さあ自分を卒業しよう

自分とは人間ゲームの表面

ドラゴンクエスト3というゲームがありこれには表面と裏面が存在します。表面をクリアするとまさかの裏面に突入という流れです。私はこの人間ゲームの表面こそが「この体に自分が居る」という設定ゲームだと思います。そしてそこを見破り次第、次のゲームに裏面に突入すると。表面は非常にエキサイティングです、なぜならばこんな小さくて卑小で極弱な体の中に自分が居るという史上最低の初期設定だからです。勿論この体の中に自分が居ないということが分かってもこの体がパワーアップすることは絶対にありません。ですが少なくとも深刻さが消えます、マリオを自分と思っていた自分がマリアは自分ではないと気づく気軽さです。

裏面は「経験はあるが自分はいない」

この体の中に自分は居ないという気づきが起きても当然経験は続きます。朝起きてコーヒーを飲めば美味しいと感じるし、運動をすればスッキリします。人とコミュニケーションを取れば喜怒哀楽全部起こります。ですがそれを所有する個人が居ないという点が全く異なります。経験、感情、思考だけが起こり続けます、そしてそれを所有する個人が消えています。この体に向けてあらゆる人がアプローチをかけてきてもそれはこの体に向けてのこと、それだけです。個人としてそれを所有しないのですから周囲からすれば飄々と生きているようには見えるはずです。多くの方は全てを自分ごととして捉え重くなっているのです。

自分ごとと捉えないのは無責任?!

全ての出来事、感情、思考を自分ごとと捉えないわけですから無責任に映ることもあるでしょう。もっと深刻に悩むべきだ、もっと熟慮を重ねて行動すべきだ、、、と。ですが実際には、、自分ごとと捉えないことで頭脳を常にリラックスさせておくことができますから頭脳が明晰になっていきます。この体に起こる問題に対して迅速に明瞭に処理していくことができるのです。無責任どころか積極的解決に向かいます。

地動説以来の大発明「自分が錯覚」

自分が錯覚であることに気づいたら二度と戻らない。。。

自分が錯覚である、この感覚の気づきは、、天動説が地動説に切り替わった時の人類の驚きと同じです。そもそも地球は平坦で、その周りを宇宙が回っていると真剣に信じ込んできました、研究者が実は地球こそが太陽の周りを回っていると唱えても変人扱い、病気扱いをされたモノです。今回の提案、実は自分とは錯覚であるというアイデアはその当時と全く同じ扱いを受けます。この体の中に自分が居るというのは思考のアイデアです。思考と記憶が作り出した画期的なアイデアです。

人間同士は自分の存在を共有し続ける

天動説が人間にとって当たり前の定説だった時、それに異を唱える動物は皆無でした。人間だけが人間同士で勝手にそう思いこんでいただけです。人間全員がそう信じればそれに異を唱えるのは誰もいないのです。今回の自分錯覚説も全く同じです、人口の99。999パーセントがそう信じていれば先ずこの理論が覆されることはないでしょう。もしも自分錯覚説に気づいた者が現実的に目の前に現れても病人か変人に扱われて終わりです。

自分というのはアイデア

人間がどれほどのテクノロジーの進化を遂げても体に中に「自分」を発見できることはできません。断言できます。なぜならば自分とは思考と記憶が作り上げたアイデアだからです。この体の中に思考も湧いてくるし、感情も湧いている、そして五感もガッツリ感じている、、、だからこの体の中に自分が居るというアイデア、理論です。この体無しに思考も感情も湧かないではないか!その証拠に熟睡中は何も湧いていない!ということです。ですが実際は思考、感情が湧いた時にこの体の中に湧いたのだと信じ込んでいるだけです。マリオがゲームの中で味わう辛酸はマリオのものだと言い張るのと同じです。スーパーマリオの中で辛酸を味わっているのはマリオではなくプレイヤーです。

もしも動物の感情が読めてしまったら大変

動物の精神状態が理解できてしまったら

もしも人間がテクノロジーを発展させて動物の精神状態を読み取れるようになったら、、、大変なことが起きます。悩み苦しむ動物も将来に不安になっている動物も、過去を憂う動物も皆無だからです。つまり人間よりも遥かに精神状態が安定しているということです。そんなことはない、、人間様がこれほど不安や不平を抱え毎日ストレスを背負いながら生きているのになぜ動物の方が心穏やかなのか?と思うでしょうが事実です。人間だけが将来不安に怯え生きているのです。

何億光年先の惑星すらも発見できる人間が、苦しみのメカニズムを発見出来ない

人間はとてつもない進化を遂げてきました、船を発明し、飛行機を発明し、スペースシャトルを発明し、、何億光年先の天体すらも発見しました、、ですが人間は人間の苦しみ原因をまだ発見出来ずにいます。ジョークです。釈迦やキリストがかつてそこの解明に至ってもそこから携わる人間がまた誤解を繰り返し全く異なった解釈が行われています。人間は自身の苦しみ解決のため今日も新しいテクノロジーを進化させ、便利な生活用品、快適な住居を開発しますが人間の苦しみの本質が解消されることはありません。

まさか人間の初期設定が勘違いだった、、、

渋谷駅に行けば見渡す限りに何千人という人間が居ますが、その中でこの体の中に実は自分が居ないという事実を知っている人はどれほどいるでしょうか?恐らく一人もいないでしょう。この体の中に自分が居るという大誤解は天動説から地動説に切り替わった時ぐらいの衝撃的発見になります。人間は何万年もの間、この体の中に自分が居るという勘違いを続けてきました、そろそろその勘違いが訂正されてもいい時期です。

もしも記憶がなければ私の人生はない

もしもあなたに記憶がなかったら

人間は実は大きな勘違いをしています、もしもあなたに記憶する力が無かったら自分の人生というのは存在しません。昨日の自分も、一昨日の自分も、自身の親も、自身の友人も存在しません。なぜならばこれらの存在は全部記憶が作り出しているからです。記憶があるからそれを友人、自分、親と認識するのであって全部記憶に頼っています。ということは記憶力がない動物、昆虫には自分の人生がありません。???つまり自分の人生というものを歩んでいるのは人間だけということになります。世界中の全ての生命体の中で自分の人生を生きているのは人間だけです。自分のことを蔑ろししやがって、自分のことを軽く扱いやがって、、自分の人生には希望がない、、、このように悩んでいるのは人間だけです。

記憶力が人間に発達してから人生が生まれた

元々人間は自分人生を生きていたのではありません、記憶力というのが身についてから自分人生が始まりました。混乱してきますね。人生があるのが当たり前だと全人類が考えていると思いますがそれが事実ではありません。人生とは記憶力がある生命の遊びなのです。自分というこの分離した感覚を所有し続けるには記憶力が必要になりますし、、それを維持し続けることで映画のフィルムのように人生劇場を記憶し続け人生が成り立つのです。

人生が苦しいから人生は無しにしよう、、ではない

この人生が作りモノならば明日から人生を歩むのをやめよう、、、そう思ってもまた明日からも人生は続きます。なぜならば昨日の自分の記憶がガッツリあるからです。そうではなくこの自分人生、自分劇場がどう形成されているかを理解することです。そうすると重さが少し抜けます、こうしなくては、、、ああしなくては、、という重さが半減していきます。人生という確固たる事実はなく、、人生とは人間の記憶力が作り出していると腹落ちすると深刻さが減ります。人間を深刻にしている原因とは、、、この人生が本当に存在しているという錯覚です。

何者かになろうとしなくていい

自分は直ぐに何者かになりたがるが、、、

自分とは全体から分離しているという錯覚です、この自分は体の中にいるという感覚を持っています。この自分は自分のままでは(錯覚ゆえに)不安感、不足感、孤独感の塊りです。そのため自分は何者かになろうとします、その何者かは今の自分よりも豊かで幸福そうで、自由に見える何かです。そこで自分は毎日その何者かになれるように日々努力を重ねるわけです。ですがその何者かに何年かかけてなれたとしてもその時には次の何者を目指さなくてはなりません。なぜならばその何者かになっても不足感が全く癒えないからです。

自分が理想とする何者かは、

若者は将来こんな大人になりたい、、と夢みますがそれは今に対して居心地の悪さを覚えているからです。もしも今が至福そのものならば絶対にそこから離れようとしません。将来の夢に向かって、、、、このように若者を鼓舞する大人はなぜ夢を追いかけるかの本質に気付いていません。若者が将来の夢、目標となる大人を目指す時目をキラキラさせますが大人になるうちにその目が曇ってきます。自分はどうやら今世そんな大人になれないと諦めるか、道半ばでそこに至っても幸福になれないことを悟からです。夢を叶えたつもりでいる大人はそんな若者に努力が足りないと叱咤激励します。ですが実際は夢を叶えたつもりでいる大人も不安を常に抱えているのです。

成功者の末路が幸福になっていないことは歴史が証明している

「知っているつもり」というTV番組を子供頃頻繁に観ていましたが、、ここに出てくる偉人、成功者の多くが晩年寂しい人生を送って死を迎えているのを覚えています。現代でもハリウッドスターの薬物乱用、野球選手の引退後の転落、芸能人のスキャンダルからの末路、、、我々は有名になるほどの優秀な人々が決して至福に至っていないことを実は知っています。ですがそこには目を伏せて自分は自分と言い聞かせ毎日を必死に生きることにします。自分というこの体の中に存在する錯覚感覚を見抜き、本質に迫ると決めた時に真実が顔を出します。実は真実しかなかったことが分かります。真実の中で「自分」はドラマに入り込んでいたのが分かります。

一人でいるときの欠如感

一人で居る時襲ってくる欠如感

なぜ人間は一人で居ると欠如感が襲ってくるのでしょうか?一人で居ると苦しさが襲ってくるのでしょうか?このことに真剣に切り込む心理学者も宗教家もあまりいません。こんなに身近で深刻な悩むであるにも関わらずここにメスを入れようとする人がなぜいないのか?ということです。結論を言えばこのポイントこそ真実の理解を起こす最大のチャンスです。ここが自分という存在のトリックを見破るポイントなのです。

人間という最も進化した動物が一人で居ると欠如感が襲ってくる理由

人間はテクノロジーを進化させ他の動物の追随を許さないような文化を築き上げました。便利さという点においては人間のこれまでの歩みは驚くべき進歩です。そんな人間ですが一人で居る時に欠如感が襲ってきます。得体の知れない居心地の悪さが襲ってきます。なぜなのか?自分という存在はこの世界、宇宙の中で独立した存在である、、これが人間の共通認識です。ですがこの共通認識は間違っています、科学者も気づき始めていますがこの世界はたった一つのエネルギーが作り出しており、その中で独立した分離した全く変異した存在は存在出来ないのです。にも関わらず我々人間は宇宙の中で独立した存在であると固く信じています。この誤認識、誤解こそが人間、自分の欠如感を生み出す原因になっています。だからこそ自分と向き合うということが非常に苦しい行為になるのです。

全体から分離していると勘違いを起こせば、、、

全体の中の一部が全体から完全に分離していると勘違いすることであらゆるギャプが生まれ出します。その最も大きな感情が孤独感ではないでしょうか。本来は全体でしかないものがこの極小、最弱な体の中にあると勘違いすれば急激に孤独感に襲われても不思議でありません。孤独感に襲われた個人、自分はこの孤独感から逃げるために必死になって対策をし始めます。友人、家族、会社仲間、町内会、、、とコミュニティーを何十層にも重ねていき解決を図ります。ですがこれらのコミュニティーがあってすらも孤独感を癒すことはできません。それは問題の根本解決になっていないからです。

子育てはとてつもなく大変なのに子供を作る理由

実は気付いていない、子供を欲しがる理由

子育ては大変です、朝から晩まで24時間労働、常に目を光らせていないと何をするか分からない。家に恐竜の赤ちゃんがいるようなものです。結婚したら子供を作るのは当たり前、現代はそのような時代ではありませんがそれでも3、4、5人と子供を育てる家庭があるのは事実です。なぜこの少子化の時代に子供を沢山欲しがる家庭があるのか?そこは気になるところです。悟り、ノンデュアリティーの観点から見ればこれは簡単です。子供を作ると両親の自分が居なくなるということになります。子育ては半端なく大変だからこそ自分のことに構ってられない、、つまり子育て中、無我、無心、全体になれるということです。

自分を意識しながら子育てできるのはセレブだけ

子育てはスーパー肉体労働、かつ頭脳労働、、、自分に構っている時間などあろうはずがありません。常に子供に意識を向けていなければ子育ては出来ない。その子供が三人、四人、五人と増えていけばとんでもないことです。ですがそれが自分にとっては非常に良いのです、自分を忘れて没頭できるのです。このブログでも何度も伝えていますが自分こそが苦の根源、この自分を忘れて入れる状態は歓喜、安堵、平和そのものです。子育てに忙しいお母さんは常に安堵、歓喜、平和に埋没しています。

自分のことは二の次、三の次、、、それが至福

信じられない話ですが、、、自分のことを二の次、三の次にできる状況は幸せな状況です。自分は常に自分を一番にしておきたい存在ですが実はこの状態が一番苦しい、、、自分とは不足感発生器であり自分でいると不足感が湧き出てきます。子供が沢山いる家庭では両親は自分のことなど構っていられない、、、、実は一番至福を味わっているのは両親なのです。自分を忘れ子供のために一生懸命になる、、、これはそのまま全体、至福になっていることと同じです。

自分を無視する生活を続けると自分が消えてなくなる

何かに没頭している時自分はいない

この世の苦しみは自分が作り出しています、自分という存在、この体の中に自分が居るというアイデア認識こそがこの自分人生、自分劇場のデフォルトです。この自分劇場の苦しみは自分というアイデアが引き起こしていますからいかに毎日自分がいない状態でいるかが鍵になります。自分という存在を満足させようと何かアクションを起こしてもこの自分の空腹が癒えることは絶対にありません。自分を置き去りにする、自分を忘れる状態を作り出すということが自分劇場から抜け出す唯一の方法です。

毎日何かに没頭する、毎日体に意識を向ける

何かに没頭している時、頭が没している状態を作り出しますと、、自分が消えてなくなります。歓喜、平和、安堵の波に襲われます。激しいトレーニングなどをして体に意識を完全に向けますと思考が剥がされ自分が居なくなります。この習慣を意図的に行なっていきます。このブログを書いている自分は基本、全てをルーティンで作り上げていくことで思考の介在を許さないようにします。このブログを書いている時も思考の介入を許しません。なぜそのようなことができるか?最初から思考を使わなけえばならないことをしないと決めているからです。もしもこのブログを書く際に思考を使わなくてはならないレベルに居るならば最初から書きません。書けるまで読書をして待ちます。

大きなことを成し遂げたいと思ったら

大きなことを成し遂げたいと思ったら思考を介在しないでいいルーティンで突き進めていきます。例えばエベレストを登ることになったら、、、毎日50メートル登れば160日間で登頂できる計算になりますから逆にそこからは戦略を練りません。戦略を練っていかに効率よく登るかを考えれば思考がシャシャリでてきます。これによって登山自体が非常に苦しい旅になります。もしも毎日50メートル登れているならばもう他のことは何も考えない、ただ没頭することでそのまま歓喜、平和、安堵が襲ってきます。エベレストに登る価値よりも歓喜、平和、安堵に至る方が遥かに価値があります。

自分は美に憧れる

美とは全体の完璧な現れ

男性は美しい女性に惹かれ、女性は美を追求します。美とは存在の完璧な現れです。美を認識する時自分はそこに全体を見ているのです、自分が実は全体であったことを思い出しているのです。赤ちゃんを見ると誰しも笑顔になってしまうように美に関しても同じことが起きます。だからこそ人間は美に憧れます。人間が美に憧れる姿勢は全体に戻ることと同意です。

自分は美しいものを見る時に自分を忘れる

美しいものが視界に入ると自分を忘れます、自分を忘れるとは全体に戻ることです。全体に戻ることで歓喜、安堵、平和が訪れます。これが人間が美を追い求める真意です。男性も女性も常に美を追い求める理由はここにあります。美とは全体の完璧な現れでありだからこそ自分は美に酔いしれるのです。美に触れることで自分を忘れ全体に戻りたいという欲求から来ています。

部屋を美しい物で満たしたいのは全体への帰還、憧れ

部屋を美しいオブジェで満たすのはそれに触れることで自分を忘れたいためです、人は美しい物に触れたり、見たりする時に自分を忘れそこに関心が集まります。自分を忘れている時、そこには全体だけがあります、全体に帰還しているのです。美しいオブジェで部屋を満たすことで全体に帰還し叡智、歓喜、平和に戻ります。全体と自分、この関係だけで世の中の真実が見えてきます。美の意味も違ってきます。

するべきことは何もない

何かをして解決を望むのは全て自我

自分というのは常に何かをして目的を達成しようとします、問題を解決しようとします。これが自分の特徴です。自分は何かをしなければ何も変わらないと信じています。お腹が空けば食べて解決する、眠ければ寝て解決する、痩せたければダイエットする、部屋が汚ければ掃除する、、全てこの調子です。そこで自分は幸福になるためにも何かをして幸福になろうとするのです、これが今世紀最大の引っ掛け問題です。人間の「苦」の解消もこのスタンスで臨むがためにこの前で皆大敗してきたのが人間の歴史です。

不幸だけは何かをするだけでは解決しない

人間、自分というこの存在、この体の中に自分が居るというこの認識、これがこの苦しみを生み出しています。まさか主人公の初期設定がこの苦しみを生み出しているとは?ということで自分の人生とは苦しみのストーリーでありこれをいかに解消しようと24時間365日動きまくっても意味がないのです。ここに気づけるか、気づけないかで人生という意味が変わってきます。覚者が言う「するべきことは何もない」この言葉を言われた自分はただ困惑します、何を言っているのか?です。

何かをする時に、、それでこの自分の不足感がなくなるわけがない、という境地に立てるか

何かをする際に自分はこれで自分も至福になれるのでは?という淡い希望を持ちます。希望の会社に就職した時、希望の相手と結婚した時、希望の家を購入できた時、希望の年収を得れた時、、、ですがそれらの淡い希望はこの自分の前で木っ端微塵に打ち砕かれます。なぜならばこの自分こそが不足感製造機だからです。全体から分離してこの体の中に自分がいるというこの錯覚こそがこの不足感、苦痛を生み出しています。だから覚者は「するべきことは何もない」を伝え続けます。