今も全体がただある

全体しかない

視界に広がる世界、これが全てです。これしかありません。その中に突然自分というモノが生まれ(無理くり作った)それから自分と自分以外が誕生しました。自分はこの全体から別れた存在である、、、これは思考が生み出したアイデアです。思考がこの世になければ自分と自分以外という発想はあるはずがありません。思考ができてから自分が誕生しました、ということは自分などというモノは幻想に決まっています。思考がなければ自分もいなし太陽もないし、海もない、友人もいないし、花も動物もいません。ただ動く、もしくは動かない何かが目に入るだけです。もともと、いや今ですらも本当は全体しかありません。

自分が誕生し、自分は存続しやすくなったが

自分というモノが誕生することで自分というモノが存続しやすくなったのは事実です。自分の食料、自分の寝床、自分の屋根、自分の衣服、、、と自分というモノを守ってくれるアイテムも誕生しました。だから自分というアイデアは自分という存在にとって有効です。ですが同時に大きなモノを失いました。それが全体であるという感覚です。突然この大きな全体から引き剥がされこの目の前にある常に動くモノだけになってしまったのです。この分離感、喪失感は半端なものではありません。人類は自分というアイデアを所有した瞬間からこの喪失感とセットになりました。

自分の誕生は全体が作り出した発明

「自分が普通に居る」この感覚が実は奇跡です。全体しかない中に別個の自分を作り出してしまう、これこそが全体の脅威、全体が神ゆえん、全体が全体たる所以です。全体しかない中になぜこんな奇跡を作り出せてしまったのか?全体よ、何てことをしてくれたんだ?ということです。ただ揺れ動く全体の中にこれを見れる存在、それを触れる存在、味わのですことができる存在、嗅げる存在を独自に作り出し、それを記憶しストーリーにしてしまう。我々は今全体、神の奇跡の発明を堪能しています。

サーフィンで至福を体験する

サーフィンは小さな悟り体験

サーフィンというスポーツがヒッピー文化の象徴の一つになったのは納得できます。波乗りをしている瞬間人は全部の記憶が飛びます、過去のことを思い出しながらサーフィンするのは不可能です。サーフィンは波に乗るスポーツですが波のパワーは凄まじく波に乗った瞬間記憶が飛びます。記憶が飛ぶということは自分が人間であることを完全に忘れるのです、その瞬間神に戻ります。これは神の見る夢です、夢の中では神は人間になり切っているのですがサーフィンしている最中はその事実を忘れます、うっかり神に戻ってしまうのです。人間活動に没頭していた神がその瞬間だけ神に戻ります。半沢直樹になり切っていた堺雅人がサーフィンをしているその瞬間堺雅人に戻ります。サーファーは毎週人間から神に戻るために海に向かうのです。

サーファーがより大きな波を求めるのはより大きな神に戻りたいから

私もサーフィンをしていたので分かりますが、サーファーは実力がついてくると徐々に大きな波を求めるようになります。恐怖すら覚えるような波をあえて求めて車を走らせます。それはなぜか?大きな波であればあるほどに乗れば思考がぶっ飛び、記憶もぶっ飛び、自我が外れ、時間が外れ神に戻るのです。その瞬間この夢から覚めて神に戻ります。神は人間活動をするための条件、思考が外れます。全感覚、意識が体、波に向きその瞬間神は自分が人間であることを忘れて神そのものに戻るのです。

何かに集中すると至福が襲ってくることを学ぶ

私自身サーフィンにハマっていた時はなぜこれほどまでの至福感に包まれるのか全く分かりませんでした。その至福感は海から出て数時間も続きます。この感覚はなんだ?多くのサーファーはなぜかは分からないこの至福感が忘れることができず海を目指します。サーフィンは波という自分ではコントロールできないパワーと向き合うスポーツゆえ集中力が研ぎ澄まされます。考え事をしながらできないのです。要は集中せざるを得ないスポーツということです。この原理はなんでも応用できます、集中できれば至福が襲ってくる、集中すれば神は神に戻る、、何をするにしても自分が人間であることを忘れるほどに集中することは大切です。

これは夢だから関心を持った世界がそこから広がっていく

高級車に興味が出れば街中に高級車が溢れてくる

これは夢です。ワンネスが見る夢ですからもしも主人公(ワンネスのキャラ)がもしもベンツに興味が出れば街中をベンツが走るようになるのです。もしみ異性に興味が出れば異性が増え、特定に時計に興味が出ればその時計をつけた人が増えていきます。夢だからこそワンネスがその人間体験を望めばその人間体験の夢が始まるわけです。もしも海外に興味を持てばその海外に詳しい人がそこ夢で現れてきます。それは偶然でも必然でもなくただワンネスがそのような人物を夢の中に登場させただけです。

お金儲けに興味が出ればお金儲けに関する情報が集まってくる

自分(主人公)が本当に興味があることであればワンネスはその体験を積ませるような夢を制作するはずです。お金儲けに興味が出ればお金儲けを知っているような人が現れたり、その手の情報がネット上で目につくようになるでしょう。そして主人公はその手の人々、情報に触れるようになりそのドラマ、夢はそっちの方向に膨らんでいくはずです。これは夢ですからワンネスが自分(主人公)を使ってどのような人間体験を積みたいかです。

引き寄せの法則は誤解をうむ

引き寄せの法則は誤解を生む法則です。主人公が自身にとって都合が良い状況を引き寄せるような印象を持ちますが、主人公にそのような力はなく、、あくまでも主人公の本当の存在であるワンネスが夢の中(ワンネス劇場)の中で主人公の観念に従って観念にあう状況を作り上げていくのです。観念とはこの現象界を照らす懐中電灯のようなもので照らされた場所が現象化するという仕掛けです。夢ですから全て幻想です。

女性の買い物中毒のメカニズム

女性が買い物好きな理由

人が買い物を好きな理由はなぜでしょうか?買い物というのは何かしらの欲しい対象です。海であることを忘れた波は自身が本来は広大無辺な存在であることを覚えていますから常に渇望感、不足感を抱えています。海の代替品、全存在の代替品を求めて日々生きています。その代替品の一つが買い物です。買い物で次から次へと買い続けるこの行為は大なる存在の代替品を得続ける行為なのです。ですがこの代替品は大いなる一つとは全く違い規模が小さいですから直ぐにお腹が空いてまた買い続けることになるのです。

男性がタバコを吸い続ける理由

タバコを通じて人間はニコチンを摂取しているわけですがニコチンはこの大いなる一つの代替品です。ニコチンでハイになりたがるのはこの欠乏感、欠落感を埋めるためです。ニコチンのような興奮剤は全て脳内に幸福ホルモンを分泌するわけですがこのホルモンで欠落感を一時的に埋めているわけです。ですがこれも分泌が終わればまた吸いたくなるということです。多くの方が一度タバコに手を染めると死ぬまで喫煙し続ける理由がこれです。

男性がお酒を飲み続ける理由

男性がお酒を飲み続ける理由も同じです。大いなる一つが自身をちっぽけなこの人間であると勘違いすることから欠落感、孤独感、喪失感が湧き出てくるわけですがこれをお酒が一時的に埋めてくれます。お酒も飲むと幸福ホルモンが分泌されるため飲み始めると多く場合死ぬまで飲み続けます。人間である以上お酒をやめることはほぼ不可能です。「人間やめますか覚醒剤をやめますか?」というキャッチコピーのスローガンを一度見たことがありますがこれは皮肉にも真実です。人間を辞めない限り基本中毒というものから逃げることは不可能です。自身は人間だという勘違い、そしてこれが全て夢だという腹落ち以外に不足感、喪失感、虚無感はなくなりません。それは自身が本当は完璧な全存在だからです。

海であることを忘れた波は疲れている

海であることを忘れると思考フルスロットル状態になる

海であることを忘れた波はなぜか不足感、欠落感、孤独感が半端なく中から湧いてきます。朝起きて寝るまでこの欠落感、欠乏感、孤独感をひたすらに埋めるために思考フルスロットルで動き回るのです。そして動けば第二波、三波の感情が次々に湧いてきますがこれらは先ほどの欠乏感、孤独感が形を変えたものであることは間違いありません。なんとかしてこの感情解消のためにあらゆる手を尽くし、頭を尽くし動きますがこのイタチごっこは半永久的に続くために徐々に疲弊してくるのです。よって人間はどこかで中毒対象を見つけ出し中毒行動でこれを乗り越えようとするのです。それが恋愛だったりTVだったりゲームだったりギャンブルだったりお酒だったりです。

なぜここまで何かに中毒になるのか?

この夢物語の中では常に不足感、欠落感、孤独感が襲ってきますからいかにこの感情を沈めるかに思考はフルスロットルになります。結果多くは何かしらに中毒になることでこれを乗り越えようとします。それをしている間思考を削ぎ落とせるような何かを求め続けるのです。人間にとって中毒とは現実逃避ではなく全く意味がわからないこの欠乏感、喪失感、孤独感を感じなくさせてくれる助け舟なのです。そしてこの思考の削ぎ落としを中毒ではなく全ての人間活動の所作からそこに入れますと夢物語から常に抜け出た次元にシフトできているので欠乏感を感じずにいられるのです。どのタイミングでも意識、気づきの意識に戻れる人は中毒とは無縁で生きられます。

この夢物語では湧き上がる欠乏感を中毒ではなく、思考フルスロットルでもなく、見抜くことで解決する

もしかしたらこれは誰かが見ている夢なのか?そのような疑問が湧いてきたらこの夢から覚める準備ができています。夢を見ているのは主人公ではなくこの夢をただ認識するものです。これまでこのただ認識するものにあらゆる名前をつけてきました。神、ブラフマン、キリスト、仏、空、、、名称は多くの場合この夢の登場人物達によって誤解されていきます。このただ認識するものがこの夢を見ています。湧き上がる欠乏感を主人公のモノと勘違いさせ主人公を右往左往させ時に積極的に時に消極的にこの欠乏感を埋めることを目的に動き続けさせてきました。何かに中毒になっても相決するわけでもなく、思考フルスロットルでも解決はしません。これが夢だと見抜き俯瞰することで深刻さを根本から無くしていくことでこの夢物語から認識するものが覚めるのをただ待つのみです。

苦しみ、欠乏感、孤独感から逃げるのではなく、、

なんとか誤魔化してこの夢物語の欠乏感、喪失感から逃げ続けるのは至難の技ですからそうではなくこれに向き合うこうことが重要です。準備ができた登場人物はこの喪失感に向き合うことでそこから無心に入る、無我に入る、全存在に入っていきます。喪失感の根源は自分自身そのものであり外にこの解決を求めても無駄です。自分自身が全存在であることに気づく以外この戦いは続きます。

海であることを忘れた波は損得でしか動けない

思考とは損得を判断するもの

夢の中の登場人物は思考をフルに使って存在しますがこの思考とは損得機械です。自身にとって何かしらの得があると思考が判断すれば動き、損があると思えば動きません。究極の損得マシーンなのです。そんなはずはない、親が子にかける愛情はどうなんだ?となりますが見ず知らずの子供の世話をする親がほぼいないように自分が腹を痛めた子供だからこその限定的な愛になります。これは本当の愛ではありません。子供を自分と同一視して愛情をかけているだけです。故にこの夢劇場ではどこまでいっても損得での人間関係が広がります。

夢劇場の登場人物に損得以外の期待をしないこと

この現実社会は夢劇場でありよって人間関係はどこまでいっても損得で行われます。どんなに深い関係の夫婦も、友人同士も突き詰めると損得がそこにはあります。自身は人間であるという錯覚をしたこの夢劇場の登場人物である限りこの縛りから逃れられないのです。自身は全存在ではなく別個の人間であると誤解したこの夢の登場人物は本来が全存在であるからしてどこまでいっても不足感の塊なのです。ですからこの不足感解消のために生き続けることになりどこまでいってもこの不足感解消に繋がらない行動は取れないのです。人間の行動のベースは完璧なまでに不足感の解消になります。

不足感をお互いに解消しあえるから関係を結ぶ

どんなに神聖な関係に見える人間関係でも人間=不足感であり、この不足感解消が人間の義務です。この人なら自分の不足感を何かしらで補ってくれる、これが人間関係を結ぶ動機でありこれ無しで成り立つ人間関係は皆無です。だからこそお互いの期待を満たして上げることができなくなるとその関係は破滅に向かうのです。なぜならば不足感を解消できない場合、苦しみと向き合うしかもう方法がないからです。夢物語での人間関係とは究極の損得関係でありここから抜け出すには夢から覚めるしかありません。

海であることを忘れた波は夢に夢中になる

夢中になれない夢ならば意味はない

海であることを忘れた波にとってこの世は夢物語、波物語です。波の観念によって大きく様変わりする夢です。リアリティー全開、五感全開の夢ですからこの夢を夢と見抜くとのは至難の技です。思考すればするほどにこの夢は複雑に入り込んでいきます、そしてその夢の中でいかに自由に快適に生きようかと思考をフル回転させればさらに複雑な夢、リアリティーが誕生するという見破れないパターンが進みます。

全存在がこの世を作ったのは夢にどっぷり浸かるため

この夢がなぜあるかと言えばまずはこの夢にどっぷりと浸かるためです。最初からバレバレな夢ならば夢から醒める感動は皆無です。ですから先ずはいかにこの夢にどっぷり浸かるかが重要です、どっぷりと浸かり深刻に人生を考え、重く将来を憂うことから人生はスタートするのです。だからこそそこから夢を見破ることに価値はあるし夢から醒める感動もあるわけです。

簡単に醒めない夢だから価値がある

この世が簡単に見抜けてしまう夢ならば価値はありません。この夢の醍醐味とは夢から覚めたときの感動です。あまりにリアリティーがあって夢とは思えないからこそ夢から覚めたときの感動があるのであって簡単に夢だと気づけてしまうのならばこの夢の価値は半減するのです。この心身こそが自分であるという錯覚を作り出すエネルギーは紛れもなく全存在のエネルギーでありこの夢は悪意で創造されたわけではありません。全存在が自身のエネルギーを使ってこの心身が自身であるという錯覚ゲームを創造したのです。ツッコミどころ満載、アラ全開のこのゲームを愛おしいと思うぐらいの余裕があればいいのですがそうではこのゲームの醍醐味は薄れます。

夢というのはリアリティーがあればあるほど醒めない

退屈な夢は醒めやすい、刺激的な夢は醒めにくい

毎晩人間が見る夢は刺激的な夢のう方が長く見ていられる気がします。退屈極まりない夢だったら途中で覚めるかもしくは怖すぎても起きるかもしれません。今我々が居るこの現象界は夢です、そしてこの現象界をストーリ化しているのは自身の観念。どんな夢を見るかは自身の観念が決めています。要は思考ということになります。どのような思考を信じているかでこの夢の内容は変わってくるということです。思考が積み重なり何十層にもなっていけばいくほどにこの夢、ストーリーは複雑怪奇になっていき緻密な夢になります。故に誰もこれを夢とは見破れなくなるのです。

自身の思考でこの夢を複雑にし、複雑故に疲れ果てていく

思考を重ね複雑に考えれば考えるほどにこの夢物語、海物語は複雑さを極めていきます。複雑であればあるほどに誰もこの夢を夢だと見破ることはできなくなります。こんな複雑で緻密な夢があるわけがないと信じ込むようになるのです、というよりも疑わなくなります。生き抜くためにあらゆる思考を手に入れて逆に生き辛くなった人間はこの苦しみから逃れるためにこの世の真実を探すという旅に出かけます。どうやら思考を積み重ねていってもこの現実は楽にはならないと諦めていくわけです。こうして人間を主人公にしたこの全存在の夢は覚めるための夢物語にシフトしていきます。この夢物語の中から覚めるためのヒントを探していくようになるのです。

先ずはこれが夢なのだと自覚することからスタートする

これが夢だということ、この事実を先ずは受け入れることからスタートします。そして明晰夢の状態でこの夢を生きていきます。これが夢だと覚めるために人生を費やしていきます。ですがこの発見のために過剰な努力をしたりムキになったり、思考を重ねてもそれは無駄に終わります。なぜならばその個人の囚われこそがこの夢を永続するシステムだからです。この個人がいないということ、これが夢だということの発見のために個人が頑張れば本末転倒です。なぜこの夢は苦しいのか、なぜこの夢には平和がないのか、なぜこの夢には本当の愛がないのか、、このように夢を観察する、、そして無我に入るとなぜその時だけは平和が訪れるのか、なぜ無心になるとその時だけ歓喜が訪れるのか、、このように夢の傍観者として生きていくことがスタートです。

自我は思考、体に集中すると自我は抜け落ちる

この心身こそは自分という錯覚は思考で行われている

この現象界にあるエネルギーは全て全存在、海の表現です。ですから思考も勿論その表現の一つです、表現の一つである以上悪いとか良いとかは一切ありません。つまり思考は悪ではありません。そしてこの思考を使って人類は発展してきました、思考こそが人類繁栄の主役です。この事実は変わりません。ですがこの思考はこの心身こそが自分自身であるという錯覚を引き起こす張本人でもあります。海であることを忘れ波が自分だと勘違いさせている真犯人です。全存在ではなく個人であるという勘違いを引き起こす真犯人です。人間の苦しみは間違いなくこの思考こそが生み出しています。これもまた事実です。ではこの思考を抜け落とし自身を全存在、海であると腹落ちさせるにはどうしたら良いのでしょうか。それは思考ではなく体を使うことです。体に全意識を集中するとそれに反比例して思考は弱まっていきます。例えば火事の時に子供を助けに行く母親の行動は体がおこなっているのであってそこに思考が入り込む余地はありません。オリンピックの短距離奏者が思考を使いながら走るということもありません。剣道の真剣勝負に入ったら思考の出る幕はありません。この時自我(この心身こそ自分という思考)は抜け落ち剣道術者は人間ではなく全存在になっています。マイケルジョーダンがプレイに集中する時に自分はマイケルジョーダンだという思考は抜け落ちしています、彼はプレイ中神になっています。

思考を観察するという行為に無心になる

思考を観察するという行為の凄さの理由は、思考を観察するのは自我にはできないということにあります。思考こそが自我ですから思考を観察するのは自我ではなく無我です。そう波になる前の海です。自我が形成される前の全存在、神、大いなる一つです。思考はこの存在以外に観察できないのです。だからこそ思考を観察するという行為は大変効果的です。ですがこれができない方は日々のあらゆる雑務に集中することで自我を抜け落とし無我に入ります。自我が抜け落ちた時には常に無我はそこにあります。なぜならば自我は無我の中でしか存在できないからです。自我がなくなった時に無我が現れるのではありません、自我は常に無我の現れです。無我を隠す無我の表現です。

空は常にあるがそれを隠す雲

私たちが生まれてきてこれまでの期間で空がなかった日はありません。空は常にありました、ですが空を雲が覆い隠し一時的に空が見えなくなってしまった時間はあります。自我と全存在、自我と大いなる一つの関係はこの雲と空の関係に似ています。全存在は常にあります、全存在がなかった日はありません。ですが時に自我がこれを覆い尽くし全存在が見えない時間があります。自我がない時は快晴です。自我が空を覆い隠す時は全存在は隠れて見えないということになります。大人になると自我は常に現れていて全存在を隠す時間が増えていきます。空が見えないからといって雲が必死になって活動すればするほどに空は雲で覆い隠されてより隠れてしまいます。これが我々人類を苦しめるメカニズムです。苦しい時は自我(思考)を活動させるのではなく自我(思考)にお暇してもらいましょう。思考を徹底的に観察する、もしくは無心になって何かに取り組むことで思考は行動を控え全存在が姿を表します。雲が消えれば空が見えます。

海であることを忘れた波は今日は明日のためにある

思考は今にはない、思考は常に過去、未来を俳諧している

海であることを忘れた波は、思考を駆使して生き延びていきます。そのため思考を手放すことを極度に恐れます。心身こそはこの私であるという思考も思考です、そのため思考を駆使して生きていれば苦しい日々が続きます。この心身こそ自分であるという思考は分離意識を常に強めていきますからこの分離意識を弱めたければ思考を手放す以外ありません。ですが現場が苦しければ苦しいほどに自我は思考を使って生き延びようとするのです。明日のために思考を駆使します、来年のために思考を駆使します。そして駆使すればするほどに分離意識が強まりますからより苦しくなるのです。

思考こそが海から分離した波をさらに分離に追い込む張本人

思考があるからこそ自身は波であると思い込むことができています。思考がなければ自身が波だという思い込みはできません。思考が海を波に分離し波物語というストーリーに誘っています。にも関わらずこの思考を使って生きようとすれば波は永久に波物語から解放されることはないのです。思考とは波を波の次元、時間空間次元にい続けさせるための張本人です。もしも波が海に戻るならばこの思考を落とし欠落させ、無心、無我に入り込むしかないのです。

将来のために今に入る、体に入る、所作に入る、思考を観察する

とはいえこの体を持ち、生き抜いて行かないのは事実ですから将来に対しヤケクソになるのは得策ではありません。自暴自棄になってもしょうがありません。そうではなく将来のための準備、明日の準備に入り込む、所作に入り込む、仕事に入り込むことでそのまま無心になります、無我になります。波は将来のために海になるのです。もしくは思考がグルグルするならばその思考を観察するという所作に入り込みます。思考を観察することに無心になって臨むのです。エックハルトトールは思考を観察することから大いなる一つになることを推奨しますが観察することに無心になる、観察道に入ればいいのです。思考を観察することに体を使うのです。体は常に今にあります。