神は実在するのか?

我々が考えるような形ではない

私たちは物理空間に住んでいます、物質として形がある世界に住んでいます。ですが同時にネット空間もこの世界には存在します、ネット空間とは物質空間とは異なります。この物質空間と、ネットなどの情報空間を合わせてこの世界は成立します。では神とはどの世界に存在するのでしょうか、、、神とはこの物質空間、情報空間の大元です。この物質空間、情報空間を生み出す存在です。この物理空間、情報空間は神の影、反映、生写しのようなものなのです。

神の影ならば

もしもこの世界が神の影ならば、、なぜこの影同士は争ったり競ったりするのでしょうか???それはこの神の影の世界での経験を個々が所有するという大勘違い起きているからです。経験を所有する自我というのが実在すると信じる動きが起こり、、これによって各個人が全く分離した存在であるという大勘違いが生じます、これによって各個人が物を取り合うという現象が生まれるのです。ですがこの現象すらも神の影であり、、な何も問題は起きていないのです。

勘違いする個人の影響

個人という概念が誕生することで、、、神という概念が生まれました。個人という概念が生まれなくては神という概念も当然生まれません。つまり個人が神を生み出したのです。個人が生じる前に神という概念は存在しえないのです。そういう意味では個人こそが神という概念の生みの親です。個人とは神が神を再発見するツールなのです。

悟りに興味が湧くという奇跡

この世界で、、

この世界で、この幻想の世界で悟りに興味を持つ個人はどれほど稀な存在なのか????目の前に居る百人に聞けば2、3人でしょう興味があるのは。多くの方はこの幻想の世界で目の前の階段を登るのがやっとで悟りという階段外の概念に興味が湧かないのです。悟りに興味が湧くためには、、物理的満足、精神的満足を満たす必要がありその満足の結果それでも足りない何かに気づく必要があるのです。

個人は完全な幸福には至れないのでは?

つまりはこういうことです、個人は物理的満足、精神的満足を得るために一生懸命努力をするわけですがいつまでたっても本当の満足には出会えないわけです、、、すると悟以外には解決はないのでは???という発想が湧くのです。これは個人史上最大のチャンスなわけです、、悟りを開きたいという衝動が湧き上がるのは素晴らしいこと、奇跡的なこと、、、どんな偉業を成し遂げることよりも素晴らしいことです。

本当は、、

本当のところは、、見かけ上の個人に起きる全ての経験は、、、悟り、目覚めへの完璧な出来事であり、、そういう意味ではこの現象界は完璧なのです。見かけ上の個人は完璧な環境に常にいるわけです、目覚めにとって。ですいから今恐ろしいほどの苦難にあっていても、八方塞がりであろうと、、個人の目覚めにとっては完璧完全な状況であるということです、常に。

お互いが目覚めるために存在する

幻想の意味

真実はたった一つです、この真実にたどり着くために全幻想が存在します、、苦手な相手、結婚相手、友人、子供、親、、、全ての幻想がこの真実に導くために存在しているのです。ですから人間関係は常に苦しみが伴うのです、悟りが開かれる、目覚めが起きるまでこれはエンドレスに続くのです。マトリックスの映画に出てくるエージェントスミスはまさにこの役、主人公のネオが覚醒するまで誕生し続けていきます。つまりエージェントスミスは覚醒の最大の味方でもあるのです。

悟りが開かれるまで、、

この苦しみは、、悟りが開かれるまでエンドレスに続きます、成功を治めても、大金を得ても、名声を得ても、安定を得ても、、、確実に苦しみが終わることがないのです。それは大いなる勘違いをしているがためにです。大いなる勘違いはこの幻想の世界で食べていくには有利ですが同時に苦しみを生み出すのです。ということでこの苦しみを解消するには悟る以外にないのです。

悟りに興味が出たら

悟りに興味が出始めたならばそれは大きなチャンスです、、仕事、友人関係、などの物質的、精神的満足を追いかけても一切幸福になれないことに気づけたならば、、、本気で悟りに意識が向かうことになります。ですがこれは誰しもに起こることでは絶対になくだからこそこれはチャンスなのです。そしてそうなったらこっちのもの、仕事、友人関係、地位や名声などのために頑張るなど辞めてしまってただひたすらに悟りを追い求めます。そして追い求める存在自体が実は存在していないという気づきが起こるまでこれを続けます。

下部チャクラの不活性は、、、現実を退屈にする

退屈な野生動物は居ない

退屈に悩む野生動物は、、、この現実の世界では存在しません、、、、退屈とは人間特有の状態です、、退屈はどうやって生まれるのか????退屈は五感が閉じた時に起きます、、、、五感が閉じ切って、、、この幻想の世界を感じることができなくなった時に、、、退屈が襲っていきます。そしてその退屈を解消するために思考をフル回転するのです、、つまり妄想で満足しようとする動きが起こります。ですが野生動物にはこれが起きない、、、それはこの現実が全く退屈ではないからです。

五感を野生動物並みに

五感を野生動物のように開いていきますと、、、、このありのままの世界がありのままに見えてきます、、、ただ街を歩くだけで、、、、背景に光が輝くのです、、、白い光の中から物体が生まれるのが分かります、、味覚が研ぎ澄まされ、、、全てが美味しくなります、、、、、音に静寂が宿り、、、、、、喧騒でも静寂を感じます、、、全ての現象に神が宿るのです、、、これが悟りの階段です。

下部チャクラを開く

下部チャクラを開きますと、、、、この幻想の中の動きが大きく変わります、、、一番大きく変わるのは、、、この体という幻想です、、、この幻想が動くのです、、、、動き回りたいという衝動が起き、、、その動きは非常にシンプルです、、、そうだ、、、シンプルな動きこそが気持ちが良いという気づきも同時に起こるのです。そうだ、、、この地球は神の遊び場だ、、、、という気づきが起きます。。。。リーラです。今退屈ならば何も考えずに、、、下部チャクラを活性化させます。。。。たったそれだけで人生に活気が戻ります。

虚しいとは真逆

無限の現れ

今目の前に無限の現れが起こり、、、「私がそれを見た」が起きました、、、これは宇宙創造最大の目的であり、、これ以上の目的はここにはありません、、、、つまり、、、、我々は何かを見た、、、という経験こそが最大の恩恵であり、、それ以上の目的は実はこの世界には存在しないのです、、、、だから幼児は、、、、目の前の玩具に、、、、、夢中になり、、、、至福に至るのです。。。。。。。ですが大人は、、、、このおもちゃは私にとってどんなメリットがあるか????損得で思考し、、、、霧がかかった世界にいきます、、、、霧がかかった世界ゆえに、、、、探求を続けるのです。

全く何も見えていない

実は我々は全く物を見えていません、、、ありのままとは真逆な景色を見ています、、ゆえに、、、この世界は退屈だ、、、と感じ、、、、なんとかしてこの退屈な世界で、、、刺激的に生きれるかを探るのです、、、、ですが本当はこの世界は、、、、全てが神々しく、、、、それが見えていないということが、、、、この世界を苦しいと感じてしまう要因なのです、、、、、

今目の前に神が居る

幼稚園児が生きる世界は、、、神の鏡です、、、今神がそこに居ます、、、、、、、、ですが我々大人は、、、目の前に神が居ることに気づきません、、、、とんでもない不感症患者になっているのです、、、目の前の神に気づかない、、、鈍感人になっているのです、、、、、、、、幼稚園児は毎日が神の創造物で溢れています、、、、大人は、、、、体が鈍り切り、、、、目の前の神に気づいていないだけなのです。

体を解放する

幼稚園児と、我々大人の決定的違いは何か??????体が鈍感になってしまっているのです、、、感じる力が落ちているのです、、、、目の前の神に気づかないぐらに鈍感になっているのです、、、だから体を解放します、、、、積極的に体を緩めます、、、、緩めることで体を強くします、、、、緊張による強度ではなく、、、緩め切った状態からくる強度を高めます、、、、すると、、、、今を感じる力が増えます、、、目の前の神に気づきます、、、、これが悟りの道です、、、、ありのままに感じる、、、、ありのままに生きる、、、ありのまま。

観察の卒業

全ては観察から

自分が自由意思で何かをしている、、、という思い込みをしている人は、、、先ずはこのシステムを俯瞰して、、、、全ての現象の真相を理解する必要があります。今目の前の現象はどのように起きているのか???ここを理解する必要があるのです。実は「自分」など存在せず、、、自由意志もないことを言葉で理解します、、、するとそのような認識で観察する日常が始まります。あれ、、、本当だ、、言葉が勝手に現れ、行動も勝手に現れ、、全てが自分抜きで動いている、、、

この観察は十分に威力を発揮する

この観察は見かけ上の「私」に様々な気づきを促します、、この私という存在が実在していないということ、、周囲も実在していないということ、、、この世が幻想と呼ばれる理由、、、この世が一つと言われる理由、、経験しか起きていないということ、色即是空であるということ、、私は神だ、、ということ、、、全部が分かってしまいます、、、すると突然、、、観察する自分が消えます、、観察ではなく、、、生命、幻想、そのものになってしまう、、、

観察の卒業

最初は観察から始まります、、観察という実戦からスタートします、、、観察という行為からスタートします、、その行為によって様々な気づきが雪崩のように起きていきます、、これらの気づき、雪崩のような気づきが終わると、、、静かな静寂と、、見かけ上の私を取り巻く生命現象だけが残ります。友人と話をすればそこには間違いようのない自我の存在を想像します、、ですが直ぐに、、、真実に引き戻されます。

マリオが見た!

マリオが見たことにできる

この世界は幻想です、、、つまり我々はゲーム上のマリオに過ぎず、、、マリオが見るクッパも幻想です、、、ということはマリオがクッパを発見したときに、、「マリオ」がクッパを見たというのは幻想です、、、幻想は主体となってクッパを見ることは不可能です、、、幻想ですから、、、いやそんなことはない、、マリオには目があって、、網膜があり、、そこから中脳に繋がり、、、という一連の流れがあるではないか?????違います、、幻想とうとしてそれがあるのです、、、、幻想がクッパを見るのは不可能です、、、つまり、、クッパを見ることができるのは、、、視界そのものです。。。。「視界」が「視界」を見たのです。。。我々が見る「景色」を見ているのは「景色」です。

マリオが味わったことにできる

マリオが食事をする、、、口の中で味覚が広がる、、、、出来ません、、、なぜならばマリオは幻想であり、、実在しないからです、、、でも間違いなく、、味覚はある、、、舌にある神経が、、、脳に繋がり、、、残念!!!!それも幻想です、、、、「味覚」が「味覚」を感じたのです、、、ディスプレイが、、味覚をそのまま拾ったのです、、、起こる全部はその場で回収されます、、、、誰に????全体です。間違いようもない味覚が、、、「マリオ」「食べ物」の存在を幻想ではなく、、、、「実在」に感じさせていますが、、、これは感じていない、、、思考している。

「経験」を追求すれば、、、それに見合った幻想が広がる

つまりはこういうことです、、、これは無限の幻想ですから、、、、経験のアリバイを発見しようとすれば、、、どこまでもアリバイが続くのです、、、、全経験を証明するアリバイが、、、、この現象界、幻想界では誕生します、、、いつ誕生するのか??????発見しようと試みたその瞬間です。。。。マリオには当初は脳も、舌も、網膜も、神経も、、全く無かったのです、、、人間がなぜ????見えるのか???味わえるのか????と興味が湧き、、そこを探究した結果、、、それが現れたのです、、、全部が全部幻想です、、、幻想が見て、味わって、触れるというのは不可能なのです。

悟りというコンフォートゾーン

全俯瞰

悟りとは全部を俯瞰することです、宇宙の俯瞰です、、宇宙のシステムを体感として理解することです、、、体感ですからこれは簡単に伝わるわけがないのです、、、、、ですが我々はこの言葉を体感で獲得していきました、、幼少期に、、、これを悟りでもやるのです、、、、宇宙の俯瞰を七年間かけてやればいいのです、、言葉を覚えた時のように。

全反射

見かけ上の私が理解した悟りは全反射です、、、全ての現象はこの反射の塊、反射の永続、反射に次ぐ反射、、人間の言葉も感情も、行動も全生命の活動も反射が起き続けている、、、、その様は無限、、視点を変えれば無限の現れが続く、、、それを感じる、、その感じ方はまた無限、、、この無限の感覚、経験こそがそれだけが真実、、それ以外は幻想、、、この経験の寄せ集めが神、無限、空の存在、、、無限の経験の寄せ集めです。

全不自由意志

全部の行動、思考、活動はただの反射ですからここをコントロール存在「自分」など絶対に居ません、、自分という実在は当たり前に居ません、、、、全反射が起き続けるだけです、、この事実の圧倒的理解は、、究極の安堵です、、、この安堵感は恍惚状態であり、、、誰にも奪われることがありません、、、反射によるトラブルは毎日のように起きても、、、それが反射であるという圧倒的事実を把握した今、、、感情が乗ってこないのです。

生き辛さという救い

実は救い

生き辛いというのは実は救いです、、、今まあまあ幸せな生活をしているという実感は悟りを遠ざけます、、、快適よりも不快な生活の方が真剣に悟りを求めるからです。見かけ上の私は25歳ぐらいに悟り以外に道はないことを悟りました、、そこに気付けたのは苦しみ以外にありません。そこからの苦しみの全部は、、悟っていないから当然というどこか他人事のような苦しみに変わりました。

全ては悟りが解決する

私は全幸福の術は悟りしかないことを20代で悟りました。その結果、、、あらゆる苦しみの出来事を悟りのせいにできたのです、、、全苦しみは悟っていないから、、、、これは大成功であると同時に悟りへの衝動を維持できたのです。悟以外に解決はない、、、これは間違いのない事実です。どんな成功者も、、悟っていなければ確実に苦しんでいます、、むしろ手に入れた後の苦しみに毎日追い詰められているはずです。

ベクトルがまるで違う

何かを達成したり手に入れることでは人は絶対に幸福にはなれない、、、これが悟りです、、そして次の段階に至ると、、個人がそもそも居ないのですからこの個人を幸福にすることが実は不可能だったという気づきを得ます。個人とは、、実は錯覚で、実在していない、、、むしろこの錯覚を作り出す大元の存在、、それがこの私だ、、、そして見える全ては錯覚であり、、錯覚の中で経験だけがエンドレスに続く、、この経験だけは間違いのない真実、、この経験を寄せ集め、、、集積したものが空、神、絶対と呼ばれる無限の不在です。我々はこの無限の不在の鏡を今見ています。そして鏡に写った景色の中にこの体も現れ、、これを私と誤解しながら生きてきたのです。

見える世界が究極の現実に見えるのは、、

見える世界は究極に現実に見えます、、それもそのはずこの映像は無限の不在の姿だからです、、、無限です、、無限が映像化されているのですから、、、その緻密さは無限なのです、、、細胞はどこまでも細かく解剖できます、、無限の現れですから、、、知り合いを作ろおうと思えば無限にできるでしょう、、無限の鏡ですから、、、何もかもが無限、、、それがこの宇宙が無限である証拠です。

今この場所

今この場所が無限の現れです、、、つまりこの場所以外に何かを求めても無駄なのです、、、この場所で至福に至れなければ、、次の場所でも至れない、、、ということが自然と分かる、、ですがこの場所に縛られる意味も全く無い、、、場所とはどこも無限の現れ、、、このことが分かると、、人生の目的はこの私の欲望追求ではなく私の追求に変わります、、私とは誰だ???の追求です。

現実に住まない

同じ場所

同じ場所に居てもこの場所を幻想と見抜かず居る場合と、、完全に幻想であると見抜いてここに居るのでは、、、全く意味が変わってきます、、、ここを本当の実在の場所だと思えば、、この体も実在し、、ゆえにこの体には私という存在は実在し、、、と実在の連鎖が起こる、、、これは勘違いの連鎖と言ってもいいでしょう、、この勘違いの連鎖は輪廻転生、、、時間を超えて起き続けるという無限ループに入ります。本当はこれは幻想であり、、ゆえに目の前にはただ幻想が起こり、、、我々はただ経験だけをしている、、、そこには何の意味もなく、、ただ経験だけが積み重なっていく、、、、この体も幻想ですから私など居るはずもなく、、居るという思考だけがある、、、、

随分違う

要は同じ場所(幻想)に居ながら、、まるで違う展開が起こっていくのです、、、、真実に住めば(住む自分は居ない)静寂、平和が漂い、、、この自分に執着すれば苦しいが続く、、、これだけです、、、これを幻想と見破ると、、、鳥の声さえ神々しく聞こえ、、、太陽の光も神々しい、、、なんという幻想、、、何という緻密で正確な幻想、、、、なんという感覚、、、、と感動が嵐のように巻き起こります。。

感動の嵐

これが幻想だと思えば、、、、見かけ上の私が行く場所、行く場所にとんでもない、、、展開が広がり、、、、世界はエンドレスに湧き上がっていきます、、、、、品川駅に着いたら、、、何も無かった、、、が起きえない、、、、毎秒毎秒現象が起き上がり、、、、去っていく、、、、これが寂しいとか、切ないとかではない、、、、壮大な神のアートです。。。。