海であることを忘れた波は生にしがみつく

海は生そのものあり、波は幻想であるが故に生にしがみつく

海が海(生)にしがみつくことはありません、自らが生そのものであるのに生にしがみつくのはあり得ません。ところが波は生の一部であるのは間違いないのですが完結した個別の波という実態は全くないのでその存在にしがみつくわけです。勿論波も生の表現であることは間違いないのですがこれを個別の分離した存在であると言うのは間違っています。どこからが波でどこからが海なのかという線は本来引けないわけですから個別の波と断言するのは滑稽な話なのです。ところが人間は私とはこの体、であり思考であると断言しようとします。結果逆にこの身体、心にしがみつくという衝動が生まれるのです。

個人がしがみつくのは生ではなく自我

これが私だという思考、これが自我ですがこれは後付けのものでありゆえに実態はありません。一度この実態のない私が誕生するとその存在が危ういゆえにこの存在、錯覚を守ろうとする力が生まれます。人が人を殺したり、人が人の命に危害を加えることに対しどの国でも最も罪が重くなっている理由はそれだけこの自我は生に執着している証拠でもあります。死ぬということを圧倒的に恐れているのは自我であり、ゆえに輪廻転生や魂、オーバーソウル、過去生、来世などの存在は自我にとって魅力的に映ります。この思考そのものもエネルギーですからこれらの思考は体が死んだ後も海、存在、生に吸収され存続する場合も多いのです。

輪廻転生や過去生、来世はアイデアでありエネルギー

波がいずれかの段階で海に再吸収された後も自我のエネルギーが存続する場合、また違った波となって波物語を継続します。その際には過去生の記憶を持った波として波物語を続けていく場合もあるのです。ですが輪廻転生や過去生の大前提である時間というものは海ではなく波の世界でしか存在しません。海の世界には時間も空間も存在せず時間と空間があるのは波の世界だけの話です。よってこの幻想、波物語が自我が作り出した幻想であると腹落ちした瞬間に自我も欠落し、輪廻転生も欠落します。海と時間は共存できないのです。仏教ではこれを解脱と言い、禅では見性などと言ったりします。

海であることを忘れた波は他人を攻撃する

他人を攻撃することで自分が大きくなったように感じたい

海であることを忘れた波は自身が非常にちっぽけな存在に感じますから人を攻撃することで大きくなったような感覚を手に入れようとします。ネットなどで芸能人を誹謗中傷するのを日常にしている人々は他人を攻撃することで一時的に自分(自我)が大きくなったと喜んでいるのです。ですがそれは錯覚ですからいずれ元の大きさに戻ります。そうなりますとまた他人を攻撃して自分を大きくしたいという衝動に駆られていきます。

他人を攻撃して撃ちまかせた瞬間に自分が大きくなったように感じるメカニズム

他人を攻撃して相手をコテンパに打ちまかせた瞬間自身の自我は大きくなったような感覚を覚えます。相手の自我よりも自身の方が大きい、強いと錯覚をすることができます。ですがそもそもが広大無辺な海である存在が相手に勝ったぐらいでその大きさには到底及ばないですからその大きくなった感覚はやがて虚しさにとって変わるわけです。なぜこれまで戦争が世界中に溢れていたかと言えばこのような集団的自我の働きによるものです。

人間がギャンブルや勝負事が好きな理由は自我の衝動

ギャンブルがこれほどまでに人間から人気があるかと言えば人間の勝負欲求にはこのような自我の働きが隠れているからです。そしてギャンブルはさらに勝負に自然と熱中できることで無心になれるという特典があります。そのため人はより無心になれるようによりハイレートなギャンブルにハマっていくのです。より綺麗な女性に勝負を挑む、よりハイスペックな男性を落とそうとする、、、など人間の勝負欲求は自我の巧妙な仕掛けによって成り立っているのです。

海であることを忘れた波は常に忙しい

何もしていないと思考がグルグルと周りだす

思考とは波特有のエネルギーです。感情も波特有のエネルギーです。波が波であり続けるためには自分は海ではなく波だと勘違いし続ける必要がありますからこの思考と感情が常に頭の中でグルグル回ることになります。感情も思考も何も湧いてこなかったら自身を波だと勘違いし続けることができません。そのため思考は延々と湧いてきて思考する、ゆえに我ありと思い続けるのです。

その状態が苦しくなってくると人は何かをしたくなる

この思考がグルグル回っている状態が苦しいため、人は友人とのお喋りや、TV番組に耽ったり、読書、漫画、スポーツ、旅行とあらゆる娯楽に逃げるのです。娯楽に興じている時はこの思考のグルグルから逃げることができるからです。自身を波であると勘違いしている以上不足感、欠乏感が常に襲ってきますからいかにこの不足感、欠乏感から逃げるか、目を背けるかが重要になるのです。ですが思考を使って逃げ続けていても不足感、欠乏感の恐れから本当意味で逃げ切ることはできません。

波の欠乏感、不足感と向き合うことで無心になる

何かに集中すること、無心になることで海を思い出すことができる人は海の安堵、安心、歓喜を知っている人です。そのような人は波の欠乏感、不足感と向き合う準備ができています。波の欠乏感、不足感とは何かを見つけるためにこれと向き合う、そこと向き合うことに無心になることで波のカラクリ、波の誤解、波の錯覚を見抜くことができます。そこから生まれる安心感、安堵、歓喜を発見できます。書道、剣道、柔道など所作に入り込むことで無我に入れるならば次は欠乏感、孤独感、不足感と向き合うというチャレンジが楽しくなります。

海であることを忘れた波は必ずいずれ海に戻る

波だと勘違いしようと何だろうと波の最終形態は海に戻るのみ

自身を広大な海ではなく極小の波だと勘違いすることからこの波物語はスタートするわけですが波の運命はすでに決まっていていずれは必ず海に戻ります。海に戻らない波はありません、なぜならば波とはいずれ消滅することが約束されているからです。太平洋のど真ん中で発生した波は何ヶ月もしないうちに必ず陸地にぶつかりそこで消滅します。この消滅を悟り、目覚め、覚醒と呼ぶのです。目が覚めるのは波ではなく勘違いしていた海が波が消滅することで我に帰るだけです。

どんなに苦しそうにしている人間がいても気にする必要はない

人生が最高にハッピーでいつまでも長生きしていたい、このような波として生きている人はいるでしょうしそれはそれで何の問題もありません。いずれは海に戻ります。一方で人生は悲惨で最悪でいち早くこの人生を終わりにしたいという波がいるかもしれません、ですがこれも全く問題ないのです。なぜならばそのような波はなるべき早く消滅し海に戻るだけだからです。最高にハッピーと宣っても、最悪にアンハッピーと宣う波も海の安心感、安堵感、歓喜に比べればどれも目糞鼻糞の世界、五十歩百歩の世界です。人間は所詮他人との比較でしか自分の幸福度を決めれないという稚拙な尺度しか持ち得ない生命体です。他人との比較で決め込んだ幸福度など海の幸福、安堵、平和とは次元が違うものです。つまり所詮は一時的な快楽でしかないのです。

真の幸福(海)は波の幸福度を超えたところにある

金メダリストや成功者のインタビューで結果を出せたときの喜びを聞きますが決して騙されてはいけません。波として何かを得てもそれは全て一時的な快楽、その快楽は一瞬で終わりを告げます。ですが何かを成し遂げたときにこみ上げてくるこの達成感と称される感情とは実は一瞬だけ海になったときの感覚なのです。だからこそ笑顔から安堵感や幸福感、至福が見えるのです。海を垣間見た人の表情を見せます。ところが自我(波)はすぐにその経験を自身の自我拡大に使ったりするから騙されてしまうのです。波が対象と一体になる瞬間だけ実は波が消え去り海に戻るわけですがこの海に戻った感覚こそが覚醒のヒント、海に戻るヒントです。

海であることを忘れた波は好奇心旺盛

波であることは素晴らしいアイデア

これまで自身を波だと勘違いすることの苦しみについて散々お伝えしてきましたが決してこれは悪いことばかりではありません。そもそも全存在である海が自身を勘違いすることがミスから起こるなどあるわけがないのです、これはこれで素晴らしい海の大冒険、好奇心から起こるミステリーなのです。ただそこには苦しみが伴います、それはこの初期設定上避けては通れないものです。自身がこの小さな波であると勘違いできれば出会う波、景色は最高にエキサイティングになります。自分以外に他の存在がいるなど海としては絶対に経験できないことだからです。自分じゃない存在(波)に出会う、自分じゃない存在(波)と会話する、、どれもが最高のエンタメ、海にとっては計り知れない感動があります。

波の大冒険は世界(海が形を変えたもの)は自分しか信じられないということからスタートする

生まれてきてからあなたは海ではなく波なのだという洗脳を受け続けることで海は次第に自身を波だと勘違いするようになっていきます。この洗脳の凄いところはそう信じれば信じるほどにこの世界が世知辛く、悲惨で、非常で、残酷で、信用できない世界に見えてくるということです。残虐無人、七転八倒、四面楚歌、、とにかく自分以外は信用できないと本気で思えてくるのです。これが波物語のスタート、オープニング、入り口です。海が海としては絶対に味わえない経験、感情、思考が滝のように湧いてきます。

子供(海)にとって大人(波)が怖いのは大人は洗脳されているから

子供は広大無辺な海として生きていますが大人は極小な波として生きています。子供にとって大人とは何か欠落してしまった存在、何か洗脳されてしまった存在、自分を見失っている存在そのものです。尊敬ではなく哀れみの対象ですらあります。ですが同時に最高にエキサイティングな存在(波)でもあります、海として体験できないことを毎日体験している存在(波)でもあるのです。ここで重要なのは本当は波という独立した存在は存在し得ないということです、波の範囲を明確に言い得ることは絶対にできません、ここからが波でここからが波以外など説明できないはずです、ですが自我(思考)はそこを曖昧にしながらも確実に存在するかのようにあらゆる説明をしていきます。だからこそ自我は常に不安でいっぱいなのです。この曖昧な盲点に気づかれてしまったら自身は即消去されてしまいます。

海であることを忘れた波は心配性

広大無辺な海が自身を極小の波だと勘違いすれば将来は不安だらけ

将来不安がいつまでもどこまでも解消しない理由はそれは将来がそれだけ不安定だからではなく人間の構造的な欠陥から起こります。本来広大無辺な大海原である存在が自身を極小な波だと勘違いすることからこの波物語、人間物語はスタートします。安心、安堵、平和そのものである海という存在から、極小の波だと勘違いしている状態は安心、安堵、平和を無限に追い求めることになります。これが人間という存在の構造的メカニズムです。このメカニズムを理解しないと延々と将来不安に困り果てていくことになります。

では何も心配しないのが正解なのか?

そうなると人間から必ず出てくる質問があります。それはだったら心配をしないで生きるのが正解なのか?ということです。これはもう理論として破綻しています。心配は次から次から湧いてくるのであって人間がこれを止めることはできません。自身を全存在であることを忘れ極小のこの体と勘違いしている限り延々と不安が湧いてきますよと言っているのです。ですからこの勘違いを完璧に解消する以外に問題解決はないのです。私が推奨するのは、もしも不安が湧いてきたらそこから無心に入るということです。不安を解消するために無心になってそこに向き合いそこから無我、無心を体験してしまうということです。自身から我が抜け落ち全存在(無我)になったときにそこには安心感しかありません。安心、安全、安堵は条件が作り出すのではなく自身の状態によって決まることが理解できます。そこに勘違いした自分がいては不安は絶対に取り除くことはできません。大いなる勘違いこそが不安を湧き起こしているからです。不安をありのままに見てそしてその解決に向かって無心になれば突然安堵感に包まれます。それは自我が求める安堵が手に入るのではなく自身(全存在)が実は安堵そのものだったと気づくことです。

不安症は欠乏感、不足感が形を変えたもの

広大無辺な海が自身を極小の波と勘違いしたことからこのあなたの世界はスタートするわけですが、あなたの見ている世界は勘違いをベースに構成されていますからどこまで行っても真実は見つかりません。勘違いした波が真実を発見することはないのです。なぜならば自身の存在(波)こそがこの物語を作っているのですからその物語の中に真実は発見できないのです。私たちに用意されたここから抜け出す方法はこの物語から自分(波)を消滅させてしまうことぐらいです。日本では昔から書道、剣道、茶道、禅といった文化がありここでは結果ではなくまさに所作そのものから悟りを開くことを説いてきました。所作に無心になって取り組むことでそこから邪念、思考、自我を取り除きその場で無我、全存在、海になってしまうということです。座禅では目をつぶり視界を消して直接無我に入っていきます。書道、茶道では行為と一つになることで自身の体、思考をこの世から落としてしまいます。そこで感じる無我の世界、全存在の世界、仏性の世界が安堵、安心、平和そのものです。

海であることを忘れた波は嫉妬心が強い

波=嫉妬心である

自分は嫉妬心が少ないという人間が現れたらその人間は嘘つきと思ってまず間違いありません。なぜならば分離した人間=欠落感=嫉妬心だからです。自身を分離した人間であると錯覚した瞬間、強烈な不足感を味わいます。これは構造上仕方がないことです、そうなれば自身よりもより多く富を所有する人間に対しては嫉妬心を抱かずにはいられないのです。いやそんなことはない、今持っている家、お金、人気、家具、車で十分であるとその人間は宣うかもしれませんがそれは大嘘つき、そもそもが海であった存在が波に成り下がっている時点でどんんなに富を得ても満足するわけではないのです。もしも万が一今の状態で満足しているという人間が現れたならばそれはそこで満足しているのではなくより多くを求めても満足できないことを知って絶望している人間ということです。

お金なんかいらない、女なんていらない、名誉なんていらないは全て嘘

海であることを忘れた波は、常に不足感、欠乏感が湧いてきます。それはそのはず広大無辺な海がたった一個の波と自身を錯覚して欠乏感が湧かないはずがないのです。ですからお金、異性、名誉、地位、全てを求めるのが波、人間の本来の姿です。もしもそれを求めていないと心の底から言える人間はそれを手に入れても満たされないことを腹の底から知った一部の人間だけです。手に入れなければそのような境地に至るはずがないのです。それは人間=欠乏感だからです。

芸能人が常に羨望、非難の的になるのは当然

人間社会には芸能人、タレント、著名人といった人々が常に出現し常にニュースの話題になり続けます。芸能人が今年は一回もニュースになりませんでした、とは絶対にならないのはその存在が人々の羨望であり非難の的になり続けるからです。自我は常に比較対象の中で生きていますから自分よりも豊かな人間を尊敬する一方で嫉妬します。自分よりも貧しい人間に同情する一方で優越感に浸ります。こうして自我は関係性の中で自身の幸福度を決めるという行為を続けます。もしも関係性とは全く関係なく自身の幸福度を決めれる人間がいるとすればそれは自身の意思で無心、無我に入れる人間だけです。無心、無我に入れる人間は他人との比較を超越した部分で至福を感じることができます。人間ゲームの外に至福を感じることができます、その時は比較は意味を持ちません。

海であることを忘れた波は自分の存在を過度に認めてもらおうとする

海であるにも関わらず波に成り下がった成れの果て

元来は海であったにも関わらず、自身を波だと勘違いしてしまった波は自身を根本で過小評価しています。それはそのはず海であるにも関わらず波でしかないと錯覚すれば自分は小さくて取るに足らない存在であると思うに決まっているからです。過小評価するに決まっているのです、ですが同時に本来は海であったわけですからもっと過大評価されるべきだという相矛盾する感覚を常に持っているのが波であり人間の姿です。自分で勝手に過小評価しておいてもっと評価して欲しいと常に思ってるのです。ですから男性はクラブに高いお金を払ってでも褒めてもらいに行きます。褒めてもらうためだったらどんな苦労も厭わない男性も女性もいるわけです。

ところがどんなに認めてもらっても満足できない波でもある

あらゆる功績を重ねあらゆる場所で褒めてもらったにも関わらずなぜかこの波は満足できません。紅白歌合戦に10年以上選出されたにも関わらず一度落選しただけでNHKに文句を言う和田あきこさんはその分かりやすい例でしょう。歌手としては最高権威である紅白歌合戦に10年以上連続で選出してもらったのに一度落とされただけでNHKに文句を言いたくなってしまうその心理はどこまで認めらても満足できない波、自我の存在を認めざるを得ないのです。要はこの波、自我にとって認められることが嬉しいのは間違いないとして満足するなどあり得ないということです。それはもともとが海という広大無辺な存在であったものが波と自身を勘違いする行為の構造不良でしかありません。波としてどんなに評価されようと自身が元々は海であったことをはっきりと覚えている限り満足などできようがないのです。

一度評価されると評価を落とすことが地獄のように苦しくなる

人間は一度何かしら分野で評価を高く受けると、次に評価を落とした時に地獄を見ます。一度評価を得た自我、波はそこで自身が大きくなったような錯覚を起こし一時的ですが喜ぶことができます。ですが次に評価を落とした際には自分自身が小さくなったような錯覚を起こしますからこれは死ぬほどの耐えがたいことになるのです。こうして一度高評価を得た人間はその後の人生を非常に危険な状態で生きることになるのです。評価を上げ続けても満足はできない、評価が下がれば自身が小さくなったような気がして自信を無くすという無限地獄に陥るのです。

無心になって取り組んでいたら時間があっという間に経っていた

無心=全存在=時間はなくなる

無心になって物事に取り組んでいたらいつの間にか2時間以上経っていた、、これは何が起こったか?それは無心になることで自我が消えてなくなりその瞬間に全存在になっていた、結果時間がなくなったということです。無我夢中になっていると時間が経つことを忘れると言いますがこれは間違い、時間がなくなったのです。海、全存在には時間がありません、時間があるのは分離意識の世界、海ではなく波、全存在ではなく分離した人間の状態の時です。分離するとそこには空間、距離が生まれます、すると空間から空間まで移動するために時間が生まれます。ですがこれは海の世界、全存在の世界では空間、時間はありません。移動がないからです。

やりたくないことを嫌々やっていると時間が経つのが異常に長い

やりたくないことを嫌々やっている時、時間が経つのが異常に長く感じた経験はないでしょうか。これも当然のこと、思考全開、感情全開、自我全開の世界は無我、ワンネス、全存在であることを最も忘れている状態、、これは不足感、欠乏感、飢餓感全開の状態なのです。究極の時間、空間の世界が広がります。

何かを成し遂げた達人がエゴまみれ、自我まみれに陥るケース

有名ミュージシャンである小室哲哉さんが借金を重ね最終的には詐欺で捕まった事件がありました。あれだけでの音楽家ですから音楽の制作過程においては無心になって無我夢中になってつまり究極の至高状態で作品を制作し続けたはずです。何よりも音楽活動自体を楽しめ活動に専念すればするほどに無欲なっていくはずなのに彼の場合は結果逆の状態にお金を湯水のように使いさらに借金、詐欺と無限地獄に陥りました。これを自我・無我理論で説明すれば簡単、無我夢中、無心で作った音楽活動で得た成果を自我が悪用した結果になります。莫大な収入、地位、名誉を自我が不足感解消に使い続けたわけです、ですがこの自我の不足感が解消することは絶対にありません、つまりどこまでも使い切り最後は無限地獄に陥りました。彼は音楽活動以外の活動時は自我全開、不足感全開状態になってしまったということです。音楽活動で得たはずであろう無心の境地、無我の境地をその他の生活に応用できず、圧倒的に分離した人間活動に利用されてしまったことになります。

条件が揃ったら無心に入れるのではなく、無心に入ることで条件を揃えていく

目の前の問題の山を先ずは無視して無心、無我に入る

分離意識全開、自身を海ではなく波であると認識する波の前にはおそらくは問題点で満載です。自身を全体から分離した人間であると捉える人間の前には問題点が山のように転がっているはずです。そうなると多くの分離意識はこう考えます、先ずはこれらの問題の山が解消できたら無心、無我に入って行こうと。集中して仕事に取り掛かろうと。ですが問題はその問題と称される山々は自我、波が無理くり作り出したものだといくことです。不足感の塊である分離意識、自我は不足感を問題に置き換えていきますからこれは強制的に問題にすり替えられてしまった事象なのです。ですからこの問題点に焦点を合わせても解決しようがないのです。先ずはこの問題点を解決することに無心になる、もしくは問題点以外のことでもいいから無心になって取り組むようになると全存在が、即海に切り替わり問題点が消えてなくなります。問題が問題でなくなってしまうのです。

波、自我が錯覚ならば問題も錯覚

海ではなく分離した波である、全存在ではなく分離した人間であるという錯覚を持つ分離意識は不足感の塊です。この不足感が解消されますとそれまで問題と捉えていた事象が突然問題ではなくなってしまいます。波、自我=問題所有ですから、、海、全存在=問題所有できずです。海は問題を所有できないのです。ですから我々は全ての機会、掃除、洗濯、エクササイズ、仕事、子育てを無心で入り込みその場で海、全存在に切り替わってしまうことで問題を問題でなくしてしまうということができるのです。もちろんどうしても無心になれないこともありますからそれは横に置いておいて基本的にはそこから無心に入る、無我夢中に入る、、この癖をつけることが重要になります。

そこから悟りに入る、これは日本人の得意分野

茶道、書道、柔道、剣道にはこれが重要でこれは重要ではない、、という概念がありません。最初から最後まで全て重要、合理的、非合理的を超えたところにあります。つまりどの所作からでも悟りに入る、どの所作からでも無心、無我に入りなさいという教えです。無心になって邪念を払って無我に入り込むことを茶道、剣道、柔道では教えているのです。最も簡単に言えばどの所作からでも海、神、全存在になってしまいなさいということです。そしてこの動きを生活の全てに応用することが真の目的です。