記憶

神は夢の中で不足感を貯蓄していく

不足感を体に蓄え続けてコップをいっぱいにする

これは夢です、神が作りその中で人間を主人公にした夢です。この夢物語、ゲームは人間の五感をベースに構築します。視覚、嗅覚、聴覚、触覚、味覚、、これらは幻想にリアリティーを与えるツールになります。そしてそこに思考、感情を加えることでこのゲーム、夢はより一層リアリティーを強化します。主人公である人間を演じるのは神ですから圧倒的な不足感を感じます、神が。ということで主人公演じる神は不足感をあらゆる感情に置き換えてそれを蓄えてこの人生を歩んでいくことになるのです。孤独感、劣等感、疎外感、憂鬱感、、、これらを記憶し体に溜め込んでいきます。大人になるにつれて重苦しい空気が出てくるのはこの感情の蓄積です。

感情の蓄積はある時に爆発する

人間に成り切った神は不足感を噴出し続け、それは各種感情として蓄えていきます。人間には記憶機能があるため過去の悔しさ、惨めさ、辛さを記憶していきます。不足感のデパート、冷蔵庫、貯蔵庫のようになっていくのです。この貯蔵タンクが満タンになった時、人は爆発しこれまでの生活を完全に壊すのです。それが転職だったり、離婚だったり、病気、不登校だったりします。この人間ゲームは記憶機能があることでよりエキサイティングになる一方、辛さ、キツさ、しんどさ、もより一層強化されます。

コップいっぱいになった時に、、、

コップいっぱいになった時に人間が行動できることは2種類あります。それは限界まで耐え抜き、弾け、壊れ現状をぶっ壊してしまう方法、もう一つが人間のこの欲求不満ゲームから積極的に降りてしまうということです。欲求を満たし続けても埋まらないこの不足感に脱帽し人間の本質、神に迫っていくという方法です。書道、花道、禅、仏教、悟り、ノンデュアリティーなどはそれに当たります。ほとんどの方はこの中間を行くことになります。

神は夢の中で夢を見る

子供が見る夢とは本来の自分の姿とのこと

これは夢です、神が見る夢です。この夢の中では神は人間の体になりきり、同一化しこの夢物語、ハイスペックバーチャルリアリティーショーを始めます。神がドラゴンクエスト、ファイナルファンタジーをスタートします。人間の五感はこのバーチャルを作り上げるための電気信号です、さらに脳が人間の行動、経験を記憶することでストーリー化するのです。記憶された経験からそれを価値観にしていき、そこから思考し、感情も生み出します。感情に関しては根底に不足感がありその不足感が他の感情に置き換えられていきます。神が人間という極弱の存在、極小の存在に成り切るわけですから圧倒的なストレス、不足感、欠乏感を感じ続けるのがこのゲームのデフォルトです。子供の頃は自身が神であったことを強烈に覚えていますから強い存在、スターに憧れを持ちます。夢の中で本来の自分を思い出しているのです。

小さい頃は神様がいて不思議に夢を叶えてくれた、、、

ユーミンの歌詞でこのようなものが曲がありましたが、これは真実、小さい頃は自身が神であったことを覚えていますから神として夢を叶えていきます。大人になると人間に成り切っていますから神であった記憶は遠く向こうに。人間活動に精を出すようになります。人間は努力すべき、人間はルールを守るべき、人間は人情に厚くあれ、人間は自由を守る権利がある、、、人間ルールにどっぷり浸かり始めますがこのルールは完全に的を外しています。

大人になって夢を諦めるのは自然なこと

大人になると大人しくなります、大人になると現実的になります、大人になると常識的になります。それは当たり前、自分自身が神であったことを完全に忘れていますからこの極小の存在、人間が自分であると腹の底から信じています。自信を失い、将来を失い、安心を失い、歓喜を失った状態、、これが大人の人間です。ですがそのような地に落ちた状態か少しずつ過去の記憶を取り戻していく、それが神が神を自覚していくことになります。なぜ子供の頃は毎日が新鮮だったのに今は退屈なのか?なぜ子供の頃は楽しい人間関係しかなかったのに今は間反対なのか?こうしてあらゆる疑問が自身の存在の秘密を解いていきます。

敵を作るのは敵を作ることで自我を強化できるから

夢に没入するためにあえて敵を作る

これは夢です、ワンネスが見る夢です。この夢はそう簡単に覚めないことが重要です。ワンネスが作る夢ですから簡単に覚めてもらっては困るのです。そのためこの夢の主人公はあえて敵を作ります。性格が悪い敵を作ることで主人公はどっぷりとこの夢の没入できるのです。敵は必ず主人公を攻撃してきます、それによって主人公は自身の存在に絶対的な確信を得ることができるのです。これは夢ですから主人公は実は幻です、実在しないのです。そんな主人公に敵が現れると何が起きるか?自分がいるという錯覚を強めることができるのです。敵が主人公を攻撃すればするほどに皮肉にも自身の存在を絶対的にできるのです。いないにも関わらず。

敵は最低であればあるほどいい

ハリウッド映画を観てください、必ず史上最低の敵が現れます。残虐非道、鬼畜、餓鬼、、あらゆる最低要素を全て持ち合わせたような敵が主人公とセットで登場するはずです。なぜこのような敵が頻繁に現れるのか?観る人を映画に没入させるためです。主人公は勿論映画の中の作り物です、その主人公の存在を絶対的な者にするためにどうしてもこの敵が必要なのです。これをこの現実世界でも主人公(あなた)はやります。敵を作るのです。

学校では苦手な友人が、職場では苦手な上司、ママ友でも苦手なママ、、、

あなたも記憶があるはずです。学校に行けば必ず苦手な友人、職場に入れば苦手な上司、ママ友の中でも苦手なママ、、、どこに行っても必ず登場する苦手な存在、、、これは偶然ではありません。自我は敵を作り出すことで自我を絶対的なモノにしていくのです。本当は存在しないからこそ敵を利用して自身を証明します。ワンネスはこうして夢に没入し夢を楽しみます。夢を映画のように壮大なストーリーに仕立て上げるのです。

時間の中で至福に至ることはない

時間とは夢の世界のこと

時間とはこの夢の世界の中でしか存在できません。時間とは記憶の世界、夢の世界でしか存在しないものです。夢の中にいるときに時間は存在します。夢から外れることができれば時間は存在しません。大いなる一つが夢を見ている、それがこの現象界です。時間の世界です。大いなる一つが人間という有限の存在と錯覚することからこの夢物語はスタートしますから不足感、欠乏感は常に湧き出てきます。人間という存在は時間の中にしか存在できません。ゆえに時間の中で至福はないのです。

将来幸福になるは不可能

多くの努力する人間の目標とは将来幸福になりたいです。幸福とは将来成し遂げるものであり今は幸福出なくともいつか幸福になる、これがほとんどの人の目標設定です。ですがこのほとんどはその目標を達成することができません。それは幸福とは時間軸の中で達成できるものではないからです。時間軸の世界は夢の世界のこと、夢の世界に存在する人間は=不足感製造機なのです。不足感製造機が将来幸福になることは絶対にありません。不足感製造機である人間が幸福になるためには人間であるという錯覚を解く以外にないのです。

時間から外れる=至福

時間の中に生きている状態で永遠の至福を手に入れることは絶対にありません。時間の中で手に入れることができるのは一時的な快楽としての幸福でありそれは時間の中で失われます。本当の至福とはこの時間から外れることであり夢から覚める以外にありません。時間を超えたところに戻る以外にないのです。そこで重要になるのはこの思考です、思考は自身を時間の中に閉じ込めるツールであり思考を使えば使うほどに時間の中に閉じ込められることになります。思考とは自我です。自我とはこの心身こそを自分自身と勘違いする思考であり思考を使うほどに自我は強化されます。

過食症とは何か?

食事を食べる時、思考から身体感覚に戻る

ストレスが溜まった時に食事に走った記憶がある人は多いでしょう。ストレスが溜まった時のお菓子や、ケーキ、嗜好品は大変美味しく感じます。今回はこの点を悟りの境地から説明したいと思います。多くの方はストレスが溜まった時に思考グルグル状態になります。このストレスをいかに解消するかで思考がフル回転するわけです、そして思考がフル回転になればなるほどに自我モード、この心身こそが自分自身であるという思考も強くなり結果不足感、欠乏感が湧き出てきます。つまりストレスを解消しようとすればするほどに不快感が増していくという負のスパイラルに突入するのです。自我はストレスを餌にさらに自我を強化していきます。この負のスパイラルの救世主こそが食事です。食事を食べる時に体はこの食事を五感で味わいます、味覚、触覚、嗅覚、視覚、聴覚、、、この五感がフル稼働するのです。これによって何が起きるか?思考が止まるのです。人間の体は思考と五感を同時進行で使うことができません。思考がストップすることで自我が弛まり結果幸福感、至福感、安堵感が訪れます。つまり食事をしている時は強制的に無我の境地に至れるのです。

食事を食べると至福に至る

これは夢です、ワンネスが見る夢です。その夢の中で何故食事中は至福感が湧いてくるのでしょうか。体とは今にしか居ません。体が過去や、未来にシフトすることはできません。逆に思考は過去か未来にしか意識を向けることができません、思考は今にあることができないのです。この夢は今(ワンネス)が現象化したものです。今が過去から未来に向けての夢物語化したものです。この夢には実は今は存在しません。だからこそこの夢は基本苦しみストーリーなのです。そんな中で食事中は体に戻れる一時のチャンスです、食事をするときは今に戻れます、何故ならば体は今にしか居れないからです。体に意識を集中する時今にあります、つまりワンネスになるのです。つまり至福、歓喜になるということです。

タバコを吸い、お酒を飲み、食事をする、、これが体にシフトする人間のテクニック

お酒を飲みながらタバコを吸うと美味しい、食事をした後のタバコは美味しい、、、何故でしょうか。これは簡単です。食事もお酒も、タバコも全ては身体感覚が活性化するものだからです。その瞬間思考がストップして無我に入ります。無心に入ります、この状態は自我が抜け落ち今にある状態、ワンネスの状態、歓喜、安心、安堵の状態なのです。人間はこの夢の中で居る時は不足感、欠乏感、孤独感が湧き続ける状態にあります。ですが身体感覚に戻る間だけは至福、歓喜、安堵に戻ることができるのです。故にこれらは中毒化します。

究極的に言えば事実以外は何も起きていない

私は生きているということすらも思い込み

全存在が全存在体験をしているこの現象の世界では今起きている事実以外は何も起きていません。もしも起きている事実以外のことが起きているとしたらこれは全存在ではなくなってしまいます。全存在が全存在であるここで全存在以外の現象が起きているわけがないのです。今ここ=全存在です。ここでいう今とは時間とは全く異なります。時間とは脳の記憶が作り出した創造物です。創造物を超えたものが今です。私は生きている、これも思考です。生きているっていうのは多分人間として生きているということでしょうが、その事実はありません、というか認識していないはずです。私がただある、ただこの体が動いている、、ただ語感が作用している、これは事実です。全存在がこれを認識しています、ですがこの私(人間)が生きて人生で歩んでいるというのは思考です。事実ではありません。全存在が認識していないことは何も起こっていないということです。

実は人間活動のほとんどが思い込み

将来のために今勉強をしないと大変なことになる、、だから勉強をしよう。これは思い込みです。勉強しないと大変なことになる、、という事実はここにありません。思考の中、夢の中にどっぷりと浸かる思考です。今起きていること、これが全てです。これ以外は存在しようがありません。私は認識していない事実があってだからこそ今のうち色々な準備をしよう。これは現実ではありません。事実は今ここで起きていることが全てです。事実のみを受け入れているとそこに思考が入り込む余地がないのでそのまま至福、歓喜、安堵に入ります。この事実を理解した時に人(全存在)は思考への取り憑きを辞めます。今ここで至福に入れるのに何の準備が必要なんでしょうか。

今ここから至福に入れる人間(全存在)が準備をしなくては至福に至れないと勘違いするメカニズム

主語を人間とするか全存在とするかで行動が全く変わってしまいます。人間を主語にすれば至福とは準備に準備を重ねて苦しい山を上りようやく辿り着くというストーリーに入ります。主語を全存在にすれば全存在そのものが歓喜、至福、安堵ですからその状態にシフトするだけです。そこに準備は一切不要です。思考を完璧に抜け落とさせれば人は全存在に強制シフトします。なぜならば心身がこと自分であるという思い込みは思考だからです。事実ではありません。今ここで至福、歓喜、安堵になれるのにわざわざ準備に準備を重ねて山登りをする意味はないのです。もちろんその山登りも全存在の苦しみ体験ですからそれもまた良しです。

熟睡時は意識だけがある、熟睡とは意識だけの状態

熟睡時の記憶がないのは、、

熟睡時は記憶がありません。それはなぜか?脳が完全に休んでいるからです。記憶の機能をストップしています。ですが熟睡から覚めると人は安堵、平和の状態を少し覚えています。その時気づきの意識から夢に戻ったのです。熟睡時は気づきの意識のみ、そして起きると気づきの意識が人間活動を意識し始めます。そして人間自体が湧き上がる感情、思考を自分のものとして勘違いするという状態を気づきの意識が認識します。

気づきの意識は全部を気づいている

気づきの意識は熟睡時は人間活動を停止して気づきの意識そのままの状態になります。この時の記憶がないのは人間の記憶脳が停止しているからです。人間が夢を見ている時、人間の脳の記憶を使って気づきの意識は夢を見ます。この時に夢を見ているのも気づきの意識です。人間の脳をフィルターにして夢を創造しそれを観察します。人間が起きれば今度は人間の五感を使って夢物語を創造しそれも気づきの意識が全て認識します。認識するという言葉が実は的を得ていないのは認識するという主体客体の世界ではなく認識そのものです。ただこれ以上は言葉で説明することができません。認識するという言葉は人間が作った言葉であり人間は主体、客体の世界でしか存在できないのでこの言葉は誤解を生むのです。

空即是色

空即是色は素晴らしい言葉でこれはやはり分かっている人が書いたモノです。空はこれ即ち色である。本当にこれだけなのです。ここに動詞が入るということはありません。なぜならば動くという現象には動くための場所が必要になりこれは二元の世界の話なのです。ということで本当は空即ちこれ色だけです。色とはあらゆる現象でありそこに人間という独立した(勘違い)存在を湧き起こしこの色の世界を完成させました。

体は今にしか存在できない、だから無我に入るには体が有効

過去を振り返る思考はあっても、体を過去に連れていくことはできない

思考は未来を憂い、過去を悔やむことができます。時間の世界にどっぷり浸かることができますが身体は未来にも過去にも連れていくことができません。身体は今にしかいないということになります。今というのは実は時間軸から離れることを意味します。過去と未来の間にあるのが現在だと多くの方は考えますが現在は同じ軸にはありません。今は時間の中から脱した状態なのです。身体は今にしかいられませんから体の感覚に入り込むとは時空を脱すること、ワンネス、全存在、海になることなのです。

体の感覚に集中している間今にあり続ける、つまり時間から離れ続ける

体の感覚に集中している時、未来、過去にいることはできません。今にしか存在できないのが体ですから今に居ることができます。この今は時間ではありません、時間とは脳が記憶した今の記憶です。今は脳の記憶ではなく今です。時間から脱出できるのです、時間から脱出できれば空間からも脱出できます。時間と空間から脱出した状態、それが海、全存在、ワンネスです。体の感覚に意識を向けるとそのまま海、全存在、ワンネスになります。それは至福、完璧、安堵です。

達人レベルの職人さんが神々しく見えるのは必然

感覚を研ぎ澄まして作品を制作し続ける職人さんの動きが神々しく見えるのは必要です。感覚を研ぎ澄ましている時に自我が入り込む余地がありません。思考が停止しているからです。この時人は人の形をした全存在に変わります。人間の形をしたワンネス、神、大いなる一つに変わります。大いなる一つが人間活動をしている状態になります。自分が今物を作っているという感覚が抜け落ちます。この時職人さんは至福そのものであり、愛そのものであり、平和そのものになります。至福、平和、愛を所有する人間がそこにはいません。

既知(波物語)の中から未知(海)は発見できない

私たちが思考を使う時、それは波としての記憶からなる

なぜ思考で海を見つけることができないか、なぜマインドで全存在、ワンネスを発見することができなか、、それはその思考、マインドは海ではなく波として蓄積した記憶をベースに構築されるからです。そもそもが勘違いの初期設定の中で育まれた経験、記憶をベースに沸き起こった思考、マインドで真我を発見することはできません。自我は真我を発見できないのは自我そのものが勘違い、錯覚でありその存在が真我を発見できないのは当然です。既知の中から未知を発見できないとは自我が真我を発見できないと同意です。

心はなぜいつも間違えるのか

心が真我、真理、海、ワンネスを絶対に見つけることができないのは心とは波の記憶からなりその記憶は勘違いの集積だからです。勘違いの集積から生まれた感情、思考が真理を発見できるはずがありません。故に心は常に不安、不快、恐れ、不足に満ちそれゆえ常に新しい経験、安堵を探し続けることになりますが結果見つけることはできません。見つけようとするのは海で在ることを忘れた波であり分離した自我だからです。勘違いした存在(涙、自我)のままで真実を発見することはできないのです。故に人間は至福には至れないということになります。

思考はなぜいつも間違えるのか

思考は真理、真我、ワンネス、全存在を見つけることはできません。それは思考とは波であり、分離した自我であり、分離している勘違いしている人間の記憶をベースに沸き起こるからです。波物語、人間物語の中では真我は発見できません。真我とはこういうものだよ、ワンネスとはこういうものだよと聞いてもそれを思考は波物語人間物語の中で発見しようとしますがそこには真我はありません。真我とは夢から覚めた時に出現するものだからです。夢の外に存在するものを夢の中で探してもそこにはありません。

海であることを忘れた波は生にしがみつく

海は生そのものあり、波は幻想であるが故に生にしがみつく

海が海(生)にしがみつくことはありません、自らが生そのものであるのに生にしがみつくのはあり得ません。ところが波は生の一部であるのは間違いないのですが完結した個別の波という実態は全くないのでその存在にしがみつくわけです。勿論波も生の表現であることは間違いないのですがこれを個別の分離した存在であると言うのは間違っています。どこからが波でどこからが海なのかという線は本来引けないわけですから個別の波と断言するのは滑稽な話なのです。ところが人間は私とはこの体、であり思考であると断言しようとします。結果逆にこの身体、心にしがみつくという衝動が生まれるのです。

個人がしがみつくのは生ではなく自我

これが私だという思考、これが自我ですがこれは後付けのものでありゆえに実態はありません。一度この実態のない私が誕生するとその存在が危ういゆえにこの存在、錯覚を守ろうとする力が生まれます。人が人を殺したり、人が人の命に危害を加えることに対しどの国でも最も罪が重くなっている理由はそれだけこの自我は生に執着している証拠でもあります。死ぬということを圧倒的に恐れているのは自我であり、ゆえに輪廻転生や魂、オーバーソウル、過去生、来世などの存在は自我にとって魅力的に映ります。この思考そのものもエネルギーですからこれらの思考は体が死んだ後も海、存在、生に吸収され存続する場合も多いのです。

輪廻転生や過去生、来世はアイデアでありエネルギー

波がいずれかの段階で海に再吸収された後も自我のエネルギーが存続する場合、また違った波となって波物語を継続します。その際には過去生の記憶を持った波として波物語を続けていく場合もあるのです。ですが輪廻転生や過去生の大前提である時間というものは海ではなく波の世界でしか存在しません。海の世界には時間も空間も存在せず時間と空間があるのは波の世界だけの話です。よってこの幻想、波物語が自我が作り出した幻想であると腹落ちした瞬間に自我も欠落し、輪廻転生も欠落します。海と時間は共存できないのです。仏教ではこれを解脱と言い、禅では見性などと言ったりします。