大谷翔平の活躍で人は救われるのか?

救われない

純粋にひたむきに頑張ればどこかで必ず結果が出る、だから自分も今を頑張ろう!!大谷翔平のように。大谷翔平がこれほどニュースを賑わすのは彼の活躍を見て気分が爽快になったり、頑張ろうと思たり、日本人の誇りと思えるからです。ですが彼の存在で人は本当に救われるのでしょうか???答えはNOです。なぜならば彼のように頑張れるか否かは神のみぞ知る、あるがままぞ知るです、、誰にもコントロールする力はないのです。

大谷翔平すらもない

大谷翔平が急遽野球に興味が無くなり試合がどうでもいい、となる可能性はあります。そこに関して大谷翔平は全くのノーコントロールです。。多くの人は大谷翔平ならば努力を怠ることはない、、そう断言するでしょうが、、実は大谷翔平にも誰にもそれは分からないのです。そしてそのことを全員が本質的には気づいています、だから実は本質レベルでは彼の活躍は誰も救っていないのです。

今頑張れている人だけ

俺は今頑張っているぞ!そう感じることができている人は大谷翔平から多くの勇気をもらえるでしょう。ですが今全然頑張れていない人にとっては、、大谷翔平の活躍は耳が痛いはず、、、つまりその人のおかれている条件によって変わってしまうわけです。本質とはそのようなものではありません、本質は至福であり全員が至福の中に居るのです。全員がいつか必ず救われるのは全員が至福で出来ているからです。マリオもクッパもピーチ姫もルイージも全員がスーパーマリオ(至福)のアートです。

誰にも救ってもらわなくてもいい

誰かに救ってもらわなくていけない人はいない

私たちはあるがままのアートです、神のアートです、ですから誰にも救ってもらわなくて必ず至福に至ります。至福が作り出したアートの一部ですから原料は至福なのです、つまり今苦しんでいること自体がゲームなのです。至福という原料で作り出したゲーム上で苦しいという感情を楽しむゲームをしているのです。そしてそのことを全員が本質的には分かっています。

幼少期は至福そのもの

私たちは幼少期至福そのものでした、自我が目覚めるまでは至福そのものだったのです。ところが自我が目覚めるとともに苦しみが襲ってきました、至福ではなくなってしまったのです。ですが全員が幼少期の至福感を覚えているのでなぜ私の人生はこんなふうになってしまったのか???と疑問に思っているのです。これが現実だから、これが人生だから、、、いやでも昔はこんなふうじゃなかったような、、です。

至福という原料で作り出した壮大なアート

この世界は至福という原料で作り出したアートです、核兵器も遠隔魚雷すらもまさかの至福という原料で作られています。ですからこの世界が争いが絶えなくても、、それさえもアートなのです。死人がでてもそれも至福が作り出したアートだということです。争いも親睦も競争も助け合いも全てが神、あるがままのアートです。そして自分自身と思っていた存在も神のアートに過ぎないことに気づくと自分が神に再吸収され至福に至るのです。

真実と概念は違う

私たちが信じているのは概念

ノンデュアリティ、悟り、非二元のメッセンジャーが伝えるのは真実です、真実は概念ではありません、、、言葉という制限されたツールで真実を伝えていくわけです。多くの人が信じているのは概念です、概念は真実ではありませんからこの概念の中に生きていることで苦しみから解放されないのです。もし今自分が苦しいならば概念の世界に居る、ただそれだけです。

真実と観念は違う

真実と観念が異なります、真実は真実です、、観念とはその人が信じている考え方、概念です。それぞれの人はその人の観念を持ち、その観念に影響された幻想の中に生きているのです。この幻想の世界は苦しいので早くここから出たいと本質レベルでは感じているのです。友人が少ないと寂しく、友人が多いと人間関係が複雑で疲れる、、どこまでいってもこの世界は苦しいのです。

お金を得ても人気を得ても苦しいのは観念の世界に居るから

「自分」がこの世界に生きていると思っている間は常に苦しみに襲われます。「自分」がお金を得て、人気を得ていると思っている間は苦しみに襲われ続けます。なぜならばそこは本当の世界ではないからです、そしてそのことを本質では常に感じています。だから人は救いを神に求めるのです。ですが神とは「自分」とは異なった違う場所にいるのではなく今ここ、「この私」すらも含めて神なのです。今見ている世界そのものが神自身のアート、神そのものなのです。

このことをみんなに伝えてあげなくちゃ

真実の少しでも触れた人間は周囲にこれを伝えなくては!!と思うはずです、ですがそれは喜憂、無駄、大きなお世話です。なぜならば「私」も「あの人」も「この人」も全部あるがまま、神のアートですから最初から救われているのです、あるがままのアートが救われないのならばあるがままはあるがままではなくなってしまいます、神のアートが救われないのであれば神は神ではなくなってしまうのです。ですから全員が最初から救われているこれは神の、あるがままのアートなのです。そしてそのことも全員が本質的には分かっています。

愛おしいしかない

全生命現象に優劣はない

今目の前に広がる全現象は全てあるがままの現れ、森羅万象の現れです、、、この現れに優劣など一切なくあるのは愛おしいさのみです。もしも現象に優劣がつくのならばそれは個人というフィルターを通しているからです。個人の物差しというものを通して見るから現象に優劣、正悪、長短、愛憎が生まれるのです。そしてこの個人という存在は実は実在しないのでそれは幻想です。幻想の物差しを通じて現象を眺めることで愛憎が生まれるのですからこれは圧倒的に損なのです。

戦争を起こす極悪人も愛おしいのか

戦争という幼稚な行為を起こしてしまうのは幼稚園児のようなものです、幼稚園児を愛おしいと思うことはおかしくないはずです。例えば人を殺めてしまうのもテロリストも幼稚園児のようなものですから愛おしいのです。子供が悪口を言い合って争っている姿は愛おしいですよね、大人が幼稚園児のような精神状態で争っているのが戦争です。戦争を肯定しているのではなく起こす動機が幼いということです。

子供の時は嫌な奴だと思っていたが

子供同士の時はおもちゃの取り合いで争い本当に憎たらしいと思っていた友人も大人からみたら愛おしい存在です。これは大人も同じ、戦争を起こす当事者同士にとって悪魔なような存在に見えても一歩上から眺めれば愛おしい存在でしかないのです。逆に言えば愛おしいと思えない存在は個人という幻想のフィルターを通じて見られてしまっています。

猫同士が真剣に争っている

猫が真剣に縄張り争いをしている時、致命傷を与えるような傷を与えることをあるでしょう。ですがこれを人間が眺めば愛おしい争いです、それぞれが真剣に生き抜くために争っているのですから。何がいいたいかと言えば全てが愛おしく見えるということは決して嘘ではなく本当なのです。あるがままの視点で全現象を眺めるそのような気づきが起きます。

あるがままから解釈の世界へ

あるがまましかないのに

我々はあるがままの世界の中に解釈を持ち込み、あるがままの世界の中に自分、相手、机、時間、空間、仕事、政治、会社、学校と次々の物体を作り上げていきその世界に取り込まれていきます。本当は何もないにも関わらず言葉で作った世界に取り込まれていきます。もちろんこれは自動反応ですからこれに意図を持って抗うことは不可能です。人間は意図を持てないのですから。これは騙し絵と同じ、自身を老女であると信じ込んでいき最終的に老女の存在を絶対的なものになっていきます。

言葉が作り出した解釈の世界

野生動物が生きる世界には分離が存在しません、なぜならば彼らは言葉を所有しないので分別することができないからです、世界の中に孤立した存在を作り出すことができません。人間は言葉であるがままを分断分離していき独立した存在同士の世界に切り替えることができます、ただしこの行為は自動的に起きてしまうがゆえに人間はこの流れに無力です。そして世界には自分しかいない、自分は孤独だ、寂しい、、となっていくのです。完全んな一人芝居ではあるのですがこの流れは自動で起きるので起きた瞬間にその世界に入り込むのです。

解釈の世界にはあるがままはない

解釈の世界にあるがまま、本質の世界は存在しません、あるがままが作り出した解釈の世界に突入したらその中で閉じ込められます、なぜならばあるがまま、本質を探しているのが自分というまた作り出されてしまった幻想だからです。騙し絵の中の老女が若い女性を探し出す旅こそが世に言う探求者です。真実を言えば老女の存在で若い女性を見つけることは不可能なのです。自分という存在ありきではあるがまま、本質を見つけることは不可能です。

自由意志もそれを所有する自分も存在しえない

名前がつけられる前、花も人間も、犬も、猫も、太陽も、地球という独立分離した存在など実在しませんでした。ですが言葉を使って分断分離し錯覚することで実在しているかのうように思い込んでいるだけなのです。ですから当然この自分という存在も実在しません。実在しない自分という存在のままでは苦しいので、、悟りたい覚醒したいとなるわけですが、、自分という存在を認めた状態こそが幻想の世界に閉じこもる行為であるという矛盾には気づけないのです。

完全自動で悟りが起こる

私たちは悟りに関しても完全に諦めてしまって構わないのは、、悟りに至るプロセスの中で自由意志でそこに至ることは不可能だからです。騙し絵の絵に気づく過程において自由意志というのは一切存在しないのです、ですから我々は完全受け身、完全受動の精神でここに至るのをただ待つ以外にないのです。自由意思というのも完全な勘違いですから先ずはこの自由意思を否定することが逆にスタートにすらなるのです。独立分離した「私」が自由意思で悟るという行為こそが究極の勘違い、幻想に閉じ込める行為そのものです。

「自分」が悟るのではなく、、

これはもう騙し絵の世界ですから重要なことは騙し絵の世界の騙しに気づく以外にありません、「私」「自分」は騙し絵の世界の住人なのでここではその存在を一旦横に置いておく必要があります。その上でこの世界がいかに勘違いの世界なのかだけに気づいていきます。すると、、、どこかで、、あれ、、私もいないし、自由意志もない、猫も、花も、海も、空も、、全部独立などまったくしていない、、、と突然の気づきがおきます。これまでずっと悩んでいた「私」など存在していなかった、、という気づきが起きます。そしてこの一連の流れの中にも自由意志は一切存在しないのです。

明日晴れるかな

言動の全ては天気

明日の自分の精神状態、明日の自分の行動は全て明日決まります、勝手に。天気予報は当たる時もあれば外れることもある、、そしてこれを責任を取れる人は誰もいません。人間の心情、言動もこれと同じで、、天気のようなもの、、誰にも予想はできないし、誰も責任を取れないのです。だから今日1日の自分の言動、精神状態に一喜一憂する必要は全くありません、全ては天まかせ、神任せです。

コントロールできないことを悟ると

自分の心情、言動を一切コントロールできないことを悟りますと奇跡が起き始めます。何も期待をしなくなるからです、明日こうしなきゃ、ああしなきゃが消え去る、、、なぜならば誰もコントロールできないからです。期待すれば期待するほどほとんどの期待は裏切られるわけですから最初から何も期待しないのが一番精神衛生上良いのです。

人にも優しくなる

自分自身の行動を全くもって自分がコントロールできないことを悟りますと、、人に優しくなれます、、なぜこんなことをしたんだ、なぜ約束を守れないんだ、、、こんな気持ちが湧いてこなくなる、、、なぜならば誰も自身の行動をコントロールできないことを分かっているからです。人に優しくなれますと、、人からも優しくされます、、そしてそれは何かを狙った優しさではなく、、真実に触れることからくる優しさですから疲れないのです。

思い通りにならない

この世の苦しみ

この世の苦しみを一言で説明すればこれになります、思い通りにならない、、です。思い通りにならない、とは個人が考えるような理想に全く近づかないということになります。ですが実際にはそうではなく理想通りにいけば次は物足りないが生まれるのです。楽勝なゲームを想像してみてください、簡単に辞めてしまうでしょう。つまり思い通りに進めば退屈で、思い通りにいかないと苦しむ、、、これが人生なのです。そしてそのような人生をまさに神は望んだのです。全知全能の神にとって無知無能の人間活動は自身(神)は全知全能であることに気づかせてくれるのです。

これが分かってしまえば

これが分かるということは自身が神であるということに気づいたということです、このような人間活動を作り出した大元こそが自分であり、、これまでの体に宿った自分は幻想に過ぎないということです。すると自然にこの体の中の自分の衝動、欲望、感情に振り回されなくなっていきます。なぜならば本質の自分はそこには居ないからです。本質の自分とはこのゲームを成り立たせるシステムそのもの、、システムですから時間も空間も実は存在しません。幻想として時間、空間は存在します。

個人の思い通りになどなるわけがない

簡単に言ってしまえば個人など存在しません、幻想として存在します。その幻想はどこまでいっても幻想ですから何かを動かすパワーなど存在しないのです、、結果個人という幻想は日々周囲に振り回されることになります。そして個人という幻想を信じ続ける限り苦しみが終わることはありません。

無知無能

無限の体験

全知全能の神がそのまま人間をやればこれは全知全能ですからなんの体験も生み出しません。人間は全知全能ではなく無知無能、、だからこの人間主体の体験は新しいのです、無限の体験を生み出してくれます。ですがこの無知無能の体験は常に苦しみを生み出しますから出来る限りここから去りたい、ここを抜け出したいという衝動が起き続けるのです。この衝動こそが人間体験を神体験まで昇らせることになります。

1億円プレゼントされて断る人間はまずいない

宝くじで1億円当たったけれど取りにいくのが面倒だから行かない、、そのような人間は稀です。それはなぜか???人間は今苦しいからです、苦しいから1億円でもしかしたら楽になるのでは???と期待します。ですが実際には1億円で苦しさが消えることはなく、、、ゆえに人間はお金に絶望したら名声、評価、生きがいと次々に次の獲物、目標に走るわけです。ですが自分自身を小さな小さな個人であると勘違いしている期間は満足が起きるわけがなくこの戦いはエンドレスに続きます。

全部を手に入れて

全部を手に入れることには意味があります、、、腹の底から「手に入れるでは、、満足はない」を実感できるからです。この時に次の目標に向かって頑張る、、は起きない、、、その時には、、、この自分というカラクリが嘘であることを実感したい、悟りを実感したい、全体であることを思い出したい、、、に目標がシフトします。この目標は最後の目標であり、、個人の達成の終焉です。

必要性を持って悟りが閉じた

最初から悟りが開いていたら

最初から悟りが開いていたらこの世界で不自由、不幸、孤独、というあらゆる不快感は皆無です。絶対の影であるこの世界は無限の体験を積む場所ですからその中では当然不幸、孤独、辛酸も味わうことになります、、これらの感情を味わえないとしたらこの場所は無限体験の場所では無くなってしまいます。ということでこの世界はしっかりと悟りを閉じてこれらの感情を味わい尽くす場所でもあるのです、、ですから悟り本を読んで一気に覚醒とはならないわけです。

とはいえ、、、

物質的満足、精神的満足を達成してしまったらもうさらに何かをという衝動は起き得ないでしょう、、そんな時には必然的に悟りに興味が行くはずです。自己実現を達成しやりがいのある仕事に就き収入も良い、、周囲かも評価を受ける、、、すると、、、悟りに興味が行くはずです。そこしかもう目指す山がないのですから。個人の限界を限界まで感じるわけです。

物質も精神も幻想

物質も精神も同じ

物質は常に移ろい変化していきます、精神もこれと同じ常に揺れ動き変化していきます。この二つは全く異なるようでいて移ろうという意味では全く同じなのです。そしてこの移ろうものは固定化されて確かなものではないのですから完全に幻想です。そしてこの物質、精神という幻想に気づくことができるのは幻想ではありえないわけですから我々の本質は自我という幻想ではなく、、絶対、根源であることが見えてきます。つまり移り変わらない完全な存在なのです。

移り変わるようでは絶対ではない

絶対には変化がありません、絶対はそのままで絶対であり、、そのままで無限でありそこには変化は起きようがない。なぜならば絶対に変化が起きてしまったら、、この幻想界、現象界の出来事に気づくことができないからです。つまり先ずは絶対的な存在があり、、その鏡の中に映る絶対の現れ、無限の顕現化があり、、それにただ気づくが起きているわけです。この気づくも絶対の中では起きておらず、、気づくは絶対の外で起きます。この気づく存在を神、真我、気づきの意識と呼びます。

色と空は最初から一つ

空があって色は次に現れたのではありません、、、最初からこの二つは同時に現れました、、空には時間など存在しませんから、、色即是空、空即是色がある。、、これで終わりです。そして空が延々であり、色が永遠であり、、気づくが延々に起き続けるのです。空の中には変化は一切起きず、、色は無限の現れとして変化が起き続ける、、そこに気づくという現象が起き続けるのです。空の中に最初から色があったのです。