夢の中でコンサートLIVE

大好きなミュージシャン

大好きなミュージシャンのコンサートLIVEに行きます、。半端ない音量、照明、、、熱気、、、時に涙を流し感動する、、、、ところがこれが夜見る夢だった、、、、そんなこと全然ありますよね!!!半端ない臨場感、、ありますよね!!!!そうです、、、夜見る夢の臨場感って半端ないんです、、この現実と呼ばれる世界を凌ぐ臨場感を作り出せるのです。で、、この夢って誰が作ったんですか????「私」ですよね、、その証拠は????もしもこれを神が作っていたら???

この現実は神が見る夢

夜見る夢の臨場感が神が神が作った夢ならば、、、、この現実と呼ばれる世界は神が見る夢だとしても全く矛盾がないんです。夜見る夢の臨場感を、、、今この現実と呼ばれる世界で起こしたならば、、これが夢だとして誰が反論できますか?????毎晩見る夢の中であなたは毎晩騙されているんですから、、この現実と呼ばれる世界でも同じように騙されている可能性はありますよね????

諦めちゃってください

この世界、この現実と呼ばれる世界は「一度も覚めたことがない夢」です。神が作り出した超臨場感ドリームです。主人公はこの体、、私はその体の中に居る存在、、、私はこの夢の中で自由意志を行使し(錯覚)あらゆる状況に対応していきます(錯覚)。夜見る夢も、、いつかは覚めるように、、、この現実と呼ばれる世界もいつかは夢だとバレるんです、それだけは決まっています。

夢と信じない輩

コレは夢ですよ!!!

コレが夢だ!!この気づきが起きまして、、夢の中の周囲の人々にこれを話すとしましょう、、多くの場合はとんでもない反応に合うはずです。精神病では????うつ病かな????完全にイカれちゃいましたね。。。ですね。まーそれは当たり前なんです、だってこれは夢で、、周囲の登場人物は、、、現実モードで生きていますから。初期設定がそうなんですから途中で全員が夢モードってわけにはいかないんです。

でも全然問題ない

コレが夢って周囲に言う必要は一切ないんです、、そしてむしろ秘密にしておきましょう。さらに私はこれを夢だと分かっていきてみます、、すると、、、コミュニケーションが半端なく円滑なんです。。。相手が深刻モードで話をしてきてもこちらは全く深刻じゃない、、お気楽人間です。でもそのことが、、、相手を間違いなく緩めるんです、夢ですが。どんなに相手が狼狽しようとこちらは全然どうでもいいですから、、達人VS素人の戦いなんです。最初から楽勝なのは分かっています。

夢だと分かると

コレが夢だと分かっちゃうんと半端ないんです、、このリアリティー感が、、緻密さが、、正確無比さが。。半端ないって!!!です。全てが。この夢で困っているのは人間だけなんです、犬も猫も動物の全て、さらに植物、昆虫、、全生命が、、完全完璧に動いています、一切に迷いがなく。。。人間だけです、これを現実と勘違いして困っているのは。だから笑っちゃうんです、、こんな簡単な仕掛けだったと気づき。

夢だと気づいて

老後の心配????

これが夢だと気づいて、、、老後の心配????辞めた方が良いです、、、なぜならばこの夢は(夢全般そうだが)関心が広がるようになっています。関心事が夢化しますよね????だから心配は危ないんです。本気で心配すれば本気の夢化が起きますよ。体の心配ばかりしてるとそれが夢化されます、、心配ではなく健康に関心を寄せれば健康が夢化されます。

夢を夢だと分かって生きる面白さ

悪趣味な見方ですが、、、やっぱりこれが夢って分かると、、、、多くの人の心配性的に部分に非常に目が行きます。多くの人の神経症的な部分、、やはりこれを夢だと気づけないことによる深刻さ、重さ、重圧を非常に強く感じます。逆に言えばだからこそこの私もそういう方向に引っ張られたわけです。そして気づきが起きると、、、面白すぎる、、この深刻な雰囲気、。。

ドラゴンクエスト

ドラゴンクエストってゲームがありますが、、あのゲーム、、ゲームと分かってやっているのはこの「私」だけです。皆リアルなリアクションで主人公に話しかけてきますよね????完全にあれと一緒です。ゲームの登場人物はリアルなリアクションしかとってこないのです。そして主人公も当然それにそのトーンで対応します。じゃああそこで、、、これって夢ですよ!と発言したところで、、、反応なしです。

あの時に戻れれば

残念!!!

人間ならば誰しもが思うこと、、、あの時ああしとけば!!!!です。今頃は億万長者に、大株主に、最高の結婚生活を、、です。この妄想、妄想癖、幻想、幻想癖こそが人間を苦しみの渦に巻き込む力です。逆に言えばこれしかないんです、人間を苦しみ漬けにしておく方法は!!!!「私には自由意志があって自由行動があって何者かになる力がある」この洗脳こそが人間を苦しみ無限地獄に落とす罠です。

ない!!!

ないんです本当は、ないんです真実は、、、、ですが人間はこの洗脳にまんまと引っ掛かり、、、死ぬ直前まで後悔と妄想を繰り広げるのです。「私には自由意志があって自由行動があって何者かになる力がある」この認識を作り出す仕掛けが人間にはあり、、、だから神は人間ごっこができるわけですが、、これはこれで相当に苦しい、、、みんなヘトヘトです。

一旦真実に戻るべ

大人になるために先程の勘違いを起こされ、、そしてこの勘違いが強い人間ほどに、、優秀と評価されまんまと騙され続けてきたわけですが、、、これはヘトヘトになるんです、、もうキャパオーバーです。リミット超えです。ということで真実に戻りましょう、一旦、妄想、空想、幻想癖を一旦治療する必要があるんです。本当は完全自動、オートマティックシステム、化学反応的に思考、行動、感情は起こっているだけ、、だから我々は完全な傍観者です、この人生について。

勘違いの自動連鎖を止める

「私には自由意志があって自由行動があって何者かになる力がある」この勘違いが埋め込まれることによって、、我々は日々悩み、日々苦闘します。そしてその悩む、苦闘もそのまま自動システムに取り込まれ、、その次の展開が次々と起こります。これはテトリスと同じです。完全自動の中に悩み、苦闘も参加し異種格闘技戦のように現象が勃発します。これを止めるにはどうすればいいんですか?????参加しないことです、、この自動システムに、、、こうすればああすれば!!という勘違い思考を止めるのです。すると無駄な感情症状が消え失せ神経症的な症状も消えます。

この人はこの体を「私」と思っているのか

背景としての自覚

背景としての自覚が出てきますと、、、この体を「私」と勘違いして話かけてくる人々を面白く感じるようになります。こちらはこの体が見えませんので背景として会話ができるのですが相手(画像)はこの体の中の私に向かって話しかけてきますから話が微妙にすれ違うのです。そのすれ違いは相手の反応でも見て取れますからそれが『面白い』となるのです。

所詮は背景の一部だが

これは本当に面白いのですが、、相手は背景の一部でしかありません、ですがその反応は間違いなく背景から起こっているのです。勘違いした発言であったとしてもそれも背景から起こっているのです。真の安らぎの中でこの勘違いのコミュニケーションが起こるのです。相手がどれほど勘違いのコミュニケーションをしてこようとそれが真の安らぎの中で起こるので面白いのです。

神が話しかけてくる

自身がこの体ではなく背景であるという自覚が芽生えてきますと、、真の安らぎの中に居ることができるようになります。同時に背景中の相手(画像)から話しかけられた時、、それも背景からの声かけであることを見抜けるのです。画像を通じて背景がこの私(背景)に話しかけてくるわけです。これは神と神の話し合いなのです。そして我々は最初から神と神の話し合いしかしたことがなかったことも分かります。その時これまでの緊張感が伴うコミュニケーションすらもコントだったことが分かるのです。

働き気がなくなってヤバくないですか????

野生動物に労働意欲はない

世界中の野生動物で労働意欲がある生物は皆無でしょう、ですがその野生動物はお腹が空けばまず間違いなく全生命が捕獲の動きをします。労働意欲などなくても必要であれば動くのです、そこに意気込みとか、気合とかそんなものはないのです。人間も同じ、自身がこの体ではなく背景であるという気づきが起きたとしてもお腹が空けば動くのです。

人間からHUMAN BEINGへ

ほとんどの人間はHUMANという自覚はあてもHUMAN BEINGという自覚はないでしょう、、BEINGとは何か???まさに背景です。この体であり背景です。これが人間の真の姿なのです。アボリジニーなどの原始的な生活をしている民族は、、自己所有という概念がなく、、自然と一体化して生きています。自然無為、タオ、大周天あらゆる宗教、哲学が求めるのは全体としての私なのです。

答えは最初からここにあった

ラスベガスのマジックショーもそうですがネタを教えてもらえなければ一万回見ても仕掛けが分からないでしょう。それと同じでこの神が作り出したマジックもネタが分からないと見抜けません。そして仕掛けが分かればその場でここに全部があったことが分かります。仕掛けの見抜き方も無限にあり方法に制限はないのです。

背景に見栄も見栄えもない

背景とは全部、神

我々は背景です、背景の中の体の画像は一部です。そのたった一部を自分自身と思い込むという逆をお互いの画像同士で行うことで、、ギャグのつもりが真実と思われるほどに深刻化したのがこの人間ゲームです。背景同士のコミュニケーションが人物(画像)同士のコミュニケーションになり緊張と分離感に臨場感が半端ない状態になりました。私はこの体であるという錯覚は世界に緊張感を生み出し、、その緊張感が苦しいからお酒を飲み、食事を食べ、ギャンブル異性に狂い、この緊張を忘れようとします。もしくは自分がちっぽけな存在であるという錯覚が、大きく見せようという衝動になり高級車、高級マンション、高級アクセサリーと身を固めていきます。

ほとんどの時間は、、、

人間活動のほとんどの時間は実はこの緊張の緩和、もしくは自身を大きくめるために行われています。事実世の中で一番大きなお金が流れるのは美容や不動産、株、ファッション、インテイリアなどでしょう。本当に必要な電気水道ガス、食費などは実はもうお金の流れのメインではないのです。ですから自身が実は背景であるという気づきは人間活動の多くを断捨離できます。そして真の安らぎ(背景)の中で本当にやりたいことをやれるようになるのです。

私たちはただ背景(真の安心)を求めていた

私たちが本当に求めていたのは緊張の緩和や大きく見せようではなく、、、真の安らぎです。事実幼稚園児で見栄っ張り、マッサージ狂いはいないのです。それは知能が弱いからではなく人物ではなく背景としての活動をしているからです。まだこの体を自分自身であるとする感覚が薄いがために背景の感覚が残っているのです、ですから将来不安も過度なマッサージも全く要らないのです。

比較からの卒業

自我は比較が大好き

自我は比較が大好きです、この商品よりもこっちが好き、このブランドよりもあのブランド、あの地域よりもこの地域、、、思考とは比較検討するのが大得意であり、、自我もその思考の一つです。ですから我々人間社会は常に比較比較比較、、です。ですがこの比較精神は悟りには邪魔になります。私は悟って多くの人よりも上に立とう、称賛を浴びよう、人格者と呼ばれよう。。。となります。つまり悟りすらも比較対象の道具にされるのです。

つまり

つまり悟った暁には、、、この自我は、、人よりも優位に立てると、、自我所有の悟りに貶められるのです。これでは悟りはむしろ苦しみの原因にさえなります。自我が抜け落ち、、一瞥体験が起こった際にその経験を所有する自我が君臨し、また自我ストーリーに戻るということです。悟りとは解放とは目覚めとは自我の解放にも関わらずそれすらも自我に所有されるのです。

個体の錯覚

この世界は空(絶対)の影、投影、蜃気楼です。その中に個別存在など実在するわけがなくそれゆえにこの世界はたった一つのエネルギーです、、ですがこの世界は観念、価値観によって個別する存在が多種多様に現れる世界に見ることができます。なぜか????ここは無限の投影だからです、たった一つのエネルギー(空)無限の投影場所なのです。だから観念によって無限の姿を写すのです。その中で偽りの私は比較検討し無限の世界に判断を下しさらに観念を書き換えてまた異なった無限の投影をしていくのです。ですがそれをしている限りは分離緊張の世界から脱出できないのでそこを見抜く必要があるのです。

別次元の何か

ここには別次元の何かがある

いまここ、、ここには別次元の「何か」が確実にあって、、、だから今この様々な現象に気づき続ける、、、という現象が起き続けています。鳥の声、光、バイクの音、鳥という思考、バイクという思考、今日は晴れかな???という思考、、気分が良いという感情、、、眠いという感情、、、、全部に気づきが起こるのは「全現象」とは異なる次元の「何か」があるからこそです。それを見かけ上の覚者は「空、絶対。ONE」などと表現したのです。

手で脇腹を掻く

体のどこかが痒くてそこを手で掻きむしります、、その時の感覚、、、この感覚「気持ちが良い」は非「気持ちが良い」でなくては気づけないのです。別次元の何かにしかそれはできない芸当なのです。この体がそれを察知したんだ、、、、そうです、、「何か」から生まれた「気持ちが良い」をこの体が所有したんです。こうやって我々はとんでもない神秘を概念の中に押し込むということをしています。

大人が教える常識

クラスに一人は居ましたよね、、増せガキタイプ、、、、その増せガキタイプって、、、なんか冷静で冷ややか、、ドライなイメージないですか?????つまり大人が教え込んだ嘘の事実を早く習得して退屈なせかいに一足早く入った子なんです、、被害者みたいなものです。ここ超重要です。大人になるって嘘の真実を信じることなんです。

別次元の何か、、

本当は「別次元の何か」が我々の本性、本質で、、、それがあるから全現象に気づくが起きています、、じゃあ全現象は何なのか???それは『別次元の何か』の鏡に写った姿みたいなものです、全く捉え所がない、思考では絶対に解明できない、、、何かの鏡に写った姿です。その中にこの体と呼ばれる現象が起こりその中に自分という感覚が起こりこの自分ストーリーが起きています。

分かったところで

分かったところでだからなんなんですか?????それで私の生活が楽になるってことですか?????そうです楽になります、、、だって普段の苦しみは、、、???????これです。本当の自分って何なんだ????です。これが起こり続けるのですから。。。。だって「この私は〇〇○男」って嘘ですから、、そのままこれが体に反応を起こすのです。ストレスって反応が。「私は〇〇」って感覚が起こる瞬間に別次元の何かから反応が起こるんです。

寸分違わず孤独を感じるためには

非孤独にしかこの芸はできない

私はこのぐらい孤独だ、、、私こそうつ病になるほど孤独だ、、私なんて死にたくなるぐらいですよ、、、、どちらがどのぐらいに孤独かは、、誰にも分かりません。。なぜならば比較のしようがないし、、全ては自分にしか感じることができないからです。ですがそれと同時に、、自分の孤独感は言葉では表現できませんが寸分違わずに感じているはずです。今日は孤独感をいまいち感じづらい、、本当はもっとあるはずなんだけど、、、とかないですよね。なぜか??????孤独を感じているのはこの私という感覚ではなく「非孤独」だからです。

「非孤独」が寸分違わず今「孤独感」を 感じているのだ。

孤独感を寸分違わずに感じるには全く孤独でない「何か」でしかできません。混ざり物なしの「何か」です。それは非孤独です、、、孤独が全くない存在、、、つまり神とか大いなる存在とですよね。。。。そうです私の本質はこの「非孤独」であり大いなる存在であり、神です。孤独で本当に死にたいぐらいですよ!!!!を感じているのが非孤独、神、大いなる存在です。孤独感が全くない存在でしか孤独感を寸分違わず感じることはできないのです。

世界中の全ての不幸を背負って

世界中の全ての不幸を背負ったような顔をして、、、、ですがそれを寸分違わずに感じることができているのは「神」「非不幸」だからです。不幸混じりっけゼロの存在でしか世界中の不幸を寸分違わず感じることはできないのです。え???????じゃあ私は今神なのですか?????そうです。間違いなくそうです。神が「私が居る」という感覚を作り出しその私が「世界中の不幸を背負っている」という感覚を作り出し、、全感情を味わっているのです。混じりっけゼロの神です。

神ならさっさとこの自分という感覚を消してよ!!!!

無理です、、神には「ああしよう、こうしよう、こっちにしよう、やっぱやめよう」なんて意思はないんです。神は全部ですから全可能性が起こるんです、、全くの未知、全可能性、だけしかありません。何が起きるか全くわからない、、これだけが真実です。もしかしたら今日それが起きるかもしれない、明日かもすれない、、、