自我

ここ以外に至福があるという動きすらも

至福の動き

ここには絶対に至福はない、、だから先に先に進んで絶対に至福にたどり着いてやる!!!!この動きがまさに至福から起きます。?????至福を探しているのは自我で、、その自我が先に先にそれを探すという動きを作り出すのが「至福」という存在です。。。。意味不明、、そうです、、、、今不幸なのは、今苦しいのは実は至福が作り出したのです。

つまり

この不幸、この苦しみ、この辛さは、、、、、「至福」が生み出した至福発見ゲームなのです。本当に意味不明、原因不明、支離滅裂です。「至福」は意図的に自我を生み出し、、苦しみ、悲しみ、孤独、、あらゆる感情の全部を経験することに成功しました。「至福」は至福の中に自身の投影を作り出しその中に自我という完全分離感覚を作ることに成功しました、そしてそれによって「悲しみ、不足、孤独、憂鬱、からの嬉しさ、楽しさ、満足、幸福」という至福では絶対に味わえない全てを作り出したのです。

自我の勝手な動きなどあるわけがない

全部が全部を味わうために作り出したこの投影において、、、自我が勝手に活動を始めてしまっては味わえる経験が制限されてしまします。そのため自我は完全にノーコントロール、コントロールできる存在などこの世界には一切ないのです。それによって全感情、全思考、全行動、全観念を作り出すことに成功したのです。この場合の全とは無限の意味であり、、ゆえに我々は完全自動運転で無限の経験をすることになるのです。

ベクトルが前に向かない

自分がこの全部と分かって

自分がこの全部、気づきの存在であり、気づかれる存在であり、、見える全部である、、、この気づきが起こった後に前に前に進もうという気持ちは徐々に徐々に無くなっていきます。なぜならば前に進んだところで何も満たされないことが分かっているからです。今ここに全部があってそれに気付いているのに前に前に進むは全く起きません。

ここに宝くじ三億円のチケットがある

ここに三億円宝くじのチケットが在ることは分かっているのです。ただこのチケットを料金所で換金する方法がわからないのです。そこで仕方がなく何かを達成したら換金できるかも、何かを成就したら換金できるかも、、と右往左往するのです。ですがこの換金チケットは、、先ではなく今ここでしか換金できないのです。作戦変更です、明日になればとかじゃない、、今ここで換金する以外に方法はないのです。なぜならば前に進もうというエネルギーこそが換金を邪魔しているからです。

前に進むのは終わり

前に前に!!!というスローガンは自我が大好きなスローガンです。なぜならばそれは究極の自我肯定だからです。前に進むのは誰ですか????100%自分ですよね笑、、、となります。このトリック、この罠に気づかない限り我々は前に前に作戦に簡単に引っかかるのです。ですから前に幸福があるというこの大前提を否定する必要があります。そして至福に至るには、、、この自我が前に進むのではなく、、進もうとする自我の終了以外にないことを悟るのです。その時自我とは何か????という究極のお題に真剣に取り組む覚悟が生まれます。

内側じゃない

外側の探究の後に

我々は生まれて直ぐに外の世界に魅了されます、全てが新鮮、面白い、エキサイティング、、常に外に外に意識が向きます。自我が形成されますと、、尚更にこの傾向は強くなり、、、絶対的安心を求めて、享楽を求めて、平和を求めてベクトルが外に向きます。年齢を重ね外に外にというベクトルが疲れてきますと、、今度は中に中に本当の幸福があるのでは???とベクトルが内側に向き始めます。

内側は外側に比べれば楽

外側に満たしてくれる何かを求めるのはとてもとても大変で、、常に外部をコントロールする必要があります。ですが外部はいくら頑張ってもコントロールできません。全くもってコントロール不可能であるという諦めがつくまでこの苦闘は続くのです。ですが内面への探究は外部に比べると自分のみとの戦い、ようやく落ち着いた生活を送ることができるのです。外部に振り回されるストレスが減り、、自分をいかにコントロールするかだけを考えていればいいので気が楽なのです。

ところが、、、、

ところがです、、この自分というやつをコントロールしようにも、、、なぜか結局全くこの自分をコントロールできない。せっかく自己実現できたと思ったら全く違う方向に興味が行ってしまう、、、全くもってノーコントロールであることに気づき始めます。つまり外部もノーコントロール、内部もノーコントロール、、この苦しみを全く無くすことができないのです。そして最終的に気づきます、、コントロールできる存在は外部にも内部にもないということを。我々は完全自動運転で動いており、、全てがノーコントロールである。そしてそれと同時にコントロールできる自分も存在せず、、自分とはこのコントロールできない全てであった。この気づきが起こるのです。そしてなぜか全部が全部コントロールできないという気づきとともに真の安心感、真の安らぎ、真の平和が起こるのです。

現象そのものが自分だった

この外部環境、この内部環境の全てが自分自身であり、完全なノーコントロール、、思考も行動もコントロールできているように感じるだけで実は全くコントロールなどできていない。コントロールは出来ないが逆に全部が自分自身だったという気づきが起こります。とんでもなく大きなキックバックが起こったのです。この体を完全にコントロールできない代わりに全部が自分だったという突然の気づきが起こるのです。貯金がこの体だけ、、数万円程度だと思っていたら、、銀行まるごと自分だったという気づきです。

「在る」のパラダイムシフト

「在る」が移動する

自我が形成されると「在る」は私と一体化します。この体の中に「在る」が存在するという錯覚が起こり私=在るになります。そして私は〇〇である、私は怒っている、私は歯が痛い、、、と「在る」と私が一体化することでこのストーリーが生まれます。「在る」は完全にこの体の中に溶け込んでいますから、、この体が朽ち果ててば「在る」も消えるという錯覚が起こり、、全てにおいて怯えるが起きます。

「在る」が魂に宿る

この体の中に居るはずだったこの「在る」は、、、実は魂で、、この魂はこの肉体が朽ち果てても永続するという概念をしるようになりますと、、私=「在る」から非常に喜びが生まれます。もうこの肉体のことをそれほど慎重に扱わなくていいという気づきが起こり、、自由になるのです。今まで全てにおいて怯えて生きていたのが今世は今世と割り切れるようになるのです。ですがこの体=魂=「在る」という発想は分離でしかなく、、そういう意味では緊張と分離感が抜け落ちことはありません。

「在る」の中に全部存在する

そして最後の気づき、「在る」の中にこの世界が全部在るということ、、、見える世界、聞こえる世界、味わえる世界、、全部が全部この「在る」の中に現れます。つまりこの世界は「自分=在る」が見る夢であり、、「自分=在る」もその夢そのものです。今ここに全てがありそれに気づく存在、、完全なる安堵そのものが「自分=在る」である。魂、この体、思考、感情の全ては自分自身であり、それが生まれる舞台も「自分=在る」である。「在る」という感覚は空から現象が起き上がる際に認識する動きだったのです。

顔なしお化けの人生

私とは顔なしお化け

私って実はこの人生で顔を持ったことがありません、、、こんなことを病院で言えば即入院でしょう。ですが真実ベース、ノンデュアリティ ベースで説明しますとこれが本当です。デマではないんです。顔を持ったことがない????そうです、顔をこの世界で現象化するためには、、この視界に顔が登場しないといけないんですが構造上それが不可能なのです。ですから現象化するわけがないんです。鏡に写ったのは顔そのものではないですよね、あくまで画像です。

私の顔を私と勘違いするシステム

集合写真、、あ!!私が居る、、、、ですがこれも画像です。画像とすれはいくらでもこの世界に登場します。モデルさんならば1日何百枚とこの世界に登場できます。ですが実際の顔はこの世界には一度も現象化したことがないんです。たった一度も。最近顔が痩せたね!最近顔が太ったね!!!、、、なんか目が充血してるよ、、顔に関する話題は常に友人から多くもらいますが、、、現象化じゃないんです、、情報のみです。

友人は嘘を付いているのか???

少なくともこの世界では私の顔は存在しないのです。。今もいつも。ですがもしかしたらその友人には友人の人生があるのかもしれない、、それは誰にも分からないのです。少なくともその証拠はゼロなんです。ノンデュアリティ は真実しか相手にしませんから、、今は確実に私の顔が現象化していないということになります。

お互いがお互いの幻を見ている

友人の世界にはこの私の顔が現象化しているかもしれません、仮にそうだとしたら、、それはこの顔という幻です。幻影です。友人は幻のこの私の顔に向かってさもこの顔の中に私が居るという錯覚を起こし話しかけているのです。そしてその幻から声が聞こえることでお互いに関係が成り立つのです。一番重要なこと、、それは私の世界ではこの顔は絶対に現象化していないということです。そこを押さえないと幻想の自我延命戦略から抜け出ることはありません。

両親の話しかけ作戦

毎日毎日

幼少期、毎日毎日、、この体に話しかけてくる両親、、、これも真実ベースでお話しすれば、、、、全く現象化していないこの体に、、両親は毎日毎日話しかけてくるわけです。完全にトリックです、、何者でもない、存在もしていないこの体に話しかけてくるなんてどう考えてもおかしいのです。これが全体が行なっている最初の自我形成作戦です。これによってこの体がどうやら存在するという思考錯覚が生まれ始めました。どうやらこの体が「〇〇」と呼ばれる存在なんだなと。

私は〇〇ちゃん

私は〇〇ちゃん、、そういう認識がここで起きた時に、、それが存在の大元に記憶され、、目を覚ますと「私は〇〇ちゃん」が起きる、、、周囲は全くの顔なしお化けに、、何度もその名前を呼びかけることで、、、この世界には〇〇ちゃんが実在するんだ!!!という思考が起きます。目を覚ますたびにその思考が立ち上がり、、〇〇ちゃんというストーリーが展開するのです。PCを立ち上げた時に勝手に起動しちゃうソフトってありますよね、、それです!!!

顔なしお化けの〇〇ちゃんストーリー

この顔はこの世界では全く確認することはできません、鏡を見た時にだけ、、鏡の中で現象化するだけです。つまり我々は完全な顔なしお化けなのです。にも関わらず毎日毎日お店に行けば店員さんが話しかけてくる、、これってクレイジーなんです、どうかんがえても狂ってるんです。ですがこの私ストーリーでは最重要ポイントです。これで全員騙されるんです、この体の存在、この私の存在があるって。全体はどうやらこの体という現象を使ってこれ(人生ストーリー)をやりたいようです。

音が色が香りが、、、

どこで感じるか

今部屋には音楽が流れています、この音楽科学的には、、耳の鼓膜が感じ取り、それが脳内で処理される、、となります。つまり脳が感じていることになっている。ですが、、実際にはどうでしょうか???音はもっと遠くにないですか????確実に脳内ではなく、、外にありますよね。これは光も同じこと、照明の光はどこにありますか???脳内ではなく、、そこにあるはずです。そしてそれが真実です。音も香りもその場所にそのまま気づかれているのです。私の脳が感じているなど後付け、空想、妄想です。

世界中の幼稚園児に

世界中の幼稚園児に「あそこに居る小鳥さんはどこに居るの???」と聞いて脳内に居ると答える子供は皆無でしょう。ワンネスそのものである子供がそう答えるということはそれが真実です。そして小鳥さんの声はどこで起こったの???と聞けば、、あそこ!!と答えるでしょう。つまり音もそこで起こっているのです。そしてこの目、この耳が感じ取ったと答える子供が居ないように本当はその場所がそれに気づいたのです。

間違っているのは大人

子供とは自我が形成されていませんから真実をそのまま口にします、、自我が形成され思考を学ぶことで、、そうかそういうメカニズムなんだという思考を覚えます。そしていつの間にかそっちが真実であるという大錯覚を始めるようになり「苦しい」が起こるのです。「苦しい」はいつも大誤解が起こすのです。「私が居る」も思考が作り出した感覚です、この感覚がこの世界で確実に起こるようになり同時に「苦しみ」「分離感」「緊張感」が起こったのです。ですがそのことには無自覚なためこの苦しみをなんとか解消しようと「思考」が起こり、、「この私が何かを手に入れることでこれを解消しよう」というストーリーが生まれます。そしてこの思考がまた「緊張」と「分離」を作るのです。

この生き方はあの生き方よりも良い

エゴの策略

ああいう人生は送りたくないよね、あんな人生はごめんだ、、あんな人生を送れたら幸せだよね、、、エゴはあらゆる人生を比較し、、優劣をつけようとします。私の観念が映し出したあらゆる人生は私の観念によって優劣をつけられ、、そのように見せます。ですがこれこそが自我をこのストーリーに留めておく大きな力になります。自我はああなってはいけない、ああなるべきだ、、と一生懸命この人生に焦点を当てて生きていくのです。

あらゆる人生の外に

本当の私とはあらゆる人生の外にあります。あらゆる人生に気付く存在です、あらゆる人生をそのように見せる観念を構築する力そのものです。この世界にあらゆる人生があるように見せる観念そのものを作り出す存在です。そこに気づかせないがために自我は良い人生悪い人生を作り出し必死にその中でもがこうとするのです。ああなってはいけないと必死になればなるほど目の前の人生に焦点が当たり本当の自分を忘れていられるわけです。

私は人生ではない

私とはこの人生ではありません、この人生を作り出した全てです。この主人公、脇役、時間、空間、全てをひっくるめて本当の私です。この人生ドラマの脚本、プロデューサー、舞台、舞台監督、照明、音声、、全てです。本当は何一つ分離などせず分離しているように見えているだけです、その分離しているように見える仕掛けも私です。何から何まで私であり、、、全部が私であることからこれは空(絶対)の影なのです。

比較からの卒業

自我は比較が大好き

自我は比較が大好きです、この商品よりもこっちが好き、このブランドよりもあのブランド、あの地域よりもこの地域、、、思考とは比較検討するのが大得意であり、、自我もその思考の一つです。ですから我々人間社会は常に比較比較比較、、です。ですがこの比較精神は悟りには邪魔になります。私は悟って多くの人よりも上に立とう、称賛を浴びよう、人格者と呼ばれよう。。。となります。つまり悟りすらも比較対象の道具にされるのです。

つまり

つまり悟った暁には、、、この自我は、、人よりも優位に立てると、、自我所有の悟りに貶められるのです。これでは悟りはむしろ苦しみの原因にさえなります。自我が抜け落ち、、一瞥体験が起こった際にその経験を所有する自我が君臨し、また自我ストーリーに戻るということです。悟りとは解放とは目覚めとは自我の解放にも関わらずそれすらも自我に所有されるのです。

個体の錯覚

この世界は空(絶対)の影、投影、蜃気楼です。その中に個別存在など実在するわけがなくそれゆえにこの世界はたった一つのエネルギーです、、ですがこの世界は観念、価値観によって個別する存在が多種多様に現れる世界に見ることができます。なぜか????ここは無限の投影だからです、たった一つのエネルギー(空)無限の投影場所なのです。だから観念によって無限の姿を写すのです。その中で偽りの私は比較検討し無限の世界に判断を下しさらに観念を書き換えてまた異なった無限の投影をしていくのです。ですがそれをしている限りは分離緊張の世界から脱出できないのでそこを見抜く必要があるのです。

ブラックボックス

疑わしきは無視

もしかしたら私が女子会に参加しなければ私が居ないところで友人Aと友人Bが私の悪口を言っているかも、、なんとなく気になるラインが来ている。。。。そのような時どうすることが正解なのでしょうか????多くの場合は探りのラインを入れたりして、、、起こっているかいないかを探ったり、もしくは無理して女子会に参加したり、、、するでしょう。ですがこれらは逆に悪口を現象化させます。友人Aと友人Bが悪口を言っているような雰囲気があるのならばそれを私は絶対に感じているのですから、、そこは関心が行くことで逆に現象化するのです。

このような場合は先ず、、

全ての問題はそこに執着があるか否かが試されます。もしもその友人二人に対して執着があれば間違いなくドラマに引き摺り込まれます、なぜか???自我はドラマに入って存在を維持するからです。ですからこのような場合は、、悪口を言っていそう、、という時点で関係を消去します。つまり自分からは一切連絡を取らない、そして悪口を一切言っていないような雰囲気ならば関係を続けると決めてしまいます。関係を自ら切ってしまうことで執着の糸が先ずは切れました。すると自我はドラマに入れなくなるので、、悪い関係自体を消去するのです。

良い関係だけを続けると決めてしまう

悪い関係でも関係を続けようというのは執着です、、執着は自我の大好物ですからここからドラマがわんさか湧いてくるのです。良い関係ならば継続しようというのは執着ではないので自我はドラマをそこでは作らなくなるのです。こうして全ての問題は執着を手放すトレーニングであると気付くのです。自我にとって一番怖いことは、、全てのドラマが終了し自身がドラマから追い出されることです。そのためには関心を常にドラマの中に向けてもらいたいわけです。

悟ると決めてしまう

関心を悟りのみに向けますと、、最小限のドラマ勧誘で抑えることができます。無意識だった車への執着、無意識だったパートーナーへの執着、、それでも無意識の執着は次々に問題化し、、ドラマの中に自我を引きずり込もうとするでしょうが、、それらは全て執着の膿み出しと決めてしまうのです。そしてバッサバッサと執着を手放していきます。