自我

背景に写った人々による人格形成

背景は写った人々によって人格形成される

両親とはこの体にとっては背景の一部です、画像です、、、その背景の一部の両親と呼ばれる存在から、、この体に向かってあなたって「短気ねー」「やんちゃな子だねー」「物覚えが悪い子だねー」という呼びかけ反応が起こります。何度も何度もこの呼びかけ反応が起こることによって「私は短気でやんちゃな物覚えが悪い子」という人格形成が生まれます。この体から勝手にこのような形成がされるのではなく他人によってそれが行われるのです。

この体が目を覚ますと、、、

この体が目を覚ましますと(本当の夢の始まり)「私は短気でやんちゃな物覚えが悪い子」に背景から意識が集中しこのストーリーが始まるのです。幼稚園に通えば先生から「お行儀が悪い子」という声かけが起こり、、その都度その都度に人格が変容していくのです。PC内に溜まった記憶によってPC起動に伴いコンテニュー後のストーリーが始まるようにこの人生も体が起動しますと、、記憶に溜まったデータが蘇り、、コンテニューされます。私は短気でやんちゃな物覚えが悪い子は小学校中学校と通うたびに書き換えが起こり、、進むのです。

何かがおかしい

周囲からのイメージがそのままその人の人格になっていくわけですが、、そのイメージが強ければ強いほどに、、重い重責になっていきます。なぜならばイメージ強化は自我強化であり、、本当は背景であることから錯覚が強化されているのです。自我強化はそのまま錯覚強化、、、錯覚とは真実とは異なるという意味であり真実(真の安らぎ)からのギャップのことでもあるのです。

このギャップを埋めるべく

イメージ強化、自我強化、真の安らぎとのギャップ強化です。ですから周囲によってイメージが強化された人には多大なストレスがかかることから、、絶望感が起こります。特にそのイメージに責任、重責、役割が加えられていきますと、、そのイメージを物理的に逸脱できなくなり、、絶望が生きる感覚さえをも奪っていくのです。

裏を探らなくていい

新紙幣発行

新紙幣が発行されます、学者、経済学者、政治学者、あらゆる分野の知識人がこの政策にはこういう背景がありまして、、、、のような意見を出します。そすです、全ての政策には裏があるのだ!!!ですね。ところがそれは全くやらなくていい、関心を持たなくていい、、、のです。なぜか???コレは夢ですから関心が湧くとその分野が広がるだけなのです。例えば新紙幣発行には財務省の真の狙いがあって、、、ではなぜ財務省が???それはアメリカ政府が裏で、、、アメリカ政府の裏にはウォール街の資本家が、、、、とここでもエンドレスに続いていくのです。これがこの夢の特徴なのです。

裏を作りたい人は関心を持つ

政治に興味を持って何が悪いんだ?????ですよね。。。ですが残念ながらなぜ政治に興味が湧くかと言えば、、将来不安、今後の自身の動き、根っこにはやはり不安が隠れているのです。だからそこに興味を持てば不安が敵中!!となるだけです。自我はこの世界でいかに戦略的に損得勘定的に生きるかに関心がありますから放っておけば当然そちらに興味が湧くのです。

どんな状況だろうと

どんな状況であろうと、、この世界はプラスマイナスゼロになるように夢は広がりますから、、、現象を現象として楽しめばそれでいいのです。そしてこの現象を生み出す大元が我々の本質であることは分かっていますから不安、恐れをベースにした行動ではなく、、シンプルに楽しいことをやるのがいいのです。

時間は存在しない、あるならば時計は必要ない

食事の回数を間違えない理由

食べるという経験、、これは確実にあります。食感、味覚、香り、、、、経験として間違いなくあるんですよね。だから昨日何回食事した????と聞かれて回数を間違えるってあまりないはずです。ところが時間って経験できないんです、、経験できていないから、、今何時????と何回もなるのです。もしも食事と同じで経験できていたら時計をみる必要はないんです。

食事を食べ終わった後に

食事を食べ終わった後に、、今私は食事を食べましたか????とは聞きませんよね。。。ですがその飲食店に時計があるのは、誰も時間を経験できていないから時間を確認する必要があるのです。時計が指し示すのは時間ではなく、、その現象そのものです。この夢の中で夢化した数字です。だから誰も時間を経験できず時計が存在します。食事を食べたかどうかを店員さんに確認しないのは経験だからです。

自我は時間軸でしか存在できない

映画を途中から見ても意味不明ですよね、、映画を楽しむためには過去に遡って歴史を見る必要があります。この「私」をやるために過去が絶対に必要になります。過去がなかったら「私」が居なくなっちゃうからです。ですが同時に映画は途中から見ても、、主人公になり切らなかったら、、映像を見ることはできます、可能です。面白い、辛い、などの感情は湧きにくいでしょうが可能です。そしてこの現実と呼ばれる世界も、「私」が実は過去に遡らないと存続できない存在であると認識しながら生きることができるんです。

私とは時間が作り出した概念

私とは、映画の主人公と同じでエピソードが作り出した概念です。勿論この体は過去がなくても存在しますが「私」が居なくなっちゃいます。このことを本当の意味で俯瞰できた時に「私」映画の主人公にしがみつくという発想が生まれないのです。私という概念が時間という概念を作り出し私がこの人生を歩むというストーリーが作られます。

現実と捉えると矛盾が、夢だと捉えると矛盾がない

現実の方が矛盾????

現実を視ろ!!そんな経営者の本を聞いたことがあります。日本一の経営者「柳生さん」の書籍ですね。。残念!!!!現実じゃまずいんですよ、、全然辻褄が合わないんです、現実と捉えると、、、詰めが甘いんです。というか現実じゃないのに現実とするのはどうしても限界があるんです。例えば自由意志の話、、自由意志を医学で証明しようとすると、、どこかで研究中に当たるんです。例えば自我の話、、これも脳科学的にどこかで研究中に当たります、、宇宙も同じ、宇宙の成り立ちは、、どこかで研究中に。。。残念!!!これが夢だという証拠なんです。

100年後も研究中

残念ながらこれを現実として捉えた学問は必ずどこかで研究中、、に打ち当たります。要研究、研究途中、未確定、、ここにぶち当たるのです。。。どの分野でも。なぜならばこれは現実風に見える夢だからです。これが夢、幻想だ!!!という気づきが起こるまでこの研究は続くのです。だからこの世界は無限の分野から気づきに入れます。ヨガだけ、瞑想だけ、マントラだけ、、からこの気づきが起こることは絶対にないのです、無限が見る夢ですから。

無限が見る無限の夢

この夢は無限が見る無限の夢です。最終的な気づきのゴールはこれだけです。つまりこれは現実だ!!!!という証拠はこの世界では100%不可能です。今段階でそうなんです、科学者はいつかこれが現実だと証明されるだろう、、、と未来に期待しながら死んでいくでしょう。ですが残念ながらそれは無理なんです。今なぜそれが不可能かと言えばこれが夢だからです。

夢の証明をしちゃえば、、

仮にコレが夢っていう証明をしちゃいましょう。朝起きて夢が始まる(無限が見る夢が始まる)主人公の私が登場する、、主人公を中心にあらゆるドラマが始まる、、、主人公が行くところ必ず現象が広がる、、周囲はこれが夢だは気づいてない人々ばかり、、、夜になると夢を見ているのがだんだんと疲れてくる、、、自然と無限が夢から覚める、、、主人公の意識がなくなる、、、です。コレが夢ならば????矛盾ゼロです。

夢が夢を見る

この夢の傍観者

これは夢です、完全に夢です。。。ではこの夢の傍観者は誰でしょうか????夢です。夢が夢を見ているのです。現象そのものが現れたと同時に現象に気づいているのです。つまり色と空は一つです。例えば自我がこの世界に現れた瞬間に実は自我が自我に気づいているのです。だから自我は現象としては在るのです、無かったら「私」は存在していません。ただしこれはあくまで現象です、夢です。

現象だからどうでもいいということではない

この私は現象、夢です、、現れた瞬間に自身で自身に気づきます。夢だから現象だからどうでもいい、、ということではないんです。現象は常に完璧で完璧な表れです、、この夢に優劣はないのです。完璧な現象が自我として現れたのです。この一時的に現れた自我『私』が永続するという思考が現れました、、これによって苦しみ、孤独感が生まれました。これも完璧な表れです。完璧ではありますが「苦しい」が続くのも確かです。

苦しいから逃げたいも完璧

それと同時にこの苦しみから逃げたい、、が起こります、、これも完璧な表れです。この夢の中で、、コレが夢だと気づいていない場合、、この逃げたいをなんとかこの夢の中で叶えようとする動きが起こります、これも完璧です。ですがその動きのほとんどは夢の中での逃避ゆえに成就しないのです。ですがこの成就しないのも完璧です。そして成就しないことに飽きたことで、、、この夢、このストーリーから出るしか方法がないのでは???が起こります。これも完璧です。それが悟りへの誘いです。

「今日これが出来なかった」プレイ

「本当はこれをやりたかったのに」プレイ

自己嫌悪は実は自我の巧妙な作戦です。今日本当はこれをしたかたんですが、、私って本当に駄目で。。今日本当はジムに行きたっかったんですが行けなくて、、、残念汗、、、、毎日これだけしようと決めてるんですが、、、本当私ダメ人間で。。。。全部これ自我の巧妙な自己嫌悪プレイです。作戦を立ててできなくて落ち込む、、、何が悪いのか?????今日自分が何が出来るかは今日今決まるのです、、湧き上がったその瞬間に行動が起こるのです。行動を起こせる自分など存在せず、、、存在しないのに行動をコントロールなどできようがないのです。自由行動など嘘です。

湧いたことをただ毎日やる

明日自分は何が出来るか????そんなことは明日にならないと誰にも分からないのです。なぜならば行動は湧くものであって自分で起こすものではないからです。何も出来ないならば、、それが湧いたのです。一日中ジムでスポーツしようが湧いたならばそれが起こったのです。本当は100やりたかったけれど今日は30しかできなかった、、、じゃないんです。湧いたことだけが毎日100%できるのです。つまり毎日100%やれるということです。

自分を責めるプレイを辞める

思ったことを全部今日はやれました、、、そんな日は一年に五回もないでしょう。。つまり成功確率は1%、、、そんな割りの合わない賭け事はしないことです。そうじゃなく今日はこれが湧いたからこれをやりました、、に変えます。いらないんです目標設定など、、無駄です。。。。それはプレイです、、自我の自虐プレイは余分です。ただしそれが起こったならばそれもそれで完璧です。そのプレイをワンネスが起こしたのですから。

目標を悟りに置く

無意識とは習慣である

目標が悟り、ノンデュアリティになりましたら、、あとは簡単、、、ひたすらにシャワーのようにメッセージを聞いていきます。地動説に慣れた我々は放っておくと地動説に戻ります。「自我」前提生活は放っておけば自我前提生活に戻ります。ここに新しい価値観を受け込むためにはそのメッセージをシャワーのように浴びる以外にありません。日本語に慣れた人が英語を習得するには浴びる以外にないのです。

気づきの連発

今左手で食べましたよ!!!左利きの人は無意識に左手で箸を使ってしまう、右手に変えるためには徹底的な癖付けが必要になります。これが自我解放のポイントです。本当の世界の事実をとにかく徹底的に学ぶ、聞く、浴びるのです。重要なことは、、分かんなくて当然だということです。自我ベースで生きる我々が悟り、ノンデュアリティをスラスラ分かったらおかしいんです。

本当はそうだよね

自我も、自由意志も方便ですから嘘です。嘘は真実の前ではいつか必ず暴かれます、そして真実に吸収されます。それは分かっているんです、ですから何も恐れずにただ淡々とメッセージに染まっていけばいいのです。メッセージに触れ続けるだけでいいのです。毎日毎日触れ続け、、話せば英語がである、、気づけば真実に在る、、という状態を目指します。

方便の活用

「私」という方便

私とは方便です、自由意志も方便です、自由行動も方便です、、、、ですが我々の社会は今この方便を前提に回っているのですからそこを回避することはできません。急に私なんていないんだし、自由意志もないんだし、、を前プッシュで動いても活動が難しくなるだけです。そうではなく社会に出れば方便を中心に生きます、そして何か反省すべき点や悩みが起こった時に、、この真実に帰るのです。

自我活動の映画

自我の活動、観念の作用を理解した上で社会に出ますと、、もうそこは自我活動の映画のようです。様々なドラマが半端なく繰り広げられています。面白くて仕方がない、、先ずは見かけ上の他人で自我の作用、自我の延命作用をしっかりと観察するのです。そして真実がこの自我の偽りを見抜けるようになった時に、、あれ????なんか凄い軽いんですけど!!!が起きます。

幼稚園に入学する前に

幼稚園に入学する前、、、家では子供に徹底的な自我形成教育をします。要は方便を学ぶわけです、、徹底的に。そしてその方便を幼稚園という実践の場所で鍛えるわけです。小学校中学校とその学びはエスカレートするわけです。そして社会である程度順応できたならば、、次は方便を方便と分かって利用する時期に入ります。嘘を嘘と分かって利用するのです。それが自己超越です。

それでも自我は動く

本当はないけども、、、、

「私には自由意志があって自由行動があって何者かになる力がある」これは完全な嘘です、洗脳です、錯覚です、、このことが仮に理解できたとしましょう、、、ですが、、、残念!!!朝起きて会社に行けば自我バリバリ、自動行動バリバリで生きていかないといけないんです。結局これじゃ意味なくないんですか??????違うんです、、もしも何かをやらかして後悔の念が襲ってきたら、、、その時に思い出すのです。この事実を、、すると後悔できなくなります。

話しかけられれば、、、

話しかけられれば自分が居ないなんて思えるわけがないんです、、その時はおしゃべりに夢中になって話倒しますよね、、この体の中の自分として。。。ですが後悔が起こった時に思い出すのです、、、あ、、完全にこれも自動運転で話をしていたんだなと。そうやって痛みが襲ってきそうになったら思い出すのです、真実を。方便とは利便性がある時は使えばいいのです、、そしてそのデメリットが出そうになったら思い出す。

方便としての自我活用

自我も自由意志、自由行動があるというのは嘘ではあります、幻想ではあります、、ですがそれを真実だと思える能力が人間にはあるんです。ですからこれは方便として使いこなします、仕事をする上では「私には自由意志があって自由行動があって何者かになる力がある」という方便は役に立つんです、、、だから使えばいい、、、でもそれによって苦しむのは滑稽です。真実ではないんだから。

もう「何か」にならなくていい

自由意志の弊害

私たちは自由意思というものを持っていると錯覚しているので「何者か」になれるかなれないかは「自分」に全て責任があると本気で考えています。ですが「自由意思」は本当はないのでそれを「行使」する「自分」も本当は居ません。そうなると「何もか」になれる「自分」が居ないのでしすから「何者か」には絶対になれないことが分かります。「自由意思」というのは実は大変な弊害があるのです、この概念によって人は後悔し希望を持ちをエンドレスに繰り返すのです。

なぜ出来ない????

なんであんなこと言っちゃたんだろう????なんで????なんであの時あれを出来なかったんだろう?????人間はこうやって苦しんでいます。結局今日もあれができなかった、、、残念!!!!全部は自動運転、ノーコントロールです。その後悔の発想が間違っています。妄想です、幻想です、自由意志と自由行動があると思っているのは。

究極の絶望

自由意志も自由行動も自分も居ないなんて滅茶苦茶つまらない、、生きる意味なんて全く感じないですよ!!!そうですよね!!自我全開、自由意思全開だと思っている人からするとそう感じるでしょう。ですけどもともと自由意志、自由行動がなかったんです、それでこれまで生きてきたんです。これからそういう生き方に変えましょうということではないんです。自由意思、自由行動、自我があると信じて今まで生きていただけで一度も存在しなかったという話です。

あれ????

つまりこの体が「自分」じゃないということは、、所有する何かが存在しないということだけど、、、逆に言えば、、、全部が全部自分ってこと?????そうです。全部が全部自分です、見える全て、感じる全て、聞こえる全てが自分です。つまり自分の中にこの体もあって体が自分の中を動いているのです。この体の中に「自分」が居るんじゃなくて自分の中にこの体もあるのです。魂の中にこの体があるんじゃなくて見える全てが魂なんです。