてはいけないのはどちらも一つのエネルギーの表現だということです。キャンパスが色、キャンパスの土台が空です。そしてこれらは一つのエネルギーです。この一つのエネルギーがあらゆる表現をすることで渋谷駅に何千人の人間を出現させます、ですがこれは空が描くアート(色)です。自分がそのアートにいかに触れようと一つのエネルギーに触れているという事実は決して変わることはないのです。

誰もいない、だが誰もがいるように見える

本当はこの世には誰もいません、ですが自分から見れば確実に誰もがいます。これが色の世界です、究極のリアリティーの世界、それが色です。それを浮かび上がらせているのは空という一つのエネルギーです。自分という全体から確実に分離しておると錯覚できる存在が、色というあらゆる独立した生命現象が現れていると錯覚できるこの世を生きています。ですがやはりどこまで行ってもこの世はたった一つのエネルギー(空)で出来ていますから分離できるはずがないのです。

自由が自分を発見する

自分が自由を手に入れるわけではない

この二元の世界では自分が何かを手に入れるのがデフォルトです。自分が幸福になる、自分が自由になる、自分が歓喜をえる、自分が安定をえる、、、全てこんな感じです。ですがこの自分が何かを得るという感覚で生きている限り得れる対象はすぐに消え去りまた次の何かを得ずにはいられません。自分という存在は、全体から分かれていると錯覚した存在でありこの感覚を解消しない限り延々と居心地の悪さを感じていくことになります。結果自分が幸福を得て、そこから自由を得て、そこから安定を得てとラットレースを繰り返すことになるのです。これは自由のようでいて地獄です。

本当は自分とは自由そのものであったと気づくこと

自分が自由を得ようとする限り自由は逃げ続けます。なぜならば不自由を作りだしている張本人こそが自分だからです。不自由を作り出してるのが自分というこの錯覚の存在でこの自分という存在が錯覚であることを腹落ちさせなくては自由は手に入りません。というよりもこの自分が居ないのだから自由を手に入れる自分はないのです。自分が居なくなった時にだけ自由がそこにある、自分とは自由そのものだったんだという大落ちです。

自分が居なくなると平和、歓喜、自由がそこに広がる

自分こそが平和、歓喜、自由を遠ざけていることに気づきますとシンプルになります。自分という存在、全体から分離したこの自分こそが平和、歓喜、自由の世界から脱却する行為であり、これを辞めれば即座に平和、歓喜、自由になります。自分という勘違いした個人が自由を求めて右往左往している限りは自由を見つけることはできませんし、仮に見つかっても即座に消え去ります。なぜならば消し去っている張本人こそがこの自分だからです。

老人になると楽になる理由

悩むのはいつも若者

自分とは全体から自ら分かれた存在です。分かれたというのは錯覚ですから錯覚を起こし続ける必要があります。それには常にこの体の中に自分が居るという思考が必要になります。この思考が湧いてこないと自分の体の中に自分が居るという錯覚を維持できません。若者はエネルギーが溢れていますからこの思考を取り込むエネルギーも強烈、その分孤独感、分離感、虚無感も強くなっていきます。そしてこの感情を他人事には到底できません。だからこそ若い時期は大いに悩むのです、そこまで悩まなくてもというぐらいに悩みます、それはエネルギーが在るが故です。

不足感を解消しようという衝動も大きくなる

若者が不足感を解消するために学校のガラスを破る、モヤモヤした虚無感を解消するために非行に走る、、これが無くなることはないでしょう。悩む感情も大きければそれを解消しようとするエネルギーも大きくなります、手段選ばず解消に向きます。老人になるとこのような悩みも、そしてそれを解消しようという衝動も少なくなるのは当然なのです。エネルギーがあるということは悩みも行動もエキサイティングになっていきます。

受験勉強、部活動が忙しくなるのはそれを発散させるため

中学生になると部活動が忙しくなったり、受験競争が激化しますがこれって非常に合理的です。エネルギーを生産性のあることで発散させておかないとその分悩み、衝動的な行動をしてしまいます、若者は。国の教育機関がそこを理解してそうしているかは不明ですが実際には受験や部活には発散には最適です。そこから就職活動、婚活、妊活、子育てと、、、エネルギーを発散できるチャンスが年齢別に用意されているのは自分劇場の面白い要素です。

自分は錯覚だから常に虚しい

虚無感とはこの自分が虚であることから来ている

自分とは全体から自らが分かれた状態です。この体の中に自分が居るという感覚のことです。本当は全体しかなくその中に独立した風の自分を作り出しました。本当は全体しかなくその中に別個の確立した風の自分をこの体の中に作りました。実際には全ての体験を経験しているのは自分演じる全体です。全体の中に分離した存在を作ることはできません、あくまでも分離風個人ということになります。だからこそこの自分は常に虚しさを感じます。何かがおかしい、何か不足している気がする、何か孤独な気がする、、、これは間違いなく事実です。なぜならば自分とは虚だからです。

この虚しさを晴らすためにあらゆる試行錯誤をする

この虚無感を晴らすために自分は色々試行錯誤します。多くの試行錯誤は没頭できる何かを探すことです、TV、YOUTUBE、SNS、ギャンブル、友人とのお喋り、カラオケ、恋愛、旅行などなど、、、世の中には自然と没頭できるエンタメが溢れています。これを仕事など生産性のある分野で見出すことができる人もいます、好きな仕事で自己実現する人々です。もしくは母親として子育てに没頭することでこれをする人もいます。全ての行動の動機、それはこの虚しさを解消するためです。

虚しさ、孤独、漠然とした不安は自分劇場のデフォルト

何か虚しい、何か孤独、何か不安感がある、、、これはこの自分劇場のデフォルトです。精神病でも何でもありません。自分とは本来存在しないのですから当たり前です、自分とは全体から自ら分かれたと錯覚した存在です、エネルギーを解明すれば明白ですがこの全体(一つのエネルギー)の中に全く別物のエネルギーが存在することは不可能です。ですが分離したと錯覚する一つのエネルギーの存在は可能です。そして錯覚ですからどこまで行っても虚しさが拭えないのです。このメッセージはだからこそ絶望しろ、という内容のものではありません。虚しさ、孤独、不安感に悩む必要がないということです。ある意味自分の責任ですが笑根本的誤解から生じています。

自分至上最悪の出来事、自殺について

最大のタブーに切り込む

全体から自らが分かれた状態、自分にとって最低最悪の事件が自殺です。自らの命を自らが断つということになります。自身にとっても周囲にとっても最悪な出来事であることは間違いありません。ですがこれを全体の視点に経ってみたらどうなるか?例えば自分の友人が自殺をしたとしましょう、その事実だけを自分が認識する時、友人は大いに苦しみ大いに悩みその決断をしたんだろう、、自分に何かできることはなかったか?自分がもっと優しくしていれば、、、こんな思いが間違いなく湧くでしょう。ですが真実をお伝えすればそれは全体が起こしたただの現象です。自分以外に起きたものは全て全体が起こしたゲーム上の現象です。無礼承知でお伝えすればスーパーマリオに出てくるクッパがゲームの中で死んでしまっただけということになります。クッパが苦しんだという事実はなくただゲーム上でそうなりました、終わり。勿論亡くなった友人の部屋を調べれば苦しみの日記や手紙が出てくるかもしれません、ですがそれも亡くなった後に全体がそれを起こしただけです。失礼承知で続けますがスーパーマリオのゲームにおいて自分はマリオだけ、それ以外は全部ゲーム上の出来事になり他のキャラの自由意志はそこにはありません。

自分は常に周囲の行動に振り回されるが

自分は両親の離婚、両親の死、友人の闘病、友人の投獄、、、、、に常に振り回されます。それがこの自分劇場のデフォルトです。ですが真実をお伝えすればそれらはスーパーマリオゲームでの脇役キャラでの出来事、そこに意味は何もありません。意味があるように確実に見えますが。この辺りはこの自分劇場最終段階のネタバレになってきます。映画の中の「七人の侍」ではもしかしたら次々に仲間が戦いの中で死んでいくかもしれません、ですがそれも映画の中での脇役がただ死んだだけ、、、そう見えるだけ。。。映画ですからそこに意味はないのです。自分は間違いなく居ます、この体の中に錯覚として。ですがこれは全体が自分錯覚を起こしているだけです。友人の死や両親の死を悲しむことはない、、、そんなことを言いたいわけではありません。全体という絶対に失われることがない存在が失うという経験をしたくて起こしたのがこの自分劇場だということです。

ネタバレが腹落ちすると死が怖くなくなる、、、

自分というものが全体から分かれたモノであるということ、実際には分かれることはできず分かれたという錯覚が起こっただけということ。このことが徐々に腹落ちできるようになってきますと死にたいする恐怖心がなくなってきます。これは全体最大のジョークであることが分かってきます。ジョークですがこの人生劇場に真剣に取り組んだ方がオチでしっかりとズッコケることができます。吉本新喜劇でもたまに真剣モードがないと笑いになりません。最初から最後までボケ倒しでは笑いは起きなくなります。一方このブログを書いている自分はこの自分劇場をまだ終わらせたいとは思っていません、ですから死にたくはない。ですがかつての死を恐れる感情はとうの昔に終わりました。特に死んだ後に対する恐怖、どこへ行くのだろう?という漠然とした不安は今はもうないと断言できます。自分というこの全体の錯覚、ジョークが終わり全体に戻るだけです。だからこそこのジョークが継続されるうちはこのジョークを最大限楽しもうと思います。

全体は自分に疲れた時だけ全体に戻る

全体は頻繁に全体に戻っている

自分で居ることは疲れます。自分とは自らを分けると書きますが、これは全体から自らを分けているのです。実際には分けることはできません、全体は一つのエネルギーですから。一つのエネルギーが全体を形成し、その中で諸行無常、様々な形態を表現しています。ということで自分とは全体から分かれているという錯覚(思考)が湧いている状態ということになります。実際に自分活動をしている最中は思考、感情が湧いてくると、、それはこの体、自分の感情であるという思考が同時に湧き、自分というプラットフォームを維持します。これはなかなか骨が折れる仕組みです。そして全体の中から自分として分離し続けている間、全体は狭苦しいこの状況を楽しんでいる一方苦しんでもいます。子供がTVゲームに夢中になっていても2時間ぐらいで力尽きる感覚を想像ください。ということで全体は自分で居ることに頻繁に疲れるためTV,映画、SNS、ネットフリックス、など没頭できること、無心にできることを使って全体に戻ります。その時だけは自分を辞めます。

全体はたまに全体に戻りながら自分を継続する

全体はたまに、もしくは頻繁に全体に戻ることで自分を継続していきます。何かしらの没頭できるアイテムを利用しながら自分を継続します。自分という存在はエキサイティングである一方で大変疲れるのです。とは言え全体はこの自分体験を愛しています、全体が全体のままでは絶対に経験できないことを自分が発見してくれるからです。だからこそ全体は常に自分を大切にしているのです。自分が地獄の苦しみを経験している時ですらも、自分体験を重宝するのです。

自分体験最大の喜びは自分が実は全体だったという気づき

自分体験とはエキサイティングだが疲れるという全体の経験です。この自分体験は喜怒哀楽、七転八倒、あらゆる感情を味わえる全体にとっての最高のエンターテーメントです。映画を5本連続で観ると疲れるようにこの人生ドラマ、自分劇場は楽しいが非常に疲れるわけです。ですがこの映画の最も面白い、最大のクライマックスとは何か?それは自分体験を行なっている全体が実は自分は居ないということに気づくことです。自分はなく全体だけがあったという大オチ、これです。だからこそこのブログは史上最低のネタバラシブログでもあります。勿論このようなブログに興味を持つ人間は既に準備ができているエンディング待ちの人々になります。

最大のタブーに切り込む

この体に自分が居ないならどこに居るのか?

この体の中には自分が居ません。浮かび上がる思考、浮かび上がる感情がこの体の中で発生しているという錯覚、認識があるだけです。この体の中で思考、感情が浮かび上がっているという証拠はどこにあるのか?勿論脳に何かしらの磁気を当てて調べれば思考、感情と脳の関係はデータとして上がるでしょう。ですがそれによって思考、感情はこの体のものだという考え方は極論です。思考と感情がこの体とは一切関係ない場所で湧いている、、そう捉えて見てください。不思議な気づきに襲われます。例えば思考と感情は別次元に起こっていてそれをこの体がキャッチしているという捉え方です。すると突然この体の中に自分は居なかったという気づきが起きます。

思考と感情は違う場所で発生しているとしてもこの体主体であることは事実ではないか、、、

仮に思考や感情が全くの別次元で発生しているとしても、この体が関わっているならば結局は自分は体ではないか?それは当然の見解です。感情、思考が湧き出る場所がどこだろうと体が主体になってそれが起こるならば何も変わらない、、、ここが重要なポイントです。全体が体に成り切っているのです、だからこそこの体の動きに反応して思考や感情が湧いてくるのです。この体はスーパーマリオのマリオのようなものスーパーマリオゲーム自体がマリオに成り切っているのでマリオを操作するとあらゆる感情、思考がゲームの中に湧き上がるという仕組みです。思考や感情がマリオの中に湧いている必要はないのです。

湧いてくる感情、湧いてくる思考をマリオの中だと認識する思考がゲームの中で湧いてくる

そろそろ気づいてきたと思います。スーパーマリオというゲーム本体がマリオに成り切ってこのマリオ人生を歩んでいく、マリオに起きる事件、事故によって思考、感情が湧くが、、、それはマリオの中で湧いたとする思考も同時に湧く(自我)ということでこの勘違いは延々に続いていくのです。人間というのは集団でこれを行なっている民族であるということです。