経験

苦しみたいのは自我ではなく無我

ここを勘違いしてはいけない

自我、思考は苦しみを生み出すためのメカニズムであってこのメカニズムを採用しているのは無我、ワンネス、大いなる一つです。自我が人間を苦しませたがっているのではありません、自我とはこの心身を自分のものとする思考であり、この思考も全存在、ワンネスから湧いてきているだけです。苦しみを作り出しそれを認識する全存在があるだけ。我々人間(本当はいない)はこのメカニズム上で苦しみを湧き出させる機能です。ですから最初から最後まで悪者はいません、苦しみを味わいたい全存在がそう仕組んだだけのことです。

このメカニズムから抜け出すのを決めるのも全存在、ワンネス、、、人間(本当はいない)に決めることはできない

どのタイミングでこの苦しみのメカニズムが抜け落ちるのか、これを決めれれる人はいません。人は苦しみを作り出すメカニズムの名称ですからそこに解除の決断はできないのです。ワンネスが自我を利用して苦しみ体験をしているだけ、これだけです。

夢を作り夢を見ているのも全存在ですから夢から覚めるのも全存在

夢を作り、夢を見ているのも全存在、当然夢から覚めるのも全存在です。我々人間はその中で苦しみの感情が湧き上がるための道具でしかありません。もちろんこの道具無くして苦しみを経験できないわけですからこの道具は価値があります。価値がないものもありませんが。いつこの夢を見ている全存在が夢から覚めるのかそこは興味が出るところです。人間は苦しむための道具ですからもしも今あなたが苦しんでいるならば役割を全うしている優秀な人間です。

自我と自我のお喋りが無駄に思えたら

登場人物同士の会話に勿論意味はない

夢物語の中での醍醐味の一つが他の登場人物との交流があります。他愛もないお喋り、これは分離する前の全存在には不可能なことゆえに他人がいるという錯覚はこの夢物語を刺激的にしてくれる大きなファクターです。他愛もないお喋りすら分離経験上エンタメです。ですがこのエンタメもひとしき行えば途中で飽きてきてもおかしくありません。その時はもうこの遊びは卒業、次の遊びへのシフトが始まるはずです。

他人とのコミュニケーションはそれほど重要でもない

友人は多ければ多いほど素晴らしい、友達100人できるかな、、あれは幼稚園児の話であってその遊びがそのまま大人にまでなっても楽しいとは限りません。これは夢物語ですから友人をたくさん作ろうという思いが湧けばそれもそれ、友人をたくさん作りたいという思いが湧かなければそれもそれです。夢物語の中でどうやって自身から湧いてくる欲望を叶えていくかは登場人物によって全く変わってしまうのです。

コミュニケーションは自分がいることを腹落ちさせてくれる

この夢物語においてコミュニケーションは登場人物の存在を確固なモノにしてくれます。夢ですから本当は確立した登場人物は存在しません、だからこそ他人とのコミュニケーションはその不確実性を払拭してくれるように思えるのです。深いコミュニケーションと同時に湧き上がる安堵の感情は自我を安堵させるとともに、実は相手に向き合うということに無心になれたときに訪れる無我からくる安堵です。コミュニケーションも無心になって相手と向かい合えばそれはコミュニケーション道に入ることができます。そこでは虚しいおしゃべりではなく人間関係道があります。そこからでも無心、無我、真我に入れます。

この世界が夢だとして、ではこの夢を見ているのは誰か

主人公は海であることを忘れた波、そしてこの波物語を見ているのは海

波物語は夢です、時間も、空間も本当はなく、、それは夢の中だけで存在しています。夢の中では時間も空間も自由自在、ただし夢の登場していない場所、登場人物は夢に登場していない間は存在しません。ですから主人公である「自分」も寝ている間や何に没頭している間、目をつぶっている間は姿をなくしています。海はこの夢を常に見ていますがそれは傍観者として高みから見ているのではありません。海は主人公(波)の五感+感情+思考を使ってこの夢を体験しています。

全ては幻想だが夢での体験は確実にある

夢ですから幻想です、ですがその夢の中で恐怖心、歓喜、安堵、幸福、、、湧いてくる感情は間違いなくあります。経験も確実にあるのです、夢として。夢ですがこの夢は海が投影したもの、海自身の投影を土台にしています。海が監督をし、海が海を使って舞台を作り、海が海自身を使って登場人物を登壇させ、海が海自身を使って(波)主人公を作る。海が変幻自在に変化してトータルでネットフリックス波物語を制作しています。

この夢から覚めるのは波ではない、海

マトリックスという映画では主人公のネオがこの夢から覚めるためにエージェントと戦い続けていきますが、、実際に眠っているのは海であり、、起きるのはやはり海です。主人公のネオ(波)ではありません。ただし波も海ですから正確には波を通じて海が目覚めるのです。ネオを通じてマトリックス映画全体が目覚めます。人間を通じて見えている世界全体が目覚めます。

我ありは海のこと

全ての現象を認識しているのは全て海

波が波としてどのような経験を積み、どのような感情を抱き、どのような思考を巡らせようとそれを認識しているのは海です。波は波として活動しますが波の動きを認識し観察する存在は海です。もちろん波の本質は海であり波は実はありませんからそれは当然ということになります。波が海の存在を忘れようが波が海であることは間違いなく結果全ての認識は海が行なっています。人間もこれと同じ、人間がどのような行動をし、どのような感情を抱き、どのような思考を巡らせようとそれを認識し観察するのは全存在です。そもそも独立した人間は存在していませんからその認識は人間を包括した全存在が行なっています。

認識を全存在が行うがそれすらも人間は自我が行なったと勘違いし続ける

人間の全ての行為を認識し、観察するのは全存在です。ですがこのことを自我は絶対に認めません、それをしているのは自我であると錯覚します。全存在が行う認識が全て自我に奪い去られ自我の勘違いはまた継続されていきます。ですが本当は自我は錯覚ですから認識し観察できる自我はいません。全ては観察する海、全存在、気づきの存在がいます。究極をいえば自我の成分は全存在です。

波を自分と思い込むエネルギー(自我)は全存在(海)でできている

人間の体、思考を自分のものと思い込むエネルギー=自我は全存在が作り出したエネルギーです。ですから自我は全存在でできています。自我は錯覚だろうと全存在であることに間違いはありません。波は海の一部であり、さらに波を自分自身と思い込むエネルギーも海です。海以外の存在はいないのです。だからこそ波が崩壊した時にそこにあるのは海だけです。結局海しか存在しないのですからこの世は海が創作した海物語です。海と海物語の違いは海物語には不安や、恐れ、不足感という感情が存在します。これは海には存在しないものです。海物語には確実に存在します。ですから不安や恐れ、不足感も突き詰めれば海です。

既知(波物語)の中から未知(海)は発見できない

私たちが思考を使う時、それは波としての記憶からなる

なぜ思考で海を見つけることができないか、なぜマインドで全存在、ワンネスを発見することができなか、、それはその思考、マインドは海ではなく波として蓄積した記憶をベースに構築されるからです。そもそもが勘違いの初期設定の中で育まれた経験、記憶をベースに沸き起こった思考、マインドで真我を発見することはできません。自我は真我を発見できないのは自我そのものが勘違い、錯覚でありその存在が真我を発見できないのは当然です。既知の中から未知を発見できないとは自我が真我を発見できないと同意です。

心はなぜいつも間違えるのか

心が真我、真理、海、ワンネスを絶対に見つけることができないのは心とは波の記憶からなりその記憶は勘違いの集積だからです。勘違いの集積から生まれた感情、思考が真理を発見できるはずがありません。故に心は常に不安、不快、恐れ、不足に満ちそれゆえ常に新しい経験、安堵を探し続けることになりますが結果見つけることはできません。見つけようとするのは海で在ることを忘れた波であり分離した自我だからです。勘違いした存在(涙、自我)のままで真実を発見することはできないのです。故に人間は至福には至れないということになります。

思考はなぜいつも間違えるのか

思考は真理、真我、ワンネス、全存在を見つけることはできません。それは思考とは波であり、分離した自我であり、分離している勘違いしている人間の記憶をベースに沸き起こるからです。波物語、人間物語の中では真我は発見できません。真我とはこういうものだよ、ワンネスとはこういうものだよと聞いてもそれを思考は波物語人間物語の中で発見しようとしますがそこには真我はありません。真我とは夢から覚めた時に出現するものだからです。夢の外に存在するものを夢の中で探してもそこにはありません。

自分を意識しながら何かを経験することは不可能

所作に入り込むのが有効な理由

何かに没入しながら自分を意識するという同時進行は実質不可能です。茶道の所作に集中しながら自分を意識することは不可能です。人間は対象に没入する時は自分を忘れます。この感覚は自身を波ではなく海で在るということを思い出せるチャンスなのです。その証拠に所作に没入する時の無心感、安堵感、安定感は他に得ることができない感覚で在ることを知っています。

没入することをで得られる安堵感を知らない人間はお金を払ってそれをしてもらう

優秀な役者さんの舞台を見に行く、優秀な歌手のコンサートに行く、優秀な芸術家の古典を見に行く。これらの行為がなぜ起こるかといえばそこに行けば努力なしにその作品、芸術に集中できるからです。集中すれば無心になり安堵感、平和、歓喜が自然に訪れます。お金を払うことで自然と集中できるきっかけを貰っているのです。美味しい料理を高額を払って食べに行くのも味に集中している時に無心になれ結果無我に入り安堵、平和、歓喜そのものに一瞬なれているのです。人間の形をしながらもその瞬間だけは波ではなく海、安堵そのものになっているのです。

お金を払わなくても安堵そのものになれるならば、、

達人よ呼ばれる人々はお金を払うのではなく、自身の行為、所作に集中仕切ることで無心になり、無我になり、思考を排除して自我を取り去り、そのまま海になる、つまり安堵、平和、歓喜そのものに瞬時になれてしまう人々です。どのような条件にも関わらず所作に無心になることでその場で安堵そのものになってしまいます。それは仕事だけでなく掃除、会話、食事あらゆる人間活動の中からそこに入ります。そして最終的には自我のメカニズムを俯瞰し常に純粋意識、無我、海の状態でいられるようになります。

海であることを忘れた波は必ずいずれ海に戻る

波だと勘違いしようと何だろうと波の最終形態は海に戻るのみ

自身を広大な海ではなく極小の波だと勘違いすることからこの波物語はスタートするわけですが波の運命はすでに決まっていていずれは必ず海に戻ります。海に戻らない波はありません、なぜならば波とはいずれ消滅することが約束されているからです。太平洋のど真ん中で発生した波は何ヶ月もしないうちに必ず陸地にぶつかりそこで消滅します。この消滅を悟り、目覚め、覚醒と呼ぶのです。目が覚めるのは波ではなく勘違いしていた海が波が消滅することで我に帰るだけです。

どんなに苦しそうにしている人間がいても気にする必要はない

人生が最高にハッピーでいつまでも長生きしていたい、このような波として生きている人はいるでしょうしそれはそれで何の問題もありません。いずれは海に戻ります。一方で人生は悲惨で最悪でいち早くこの人生を終わりにしたいという波がいるかもしれません、ですがこれも全く問題ないのです。なぜならばそのような波はなるべき早く消滅し海に戻るだけだからです。最高にハッピーと宣っても、最悪にアンハッピーと宣う波も海の安心感、安堵感、歓喜に比べればどれも目糞鼻糞の世界、五十歩百歩の世界です。人間は所詮他人との比較でしか自分の幸福度を決めれないという稚拙な尺度しか持ち得ない生命体です。他人との比較で決め込んだ幸福度など海の幸福、安堵、平和とは次元が違うものです。つまり所詮は一時的な快楽でしかないのです。

真の幸福(海)は波の幸福度を超えたところにある

金メダリストや成功者のインタビューで結果を出せたときの喜びを聞きますが決して騙されてはいけません。波として何かを得てもそれは全て一時的な快楽、その快楽は一瞬で終わりを告げます。ですが何かを成し遂げたときにこみ上げてくるこの達成感と称される感情とは実は一瞬だけ海になったときの感覚なのです。だからこそ笑顔から安堵感や幸福感、至福が見えるのです。海を垣間見た人の表情を見せます。ところが自我(波)はすぐにその経験を自身の自我拡大に使ったりするから騙されてしまうのです。波が対象と一体になる瞬間だけ実は波が消え去り海に戻るわけですがこの海に戻った感覚こそが覚醒のヒント、海に戻るヒントです。

海であることを忘れた波は好奇心旺盛

波であることは素晴らしいアイデア

これまで自身を波だと勘違いすることの苦しみについて散々お伝えしてきましたが決してこれは悪いことばかりではありません。そもそも全存在である海が自身を勘違いすることがミスから起こるなどあるわけがないのです、これはこれで素晴らしい海の大冒険、好奇心から起こるミステリーなのです。ただそこには苦しみが伴います、それはこの初期設定上避けては通れないものです。自身がこの小さな波であると勘違いできれば出会う波、景色は最高にエキサイティングになります。自分以外に他の存在がいるなど海としては絶対に経験できないことだからです。自分じゃない存在(波)に出会う、自分じゃない存在(波)と会話する、、どれもが最高のエンタメ、海にとっては計り知れない感動があります。

波の大冒険は世界(海が形を変えたもの)は自分しか信じられないということからスタートする

生まれてきてからあなたは海ではなく波なのだという洗脳を受け続けることで海は次第に自身を波だと勘違いするようになっていきます。この洗脳の凄いところはそう信じれば信じるほどにこの世界が世知辛く、悲惨で、非常で、残酷で、信用できない世界に見えてくるということです。残虐無人、七転八倒、四面楚歌、、とにかく自分以外は信用できないと本気で思えてくるのです。これが波物語のスタート、オープニング、入り口です。海が海としては絶対に味わえない経験、感情、思考が滝のように湧いてきます。

子供(海)にとって大人(波)が怖いのは大人は洗脳されているから

子供は広大無辺な海として生きていますが大人は極小な波として生きています。子供にとって大人とは何か欠落してしまった存在、何か洗脳されてしまった存在、自分を見失っている存在そのものです。尊敬ではなく哀れみの対象ですらあります。ですが同時に最高にエキサイティングな存在(波)でもあります、海として体験できないことを毎日体験している存在(波)でもあるのです。ここで重要なのは本当は波という独立した存在は存在し得ないということです、波の範囲を明確に言い得ることは絶対にできません、ここからが波でここからが波以外など説明できないはずです、ですが自我(思考)はそこを曖昧にしながらも確実に存在するかのようにあらゆる説明をしていきます。だからこそ自我は常に不安でいっぱいなのです。この曖昧な盲点に気づかれてしまったら自身は即消去されてしまいます。

無心になって取り組んでいたら時間があっという間に経っていた

無心=全存在=時間はなくなる

無心になって物事に取り組んでいたらいつの間にか2時間以上経っていた、、これは何が起こったか?それは無心になることで自我が消えてなくなりその瞬間に全存在になっていた、結果時間がなくなったということです。無我夢中になっていると時間が経つことを忘れると言いますがこれは間違い、時間がなくなったのです。海、全存在には時間がありません、時間があるのは分離意識の世界、海ではなく波、全存在ではなく分離した人間の状態の時です。分離するとそこには空間、距離が生まれます、すると空間から空間まで移動するために時間が生まれます。ですがこれは海の世界、全存在の世界では空間、時間はありません。移動がないからです。

やりたくないことを嫌々やっていると時間が経つのが異常に長い

やりたくないことを嫌々やっている時、時間が経つのが異常に長く感じた経験はないでしょうか。これも当然のこと、思考全開、感情全開、自我全開の世界は無我、ワンネス、全存在であることを最も忘れている状態、、これは不足感、欠乏感、飢餓感全開の状態なのです。究極の時間、空間の世界が広がります。

何かを成し遂げた達人がエゴまみれ、自我まみれに陥るケース

有名ミュージシャンである小室哲哉さんが借金を重ね最終的には詐欺で捕まった事件がありました。あれだけでの音楽家ですから音楽の制作過程においては無心になって無我夢中になってつまり究極の至高状態で作品を制作し続けたはずです。何よりも音楽活動自体を楽しめ活動に専念すればするほどに無欲なっていくはずなのに彼の場合は結果逆の状態にお金を湯水のように使いさらに借金、詐欺と無限地獄に陥りました。これを自我・無我理論で説明すれば簡単、無我夢中、無心で作った音楽活動で得た成果を自我が悪用した結果になります。莫大な収入、地位、名誉を自我が不足感解消に使い続けたわけです、ですがこの自我の不足感が解消することは絶対にありません、つまりどこまでも使い切り最後は無限地獄に陥りました。彼は音楽活動以外の活動時は自我全開、不足感全開状態になってしまったということです。音楽活動で得たはずであろう無心の境地、無我の境地をその他の生活に応用できず、圧倒的に分離した人間活動に利用されてしまったことになります。

悟った人はいない、、という言葉の意味

夢から覚めるのはこの夢の創造主「I am」

この体は私だ、この思考こそ私だ、、、この発言の主は自我です。私の名前は山田太郎だ、、、の私こそ自我です。これは本当の私が見ている夢の中で主人公とされている人間が叫んでいる「セリフ」です。私はこの事件の被害者だ。私はこの建物の所有者だ、、、この夢の中、ドラマの中で繰り広げられる中での私は自我です。そしてそれをひたすらにずっと認識し続ける存在こそが本当の私です。私はただ在る。この夢そのものでありこの夢を認識し続ける、見続ける存在です。ですからこのドラマの中に悟った人は出てきません、自称悟ったと語る登場人物は出てくるかもしれませんが悟とはこのドラマが夢だと存在が気づくことであり、それは自我の開放、自我の欠落、自我の消滅でもあります。と同時に自我ドラマでの登場人物の欠落、消滅でもあります。

夢の中での成功に価値はあるのか

夢の中での個人の成功に意味はあるのでしょうか?夢の中での個人の安定に意味はあるのでしょうか?答えを言えば意味なんて何もないということになります。夢の中での成功も失敗も豊かさも不便さも快適さも何もかもが夢の演出でしかありません。そもそもなぜ個人は何か目的のために動くのかと言えばこれが夢だと信じていないからです。この個人が見る世界がリアルな現実であるという確信のもとに日々動き回っています。静止をすれば苦しみが襲いかかってきます。

夢の中での失敗に価値はあるのか

夢の中での個人の成功に意味が無いように、夢の中での個人の失敗も意味、価値はありません。ですが夢の中での個人の失敗を絶望を生み出す可能性はありこの個人の絶望はそのままこの夢からの覚醒になる可能性はあります。あなたが夜見る夢で悪夢と呼ばれる夢を見ている際に非常に怖い出来事に巻き込まれそのまま飛び起きた経験はあるのでは無いでしょうか。これがこの世、この現実からの覚醒です。そういう意味ではこの夢の中での大失敗は絶望へと繋がり夢の終焉に向かう可能性はあります。