人類を発展させ続けてきたこの思考こそが苦しみの根源とは、、波には理解できない

思考こそ人類を動物よりもはるかに進化させた黄金の道具

人間は考える葦である、思考がなければ人間は動物と同じ、思考で成功せよ、、、思考は今現在の社会では絶対王者、思考が優れた人間はこの社会ヒエラルキートップに君臨します。偏差値とは思考の優劣を判断するもの、SPIテスト、IQ、学歴、、、知能が謳歌しています。だからこそこの知能、思考こそが人間を苦しませ続けるというメカニズムは盲点中の盲点、古畑任三郎、コロンボでもこの真犯人は発見できないわけです。過去にこの真犯人を発見し世の中に大体的に発表したのが釈迦やキリストですが彼らが死んで何十年も経たないうちにこれらの教えは自我の配下に戻りました。

真犯人はこの体、思考こそが自分自身だと嘘ぶき洗脳に成功した

文明の進化にしよって人間の思考信仰はこれから益々進むはずです。より優れた思考を手に入れた人間がマウントを取り続けていくでしょう。思考によるマウント合戦は今後弱まっていく予感はしません。ですがこれらの思考勢力に打ち勝つ方法があるのです、それは簡単、自身の嘘を見破るだけ、これが自分だというこの思考が実は勘違いであることを見破るだけです。実はこの波物語、人間ゲームは主人公であるあなたがいて全部成り立っています。全ての現象はあなたの五感とセットで成り立っているのであなたの初期設定を変えてしまうとこのゲームそのものが変わってしまうのです。この波物語、人間ゲームが幻想と呼ばれる所以はあなたの五感なくして成立しないからです。

だからこそこの五感を使って幻想を見破る

この現象界が現象界であるためにはあなたの五感が必要なのです。あなたが五感を使って感知しなければこの現象界は存在できない、あなたなくしてこの現象界は存在できないのです。だからこの現象界に翻弄されるのではなくその五感を使って悟りに入る、海に戻る、全存在にシフトするのです。五感を集中させて無心に入り無我に入る。そこに至福、歓喜、平和は常にあります。そこが分かるともうこの現象界に翻弄されることができなくなります。

海であることを忘れた波は本能に翻弄される

湧き上がる欲求は欠乏感が変異したもの

海であることを忘れた波は欠乏感が溢れてきます。自身を波だと勘違いすればするほど欠乏感が溢れてきます。これは当然のことライオンが自分は弱いと勘違いすればストレスは相当なものです、本当は強いことをどこかで覚えていますから。この不足感、欠乏感が波こと人間の欲望、本能の根源です。こん欲望の形状が個人によって全く異なるため個性というものが生まれました。あの人は目立ちたがりや、あの人は見栄っ張り、あの人はマイペース、あの人は恥ずかしがり屋、、、などなどです。これらは全て不足感、欠乏感が変異したものです。

本能を昇華する

この本能を無かったことにする、この本能を抑えていくのがこれまでの宗教の多くのです。キリスト教では十戒、仏教では八正道、断食や、禁酒などです。ですが現在の資本主義経済全盛の時代においてこれらのシステムは合わなくなってきました。そこからは欲を肯定していくような大乗仏教的な思想が広く拡散しています。ですがこの欲を肯定しながらも苦しみをなくしていくという大乗仏教的システムもなかなか上手くいっていません。どのような状況であっても自我は必ずその中から抜け道を探し出し延命措置に成功するからです。欲望を無心になって見つめそこから悟りに入るか。欲望をきっかけにして所作に入りそこから無心に入る。こういった本能の昇華が必要です。

欲望を無心になって見つめる

エックハルトトールはこの欲望を無心になって観察しなさい、欲望、思考が起こったらそれを冷静に見つめそこから悟りに入りなさいと説きます。思考、欲望を観察する意識そのものでありなさいと説きます。思考が起こると同時に海、全存在、大いなる一つになってしまうということです。このアイデアの素晴らしさは自我が出しゃばることで意識になれるということです。悟りに自我を逆に利用するということ。思考の湧き上がりこそを無心、無我、大いなる一つに戻るきっかけにしてしまうということです。

海であることを忘れた波は依存傾向にある

自分自身を弱いと感じる波は何かに依存したがる

広大無辺な海が自らを波である分離した存在からこの波物語はスタートします。広大無辺な海であったことを微かに覚えているため波は常に自身を弱い存在と勘違いします。そのため波は何かにすがりたい、何かに依存したい、何かに頼りたいという欲求が強く湧き出ててくるようになります。これは子供よりも自我が完成した大人の方がより強く依存傾向にあります。そのため大人は子供に向かって「このままではどこにも就職できないよ」とどこかに依存しなくては食べていけないことがデフォルトのような発言をします。そして他の大人も同じような意見であることからそれが真実であるとさらに錯覚を強めていくのです。

何かに依存しても苦しみは解消しない

自我が完成し自身を弱い存在、何もできない存在と錯覚した人間は何かしらに依存して生きていくことになります。それは会社だったり、親だったり、国などの大きなな組織、もしくはパートナーです。依存が成功し表面的には平和が訪れますが自我はさらなる不足感を湧き出し続けますからその解消方法を探し回ることになります。それはギャンブルだったり、お酒だったり、子供だったり、エンタメです。何かに依存することで弱さを感じることを避けれても不足感が湧き出ることを抑えることはできません、それは自身が海だったことを波は覚えておりゆえに何に頼っても本当の強さを手に入れることはできないからです。二元の世界で対象を手に入れて感じる強さは全てマヤカシです。総理大臣の妻になったとしてもこの不足感が消えることが絶対にないのです。

依存すれば依存先の顔色を伺わなくてはならないという第二の苦しみにシフトするだけ

会社に依存すれば会社の顔色を伺い、結婚相手に依存すれば相手の顔色を伺います。クライアントに依存すればクライアントの顔色を伺うことになります。こうして弱さ克服のために手に入れた依存先によって次の苦しみが湧き上がっていきます。ひたすらに苦しみが変容してシフトしていくだけです。これが人間ゲーム、波物語です。重要なことは自我から湧き上がる不足感、恐怖心、欠乏感、退屈感を対象を見つけてそこで解決しようとするのではなくこのメカニズムを理解することで波から海にシフトすることです。自身が海であったことを思い出すことです。それは決して難しいことではなく掃除に集中することで無心になる、仕事に集中することで無心になる、読書に集中することで無心になり、思考である自我を抜け落としていきます。体の感覚に意識を集中することで思考が入り込む余地を無くしその場で海、全存在、神にシフトしてしまうことです。人間はいつどこでもどんな状況でも実は無我になれます。それが本当の強さ、安堵、平和、歓喜です。そして1日のほとんどの時間をこの状態で過ごせた時にこのメカニズムが腹落ちします。波は幻想でこの世には海しかない。つまり強さしかないということを。強さが弱さを演じているだけです。

海であることを忘れた波は恋愛が好き

恋愛はお互いを特別視する約束

恋愛とはお互いを特別視する約束です。海であることを忘れた波は自身を特別視してもらうことを願います。それは自身の存在がここに在ることを強く実感できるからです。世界中の中で自分を選んでもらったという感覚は自我にとっては最大級の自己肯定になります。なぜ絶対にあるはずの自己を改めて肯定してもらう必要があるのか?それは自己が偽り、嘘だからです。自己とはこれが私自身だと宣言するエネルギーでしかありません。分離とは全体から無理くり独立しようとするエネルギーの働きでしかないのです。ということでこの自己を世界中の中で最も価値があると異性に選んでもらうことに自我は興奮するのです。

自分を特別視してもらえなくと途端に不安になる

自我は自身を特別視してもらうことは大好きです。その瞬間自分が存在すると強く肯定できるからです。ですがこの恋愛の難しさは相手の興味関心が他人に移った時です、その瞬間自身を特別扱いされているという感覚が完璧に欠落します。自我は自身の存在を急に不安定なものに晒されていると恐怖を覚えます、少しでも雑に扱われている、甘く見られている、大切に扱われていないと判断するとその不安は相手への怒りに変異されます。相手を誠実な人間でないと非難の対象にすることで自我は逆に強固になっていくのです。自身の存在が危ぶまれると相手を非難することで自我は対立関係を作り出し自我の存続を図るのです。恋愛がなかなか上手くいかない理由はここにあります。

相手と一つになることは小さな悟り

恋愛を通じて分離した者同士が一つになったと感じることは実は小さな悟りでもあります。自身と対象が一つになった時自我は完全に消え去ります、この感覚は波が海になった感覚、人間が全存在になった感覚、分離が統合になった感覚です。豊かな恋愛は人間を悟りに誘う力を持っています。恋愛は海がこの波物語に作り出した分離統合のヒントです。ですが多くの場合この小さな悟りに自我はしがみつきこれすらも自我は自身の延命に使うのです。

海であることを忘れた波は徒党を組む

波にとって個人は非常に弱いので徒党を組んで強いと勘違いしたがる

海であることを忘れた波は、広大無辺な存在から波という極小サイズに縮こまれてしまったので常に心細くなります。当たり前ですが本来が広大無辺な存在ですから比較にならないほどに心細く感じます。心細い時に周囲に仲間の存在は重要になります、結果波は徒党を組んで生きていくのです。〇〇学校、〇〇中学、マルマル専門学校、〇〇部活、〇〇団体、〇〇会社などなど、、、とにかく波は集団にゾクしたがるのです。その最も大きな集団が〇〇国です。もしも国際条約が成立して国という組織を解体しましょうと各国で締結したら全世界の人間が反対するでしょう。急に心細くなるからです。

会社に行って、夕方から〇〇会に参加、夜は家族で食事

人間は一日中どこかの組織に属していたい動物です。朝は家族の中で目覚め、そこから会社に行き、帰ってきたら仲良しグループで遊び、そこからまた家族の元で眠る。これらは全て無意識に行われているわけですが自我はこれを作為的に行います。個人=弱いですから、いかに個人が寄り集まって弱さを忘れたい、弱いことを忘れていたいのです。個人が集団になった時に強くなるということではありません、弱さを感じないで済むということだけです。波が求める強さとは海の強さです。波がどんなに寄せ集まっても海の強さとは異質にものなので意味はありません、それゆえ個人は一旦徒党を組み始めると無尽蔵にその組織拡大を目指したりますがそれは海になるわけではないのでいずれ崩壊します。

無心に入れば徒党を組まなくなる

波がどこかのタイミングで無心に入るコツを掴んだり、無我夢中になってそこから強さを感じることができたならばもう徒党を組むことに興味を無くします。たった一人の状態から無我、無心、大いなる一つにシフトできたならばもう弱さを感じることはなくなり徒党への興味も同時に無くします。徒党を組むことが強さを感じることならば無我、無心、真我に入っても徒党にも興味を持ちますが質が全く異なるまで比較にすらならないのです。書道から無心に入る、掃除から無心に入る、仕事から悟りに入る、音楽を聞いて無我に入る、、、人間はどのような状態からでも実は無心、無我、海、強さに入ることができます。

海であることを忘れた波は何かと同一化したがる

波の同一化とは、波に実態がないからこそ実態があるように見えるものにしがみつく

海であることを忘れた波に実態はありません。海と分離した波という個別な存在が本当はないからです。だからこそこの波を自分自身と決め込む自我は不安でしょうがありません、実態がないものに実態があるかのように騙し続けるのは至難の技です。自我はそのためこの不安感から逃れるために何かしら実態があるとされるものに必死にしがみつくのです。自身をそれと同一視することで実態があるかのように振る舞います。例えば社長というポジション、一家の長というポジション、有名大学卒業というポジション、有名企業所属というポジション、この何かしらは強固に見えれば見えるほどに自我にとっては都合が良いのです。

何かと同一化した自我はその何かしらを手放さない

波という独立していない存在を自身と錯覚する動きこそ自我の動きですが、そもそもが独立していないわけですからこの動きは常に無理があります。そのため自我は何か実態がありそうなものと一つになることで本当にあるかのように錯覚を強めていきます。私は〇〇所属の人間です。とこれで人間という曖昧な存在にアイデンティティーが加算され錯覚が強化されていきます。詐欺師に箔が付いていく感じです。自称コンサルタントと宣ってきた詐欺師が、東京都認定と箔がつくとこの詐欺師の偽りは一層見破れなくなります。これを自我は好んで行います。だからこそ自我は同一化した役職、ポジションを好んでは絶対に手放さないのです。

総理大臣という椅子にどの議員もしがみつくのはその椅子が居心地がいいから

例え総理大臣という役職が命を削るほどに激務であったとしても自我はここにしがみつきます。総理大臣という存在を認めない日本国民はいませんから自我にとってこれほど安泰の同一化先はないのです。自我にとって重要なのは同一化先の強固さ、絶対性ですから総理大臣という役職は涎が出るほど好ましいのです。総理大臣の〇〇さん、この響きは世の中に断固として存在している錯覚を起こしてくれます。これが町内会の〇〇さんでは認知度が低すぎて好ましくないわけです。ということで自我は認知度が高い役職を好んで同一化していきます。

海であることを忘れた波は恐怖心が強い

恐怖心とは自身を消滅させようとする動きに関しての拒否反応

海であることを忘れた波は恐怖心の塊です。本来海であるにも関わらず自身を独立した波と言い張る波にとってその理論が実は破綻していることを自らが分かっています。本来が独立した波などは存在せず海が形を変容しただけでどこまでいっても波は海です。波という名称は海の一部を表現しただけで波という独立した存在は地球上に存在しません。だからこそこの思い込みは非常に苦しい思い込みなのです。つまり突っ込みどころ満載、叩けば埃が山ほど出てきます。叩けば埃しかありません。そのため自身(自我)にとって存在を危ぶむ存在が全て恐怖となるのです。

波は自身を拒否したり非難する人間に過剰に反応する

波を非難するということ自体が理論が破綻しているのですが、非難された波は異常な反応を示します。相手(波)を憎み、怒り、もしくは非常に落ち込む。この反応が引き起こされる本当の理由とは自身の存在(波)こそが嘘だからです。嘘であることをしっかりと理解している自我は嘘を見破られることに異常なまでの過剰反応を起こすのです。表層の過剰反応にが実はそういった裏事情があるのです。詐欺師を追い詰めた時に過剰な拒否反応を示すのと同じで嘘を暴こうとする時に相手が反応するのは当然なのです。波は自身を非難する波を過剰に恨むことで逆に自我を強めたりもします。

なぜここまで怒りが湧いてくるのか

海であることを忘れた波は非難されることに過剰に反応します。時には相手を恨むことさえしますがこれも自我の策略、相手を恨むことで問題点をすり替えているのです。自身を非難されるというのは本当はこれが嘘であることを知っている自我にとっては恐怖心を煽られる行為です。いつか自身の嘘がバレることを覚え続ける自我にとってこの非難されることは厄介な行為なのです。そこでその恐怖心を怒りに変換させて相手を攻撃することで自分VS相手という構図を作り出し逆に自分の存在を確固たるものにしようとします。あなたは大した人間ではないと非難されるとこれは自我の縮小であり、自我の暴露でもあるのでVS関係を構築して自我は自我を強化する方法を取るのです。なぜあの人はあそこまで怒り狂ったのか、たった一言でなぜここまで怒るのか?そのような状況に陥った時はこれを思い出してみてください。

海であることを忘れた波はストレスフル

波=ストレスだから当然

最近ストレスがたまる、今の会社はストレスがたまる、結婚生活がストレスフル、、、、ストレスという言葉は我々の日常生活においても最多頻度で出てくる言葉の一つです。多くの方はストレスとは外的要因によって個人に引き起こされるものだと勘違いしています。本当はこういうことです、海であることを忘れた波は自分自身こそがストレスの元です。海であることを忘れ自身を波だと勘違いした瞬間から中からストレスが湧いているのです。ですからこの勘違いを腹落ちしさせて勘違いを解消しない限りこのセトレスがなくなることは一切ありません。人間とはほぼ全員が自身を全存在ではなく個別な個人と勘違いしていますから人間=ストレス発生器なのです。ですからこの人間の外的ストレスを必死になって取り除いても意味がないのです。

転職すれば一時的にはストレスがなくなるがやがてまた同じストレス生活になる

今いる会社がストレスが溜まるからと言って転職してみたが結局は同じストレス生活に。これは頻繁に聞く話です。人間関係はどこに行ってもあるわけだから転職しても無駄だ、というような簡単な話ではありません。人間こそがストレス発生器なんですからその人間が場所を変えても仕方がないということです。自身を全存在ではなく人間と勘違いしているこの事実こそがストレスを生み出しています。この勘違いを解くことなくストレスがなくなることはないのです。

釈迦は2500年前にこの事実を知った

王族出身の釈迦は贅沢三昧の生活に飽き飽きし、退屈しそこから山に入り悟りを開いたと言われています。その釈迦が見つけた真実とは「この世は苦』だということでした。そこから2500年経ちテクノロジーは進化の一途を続け、IT革命が起こり人々は一見自由で豊かな生活を続けています。人間はテクノロジーで苦を克服できると宣う輩もいます。ですが実際はどうでしょう、自殺者は増えることはあっても減ることはありません。先進国と呼ばれる国々で自殺者が多いというこの事実が人間が苦を克服していない証拠です。それもそのはず人間が苦を克服することはできないのです、自分は人間というこの錯覚こそが苦を作り出しているからです。

海であることを忘れた波は社会的成功を渇望する

波=社会的不成功だから当然

波がどれほど社会的成功を達成しても満足できないのは波自身が社会的不成功だからです。そもそもが海でありこの現象界そのものの創造主で全部を所有するものが、、こんなちっぽけな波であると自身を勘違いしているわけですから社会的不成功者であるという感情が次から次へと湧いてくるのは当然。不動産を手に入れた、会社を成功させた、高級車を手に入れた、、ぐらいで満足できるはずがないのです。最初の発想はこうです、同級生のA君が成功したのに俺が成功していないのはあり得ない。彼よりも成功できれば満足だ。そしてそれを達成。ところが翌月になると満足感が薄れもっと成功しないと気が済まないという感情が毎日湧いてくる。これは当たり前の現象で本来が全部を所有する海ですから半径20メートルの土地を所有するぐらいで満足できるはずがないのです。

自身を波と勘違いしている限り、不満足、不成功、不足が歩いていると思って間違いがない

世の中で言われる積極的な人間とは、不満足を押さえ付けづにどこまでもこの不満足解消のために動き回る人間です。世の中で言う消極的な人間とは不満足を押さえつけえどこまで感情を抑えて続けて動かない人間のことです。全く違う人間に写りますが不満足、不成功に対しての行動が違うだけなのです。この二種類の人間の最終結果は同じ、どこまで行っても不満足、不成功は消えない。これだけです。

不成功の解決方法は自身が波であるという誤解を解くしかない

波がどこまで成功しても満足できないことが分かったらもう同じ努力はしないことです。そうではなくまずはそのための行為に無心になって真剣になって無我夢中になってしまうことです。すると成功者になるための道そのものが成功に変わります。成功するための険しい道そのものが突然、至福に変わります。自身(波)が抜け落ち海が成功に向かって努力するようになります。その時すでに成功者になっています。成功するための道中がそのまま成功(海)に変わるのです。そしてその感覚を得た時にかつての成功像への執着は消えてなくなります。

海であることを忘れた波は自由を履き違える

自身を波と勘違いすれば不自由が湧き起こる

波とは基本不自由です。自身を波と勘違いすることから始めるこの波物語は不自由がデフォルトです。だからこそ学生は校則を破り、会社の規則を破り、法律を破ることで自由を得ようとします。ですがこのようにルールを破り続けても本当の自由は手に入りません。社会のルール、常識を毛嫌いしそこに一切染まらないことが自由であると勘違いするのがこの波です。その反対に社会のルール、常識に無抵抗に縛られて自由を放棄するのは絶望でしかありません。まず最初に理解しなくてはならないのはこの二元の世界、現象界、波物語において本当の自由はありません。世界中を旅行しようと、奔放に生きても自由を手に入れたとは思えないはずです。自由とは波が手に入れれるものではなく海に戻る(自由)以外にないのです。なぜならば海こそが自由だからです。この自由を忘れてしまったからこそ波はこの現実社会で自由を渇望するのです。

自由な国アメリカに移住して

自由といえばアメリカ、アメリカの憲法では自由を絶対視しています。自由を求めて波がアメリカに移住するとどうなるか、、、確かに制度上は自由が多い、法律的には自由が多い、、、職業選択の自由も。住居の自由も、、、。ですがこの自由を波が手に入れて波は満足できるのか?できません。波は与えられた自由と呼ばれる何かしらを手に入れても満足は得られないのです。それは波自身が不自由を生み出しているからです。自分自身の存在が不自由を湧き起こしているのになぜ外に自由を得ることができるのでしょうか。

何かに夢中になって取り組んでいる時になぜか自由を感じる

刑務所に投獄されて真剣になって出所するために勤務している時、突然波は自由を感じます、無我夢中になって服役に勤める時に突然自由が湧いてきます。投獄された多くの人は早くここを出て自由になりたいと願いますが本当の自由は無心になって取り組む時に皮肉にも湧いてくるのです。これはこういうメカニズムです、真剣になって無心になって服役に取り組む時に思考が消え、同時にこれが自分だという思考(自我)も消えます。その時に無我が湧き出してくるのです。つまり自由が湧き出してきます。そこから不自由が消えます。