正しく教えれば

中学一年生で悟りを開ける

悟りを理解する知識とは中学一年生ぐらいで十分でしょう、中一ぐらいの脳力があれば悟りは理論的に理解できます。悟りにおいて問題になるのは「難しい」という概念でありこの概念が悟りを恐ろしく遠いものにするのです。ですがそれこそが思考の策略、自我が作り出した自我の延命措置です。だからこそ中一で十分悟れるというこの意見を思考は大いに嫌います。というよりも嫌悪感が湧き出すでしょう、そして馬鹿な事を言ってるな!!!という思考が湧くでしょう。

分かっちゃえば簡単過ぎる

はっきり言って、、、悟りのメカニズムって超簡単です。超簡単にも関わらず難しいと多くの方が思っているというこの事実がいかに悟りが思考の敵かが分かります。簡単過ぎるがゆえに悟りを遠い遠い存在にしておかないとまずいのです。遠くに悟りを置いておけば、、学び始めても10年スパンで取り組むという自我にとっては有難い状況を作れます。

大真面目に取り組む

この社会において悟りを大真面目に学ぶというのは勇気がいるものです、なぜならば世間からは精神病、サイコパス、大馬鹿もの、、のように扱われるためそこに関心を持つこと自体がタブーとされているからです。ですがその事実こそが私から言わせると自我の防衛です。その辺りが分かってきますともう恐ることは何もない、大真面目に取り組んだ者勝ちです。

呼吸法

呼吸法の凄いところは理屈は全く分かっていなくても悟りを体現できてしまうことです。実は理屈から入ろうとするのは自我にとってはラッキーなことで思考の世界マトリックスの世界に留めておきやすいのです。何度でも思考で悟りを邪魔し横道に反らせることができるのです。エージェントスミスは思考として悟りを邪魔しますから思考で悟るのは最も難しい道でもあります。その点呼吸法は強制的に自動思考を壊せるので思考からしたら厄介なテクニックなのです。私はセッションにおいて理屈のみで悟りを体現できるとは思っていません、理屈で悟りとは何かを明確にし呼吸法で体現すると思っています。

リアリティをこの場で出現させる

思考の住人を追い出す

悟り系のメッセージに触れ、、呼吸法やファスティングなどで体の感覚を鋭敏にし意識を体に向けていきますと、、、リアリティが現れてきます。思考が落ちていき、、リアリティがはっきりと姿を現すようになります。お化けがでたり、霊的現象がでるのではなく、、そのむしろ逆で、、、植物がとんでもない迫力でもって目の前に現れるのです。輪郭がしっかりとし神のアートのように主張が出てくるのです。

この感覚が分かってくると

この感覚が分かってきますと、、もう思考に取り込まれていくことはありません。なぜならば体感としてリアリティを感じるようになり答えがもうそこにあることに気付いてしまうからです。今まで探し求めていたものはこれだったという気づきです、、それはもしかしたらみたいな曖昧なものではなく、、そうだ!!!これだ!!という思い出す感覚です。

幼少期は究極のリアリティに触れていた

自我がしっかりと形成されていない時はいつでもここに居たことを思い出します。そうだこの鮮明なリアリティの中に居たんだと、、、そう思い出します。思考はマトリックスの世界に留まるようにこの景色をずっと隠してきたのです。トニーパーソンズは「オープンシークレット」とこれを表現しますが、、本当にその通り目の前に全く隠れずにそこにあったにも関わらず、思考がひたすらにこの景色を隠し続けていたのです。

誹謗中傷評価称賛

楽になりますか???

ツイッターなどでは日々あらゆる発言に対して誹謗中傷評価称賛が繰り広げられています。有名人が何か一言呟けば「さすが!」「最悪」「神」「酷い」などの嵐のような評価が起こるのです。これらの呟きを読んではたして人は楽になるのでしょうか????なりません、、むしろ苦しくなります、絶対。なぜ苦しくなるのか?????そこには呟く人間の「人格」査定が起こっているのですが、、その「人格」がリアルな世界には実は存在しないからです。存在しないものを存在しているという空想を信じていきるのは緊張だからです。

人格の話は疲れる

Yahooニュースを読んでみてください、、、そこにはその日のニュースが載ってますが、、、そのニュースの裏には確実にその人間の「人格」査定が起こっているはずです。大谷翔平半端ない!木村拓哉最近どうなの?松本人志最悪!、、、、などです。人間の体には人格というものが確実にあって、、、その人格査定を行って楽しんでいるんです、、、、、ですがその後楽になりますか?????間違いなく苦しくなっているんです。

無いものを有ると想定して生きるってしんどいんです

裸の王様って童話がこの真実を如実に表現しています、、本当は服を着ていないにも関わらず王様は着ているという想定で国民に会おうとする、、、国民は王様が服を着ているという想定で王様に接する、、、、これが苦しいのです。。。ある時子供が「王様は裸だ!!」と言ってしまう、、、これによって王様も国民も救われる、、です。人格ってリアルな世界にはないんです、空想、思考の世界に存在します。

呼吸法

思考の世界から意識的に脱却する方法があります。思考の世界に生きるには意識を思考にフォーカスさせなくてはなりません、、意識が思考に意識するしか思考の世界には住めないのです。この真実に気づきますと、、意識を思考ではなく思考以外に意識させることができるようになります。実はこんな簡単なことで思考への意識集中を思考の住人からの脱却を可能にします。呼吸とは意識的に内臓を動かせる唯一の方法です、肺以外の臓器は意識して動かすことはできませんが肺は能動的に動かせるのです。呼吸から内臓全ての感覚を変えていきます。思考、脳に集中してしまっている意識をそこ以外に向けることが可能になります。

衝動が起きない

こうしなきゃ

我々は勝手にやらなきゃいけないリストを増やしていき慌ただしく生きています。まるでやらなきゃいけないリストが多いほどに真っ当な大人であるかのようです。お正月には年賀状を書いて、大掃除をして、神社に行き、同窓会にも参加し、親戚参りをし、、、と怒涛な日々を送ります。一方何もしなくていい、、という人もいます、、お正月には何もしない、、、、です。一体なぜここまで差が生まれるのでしょうか?????

何もしない、、が出来ない

思考の住人は何もしないが出来ません、、、常に苦しいので、、、、何かをして少しでもこの苦しみを排除したいと動くのです。そのまま=苦しいですから何かをすることでしかこの苦しみを解除できないんです。そこでやることをリストを量産し、それをこなすことで安心しているのです。慌ただしく動き回ることで本質の苦しみを見て見ぬふりをしているのです。

苦しいが起きなければ

今ここに苦しいが起きないのならば、、、何かをしようも起きません、、、苦しみを消すための何かが起きないのです。何かをしなくては!!!は苦しみの衝動があってこそなのです。ですから今ここで苦しみを消してしまいます。それが出来ればもう衝動的に動いてこの意味不明な苦しみから逃げ回る必要もないのです。

呼吸法

今ここで苦しみを消す方法があります、呼吸法です。今ここで苦しみを作り出すには、、思考に意識が意識するしかありません。苦しみとは思考の世界に入り込むことでしか発生できないので、、そのメカニズムを壊します。どうやって?????思考に意識を意識させないのです。意識に、、体全体を意識させます。思考に集まった意識を体全体に意識させます。呼吸を深く観察することで思考に集中した意識を手放していきます。視界がハッキリと開き、音が鮮明に聞こえてくるようになります。このとき苦しいが湧いてきません。

疲れない

呼吸法を毎日続けると

呼吸法を毎日続けますと疲れなくなります。頭に意識が生き続けストレス物質を量産していた時期に比べると全くストレス物質が出ない状態になります。頭に意識が行く、思考量産、ストレス量産です。この流れをぶった切ります。腹に常に意識が行く、、思考、雑念が全く量産されない、、結果ストレスが全くでない、、となるのです。人間は活動するとストレスが溜まると信じていますがこれは頭を使って生きている、思考を使って生きているからです。

ストレスが出ない=疲れない

人間て基本疲れますよね????とんでもない話です、、疲れません、、、人間の頭に意識が登り続けると疲れるんです。だから呼吸法で強制的に下腹部に意識を向けます。これによって思考湧き出しモードが崩れ、下腹部安定モードにシフトチェンジします。思考が湧き出している期間、ひたすらに思考が湧きそれを全体、神が読み込みます。この読み込みによってイメージが湧き続け、、、イメージの世界に住うことになるのです。このイメージの世界は緊張感、孤独感を伴い疲弊します。

思考の流れをシャットアウト

思考の流れを完全シャットアウトします。たったこれだけで疲れなくなります、、仕事をすると疲れるのは無意識モード、思考モード、雑念湧き出しモードに入っているからです。この流れをいつも作らないように呼吸に意識を向けます。そんなことをしたら考えられなくなるんじゃないですか????違うんです、いつも考え続けて疲弊しているんです。この疲弊のリズムを断つんです。

深刻

マトリックスの世界は深刻

マトリックスの世界を一言で言えば「深刻」です。この思考の世界は神が作った、真我が作った、、全体が作った、、、幻影の世界、、、ここに「私」を作り出し、、、「私がこの世界を生きる」という幻影を見事に作り出します。本当には居ないにも関わらずこれを作り出したのですからこれを維持するには緊張力、保持力が必要になります、これがストレスと呼ばれているものです。分離感を保持するには「緊張」が必要になるのです。

緊張=深刻

私が存在しているという勘違いは緊張を状態化します。つまり我々は状態化した緊張の中で生きているのです。それはつまりストレス製造機として存在しているということです。悟りとはこの現象、この夢物語が嘘であることに気づき、、思考の世界から抜け出すことにあります。「私」を保持するということから手を引き、、本当はいないんだからどうでもいいじゃん!!!に落ちることです。

マトリックスを出よ!!!

マトリックスの世界から出るためにはこの思考メカニズムを見抜く必要があります。私が居て、、、あなたが居てというこの思考の罠を見抜くのです。私もあなたも方便で、、私の人生も方便、、いつしか方便が方便じゃなくなって真実であるかのように扱われるようになった、、、、だからこれは方便なんだと今思い出すのです。

神と神のキャッチボール

いつでもどこでも

我々の日常会話は実は神と神のキャッチボールです。神が神に向かってボールを投げそれを神が受けて投げ返すのです。これを実はやっています、というよりもこれしか起き得ないのです、この世界では。ですが人間はそのように「解釈」していません、人間は人間と人間が会話をしていると「解釈」しています。その解釈がこの世界に緊張と分離を生み出しこのキャッチボールをつまらないものにしているのです。

人間がボールを投げる時

人間がボールを投げる時、「私はあなたにボールを投げる」という解釈が生まれます、、これによって初めてこの世界に人間が誕生します、そして私とあなたが誕生します。それを受け取る相手も「私があなたからボールを受け取った」という解釈が生まれるのです。これによって至福しかない世界に緊張と分離のストーリーが生まれ「苦しみ」が生まれます。至福の中での遊びが、、緊張の中でのやりとりに変わるのです。

ボールが外れた

ボールを投げた時に、、相手に届かない時ってありますよね????これが人間と人間の中で生じますと争いが生まれるのです。神と神のキャッチボールではこれは笑いになります、ですがこれが人間同士ですと争いになるのです。その違いは何か????それは勘違いによる緊張感です。人間はこの世界にたった一つの存在「私」を思考の中で誕生させ孤独と緊張の中を生きています。この緊張がキャッチボールをつまらないものに変えるのです。

早く試合がしたい

神と神は楽しくキャッチボールを毎日行えるのですが、、人間はさっさと試合をしましょう!!となります。キャッチボールなんて五分もやれば十分でしょ!!です。そして試合に臨み、、刺激を楽しむのです。なぜ刺激が必要なのか????それはキャッチボールが楽しくないからです、緊張と孤独で。だから試合という刺激を求め緊張と孤独を忘れようとしているわけです。ですが試合が始まれば益々ミスは連発し争いが絶えなくなるのです。

神経症の連鎖

付き合わない

この世界に登場する人々の多くは神経症です。なぜならばこの個人が居てこの個人が人生を歩んでいるという錯覚を真剣に信じているからです。ですからここで出会う人々の多くは神経症的にならざるを得ないのです。そうなると真の安らぎの中で生きるには無理をして付き合わないことが重要になります。そして神経症的な動きがあってもそれを解決しようとか抱えこまないことです、なぜならばそれをコントロールできる個人は居ませんし、解決した「私」も本当は居ないからです。

大丈夫ですか???

働かなくて大丈夫ですか???貯金がなくて大丈夫ですか???持ち家がなくて大丈夫ですか???今の年金で大丈夫ですか????周囲は「私」にあらゆる心配をしてくるでしょう。ですがそれらの心配を汲んでこちらがそれに対応したところで何一つ幸福度が上がらないことは確かです。なぜならば物質的次元で安心を得ようとしても何一つそれは叶わないからです。見かけ上の安心を得ることで今度は異なったストレスを抱えるだけの話です。

幸福の定義

これを叶えたら幸せ、これを成就したら幸せ、、個人の人生を歩む人々はこれを信じて生きていくわけですがこれらの全部は推測の域を出ません。そして歩んでも歩んでも真の幸福が全く手に入らないことから神経症的になっていくのです。重要なことは早くそのことに気づき諦めること。真の幸福は悟り、覚醒、解放以外にないことを悟ることです。この瞬間幻想に向かって走るという焦燥感から抜け出せます。

理解するのは誰だ???

思考はこれを理解できない

ノンデュアリティのメッセージだけでなく全ての知識は個人が理解していません、個人とは現れては消えていく存在でありそのような幻想は知識、メッセージを理解するというのは不可能です。雲が雲を理解することはできません、幻が幻を理解することはできません、それらは全部理解される側です。思考という理解される側が、、メッセージを理解するってありえないんです、全客体は、、神にとって気づきの意識によってのみ気づかれるのです。

本は読んだけど、、、

悟り本を理解できているんですが悟りが開かないんです、、、全く迷う必要がありません、悩む必要がないんです。なぜならばそれを理解したのは気づきの意織、大いなる存在、神です、、、にも関わらず悟りが起きないのならば、、それは「あなた」の責任ではないのです。「あなた」とは現れては消える存在ですから「あなた」は常にこれらの存在に認識される側です。

染み込む染み込む

本当にノンデュアリティへの理解が起きますと、、今までの私ストーリーを歩むことは不可能です。「私」が全責任でこの人生を歩むという体験はもう起きなくなります、、本当にそれでいいのか????この私ストーリーにまだ執着があれば悟り、ノンデュアリティ は起きないでしょう。それが起こるかどうかにおいて個人は全くの無関与です。

神の迫真の演技

演者は神

目の前でどんなに苦しんでいる人が居ようとそれは神が演じる役に過ぎません。苦しんでいるように人の経験者は神です、、見える画像の中に人格が居てその人格がこれを経験しているというのが我々の推測ですがそれは推測です。本当は神がそのような現象をただ目の前で起こしています。それを経験している人格が居るというのは推測でありその推測を人をするから「苦しみ」の中に入るのです。

貰っちゃう

精神科医、カウンセラー、、相手の気持ちになって寄り添う職業の方々は自身が心身症になってしまうってあります。相手がまさにどのような気持ちでどんな体験をしているかを追体験して、、相手に寄り添うのですが、、、そのイメージ、ドラマ作りこそが、、苦しみを生み出すのです。こんな風な苦労をこんな気持ちでしたに違いない、、です。相手から何かネガティブなエネルギーを貰ったのではなく、、今自身がドラマを作り出し追体験をして同じ感情を味わったのです。

そのようにはなっていない

真実は一つです。今この世界で起き上がっていることが全てです。悲しそうに見える人が居ればそれだけが真実です、孤独そうに見える人が居ればそれだけが真実です、、それ以上の何かはないのです。今ここで神がそのような風景だけを作ったのです。そして今「私は何何しなきゃ」という思考が湧いた瞬間に神はそれをイメージ化し、、さもそれが現実であるかのような絵を作ります、、その結果一緒に感情が起こるのです。もしも私が彼らのために何かをしなきゃ!が湧いてこなければ、、感情も湧きません。

釈迦

悟った後に釈迦はその気づきを悩める人々に伝えた、、、これが歴史上の多くの人々の認識ですが、、これは間違いです。悟りが起こった後に、、救わなきゃ!!は絶対に起きないんです、、救う必要がある人など居なかった、、、これが真の気づきです。悩んでいるように見える人物の中に人格が無かった、、という気づきが真の気づきです。ではそれが分かって救わなきゃ!!は起きるのでしょうか????