全感情は神からの使者

感情とは不思議なモノで絶対にコントロールできない

感情の仕組みを理解しますとどうやらこの感情とどう付き合うかで人間として苦しんで生きるか、神として至福に生きていくかの分かれ道になることが理解できます。それほどまでに感情というものはチャンスであり地獄に落とすものでもあります。人間を人間のままにしておくかそこから悟り神になるかの分岐点、それが感情の扱い方ということです。人間が作り出したポジティブシンキングはそれをどう解釈するかで終わります、どんなに嫌なことがあってもそれをポジティブに捉え成功に導いていくというものです。これはこれで感情を観察するという意味である種意識的かもしれません、ですがどう解釈しようとそこから思考が乗り出していきその問題の解決を図ればそれを達成したのは自分であり自分の思考ということになります。

感情はただ湧いてくる

感情というのは面白いもので絶対に人間はこれをコントロールできません。明日このような感情を湧かそう、、こう決めて寝ても絶対にその通りにならない、、これが感情です。全くコントロールが効かないこの感情が毎日のようにこの人間の体の中で沸き続けるのです。そして人間はこの感情をいかに処理するか、、自身の思考をフル回転していきます。この感情処理の方法こそが人間の優劣、個性を決めているかのように真剣にそこに当たるわけです。ですがこの戦いの勝利者は常に感情、どれほど思考を駆使して負の感情を処理しても次の日には何もなかったかのようにまた湧いてくるのです。多くの場合人間はこの感情との勝負に負け果て勝負から逃げるようになります、そして気晴らしに何かを見つけて慎ましく生きていくようになります。

感情を観察してみる

多くの人はこの負の感情の湧き出す仕組みにすら興味を持てず、それが人間だからと諦めます。もしくはこの負の感情が変幻自在ゆえにそれが無意識で湧いてきていることすらも気づいていないかもしれません。どちらにしても自我の存続プログラムである自我発達→負の感情噴出→思考による解決→自我肥大化→負の感情噴出を見抜いている人はほぼいません。このメカニズムを解消したければ負の感情が湧いてきたらただそれを観察することです、何も思考を働かせずそのまま観察する、、、感情をのさばらせているのではなくただその感情を感じ観察します。集中して集中してこの感情観察をしていきますとそこから無心に入っていきます、そこから無我に入っていきます。するとそこに歓喜、平和、安堵が襲ってきます。これが人間卒業のプロセス、悟りのプロセス、無我への入り口です。

負の感情が湧くからこそ、、、

自分が完全独立しているならば全感情は解決されているはず

これだけテクノロジーが発達し、これだけ便利な生活が完成し、これだけITが革命的進歩を遂げたならば、、、人間の感情など完璧に解明され負の感情を味わうことない生活が保証されていても全くおかしくない。。。。ではなぜそれができないのか?今もなぜ変わらず人間は苦しみ続けているのか?という話です。どう考えても辻褄が合わない話です。人間、自分という存在が確立した何かであるならばテクノロジーが人間の不幸を全滅させてもおかしくない、、、でもそうならない、、、そしてそれを誰も疑問に思わないというのがまた不思議。

ネガティブな感情が湧かないサプリはこれからもできない

これだけ科学技術が進んだならば人間の不幸を解消するサプリができてもおかしくない。。ですが実際は全くそうなりません、、、何を食べてもどんな良い生活をしても贅沢三昧をしても人間というこの存在からネガティブな感情を沸かせないアイテムが登場することはないでしょう。なぜか?それはこの私は人間であるというこの大前提こそが偽りだからです、この私が居るということ自体が思考が仕掛けた罠だからです、、、この罠を見破らない限り人間は至福に至ことはありません。この体を自分であると捉え続ける限り負の感情が湧き続けるというこのメカニズムを理解する以外に人間は不幸から脱却できないのです。

負の感情が湧いたらまだ偽りの自分が存在する

負の感情とは偽りの自分が存在するかどうかのバロメーターです。偽りの自分が存在し続ける限りこの負の感情は湧き続けます。外部的要因など一切関係なく偽りの自分が存在すれば負の感情は湧き続ける、、、ではそうするか?負の感情を観察する観察者になるのです。負の感情を解決する思考者ではなく負の感情を観察する観察者に徹する、、、思考してこれを解決しようとすれば思考者が強化されます。観察してこれを観察し続ければ観察者が強化されます。観察者とは大いなる存在です。観察者とはワンネス、神です。

快楽主義が悟りを開く

快楽も実はヒント

楽しいってなんでしょう?面白いってなんでしょう?実はこれ悟りを開くヒントになります。楽しんでいるのも、面白いと思っているのもこの体の中に居る「自分」です。ここ実は重要です、楽しいも、面白いもこの「自分」っていうのが関わっている。そしてこの自分は「楽しい」「面白い」に飢えている、、、なぜか?それはデフォルトが苦しいから、、、この苦しみを一瞬だけ拭い去ってくれる瞬間、それが楽しい、面白いです。人間は朝起きてから延々とこの楽しい、面白いを追い求めるのは「苦しい」から一瞬救ってくれる救世主だからです。だから人間はこれを追い求めすがるのです。

本気で大笑いしている時、鏡を見るナルシストは消える

大笑いしている時に自分の笑顔を鏡でチェックしていたらそれは嘘笑いです。本気の大笑いは自分の存在を完全に消滅させます、一瞬ですが。本気の大笑いはこの世から自分を消し去り、対象も消し去ります。大笑いしている時に何か物を凝視する人はいません。大笑いはこの世から全てを消し去るのです、自分も自分以外も。実は楽しい、面白いは、、、自分を一瞬消滅させることです。「苦しい」という核弾頭魚雷から逃げ惑う「自分」を消し去ります。その時自分も「苦しい」も消えてなくなります、一瞬。

神はこの世に笑いを作り悟りのヒントを与えた

楽しいを侮ってはいけません、面白いを侮ってもいけない。これは神が人間に教える悟りのヒントです。神は人間に100万通りの悟りのヒントを与えますがその一つが「楽しい」です。人は大笑いしている瞬間神に戻っています、自分が実は神エネルギーで構築された神であることを思い出しているのです。大笑いした瞬間自分が消え去りそこには全体、神だけがあります。そして自分に戻った時に自分も神だという感覚を実は味わっています。だからこそ人は今日も楽しいを追いかけるのです。

苦しい、、が悟りを開く

楽しいが悟りを閉じる

苦しい、、この感情を人間は嫌います。当然です。いかに苦しいから逃げ続けるか、、ここが勝負です。ですがこの苦しいから逃げ続ける限り悟りは開ません、この人間ゲームのカラクリに気付けません。生きていると湧いてくる「苦しい」この感情はどこから湧いてくるのか?この苦しいは「自分」という存在、この体、思考、感情を自分のモノとするこの存在がどうも関わっている、、、大人になると苦しいから逃げる手段を覚えますがどうやらこの苦しいは子供時代よりも大人になってからの方が激しい。自分という存在は記憶に依存しています、記憶がなければ自分は維持できません。苦しいは実はこの記憶に維持された自分から生まれそしてこの自分を壊してくれる可能性を秘めています。なぜならばこの苦しいは「自分」がこの世にいる限り延々を湧いてくるからです。「苦しい」は自分が解消されるまで木っ端微塵に壊れるまで追いかけてくる核弾頭魚雷のようなモノです。

「苦しい」から逃げ続けれると思ったら大間違い

「苦しい」は核弾頭魚雷のように「自分」がこの世から居なくなるまで追いかけてきます。自分とは記憶が支えていますから経験を積めば積むほどにこの自分は強化されます。そして自分が大きくなればなるほどに「苦しい」という核弾頭魚雷も大きくなり追いかけ続けてきます。「苦しい」は「自分」が生み出しそして「自分」が木っ端微塵に壊れるまで追いかけてくるという恐ろしいメカニズムです。釈迦はこの世を「苦」と見抜き、キリストは人間を「原罪」と表現したのはこの理由です。人間とは自ら核弾頭魚雷を発射しそれに追いかけられるというギャグのような仕組みを作りました。ただこれを裏で操るのは全存在、神です。そして苦しんでいるのも人間という形に成り切る、遊ぶ神です。人間も神、苦しみの感情も神エネルギーです。

何もない

この世は神エネルギーで全部できています。見える世界の全て、触れる世界の全て、匂える世界の全て、味わえる世界の全てはたった一個のエネルギー神でできています。そしてそれを感じる人間の体も当然神でできている、この体が湧き上がっているように感じる思考も感情も全て神エネルギーが振動数を変えたモノです。この神エネルギー以外のモノはこの世には存在していません。もしもこのことが腹落ちしますと突然自分が居なくなります、全部になります、神エネルギーそのものになります。そこには分離は一切なくただ揺れ動く神エネルギーだけがあります。この体を自分と思い込むのも神エネルギーです。自我も神エネルギーだった。。。何もない。。この突然の理解が自分を木っ端微塵に壊します。

神エネルギーがただ揺れ動く世界

神は動く神を作って見せた

動かない神いこれを空と呼びます。動く神それを色と呼びます。オーロラの光は確実にあるように見えるが実はない、、、これぞ色の世界、動く神の世界です。蜃気楼は確実に見えるが実はない、、これが動く神の正体です。この地球、日本、東京は確実にあるように見えます、ですが無い。これが動く神の正体です。全部が全部蜃気楼です、この蜃気楼は見えるだけでなく、触れて、匂え、聞こえる蜃気楼です。人間とはこの蜃気楼の中で「我が人生」を構築できる蜃気楼です。だから人間の体には月偏が付いてて、胃、胴、脳、腸、、、となります。人間が見ている月は惑星自体ではなくそこを照らす太陽の光です。要は蜃気楼です。この人間の体が蜃気楼であることを太古の人々は見抜いていたのです。

この世の真実を知った人間は活動を止める

この世は神エネルギーが揺れ動く世界です。本当はただそれだけ、今もこの世は揺れ動いています、だから朝が来て昼があり、夜がきます。この神エネルギーの揺れ動きの中で人間は独自の進化を遂げまさかの独立した自分が居るという意識を発明しました。この人間は神の揺れ動くエネルギーの中で自分と自分以外というアイデアも発明しました。そして人間目線での経験を記憶し「我が人生」すらも発明したのです。私の人生、あなたの人生、あの人の人生、、、奇跡の大発明です。そしてこの人間はこの人生が終わってからも次の転生があるという発明までしてのけ、この自分を永遠のモノにまでしていったのです。奇跡です。

人間社会は慌ただしく真実が隠れる

この人間社会はとにかく慌ただしいのが特徴です、蜃気楼である人間は何もしないで止まっていると途端に苦痛、退屈、孤独、不足が襲ってきます。この苦しみはこの蜃気楼が独立した別個の存在であるという意識、人間意識が発達ことから生まれました。なぜならばそれは幻想、錯覚だからです。この錯覚は錯覚ゆえにじっとしていると壊れてしまいます。常に対象を見つけ、対象があるから自分もあるという維持機能を発動させなくてはならないのです。自分が居ると錯覚し続けるには常に新たな対象が必要になります、何かを食べているから食べる自分が居る。友人と遊んでいるから自分が居る、称賛を浴びているから自分が居る、喧嘩しているから自分が居ると、、、この自分を維持し続けるには何か対象が必要になります。自転車に乗り続けるには漕ぎ続けなくてならない、、人間であり続けるには動き続ける必要があります。そして動き続ける限り真実が隠れます。

この私も目の前に居る友人も同じエネルギーで出来ている

全く同じモノで出来ていてなぜ違いが出るのか?

この世を構成している物質は全て神エネルギーです、そうなるとなぜ違って見えるのか?ということになりますがこれは水蒸気、水、氷で理解出来ます。この三つを構成するん分子はH2Oです。この分子の状態、振動数が異なるだけでこの世では全く違う形状に見えるのです。振動数が違えば全部バラバラに見えてしまうそれだけです。物理学者はこの分子を解剖していくと全部同じモノで構築されていることを知ります。そうするとこの世に見えてい全部は分離していないことを認めざるを得なくなるのです。では人間にはこの世界が分離しているように見えるのか?人間の体こそ世界を分離して感じることができる機械、マシーンだからです。五感が振動数の違いをキャッチして分離しているように見え、聞こえ、匂え、味わえる「振動数違い分離勘違いマシーン」です。

人間だけがこの体、他の動植物を分離して見れる

最重要な説明をしていきます。人間は五感が発達していてこの世(神エネルギー)の振動数、回転数の違いをはっきりと認知することができます。これによってこの世を究極のレベルまで分離して見ることができます、さらにその震度数の違う塊に名前を付けて整理していきます。この整理方法を世界中の人々で共有するというところまで進化を重ねていきました。これによりこの自分は間違いなく独立していて他の生命現象も独立しているという大いなる勘違いをして見せたのです。ですが本当は人間のこの五感能力がそのように振動数の違いを分解整理しているだけなのです。だから覚者は目覚め「何も無かった」と宣います。自分もこの世も分離しているように感じていただけだったとなるのです。

赤ちゃんはこれを知っている

赤ちゃんはこのことを知っています。実は何も分離していないことを、、人間がなんとかこれを強引に分離整理して生きていることを知っています。何も分離していない世界で分離しているという強引な理論で必死に生きている動物、それが人間です。「自分も世界も分離しているに決まっている、なぜならばそう感じるから」このガンコ親父のような屁理屈を必死に死守する民族こそ人間です。

自分はこれが全てと聞いて絶望する

神は遠い彼方にいて欲しい

自分、自我は神という絶大な存在がこの世にはあってそれは遥か彼方に居るはずだと信じます。まさか6Kのアパートにそれが居るとは信じたくない。自分はこの広い宇宙のどこかに神がいてこの宇宙を創造していると信じたいのです。ですが実際は今目の前に広がるこれ、それが神です。そんなはずはない、神はもっと神々しい出現をするはずだ、6Kのアパートが神だったらショボすぎる、、、こうなるのです。ですが実際はどこまで行っても神は目の前『のみ』居ます。結論をお伝えすれば私たちが見ているこの視界は神エネルギーで構築されています。全部構成分子は神です。ということはこの私、この体、この思考、感情も構成分子は神です。神以外の分子でできるモノなど存在しません。もしもあったらもうそれは神(全部)ではない。神とは全部だから神なのです。神は遠く彼方にいるはずというその思考も神です。徐々に理解できたでしょうか。

空間とは神

見える世界、この空間は全部神エネルギーで構築されています。人間の体も神エネルギーです、そしてこの人間の体は五感がありこの空間を触れ、匂え、見れ、味わうことができます。これはこの体が神でできている証拠です。もしもこの体が神エネルギーで無かったらそんな感覚を味わうことができませんし、この神の空間に居れないでしょう。我々は神によって作られ、神でできたモノなのです。そして本質は神エネルギーそのものですからこの空間で起こる全てを神エネルギーとして認識できます。それはこの体(神エネルギー)を通じても全体(神)を通じてもです。自身(この体)を神エネルギーであると理解できたら、、逆にこの体のみを自分とすることができなくなります。なぜならば全部神エネルギーでできているからです。

もしも苦しくなったら

もしも苦しい時は、、、この体、思考、感情は何でできていたっけ?と自身に問いてみてください。この体は神エネルギーでできています。ということは自身は神エネルギーです。そしてこの体の外部全ては神エネルギーでできています。ということは自分とは全部だ、、、こうなります。構成物質のレベルでこの視界を眺めて見れば見ている独立した存在も見られている独立した存在もいません。なぜならば全部神エネルギーだからです。この事実を物理学者は分子解剖で発見します。全部が同じモノでできている、、、ということは自分はいない、、

この人間ドラマを終わらせたくなったら、、

自殺とはこの人間ドラマの強制終了

このブログでも再三お伝えしている通りこの人間ドラマには永遠の至福は存在しません。永遠の幸福、永遠の平和、永遠の安堵はあり得ないのです、システム上。だからこそそこを真剣に求める人間は時に絶望しこの人生を終わらせようと考えることもあります。特に芸能人や事業家、スポーツ選手、ビジネスエリートなど極度の努力を自身に強いることができる人ほど絶望し生きる希望を失う可能性を秘めています。ですがそういう人ほど早くこの人生が実は夢、ドラマ、ゲームであることを悟るべきです。自分など実は最初から存在せず神が遊びのために作った虚像であることに気づいたら、、、究極のズッコケと共に肩の荷が一気に軽くなります。

人間とは不幸体験をするための道具

流行りの芸能人も、株で成功したトレーダーも、カリスマ美容師も、パリコレモデルもハリウッドスターも全部、神が不幸を体験するために作った道具です。自身の人生を否定する方はこれらの成功者と比べて自分なんか、、と落胆しますが、、実はこの上記のスーパーリア充者も全員が不幸体験マシーンです。この事実を先ずは受け入れることが重要です。なぜ自分には才能がないのか?なぜ自分には理解者がいないのか?なぜ自分には学がないのか?そう考え比較し多くの方は絶望しますが、、、、それを全部手に入れた人も不幸体験マシーンです。なぜ人はリア充ぶるのか?なぜ人は幸福ぶるのか?なぜ人は忙しぶるのか?それはその方がその人にとって得がありからでしょう。ですが実際は全員が不幸体験マシーンであることを理解する必要があります。

頑張り屋ほど幸福になれると信じている

この人間劇場では頑張り屋ほど幸福、至福になれと信じる傾向があります。ですがこの二元の世界、自分がいて自分以外がいる世界では全部がプラマイゼロですから努力や苦労はこの前では木っ端微塵に打ち砕かれるのです。もしも重要な努力があるとすればこのドラマ、自分劇場、人間ゲームのカラクリを解明する、、、こんな努力が良いでしょう。人間は神が作った不幸体験マシーンであることを先ずは理解することで違った意味での絶望感は湧いてきますが少なくとも報われる努力がないことを悟れます。

経験自己所有の法則

人間とは経験を自分のモノにしていく生き物

色即是空、この色の世界に実は独立したモノなどありません。この色の世界を構築しているエネルギーはゼロです。ですからこの色の世界はゼロエネルギーで構成されています。ゼロエネルギーがまるで生命が現象しているかのように見せています。だから色なのです。ゼロエネルギーですから例えば鳥が空を飛んでいてもそれを構成しているエネルギーはゼロです。ゼロが集まって鳥に見えている、鳥の感触がある、鳥の泣き声があるだけです。人間はこの色の世界において脳を所有すことでこの体の経験を全部自分のモノとして記憶します。この体が多くの経験を積めば積むほどに自分の経験が増えていくという流れです。これによって色の世界に全く別物の物語が作られました。人間ストーリーです。覚者がこの人間ストーリーのカラクリを発見したときに夢から覚めた感覚だと称するのは人間が勝手にストーリー仕立てにしていたと気づくからです。このストーリーは作り物です。

自分の人生は作りモノ

自分の人生とは作りモノです、なぜならばこの体が経験することを勝手に自分が所有したとしているだけだからです。本当はただ体に経験だけがあります。この経験を脳が記憶して積み重ねてこの自分の歴史だとしたのが人生です。人間の記憶機能がなければただ経験だけがある、そしてその経験は全体の経験です。これを人間が勝手に自分の経験だと言い張り楽しんでいるのです。ですがこの人間勝手経験所有ストーリーは全体が行なっていますからこれは全体の遊び、神の遊びです。遊びは遊びですがまあまあ苦しい遊びですからこの神の悪趣味に付き合う必要はないんです。

経験の全てを全体に戻す

この体の経験を全部この自分のモノにすることもできますし、この体の経験を全て全体のモノにすることもできます。体の中には自分は実はいないので当然です、記憶を起動しなければ経験はそのまま全体の経験になります。音楽が聞こえる、食事が美味しい、お腹が空いた、仕事を辞めたい、、全部全体のからの起こりであり、全体の認識です。自分が所有しなければ。後付けの自分に経験を所有させればエキサイティングで楽しいですが苦しくもあります。自分が欲しがる経験は積めないか、もしくは積んでも直ぐに不足感が襲ってくるからです。

若者は苦しみから逃げ続ける傾向にある

若さはパワーでありゆえに苦しみから逃げる

この人間ゲームは苦しみのゲームです、自身は人間であるというこの体との同一化は苦しみを生み出します。なぜならば全知全能の全体が、無知無能のこの体に成り切るからです。自分でいること、この体でいること、この人間目線で人生を「意識」していきますと苦しみ、不足感、退屈感がただひたすらに湧いてきます。若者はこの退屈感を感じることですぐに逃げます、友人、恋愛、お酒、ギャンブル、ファッション、SNS、YOUTUBE、、世の中には若者を誘惑する遊びに満ちているのです。それゆえ若者はこの不足感、退屈感に向き合うのではなく逃げることでこれを見ないようにするのです。

途中で逃げきれなくなる

元気な若者ほどこの退屈感から逃げることができます、徹夜で飲み明かし、異性に明け暮れ、TVゲームに没頭し、SNSに嵌まり込む、、、次から次へと対象を変え続けてこの不足感、退屈感から逃げ続けるのです。ですがやがて働かなくてはならなくなり逃げるどころから苦悩と向き合わざるを得なくなるのです。逃げるどころか職場に閉じ込められるようになります。これは若者にとって地獄の苦しみではありますが同時にこの不足感、退屈感との対峙、真剣勝負が始まるのです。

人間の苦しみはどこから来るのか?

実は若者は退屈感、不足感から逃げ惑う生活に疲れていたのです。働くという逃げ場のない環境に閉じこめられて実はホットしているのです。これで不足感、苦悩、退屈感との真剣勝負を余儀なくされるからです。何もしないと襲ってくるこの居心地の悪さはどこからくるのか?若者は逃げ惑う生活の中で実は一瞬のヒントを得ています、ゲームで優勝した瞬間、ギャンブルに勝った瞬間、恋愛が成就した瞬間、、、この一瞬は全体、神が自我を突き破って誕生します。それが歓喜、安堵、平和です。逃げ惑いながらもヒントを得続け、そして働くことで真剣勝負が始まります。

夢中になれる仕事は楽しい

働いていく中で、どうやら夢中になれる仕事が楽しいことを理解していきます。雑念に襲われず夢中になれる、没頭できる仕事は楽しい。これは学生時代に退屈から逃げていた時期からも理解しています。没頭できるゲーム、没頭できる仕事は疲れません。人間が没頭している瞬間は自分を忘れ一瞬神になっているのです。神の片鱗をみています。どうやら自分のことを忘れている瞬間が疲れず、充実感があり、至福を感じれることを理解できてきます。そこからさらにこの苦悩、退屈、至福、歓喜のメカニズムに迫れるか?これは人間卒業まで試練は続きます。