あなたが絶望的なのは実は頭が良い

自殺願望

生きていてもいいことないし早く死んだほうがマシかも、、、結局生きるっていつまで経っても大変だからそんなに長生きしたくないかも、、、、死に対して実は肯定的な人って多いんです。ですがこれって決して自暴自棄とかそんな浅いものではないんです。この「私」この「自分」という存在は絶対に絶対に真の安らぎには到達できないんです。そうなっちゃてるんです、構造上。この世界から安らぎ平和を消し去っているのはこの「私」「自分」という感覚なのです。

自分が居なくならないと結局無理じゃね???は正しい

死ななきゃこれは解決しない、、という考え方は実は的を得ているのです。この体の中に自分という感覚をしっかりと持ったまま真の安らぎには到達できないんです。ですが死なないとこれは解決できないというのは実は真実ではありません。この体の中に自分が居るという感覚を手放してしまえば、、もう苦しめないということになります。ではどうやったらこの感覚を手放せるのでしょうか?????

「麻原彰晃は神だ」という洗脳

オウム真理教の問題が起こった時に注目されたのは信者の洗脳でした。「麻原彰晃は偉大な神だ」のような洗脳が信者にガッツリと入っていてこれが取れないのです。信者は彼を人間ではなく神と信じ切っていたのです。これは実は人間も同じ、この体の中に自分が居るという感覚は実は洗脳なのです。この洗脳があまりに強固なゆえに取れないのです。だから長生きしたくない、、という人が居るのです。

真実はシンプル

真実は大変シンプルです、、この体の中に自分が居るという洗脳が嘘を嘘で塗り固めるために、、複雑怪奇になっているのです。本当は至ってシンプル、、シンプルすぎて信じられないくらいなのです。ですから真実を理解するのは理屈上は全く難しくないのです。分かっちゃえば分かっちゃうということ、そして一度真実に関心が向けばもう戻ることはないでしょう、なぜならば他に関心が行くことに興味がなくなるからです。

全ては手放すことのトレーニング

誰かが奪いにきても

仮に誰かが私からお金なり何かを奪いにきたとしましょう。これも手放すトレーニングになります。なぜ見かけ上のその人は私から何かを奪いたいのか???それはその人が盲目だからです、「この体、この思考、この感情こそが自分」と信じているために、、常に憤りを感じ、、それを解消するために苦しんでいるのです。これだけ私は苦しんでいるのだから奪ってもいいという思考が湧いてきます、そして奪いにきます。そして私からなにかしらを奪うことに成功したとしてもそれを享受するのは「この体この思考この感情が自分」という思考ですから、、憤りは当然消えることはなくまた人から奪うが続くのです。

この経験を活かす

人から奪われるという経験をいかに活かすか????貧しさの根本原因です。「この体この思考この感情が自分」という信念、観念を持つ限りこの貧しさを解消できないということ、、そしてこのドラマの中で誰かが私から何かを奪いにきたということは、、私の信念が投影されているという事実です、そこに気づくのです。この現象が一番教えてくれていることは自身の観念です。

人から何かを奪うなんてありえない

「この体この思考この感情が自分」という観念が緩んできますと、、人から何かを奪うなんてありえない、、、そういう観念も現れます。そうなりますともう私の周りでそのような人が登場することはないでしょう。そして仮に現れたとしても感情ではなく冷静に、、「NO」を突き付けれるはずです。なぜならばこちらは既に精神が豊かだからです。豊かな状態で感情的になるのは不可能です。

今に居るその瞬間までこのトレーニングは続く

「この体この思考この感情が自分」という観念を持っていると、、そのままドラマに入り込みます、そのドラマは自身の観念が投影された世界が広がります。このドラマの中でこの観念のトリックを見破らない限りはエージェントスミスが観念を投影した役として登場し続けるのです。好ましくない状況が起きた時こそこのトリックを見破るチャンスです。

見た目を異常に気にする人の心理

見た目=自分自身

「この体この思考が自分」という思考を真実だと勘違いしている人は、、、見た目を異常に気にする、、という可能性が高くなります。この体=自分自身ですから、、この体の評価=自分自身の評価です。つまり見た目を異常に気にすることが起きるのです。そして見た目を否定されるということは同時に自分自身の存在そのものを否定されることになり生きていけない、、となります。年齢を重ね自身の見た目に自信が無くなってくると途端に老け込む、、という場合もあるでしょう。

見た目の誹謗中傷、賛否が異常に多い理由

SNSでは可愛い!!キュート!!神!!!と見た目への評価が異常に多いのはなぜか????皆この体を自分自身と定義しているので、、そこを評価したくなるし評価されたくなるのです。SNSで自身の写真が評価を受けると自分自身の自己評価が上がり、、酷評されれば死にたくなるほどに自己嫌悪に陥るのです。「この体が自分」という間違った固定観念がそうさせるのです。

大いなる存在=自分自身

大いなる存在=自分自身とアイデンティティのシフトに成功した場合、、、もう見た目の評価で一喜一憂することがなくなります。見た目の否定=自分自身の否定にはならないからです。見た目は大いなる存在の表現の一部になります、その時評価は遊びの一つになるのです。小さい子供が見た目を気にしないのは「この体が自分自身」という概念が強化されていないからです。大いなる存在の表現としてまだそこに居るのです。

魂を知り恐れが減り大いなる存在を知り恐れが消える

スピは悟りのウォーミングアップ

見かけ上のこの私は、、俗に言うスピリチュアルという分野によって大きく救われました。江原さん、美輪さん、バシャール 、神との対話、、、、魂という存在を知ることで、、、それまで信じ込んでいた「この体この思考だけが自分」という強烈な柵が壊れたのです。そうかこの体の中に居る魂というのは不滅で失うことはないんだ、、、そう信じた瞬間に、、急激に恐れの感情がぶっ飛びました。今世は思い切りやりたいことをしっかりやろう!!!!です。魂という永遠不滅の存在があるならば、、もう怖がるものは何もないぞ!!!!です。

楽しんで楽しんで楽しみ尽くすぞ!!!

30歳ぐらいかそのようなノリで生きてこれてはいたんですが、、止まっていると苦しい、何か新しいことにチャレンジしていないと苦しい、、、楽しいジャンキーになっていたのです。おかしい、ジャンキーって結局は病気ですよね。苦しいが根底にあって動いているんですから。つまり恐れからはかなり解放されはしたが「苦しい」はそのままだったのです。このままこの人生楽しいジャンキーになって生きていくのも辛い。。。。その瞬間悟りに強烈な興味が湧いたのです。

苦しいも消したい!!!

「この体この思考だけが自分」を信じ切っていた時代は、、とにかく失敗をしてはいけない、、失敗などしたらこの一回きりの人生が台無しになってしまう、、、そう信じて怯えて生きていました。魂を信じていた時代は怖さはないが楽しいジャンキーでした。そして今悟りに目覚めてからはどうか????苦しいがないんです、、苦しいが湧いてこないから、、楽しいを求めない。どこかに行きたい、何か新しいことを、今日という日がもったいない、、が湧いてこないんです。

静寂、平和、至福を楽しむ

個人が何かをするという感覚が薄れ、静寂、平和、至福の密度が濃くなっていく。私がこれをやりたい、あれをやりたいではなく、、ただ静寂、平和、至福の密度が上がっていく。平和だからこれをやろう、静寂だからこれをやろう、至福だからこれをやろう、、という本来求めてきたものが最初からある状態にあります。

二元性の世界を作り上げるもの

二元性に見える世界を作り出すもの

神とはつまりこの二元性に見える世界を作り出す全てです。実際にはここには経験しかありませんから二元性ではありません、二元性に見える世界です。この二元性に見える世界はいったい誰が作ったんでしょうか????それが神と呼ばれる存在です。神がこの二元性に見える世界を作ったんだとすると、神とこの世界の二つができてします。神と二元性に見える世界の二つが存在してしまうと、、神以外に世界が存在することになり神は完全ではなくなってしまうのです。そのため神がこの二元性に見える世界を作ったのではなく神=二元性に見える世界となります。

神がこの自分(体と思考)を作り出し、、

神がこの自分(体と思考)を作り出し、、、この二元性に見える世界に堕した、、この自分(体と思考)が堕天使であり、、その堕天使がこの二元性に見える世界で遊ぶ、、、というのはよく聞く話です。ですが神とこの自分が別物であったとしたら、、神は完全ではなくなってしまいます。自分(この体と思考)は神の一部となります。二元性に見える世界は神であり、、この自分も神の一部ですから、、、この自分そして二元性に見える世界も全部神そのものです。

「この体とこの思考が自分」という思考も神の一部

二元性に見える世界は神そのものであり、、その中で活動する「この体この思考は自分」という思考も神の一部です。そしてこの二元性に見える世界で起こることは、、、経験のみ。この経験をかき集めて神です。どうやらどこをどう探しても神しかいないのです。どこを切り取っても神しか居ないのだから、、、私は神です。何もかもが神の自己表現、アートです。

老後が心配で心配で

今の苦しみが解っていないのに

いまなぜ苦しいのか?今なぜ不安感があるか??今なぜ不満足感があるのか???そこを理解していないにも関わらずもしくは理解していなからこそ人は自身の将来について不安になります。今ですら不満足なのに老後なんてもっと哀れになるのではないか????独居老人、孤独死、、、怖い怖い。ですがこれらが杞憂に終わるのは、、なぜ今苦しいのか????この答えがないからです。

若い時の焦燥感

若い時、体は自由に動き回り頭もキレる、、、、にも関わらず若い時期はなんか尖っていた、、若い時は常に怒りの感情が、、若い時っていっつも寂しくて、、、、聞いたことありますよね!!!!健康なはずがなぜか精神状態は荒れ荒れで、、、、です。なぜか?????「この体と思考が自分」この思考がより鮮明に描かれるからです、イメージ化されるからです。これによって孤独感分離感も鮮明に上がるということです。なんで若い時はあんなに苦しかったのか???それは偽りの自分という存在をありありとイメージできてしまう、、、、こんなトリックがあります。

頭が良い人ほど、、、

鬱病になるって頭が良い人が多いんです、、、こんなこと聞いたことがある人は多いはずです。思考がそのまま感情を作り出しますから、、その思考が真実から離れれば離れるほどにネガティブな感情が湧きます。ネガティブとは分離のことであり、、分離とは真実では絶対にありえないのでこれはあくまでイメージでしかありません。そのありえないことを頭あ良い人はイメージの中で描き続けることができるのです。結果ネガティブな感情も維持し続けることになります。頭が良い人はあるがままの世界の中に壮大な分離の夢を描くのです。

頭が良い人が真実に気づくと

頭が良い人はたったひとつの統合したエネルギー、至福の世界の中に思考でもって壮大な分離の夢、ファンタジー、幻想を描き、、ネガティブな感情を湧き出させ苦しみ続けます。この事実を頭が良い人が理解しますともう同じ過ちを犯さなくなり、、ベクトルは真実追求に向かうのです。イメージしたドラマが真実とあまりにかけ離れていただけだった、、ならば真実に気づけばいい、、となります。真実が思考の先にある真実に意識が向くのです。この体この思考そこが自分という仮説はあまりにもリアリティがあるために騙され続けてきましたが、、これが偽りであることは明白です。なぜならばネガティブ(分離)な感情がそれを証明しています。

毎週毎週みんなでパーティー

Facebookを見れば、、、毎週毎週パーティー三昧、、そんな方を見ますが、、、これって簡単な理屈、、、「この体この思考こそが自分」という徹底的にネガティブな思考がネガティブな感情を生みますから、、、それを解消するためには多くの人と分かち合って再統合したい、ポジティブな感情を感じたいという欲求です。個人という孤独な存在(イメージ)だからこそ多くの人と分かち合い(統合)、、ポジティブ(統合)の感覚を得体わけです。ですがパーティーが終わればまた一人(イメージ)を強固にしますから毎週パーティーが必要になるのです。

スクリーンが何かを成し遂げたいなど思うはずがない

全体、スペース、スクリーンはそのままで完全

我々の本質はこの現象を映し出すスクリーン、スペースです。この全体であるスクリーン、スペースが何かを成し遂げなきゃ、、、などと思うはずがなく、、、それらの感情、思考は「私が居る」という洗脳が生み出したものです。つまり完全なる現象です、その思い自体が。スクリーン、スペースは我々の本質、本性なのですが、、もしも脱洗脳、アンインストールが成功し「私が居る」がないのならば、、何かを成し遂げたいという思考は湧いてこないでしょう。何かを成し遂げたいという思考の現象は「私が居る」という洗脳とセットです。

在る、在る、在る、、、、からこの私が在るへ

在るという感覚、、これは幼児ですら持っています、、、在るは動物も持っているはずです。在るという感覚、、、これだけは失うことのない感覚なのです。在る=仏性、キリスト意織、神意識です。この在るという感覚と、、、この体が在る、、、という気づきが起き、、、次のこの体として在る、、、、この私(体)として在る、、、と洗脳が進んでいきます。最後は私は〇〇という名前で在るになります。気づきの全てを、、この私が気づいた、、になっていくのです。すると同時に不足感、違和感、分離感が湧き起こり、、それを埋めるために解消するために、、、何かを成し遂げなきゃ、、、が生まれます。

スクリーンに何かが上映された瞬間、気づく、在るが生まれる

スクリーンに何かが上映される、スペースに何かが現象化する、、、その瞬間、、、それに「気づく」が生じます、、「在る」が生じます。そして上映、現象化は随時行われますから、、気づく、在るが永遠に続くのです。これが我々の本質そのものです。その中でこの体は常に現象化、上映されますので、、この体が「気づく」「在る」全ての現象、上映を。。。。。という真実ではない思考が湧き上がり、、、それが定石になっていきます。この体が現象に気づき続けるので(誤解)、、、、この体の中には全てに気づく『人格、アイデンティティ』が存在するはずだ、、という思考も起こるのです。

そしてそれをお互いに共有する

人間、人類はこの思考を代々受け継いできました。この体が現象に気づき、この体の中には人格が存在すると。だから生まれた子供にこれを伝承していくのです、当たり前のように。私の体がこの現象を観察し思考し自由意思を行使しながら生きていく、、、という人生ドラマが始まるのです。私があらゆる経験をしその経験を重ねていくことで私の価値観、観念が形成されていきそれがこの夢にさらに投影されていきます。そして私の観念が投影された現象(夢)をみて「やっぱり!!!」が起きるのです。

ワンネスに意図はない

意図があるならば、、、

コレは夢です、完全に夢です。この世界はワンネスがみる夢ですが、、なぜワンネスは自我を作り、そして解放に至るのか???そこに意図はあるのか???という話です。結論から言えば全てにおいて意図はないんです、なぜかと言えば、、もしもワンネスに意図があるならば、、、例えば解放を味わいたいという意図があるならばさっさと解放が連発するでしょう。個人という幻想を作りだしさっさと解放に至らせるでしょう。ですが実際にはそのようにはなっていない。

意図がないとなると、、

意図がないとなればではなんのためにこの幻想、夢が起きたのでしょうか????残念ながら、、、これはこの二元の世界、夢の世界の質問なんです。意図を持つという表現事態が夢の中でしかできないですよね、時間という幻想ありきの質問なんです。自分という幻想は意図を持って何かをする、、、という表現が可能ですが、、これがまさに夢の中でのことなのです。夢の中の状況で、、ワンネスの意図があるか???という質問が矛盾しているのです。

空、ワンネス、絶対から現象が起き上がり

空、ワンネス、絶対から現象が起き上がり、、、それによって気づきが起き上がり、、ただ無限の現象があるという気づきが起きました。その気づきの中で私という思考が起き上がることで、、私が何かをしたいが起き上がり、、この無限の現象を体験するという現象が起きました。私が居るという思考が起き上がることで同時に孤独、違和感という思考も起き上がり、、それを無くしたいという思考も起き上がったのです。そして今まさにそれを無くそういう動きが起きているのです。全体が退屈だったとか、神が退屈だったとか、神が無限を体験したいとかいう思考は、、、全て空、絶対、ワンネスの外で起きている現象です。

自分、時間、空間は思考

これは夢です、完全に夢です

毎晩見る夢の中に自分、時間、空間は存在するでしょうか????勿論それらがあるかのように感じることはできますね!!!ですが実際には夢では自分も時間も空間も曖昧ですよね、、、あるのかないのか????よく分からない。それもそのはず、、夢の中では自分って突然起き上がり、、時間も感じるといえば感じるだけ、、空間も伸縮拡大して、、生き物のようですよね!!!そうです生き物のように動いているんですそれらは。つまり夢の中に出てくる友人やペット、恋人やらと全く同じ、、夢を構成するアイテムみたいなものでしょう。そしてそれらは夢ですから全部ないと言えばないんです。

この現実世界でも同じ

この現実と呼ばれる夢でも全く同じなんです、、これが私です、、これが時間です、、これが空間です、、、みたいに固定して保管できるよいうなものじゃないんです。常に神出鬼没に現れては消えていくんです。私を忘れて、時間を忘れて、、空間を忘れて、、何かに没頭するってあるんです!!!その間私、時間、空間はどこに行っていたのでしょうか????実在するならば忘れれるはずないんです。

つまり全部思考です

つまり私も時間も空間もそれがあるはず、、、という思考なんです。私っているよね、時間ってあるよね、空間てあるよね!!!!という思考がこの夢で出現するのです、、たまに。それらの思考が湧いていない時、、それらはないんです。。つまりいつもないんです。あるのは、、、この幻想のみ、、そして五感を通じた経験、思考を感じる経験だけです。これって夜見る夢と全く同じなんです。

毎晩見る夢は誰が見ている????

自分ですか???

毎晩夢って見ますよね!!!あの夢っていった誰が見ているんでしょうか?????自分ですか???もしも自分ならば、、夢の展開って決めれるはずですよね????全くもって決めれないんです、夢の内容って。そうなると、、、これは自分ではないんです。すると誰だ?????あえて言葉にすれば全体、神、真我ということになります。では全体、神、真我には自由意志はあるのか???ということになりますが、、そんなものはありません。神が全人類80億人の見る夢を一人一人創作している????いやいやしんどいでしょ。

自分って思考なんです。

自分って何ですか????っていったら思考なんです、、これはペンです、これはりんごです、これは私です、、、、という言葉です。。。この言葉が、、、、何かを決めるって不可能なんです。りんごという言葉が、、、りんごを動かすってどう考えても不可能なんです。自分っていう言葉がこの体を動かすって不可能なんです。この体の中には自分が居るよね!!!この予想がこの体を動かすって不可能なんです。

夢の中には一つも絶対の存在って存在しないんです

夢って実在しないから夢なんです、、、昨夜見た夢に出てきた、、あのイケメンは今何をしているだろうか?????居ないんです、、、それを夢っていうんです。するとこの現実って呼ばれる夢の中の登場人物の全ては実在しないんです。つまりこの私、自分も実在しないんです。居るって信じることはできます。居るって思考することはできます。しかもその思考は今しかできないんです、未来永劫それを維持するのも無理なんです。

この話って嫌われるんです

テロリストがなぜ嫌われるのか????それは世界を混乱させるからです。それはこの悟り系の話も同じなんです、混乱させるんです、、、だから徹底的に嫌われます。だからこんな話は積極的にしない方が良い。こうやってブログに書いたり、YOUTUBEで見たり、こっそりやればいいんです。でも本当は全員が心の奥深くでは分かっているんです。